敗走

夜霧は死者の魂の如く、どろどろと大地を這い回っていた。甚平は刀を握りしめて獲物が来るのをじっと待ち続けた。豊臣方が敗れたというのは既に配下のものから聞いていた。鬼蜘蛛の甚平と言われた彼も初春にはもう三十になり、しかも五人の子供もかかえていた。今度の戦の落人狩りで一儲けして元手ができたら商いでも始めてまっとうに生きる積りだった。
 夜霧は冷気を吸ってさらに濃くなっていった。
 突然、蹄の音が甚平の耳を掴んだ。彼はすばやくその音の源をたどった。するとそこには漆黒の馬にまたがって、年は十五、六と言ったところであろうか、真っ赤な具足の袖はちぎれ、背には数本の矢をつき立て、腰に帯びた黄金造りの太刀も具足と同様、血に赤く染まっている。そしてその馬の轡は元結いがほどけた、満身創痍の年老いた武将に取らせていた。
「止まれ」 
 甚平は叫んだ。辺りからは腹巻きや小具足姿の彼の配下のものたちが手筈通りに現れた。
 轡を取っていた武将はさっと刀を抜きはなち、賊の一人とわたりあってその額を割った。
 紅の血は老翁の具足を朱に染めて、額を割られた賊は絶命した。
 これを見た甚平は老翁に切り掛かった。所詮、手負いの老翁、五合切り結んだところで力尽き、六合目の刀は老翁の脇腹をえぐった。
 そのとき若侍は馬の腹を蹴った。馬で賊を蹴散らそうとした、しかし、賊の一人が弓で馬の横腹を射た。馬は後ろ脚で飛び上がって、若侍は振り落とされた。主を失った馬はそのまま囲いを破って逃げ去った。
 振り落とされた若侍は、甚平の前で羽交じめにされていた。賊の多くは新たな獲物を求めて、広い草原の死体のほうへ散った。
「切るなら切れ」 
 侍は押さえ付けられながらも、甚平の顔を睨みつけた。
 甚平はほくそ笑むと、いきなり若侍を足蹴にした。
「糞餓鬼が」 
 侍はよろめいた。侍は甚平ガ切ると思って自らの首を前に伸ばした。
 しかし、甚平は血のついた刀を鞘におさめて、不意に笑い出した。
「まあそんなに死に急ぐこともあるまいて、おい、お前ら」 
 彼は手下の者を呼んだ。
「この餓鬼が命ごいをするまで多少痛めつけてやれ、もし命ごいをしたら助けてやろう」 
 甚平は侍の顔をまじまじと見つめた。その若い目には何か光るものが見えた。
 すぐさま侍は甚平の手下に押さえ付けられ、脇腹や顔面なんかを、さんざんに蹴られた。兜は転がり落ちて、口の中も切れたらしく、白いあごから首筋にかけてを、血が、紅く、いくすじかにわたって流れた。
 しかし侍は、口の中に溜まった血をはき捨てると、
「お前ら下郎に誰が命ごいなどするか」 
 と言った。
 甚平はにやりと笑っていた。
 白刃の影が一瞬、侍の顔を照らした。甚平が刀を抜いて、侍の目の前で翻したのだ。先程切った武将の血が微かに白刃を朱にそめていた。
「怖いだろう」 
 甚平の目が、冷たく、震えているこの少年をみつめる。
「死など怖くない、命ごいなどしない、早く切れ」 
 そう言っている少年の声はひどく上擦っていた。
 甚平の刀はいきなり、このいつもより歯ごたえのある少年の右肩に突きたった。
「うっ」 
 肩から血が噴出し、甚平の右腕をべっとりと濡らした。
「怖いはずだ、怖いと言え」 
 甚平は笑いながら左肩にも刀を突き立てた。二人の手下はこういう甚平の趣味を知っているものの逃げ散ってしまい、少年だけが虫の息になって甚兵の前に残された。
 少年の白い目元には、泥と血と恐怖がしみついていた。
 甚平は刀を少年の右肩に振り下ろした。
 血飛沫が上がり、少年は顔をしかめた。しばらくして、弱々しく左手で起き上がり、甚兵を見詰めた。その目からは苦痛があふれて、白い肌は血で朱く染まっていた。
 その時、
 少年の口元に、一瞬、笑みが零れた。
 何故か甚兵は、それを見て、生まれて初めて恐怖というものを味わった気がした。かつて追っ手に囲まれた時ですら、表情一つ変わらなかった自分が、今、ただの死にかけた小僧に恐怖を感じている、いつものように痛みで頭をやられた人間が笑っているだけだというのに。
 甚平は今すぐこの小僧を切ってしまおうと思った。しかし刀はいつの間にか、彼の手を滑って、大地に落ちていた。甚平はそれを拾おうとして手を伸ばした。しかし、彼の体は恐怖という縄で縛られていた。
 彼はいつも通りのことをしたにすぎない。しかし、少年の肩から噴き出す血の中に、彼はいつもと違う恐ろしい何かを見た。
 少年はじっと甚平を見つめていた。右肩からは絶え間なく血が流れた。
「お前は何をそんなに怖がっているのか」 
 少年は尋ねた。
「わからねえ。しかし、今の俺にはお前ほど怖い物は何もないんだ」 
 甚平の声は、時にはとぎれ、時には微かに震えた。彼が最も憎み、軽蔑し、避けていた何かが、今彼を恐怖で引き裂こうとしていた。
 甚平は少年の方を見た。
 少年は笑っていた。
「それほど私が怖いなら切ってしまいなさい」 
 少年は息を搾り出してこう言った。甚平の心の中で、いつも見慣れている何かが動き出した。
 甚平は静かに立ち上がった。彼の手は刀を握っていた。月の光が刃を青く照らす。甚平はゆっくりと刀を振り上げた。
「さあ、早く」 
 少年は叫ぶ。
「御免」 
 甚平の刀は正確に少年の首を打ち落とした。血は朱くそまり、胴を離れた首は、転々と地を転がった。
 甚平は夢中で、転がる首をつかまえた。その首は血と泥に汚れていたが、表情は安らかであった。
 甚平は無言でその場を立ち去った。首のない身体だけがそこに残された。

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