「ヌードル・ハラスメント」考――そばを《すする》音の問題について

 もうすぐ母の日を迎えるというここ数日、Twitter上での出来事になります。いま、とある画像が拡散され、やいのやいのと物議を醸しています。

 それがこちら。フランス人男性が日本のそば屋を利用した際に、日本人客がそばを《すする》音にイライラしたというものです(※一応、諸々配慮し、目線を入れてみました)。この番組では食事音によって不快感を強いられる状態を音によるハラスメント、通称「音ハラ」と銘打っていますが、音ハラのなかでも特に麺類をすする音が原因のものは「ヌードル・ハラスメント」、略して「ヌーハラ」と言うそうです。

 2016年10月24日付の毎日新聞(ウェブ版)の記事によれば、「ヌーハラ」という単語が爆誕したのはやはりTwitter上でのこと。しかしながら今回、元ツイートを発見するには至りませんでした。このツイートを発信したらしきツイ主のアカウント名はWikipedia上にも掲載されているのですが、少なくとも今回、それで検索してみてもヒットはしませんでした。まあ、いずれにせよ「ヌーハラ」という言葉自体は海外から輸入したものではない、いわゆる和製英語である可能性が高そうです。

 上に挙げた画像は、まさにフランス人男性が「ヌーハラ」被害に対する異議申し立てを行っているところです。学生時代の4年間を立ち食いそば屋でバイトに明け暮れていた私にとっては――そして、何の気なしに麺類を《すすり》食べていたこれまでの人生に思い馳せれば――なんだか思いもよらないところから鉄砲の弾が飛んできたような感じがして、自分にまったく無関係な問題でもないなぁ、と思ったのでした。私がおいしく食事を頂いている傍ら、その光景に不快感を感じている他者がいるのだとしたら、この問題に無関心でいる訳にはいかないように思われます。

 私自身、誰かと一緒に食事をする際にその人の食べ方が目に余り、不快に感じた経験があります。クチャクチャという咀嚼音が聞こえてしまっていたり、左手で茶碗を持つということを一切せず、結果テーブルに鍋などの汁がダラダラ垂らされるなど、できることならこの人とはもう同席したくないな、と感じたことがしばしばありました。こうして立ち止まって考えてみれば、上の画像のフランス人男性と私の感情の起伏は、まったく同じ地平の上にあると言えます。彼が発露した不快感は、彼だけのものではなく、私自身のものでもあるとも思われるのです。

 大阪医科大学のハラスメントの定義によれば、ハラスメントとは「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」だそうです。上のフランス人男性のケースで言えば、日本人がそばを何の気なしに《すすって》食べることによって不快感を強いられているのは、「ヌードル・ハラスメント」を受けている状態であると言えます。逆に言えば、私たち日本人が彼に「ヌードル・ハラスメント」をしてしまっている状態である、とも見て取れます。たとえばセクハラを例に挙げますと、どこからがセクハラでどこまでが問題ないコミュニケーション=《セーフ》なのか、という線引きをするにあたり、「受け手側が不快に感じていたなら《アウト》」という着地点が用いられることは身近な日常でも多々あるでしょう。だとすると、この論理を地で行けば、そば屋で同席していた人たちは(と言うか、ほとんどの日本人が)《アウト》も《アウト》、みんな揃って真っ黒くろすけということになりますね。あえて一括りにしてしまえば、「悪気は無かった/愛情表現のつもりだった/喜んでいると思っていた」というセクハラオヤジたちと私たち日本人は同じレベルにいるということになるでしょう。

 しかしながら反面、この問題で日本人をハラスメント加害者として一方的に断罪してしまっても良いものなのか、なにか疑問の余地が残ったことも確かなのです。より端的に言ってしまえば、私自身、上のフランス人男性の言動を初めて見たとき、正直、何かしらの不快感があったのです。確かに、相席した人のテーブルマナーがどうにもならずイライラした経験なら私にもありますし、彼の気持ちはよく分かりますが、しかし一方で、何か得体の知れない理不尽を突きつけられたようなショックがあったのもまた事実なのでした。もし私の感じた不快感が思い違いではなく、日本人に共通する、いえ、全世界の人びとに通ずる感情なのだとしたら、テレビ取材に対する彼の発言によってハラスメントを受けたのは実は私たちの側だったのではないかという、どんでん返しの可能性だってある訳です。

