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純文学

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note甲子園出品作品 月

 頭の中に残された、俺の手にはどうしようもない鐘を、律儀な北風が転がしている。だが、風向きをその冷たさで感じるには俺の感覚はあまりに劣化していた。もう右足と左足の区別すら出来ない有様だ。ちらちら映る目の前の空間に、灰色のコートを着て下を向いたまま、つまらなそうに道を急ぐ通勤帰りのサラリーマンが入ってきた。きっと六時を回ったんだろう。その隣では赤い顔をした学生達が植え込みの周りをくるくると回りながら

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敗走

夜霧は死者の魂の如く、どろどろと大地を這い回っていた。甚平は刀を握りしめて獲物が来るのをじっと待ち続けた。豊臣方が敗れたというのは既に配下のものから聞いていた。鬼蜘蛛の甚平と言われた彼も初春にはもう三十になり、しかも五人の子供もかかえていた。今度の戦の落人狩りで一儲けして元手ができたら商いでも始めてまっとうに生きる積りだった。
 夜霧は冷気を吸ってさらに濃くなっていった。
 突然、蹄の音が甚平の耳

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僕がこの花を見つけたのは、去年の夏のことだと思う。僕はその頃定職らしい定職は持っていなかった。とりあえず友人のコネで家の近所の本屋で店員のアルバイトを見つけてどうにか食いつないでいた。何時もひっきりなしに訪れる客の顔色を覗いながらその日も何事もなく一日が過ぎた。僕は今日の売り上げを店長に報告してから店を出た。
 暑い日だった。アスファルトの焼ける匂いもようやく一段落ついて、町にはあちらからもこちら

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鬱蒼とした森の中を砂利道が続いている。Tは何処までと無くジープを走らせていく。俺はその手慣れた運転に感心しながらあたりの森を眺めていた。砂利の粒は不揃いでタイヤが大きめの石を踏みつける度に前輪が軽く跳ね上がる。助手席では俺の撮影助手である吉岡が、振動を受ける度に窓ガラスに頭を打ちつけていた。車内の三人の砂にまみれた頭からは吉岡の頭のたてる軽薄そうなドラムにあわせるかのように黄色い砂埃が巻き上げられ

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みんな「奴」のせいなんだ。そう思うと、途端に錆色の粘液が、頭の中の毛細血管に詰まったみたいな感じがして、どうにもならなくなった。眼の焦点はその機能を忘れて、上下左右に歪んだ像を、土色の網膜に叩き付ける。どうすればいいのか、何一つ考えがまとまらない。まるでそうするのが義務であるかのように、ぼんやりと座り続ける俺。壊れかけた俺の意識が、ちらつくテレビの画面に引っかかって止まった。画面では女のアナウンサ

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 頭の中に残された、俺の手にはどうしようもない鐘を、律儀な北風が転がしている。だが、風向きをその冷たさで感じるには俺の感覚はあまりに劣化していた。もう右足と左足の区別すら出来ない有様だ。ちらちら映る目の前の空間に、灰色のコートを着て下を向いたまま、つまらなそうに道を急ぐ通勤帰りのサラリーマンが入ってきた。きっと六時を回ったんだろう。その隣では赤い顔をした学生達が植え込みの周りをくるくると回りながら

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視野の重なり

何だってんだ、この空は!俺の頭で行きつ戻りつ。降るにしろ降らないにしろはっきりしろ。道端に轢かれて伸し烏賊のようになった鼠の死体、奴だってこんな薄汚い天井の下じゃ安心して成仏も出来ない。ひび割れだらけのアスファルト。こいつにしてもどうにも空模様を計りかねた様子で、黒いんだか白いんだかわからない色のまま、とりあえず真っ直ぐに視線の消えるままに延びている。ベルトコンベアのでかいのといった車道に飛び出し

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鳥のいる風景

各駅停車のディーゼルカーのたてる憂鬱なエンジン音が昨日から続く夢から俺は弾き跳ばして、硬すぎる座席の上に叩きつけた。窓の外には汚らしいくらいに茂り続ける広葉樹の森。視界は開けたり無くなったり、下のほうに光ってみせるのは地図で見たY川の水面だろうか。
 昼下がりののんびりとした空気の中、誰もが思い思いにゆっくりと流れる空気の中に佇んでいる。向かいの七人掛けのロングシートには、等間隔に四人の客が座って

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少年とみかん

 彼はとても空腹だった。しかし、食べるものは何もなかった。
 彼のいる居間は、彼の座っている炬燵の辺りに、カーテンごしにオレンジ色のかすかな光があたっているのを除けば、暗黒の世界へと化しつつあった。
 ふと彼は台所へ行ってポテトチップスでも食べようと思った。こんな時にはテレビでも見ながらポテトチップスなんかを食べるに限る、どうせ家の人なんかいつ帰ってくるかわからないし。などと考えながら、台所へ入っ

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冷笑

 自転車。右足を押し込み、左足の力を抜く。その動作に手抜きをするのはこちらの勝手だ。ただそうすればそのままバランスは崩れて横転。顔面をアスファルトに打付けることになる。それだけで済めばいい。この歩道もない田舎道。車は絶え間なく制限速度を軽く超えて走り抜けている。突然の目の前の自転車の転倒に対応できるドライバーがいるとはとうてい思えない。ただ同じ動作を続ける。今度は左足を押し込み、右足の力を抜く。十

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蜻蛉

子供はゆっくりと流れていく時間を過ごす為の、不思議な秘法を持っているものだ。
 良雄も、大人達が墓参りに行き、誰も居なくなった祖母の住んでいた萱葺きの大屋根の下、一人、迷い込んできた蜻蛉を追った。蜻蛉は良雄の手の届かない、大黒柱の上のほう、仏壇の上、土間の天井のはりなどに、止まっては、ひうひうとまたべつのところへ移っていく。良雄は蜻蛉の後を追い、そのひうひうに見とれていた。
 昼を過ぎているという

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