《異化》的手法、《同化》的手法
 フランス人男性の意図を読み取るにあたって

 彼は言いました――僕の隣でそばをすすって食べられると、音が気になってイライラする、と。ここでは彼がこの発言に至った意図・背景として考えられるものを一つひとつ導いていき、なぜこの発言に私が不快感を感じてしまったのか、その理由を探ってみたいと思います。つまり、最終的にここで問いただしたいのは彼ではなく、私自身、ということになります。

 自身が強いられた不快感を起点に彼を追い詰め、断罪することに大した意味はありません。と言うのも、もしかしたら上のフランス人男性は、日本のテレビマンの取材に対して、彼らが望むようなパフォーマンスをしただけかも知れないからです。事実、「ヌードル・ハラスメント」をはじめに提起したのはとある日本のTwitterアカウントで、次に、それに着目した毎日新聞が記事にし、それを面白がったテレビマンが上のフランス人男性を取材し、そうして例の発言に至っているのです。お昼のワイドショーを盛り上げるための発言でしかなかったのなら、それ以上、彼の本意を探っても何も出てはこないでしょう。

 しかしながら、私自身を問いただせばどうでしょうか。つまり、上で述べたような取材者側・テレビマンによる意図をいったん度外視し、彼の発言が彼自身の心からの言葉であると仮定したうえで、その発言を日本人である私というフィルターで濾過してみては、はたしてそこに何が現れるでしょうか。上で述べたように、私にも相席した人のアンチマナーに不快感をおぼえた経験があり、その点において彼と私は共通の感情を持ち合わせており、二者の間に分断は無いはずです。私がここでやりたいのは、あくまで《異化》ではなく《同化》なのです。

 例えばです。ある数式の答えを導かなくてはならないとき、数式に登場する数字がどのような感情でその数字を演じているのか、その数字の生まれ育ちなどにも思いを馳せながら、数字になりきったつもりで=《同化》して数式を解いてみよう、などと言う人はいないでしょう。登場する数字になりきってその数字の持つ感情を何通りも想像し、可能性の一つひとつを地道に検証していったところで、結局のところ、数式から導き出される答えは一つでしかありえません。仮にどんな国籍の人であっても、どんな性質の人であっても、彼らがいかに多様な想像をして多様な《同化》感情のもと数式を攻略しようとしても、何一つ結果は変わらないでしょう。実に当たり前のことだと思われるでしょうが、しかし、私たちはこの当たり前の経験則をもとに、数字に《同化》して検討するというぶっ飛んだ手法を瞬間的に除外し、数式に対して《異化》的にアプローチすることができるのです。

 さて、ここでの問いは「彼がなぜあのような発言に至ったのか、その理由や背景は何か」というものですが、もちろん、彼の発言の理由として考えられる事柄はとても一つに断定できるものではありません。色々な事情や背景と彼の感情が複雑に結びついたことが彼の発言となって滲み出てきたのです。わざわざ例え話を持ち出してまで私が言いたかったのは、ここに数式を解き明かす時のような《異化》的な手法を用いるのは適さないし、そのようなスタンスとアプローチで彼の発言の意図を一つに断定したところで、結局、何も導き出せるものはないということです。

 仮に、この問題に対して《異化》的なアプローチの手法を採用し、「フランス人男性があのような発言に至ったのはなぜか」を考えていったらどうなるか確かめてみましょう。《異化》的なアプローチとは、私たちか数式を解き明かす時に用いる、あくまで数字を数字として認識する手法のことでした。数字の持つそれ以上の意味合いを想像する必要はありませんでしたね。なのでここでは、フランス人男性をあくまで「フランス人男性」として認識する、ということになります。よって結論、簡単にこの数式の解答をしてしまえば「それは彼がフランス人男性だからあのような発言に至ったのだ」となります。いや、この解答だとさすがに何か小馬鹿にされた感じがしますね。なので、もう少し気の利いた感じに変換しましょう。すると「フランスでは行儀が悪いとされる食べ方を隣りでされ、そばを《すする》音が気になって食事に集中できないから」となります。こうすると何だかもっともらしい解答を提出できたように思われますが、しかしここで元々の彼の発言をもう一度引いてみたいと思います。

 もうお分かりかと思いますが、なぜフランス人男性が「僕の隣でそばをすすって食べられると音が気になってイライラする」と発言したのかを問われて、「フランスでは行儀が悪いとされる食べ方を隣りでされ、そばを《すする》音が気になって食事に集中できないから」と答えたのでは、結局、彼の言葉を言い換えただけに過ぎず、そこに何一つ新発見はありません。これこそが私の指摘したい《異化》的なアプローチの限界であり欠陥なのです。語弊を恐れず声を大にすれば、《異化》的なアプローチとは、まるで数式でも解き明かしたかのような納得感・満足感を保証する麻薬のようなもので、一方で、本来なされるべきはずの無数の可能性の検証という茫漠とした作業から目を逸らすことさえも可能にする、格好の現実逃避手段なのです。

 この手法は極めて合理的で、なおかつこの手法によって導き出される答えというのは解答者にとって大変都合の良いものになることが確約されています。例えばこの合理的な道筋に続けて、フランス人男性の不快感を解決する方法を検討し出すと、必然的に「だったら、隣りの人が行儀よく食事してくれるフランスに帰ってしまえば良いのに」という排斥主義がいとも簡単に導き出されてしまうのです。更にそこで振り出しに戻り、彼の発言に直面したときに私も感じた不快感が露骨に言語化されてしまえば「日本に来たくせに日本文化に口出しするんじゃねーよ」という強硬な分断に帰結せざるを得ないのです。

 無論、私が望んでいるのはこのような短絡的な着地点ではありません。確かに「ヌードル・ハラスメント」問題に対し意見を述べるにあたって、こんなに楽で手間のかからない簡単な解答は無いでしょう。倫理的な是非はともかくとして、フランス人男性の不快感も、私が感じた不快感も、両方ともきれいさっぱり清々しく解決できてしまうまさに夢のような方法であります。しかしながら、これだと結局、問題は解決できても問題の原因が何だったのかは不明なままです。つまり、フランス人男性が感じていた不快感は何だったのか、私が感じた不快感の正体はいったい何だったのか、という真実の追究はてんで未着手のまま、みんなの不快感をいっぺんに消し去る魔法のおクスリで対症療法したに過ぎないのです。

 そうならないためにも、私は彼の発言を読み解いていくにあたって、あくまで《同化》的な手法を採用していけるよう、細心の注意を払っていきたいと思います。数式であれば登場する数字の一つひとつに背景や意味合いを想像することはナンセンスでしたが、しかし、ここでは違います。

 前述の通り、テレビマンによる誘導や演出があった可能性を踏まえれば、フランス人男性の発言の真意を数ミリのずれも許さず探り当てるなど、もはや不可能でありましょう。だからこそ、《異化》的手法によって彼の発言の背景を完璧に悟ったかのように錯覚することは、その意味でも非常に危険なのです。《異化》的手法の先には、前述のような排斥と分断しか残りえないからです。しかしながら彼が感じた、隣りの席でそばを《すする》日本人への不快感と、相席者のクチャクチャという咀嚼音に私が感じた不快感とは、本質的にはまったく同じものであり、だとすれば、ここですべきは排斥や分断などではなく、彼を鏡にして自分自身を追及していくことだろうと私は思うのです。もう一度、あの発言に至ったシチュエーションを一つひとつ整理しながら、文字通り彼になりきったつもりで「もし私だったらこういう理由づけになるかな」という想像を積み重ねていくだけで、私たちは彼だけではなく、私たち自身にも近づいていくことができるのです。つまり、私たちはこのようなアプローチの手法に徹することで、フランス人の彼だけを《異化》的に解き明かしているのではなく、彼に重ね合わせた私たち自身の価値観や感情、私たちの正体をも《同化》的に探っていくことが可能になるのです。

 これが本論の取る手法であり、なおかつ最大の目的でもあります。本論は私にとって、不快な発言をした好ましからざる他者を、それでも排斥などせず、いかに《同化》的に理解・共感するか、という修行であり苦行であります。なぜ苦行なのでしょう。一つは、言わずもがな、「不快な他者」とは関わらなければいいという退路を自ら断ち切り、むしろ積極的に共感・共鳴し、まなざしを重ね合わせねばならないからです。しかしながら、こんなのは序の口に過ぎません。《同化》的手法を苦行たらしめる最大の理由、それは、「不快な他者」の不快要素が他人事ではなくなり、その不快要素のすべてが自分自身に《同化》して溢れ出してくるからです。それは《同化》的手法であるがゆえに、です。つまり《異化》的手法に移行してしまえば苦行はたちまち終わってしまうのですが、そんなことでは排斥と分断を生み出すだけです。これは、そばを《すすって》食べることに何ら抵抗を感じず生きてきた私が直面すべき壁であり、成し遂げるべき挑戦なのです。

フランス人男性の発言の読解――《同化》的手法を用いて

 それではいよいよ、フランス人男性の発言の意図を読み解いていきたいと思います。もちろんここまで語ってきたように、用いるべき手法は《異化》的なものではなく《同化》的なものをこそ採用します。

 まず、彼の生まれ育ちについて確認です。彼はフランス人ですので、出生からこの日に至るまで国籍に変更が無いのであれば、当然、フランスで育ったということになるでしょう。私が母から食事の仕方を一つひとつ教わったのと同じように、彼もまた幼い頃、母親から食事の際のマナーを躾けられてきたのでしょう。だからこそ、食事の音には敏感になるのです。私にとってはそばを《すする》音は不快なものではありませんが、しかしながら、クチャクチャという咀嚼音にはイライラします。《すする》音が彼にとってイライラの対象になったことは、この点で私とリンクしてきます。

 さて、できる限り丁寧に、一つひとつ彼の感情を追っていきましょう。彼は「イライラ」しました。しかし、なぜ「イライラ」したのでしょうか。この問いを《異化》的手法で手っ取り早く片づけてしまえば「《すする》音がしたからイライラした」となりますが、そんなのはパブロフの犬でしかありえません。ですので、ここは一つ《同化》的手法によって推理していきましょう。私が咀嚼音に「イライラ」したときに思い浮かぶこととしては「口を閉じて食事するなんて常識中の常識だろう?」ということ、それから「恥ずかしくないのか?」という疑問、そして何より「私が周りのみんなに――それこそあなたにだって気を遣ってやってるのに、どうしてあなたは私に気を遣ってくれないの?」という見返りを求める気持ちです。

 別にその人が自宅にいるときクチャクチャ食事していようがそれはその人の勝手です。しかしながら、飲食店は公共の場なのですから、そこには当然守るべき公共のマナーというものが存在する、と私の価値観が訴えかけてきます。なぜか。それは私がまだ幼かった頃に遡ります。思えば当時の私にはお行儀の「お」の字もございませんでした。そのたびに母から「お行儀良くしなさい」と言いつけられました。そして、その二言目には「恥ずかしいからやめなさい」、とどめには「あなたが良くても周りが嫌がるかもしれないんだよ?」と説き伏せられました。今にして思い起こせば、母の躾けの言葉の一つひとつが、私という人格を形成するにあたって、まるでボディブローのようにじわじわと効いてきたのだと感じます。

 クチャクチャという咀嚼音は、ネットでも度々苦情が寄せられる有名な常識アンチマナーです。周りに咀嚼音を不快に思う人がいるかもしれない、と他者を気づかえばこそ、私はしっかり口を閉じて食事することを心がけます。もっと言えば、私にとって公共空間とは、私と周囲の人びとによるこのような気づかいの積み重ねで成立しているものです。一人ひとりが周りに気をつかうことで、みんなが気持ちよく同じ時間を過ごせるようにした場所が「公共空間」になるのだと思うのです。ところがある日突然そこにクチャクチャ音が持ち込まれてみなさい、その場にあった他者との信頼関係など瞬く間に崩壊です。しかしながら私は、隣の席でクチャクチャ音を鳴らされたからと言って同じくクチャクチャ音で報復したり、あるいは他のアンチマナーを応酬したりなどしません。なぜなら、マナーを守って食事している他の人たちに気をつかってしまうから、そして、恥ずかしいからです。翻って、クチャクチャ音を出す人に対しても色々気づかいをしてあげてるのに、どうしてこの人は私や周りを気づかってくれないの? という不満が生じてしまうのです。

 気づかいに見返りを求めるべきでない、という方もいるでしょうが、私もそう思いたいです、ですが哀しいかな、私は所詮このレベルの人間でしかありません。こんな私で恐縮ですが、もし私があのフランス人男性だったなら、まずこういった経緯で「イライラ」しだすと思われるのです。私は音を出さないように配慮している、それは周りの人たちが気持ちよく食事するためだ、それなのに隣りの客が《すすって》食事をしている、となると、気づかいのお返しをする気が無いんだな、とがっかりしますし、私の周囲への配慮は無意味だったのかと否定された気分にもなるかもしれません。

 しかしながら、おそらくですが彼は、隣りの人に「それやめて」とは決して言わなかったはずなのです。なぜか。言葉が分からなかったからです。

 「言葉」というのは当然、フランス語と日本語という言語の違いがあります。彼は《すする》のをやめてほしかった、しかしながら、それを日本語で伝える文法が分からなかった、かといってフランス語で話しかけたところで隣りの日本人には伝わらない、だから「それやめて」と言い出せなかった、という推理は当然一理あります。しかしです。仮に彼が日本語ペラペラレベルで堪能だったとしても、隣りの客を止めるなんてことはしなかったと思うのです。なぜか。私自身、隣りでクチャクチャ音を出している初対面の人間をどう諫めればお互い気持ちよく食事を続けられるか、そんな絶妙な加減の日本語とイントネーションがまったく思い浮かびません。たとえば隣りの客を自分より二回りも年上の中年男性と仮定したなら、こんな若造からマナーを注意された時点で彼の気分を損なうのはまず間違いありません。それが容易に想像できてしまうがゆえ、どういった言葉遣いが適温なのか探りに探った挙句、結局分からないから黙ったままでいよう、という態度に行き着いてしまうのです。あと、更にもう一つ、仮に「それやめて」という意思表示ができたとしても、その後自分もただでは済まないだろう、という恐怖心は間違いなくあります。公共空間利用のルール・信頼関係がすでに破たんしている以上、公共空間に似つかわしくない何らかの理不尽を言い返される恐れが十分あります。我が身可愛さにあえて指摘しないでおく、というのは十分考えられます。ここで自分の目の前のそばを最大限美味しく食べる最も合理的な方法は、「イライラ」を「我慢」することに他ならないのです。

 さて、ここまで《同化》的手法によって私とフランス人男性を折り重ねてあの発言の解読を試みてきましたが、どうしたって私と彼で異なる部分があります。人種です。出っ歯で短足でメガネをかけた私はずばり日本人のステレオタイプそのものであり、日本で生活すれば日本人らしく振る舞うよう当たり前に求められる、そんな容姿をしています。ですから、日本人っぽく見える私の隣りに来た人もまた、日本人っぽくそばを《すすって》食べるはずです。ですが、彼はどうでしょうか。彼の容姿は私のものとはまったく異なります。一目見て日本人っぽくない=海外からの旅行者なんだろうな、と察しがつく容姿をしているのです。そして彼自身もまた、私のような容姿の人を白人っぽくない=日本人なんだなと認識しているはずです。

 彼の身に起こったもう一つの「イライラ」を邪推しますと、どう見たって白人っぽい彼の隣りに来た客が、日本人っぽい私と隣り合ったときと同じように、そばを《すすって》食べ始めた、というところも起点になっているのではないでしょうか。前述の通り、彼自身、そば屋という公共空間に対して彼の知る限りの気遣いをする用意はあるのです。であれば、見た目が白人っぽい彼の生い立ちや文化にこの公共空間が気づかいを見せることにも、私はついつい期待してしまうのです。しかし現実は違いました。もしかしたら他に空席があったかもしれないのに、わざわざ白人っぽい彼の隣りに来た客は、彼を気遣うことなく、そばを《すすった》のです。

 フランス人の彼が「そばは《すすって》食べるもの」という日本の文化を知っていたかどうか定かではありませんが、いずれにせよ、こうしたシチュエーションだったなら「イライラ」に繋がる原因にはなりえたでしょう。仮に彼がどんなに日本文化に理解があり「そばは《すすって》食べるもの」だと知っていたとしても、この公共空間には白人っぽい男性への思いやりが見当たらなかったのではないでしょうか――例えば「そばは《すすって》食べるものです」という英語の説明書きや「《すすって》もよろしいです?」という気づかいの英会話があったなら、もしも私がフランス人の彼の立場なら、英語が母国語でないとはいえ間違いなく嬉しいに決まっています。なぜなら、公共空間を気づかい、公共空間によって気づかってもらえるという相互プロセスの元を辿っていった先に、私と彼の母親が「だから言ったでしょう」と微笑みながら立っているからです。旅行に来ただけに過ぎない遠い異国の地でさえも、幼い頃の母の言いつけが間違いではなかったと気づかされる感動があるでしょう。しかしながら現実は、そば屋という公共空間が白人っぽい容姿の彼に日本人っぽく振る舞うよう突きつけただけにとどまってしまっているのです。日本文化の知識の熟度はともかくとして、もし自らの生い立ちや文化を白人っぽい見た目から察してほしいという願望が彼にあったのなら、それがまったく叶わなかったという点で「イライラ」の要因のひとつになりうるかもしれません。

 しかしながら、ここで一つ断っておきたいのは、私は決してこのそば店をこき落としたいのではないということです。フランス人男性に《同化》するあまり、さもそば店に落ち度があるかのようなレトリックになりつつあるのは事実ですが、決してそのような意図はありません。もちろん前述のような外国人観光客向けの説明書きなどあればそれはとても素敵なことですが(私が勤めていた立ち食いそばチェーン店では、最近になって英語の案内が食券機に表記されるようになりました)、特に個人経営のそば店では日本人を主要ターゲットにしている店がほとんどでしょう。なぜなら、その方が楽に商売ができるからです。私がそば屋の店主の立場なら(そば屋での接客経験からしても)、同じ一杯のそばしか買ってもらえないのならば、スムーズに注文・食事をしてくれる方がはるかに楽ですし儲かります。注文時に意思疎通に手こずったり、箸を使っての不慣れな食事に時間をかけられてしまっては、並んで待っている他のお客がよそのお店に流れてしまうかもしれません。

 上のフランス人男性が取材を受けたのは2016年の秋ですが、その後、つい最近になって立ち食いそばチェーン店が英語表記をはじめたのだって、それは純粋な気づかいや優しさというよりは、外国人観光客の問い合わせ件数を減らし日本人の常連を逃がしたくない意図があると思われます。回転率が生命線の立ち食いそば店では、問い合わせ対応が入った途端に作業効率がガクンと落ちてしまいます。お昼時のサラリーマンはとにかく安くスピーディに食事を済ませたいというニーズがあるなか、待ち時間が長いのでは利用価値の小さい店になってしまいます。どうしても棘のある言い方になってしまいますが、お店の側からすれば、短期滞在者でしかない外国人観光客よりも、何度も通ってくれるかもしれない日本人の常連を確保したいはずなのです。そこで店側としては、日本語の分からない外国人観光客でもスムーズなセルフサービスができるよう、あらかじめ設備を整えておく必要があるのです。もしくは逆にあえて、そうした外国人観光客向けの案内を一切出さないという方法も用いられるかもしれません。語弊を恐れず言えば、そこに強固な日本人のコミュニティを形成し、外国人が入りづらい雰囲気を醸し出すことも、弱肉強食の資本主義社会においてはきわめて合理的な手法であると言えるでしょう。

 さて、ご存知の通りフランスもまた資本主義社会です。フランス人男性の彼も、自国のファストフード店に並んでいる際、外国人が注文にもたついて店側が明らかに困っている様子を目撃したことは何度かあるでしょう。利益の追求とマイノリティ向けのサービスの向上が両立しづらいことは、彼自身も頭では分かっているはずなのです。しかしながら今回のケースでは、彼自身がマイノリティの側としてそば店を利用せざるを得ませんでした。日本人と同様のセルフサービスを求められたうえ、日本人っぽく《すすって》食事せねばならないプレッシャーを、彼は感じていたのではないでしょうか。旅行なんだからそうした経験すら楽しんでしまうべきだという人もいるでしょうが、私自身の立場に置き換えてみて、大きな出費を伴うレジャー目的の旅行であればあるほど、旅行先で受けられるサービスに勝手な期待を膨らませてしまうこともあると思います。これだけ投資するんだから、これだけのリターンはあってほしい、という夢見がちな感覚です。旅行先で思っていたよりも歓迎されない経験や、現地住民と同列に扱われる経験をしたとき「ああ、私はまさにこうした経験に投資したかったのだ!」と割り切ることができなければ、まるでピカピカだった新車にごく些細なキズがついた時のような感覚に苛まれるはずです。新車にいつかキズがつくのは当たり前なんだけれど、実際にキズがついたことに納得できず、やり場のない憤り=「イライラ」にもやもやとしてしまう、そんな感じだったのではないでしょうか。 

 以上が、彼が「イライラ」してしまった、そしてその「イライラ」を溜め込んでしまった理由として《同化》的に考えられるものになります。それではなぜ彼は、テレビマンの取材に対して、感情をぶちまけてしまったのでしょうか。何も言わずに取材拒否して席を立ち去ることもできたはずなのです。しかしながら、彼は「イライラ」を発露しました。なぜなのでしょうか。まず、彼は目の前のそばを最大限美味しく食べるために「イライラ」を我慢する選択肢以外ありませんでした。それは前述の通り、さまざまな要因が彼を我慢させていたのです。そこに「具合はいかがですか」と初めて声をかけてくれたのがテレビマンのクルーだったとしたら、私ならその言葉に気づかいのニュアンスを強引に見出してしまうかもしれません。「やっと聞いてくれたか!」と少々舞い上がってしまうでしょう

 さて、もし「具合はいかがですか」と彼に訊ねたのがテレビマンではなく店主や他の客だったとしたら、私なら気をつかって本心は伝えずにおいたでしょう。なぜなら、店主も他の客もそば屋という公共空間を形づくっている人たちだからです。先ほど同様、下手なことを言えば反撃される恐れだってありますし、何より、そもそも店主や他の客から「具合はいかがですか」と気づかいの言葉があったなら、本件はそれで万事解決です、少なくとも私が彼になったつもりで求めたのはその点だったのですから。逆に言えば、他でもない店主や客たちが彼を気づかうことでしか、本件は解決に至らないのです。ところがです。彼に具合を訊ねたのは、まったくの第三者であるテレビクルーだったのでした。想像の斜め上から、この食事のための公共空間にずかずかとヒビを入れながらテレビクルーは取材に来ました。となれば、もう、この公共空間の《私》と《他者》による信頼関係の均衡はすでに崩壊しているとも考えられます。更に、彼が話すのは日本語ではなくフランス語です。彼があの場面でどんなに不満をぶちまけようとおそらくその場にいる日本人には何のことやら見当もつかないでしょう。

 つまり、「イライラ」を溜め込んでいた彼にとって「言い損」が生じない条件がすべて揃ったことになるのです。テレビクルーの登場によって彼は様々なものから解放されました。たとえ自分が気づかって貰えなくとも公共空間を気づかい続けねばならないある種のプライド、勇気を出して公共空間に異議を提出しても叩き返されるかもしれない恐怖、旅行というものに夢を膨らませすぎた自分自身の落ち度と現実は甘くなかったことへの落胆、彼を閉口させていたこれらの枷はすべて一瞬にして取り払われ、取材しに来たテレビクルーたちに、そしてカメラの向こうにいるだろうの多くの日本人に、「分かってほしかった」「理解してほしかった」という気持ちをつい溢れさせてしまったのではないでしょうか。

 さらにもう少し彼の腹を探ってみましょう。彼がそば屋でマイノリティとしての立場を経験しているとき、本来であれば数の論理で圧倒的に有利であるはずの自分が、マジョリティの側に加わることができないもどかしさや腹立たしさを感じていたのではないでしょうか。

 例えば私が海外旅行をしているとして、旅行先の飲食店の客たちが、揃いもそろってクチャクチャと音を立てて食事をしていたとします。私は、幼い頃に母から躾けられた記憶を頼りに、この空間に対して異議を申し立てようとしますが、前述のような理由から「我慢」し「イライラ」を募らせることでしょう。このとき私は腹の底で何を考えるでしょうか。おそらくですが「いまは俺の方が圧倒的に数的不利だから言わんでおくが、クチャクチャ音は嫌われるっていうのが世界的なスタンダードだかんな? おぼえとけよ?」といった憎しみの感情を増幅させるに違いありません。「クチャクチャ音=NG」というのは、私を産み育ててくれた母親から受け継いだ信仰のようなもので、私にとってはこの世の理みたいなものです。そして、この信仰によって「間違いなく圧倒的大多数の人間がクチャクチャ音を嫌っていて、自分自身もその圧倒的大多数に所属している」という一種の安心感が得られるのです。しかしながら、だからこそ ひとたびクチャクチャ音がNGでない公共空間に放り込まれれば、私の信仰と安心感はそのとたんに根元から揺らいでしまう訳です。

 フランス人の彼もまた、このような状態にあったのではないでしょうか。母親から受け継いだ信仰が根源的に揺らいでしまい、大多数側でいられる安心感が薄れていく代わりに、少数派になる不安感とストレスが一気に押し寄せてきていたはずです。さて、この状況を打開してまた大多数側に所属し直し、安心感に浸るためにはどうすればいいでしょうか。悩んでいたところにやってきたのがテレビクルーだったのです。彼は「圧倒的に数的不利だから言わんでおいた不快感」を一気に爆発させました。そば屋という彼にとって理不尽な公共空間、つまり多数派に対し彼は、《より圧倒的大多数によるスタンダードな規範》の存在を声高らかにアピールしたのです。それによって、彼は異端の地を逃れ、信仰と安心を回復することができたのではないでしょうか。

 私たち日本人の側からすると、独自の文化が蓄積された日本という島国にわざわざ自分から飛び込んできて、なのに欧州や大陸のスタンダードを持ち出されたとなれば、それはそれは鼻持ちならない気分になります。しかしながら、こうした直感的な不快感を起点にすぐさま彼と私たちとを《異化》し、脊髄反射的に排斥と分断を推し進めたのでは、何か大切なものを見落としてしまうと思います。それは、槍玉に挙げてしまえばそれまでのフランス人男性ですが、実は私たち日本人とそう変わり映えしない、ということです。やろうと思えば私たちは、《異化》的手法によってフランス人男性を絶対悪に仕立て上げ、幾らでもを彼を追及した気分を味わうことができます。しかし、数々の罪状を嬉々として申し渡す私たち日本人もまた、そうした罪状とまったく無関係でいられる保証など本来どこにも無いはずなのです。フランス人男性であれ私たち日本人であれ、少数派に属することへの抵抗感が無かったとは言わせません。大多数側に所属することで安心感を得たいという卑しさがあったのは間違いありません

 私は、フランス人男性を弱者と認めて擁護すべきだとか、海外観光客に配慮して日本文化を上手く改良していくべきだとか、そんなことは一切思いません。それどころか、長々こんな話をしておきながら、明日からも私はそばを《すすって》生きていくでしょう。しかしながら、これだけは断言できます。私は、直感的に不愉快だと感じたものに一方的に石を投げ続けられるほど、立派な聖人君子ではありません。私という人間は、日々、自分が少数派になってしまわぬものか怯え、恐怖しています。だからこそ、圧倒的大多数の側で安心して生きていけるよう、実に姑息で狡猾な努力と根回しをし続ける私は飛んだクソヤローです。そして、あのフランス人男性もまた、そんな私と同じような姿をした、ひとりの人間だったのではないかと、そう思います。少なくとも、私の母親も、フランス人の彼の母親も、似たような姿をしているはずだと、私はそう思いました。

~筆者紹介~
 元・国語教師の母に女手ひとつで育てられる。幼い頃、夏休み明けの登校初日、〆切ギリギリになって死ぬ気で書いた読書感想文の提出稿がなぜか赤ペンで添削されまくっていて、まともに提出できず丸々書き直しを喰らった事件を機に、以来、未だに母を恨み続けている。大学在学中の4年間はチェーン店の立ち食いそば屋でバイトに明け暮れ、ほぼ毎日まかないでそばを食べていた。が、家系の塩ラーメンの方が好き。

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