鳥のいる風景

各駅停車のディーゼルカーのたてる憂鬱なエンジン音が昨日から続く夢から俺は弾き跳ばして、硬すぎる座席の上に叩きつけた。窓の外には汚らしいくらいに茂り続ける広葉樹の森。視界は開けたり無くなったり、下のほうに光ってみせるのは地図で見たY川の水面だろうか。
 昼下がりののんびりとした空気の中、誰もが思い思いにゆっくりと流れる空気の中に佇んでいる。向かいの七人掛けのロングシートには、等間隔に四人の客が座っている。
 一番右端、丁度俺の正面に座っている女子高生。ときどき目が合うたびに、まるで汚いものにでも出会ったかのように顔をしかめてみせる。その隣には小豆色のふろしきに包んだ、自分の胸のあたりにまで積み重ねられた荷物を座席の前に置いて、首に巻いた手ぬぐいで額の汗を拭っている老婆。それも一段落すると、駅のゴミ箱から拾ってきたようなしわくちゃのスポーツ新聞を広げて芸能欄ばかりを飽きることなく読み続ける。左端には平和そうな山歩きの二人。お互いに相手を意識したように真正面を向いて視線を固定している。
 もう一度、外の変わる事の無い景色に目を移した。相変わらず外を流れる木の葉の群れはどれもこれも申し合わせたように鈍い緑色の光を俺の顔に向かって反射しながら俺の行く先の風景をわざと遮ってみせる。列車はその合間を蛇行しながら黙々と山中へと分け入ってくる。腕時計を見る。もう少しで駅に着くようで、列車は減速しながら窪地のようなところを進んでいく。ほったて小屋のような家のそばではいつ倒れてもおかしくないような老人がトラクターの修理をしている。
 ディーゼルカーは、木造の駅舎の手前で気持ち悪そうに体を震わせながら停止した。俺が立ち上がっても車内の乗客は一人として反応を示さない。まるでここには駅などという物は存在しないとでも言うように、彼らは無関心を装い続けている。
 半自動のドアを引き開け、砂利の敷き詰められたホームに降り立った。車掌は俺と視線を合わせるのを拒むかのように、上目遣いに電柱に引っ掛けてあるタブレットを手に持つとそのまま車内へ引っ込んだ。ディーゼルカーがまた鈍いうなり声を上げて動き始め、車体の下から黒い排気ガスと、息苦しい熱気が俺の顔面を嘗め回しに来た。俺はその煙を避けるべくトタン葺の古めかしい屋根に入った。
 ポケットから切符とハンカチを取り出し、右手に持ったハンカチで額の汗を拭いながら時代物の駅舎に填められた木の枠を持つ窓のほうを見つめた。中には二人の駅員がこのように客も降りない駅だというのに、いかにも忙しそうに立ち働いていた。一方は風邪でもひいているのか、口のところにマスクをしている。
 そのうちの一人、マスクをしていない方の駅員が、雑巾を持ったまま窓枠の方に顔を向けたとき、ようやく珍しい降車客を見つけたのか、マスクをしている方の駅員の肩を叩くと手にした雑巾を放り投げてそのまま奥の部屋へと消えていった。もう一人は机に張り付いたまま俺のことを無視しているように帳面に張り付いている。俺はとりあえず改札口に行こうと駅舎を横手に見ながら歩き始めた。
 寂れきった駅前の風景を見ながら改札口に行くと、いつの間にやってきたのか二人の駅員が先を争うようにして改札口に立とうとしている。二人ともその定位置を確保することに一生懸命で、俺のほうは眼中にないと言ったような感じで俺は改札口の手前で立ち往生してしまった。
「困るなあ、それじゃあ通れないんだけど」 
 俺のこの言葉が聞こえたのか急に争うのを止めて、一番俺に近かったマスクをしている方が切符を受け取り、俺はようやく改札口をでることができた。
 売店すらない待合室を抜けて駅前に出た。そこは丸いロータリーのようになっているだけで、その近くに店のようなものは何もない。ただ、かつて店であったと言うような建物が、分厚い扉を閉めたままさもそれが当然のような顔をして立っている。
「お客さん、何か待ってらっしゃるんですか」 
 マスクをしていない方の駅員が後ろからそう訊ねる。二人は相変わらずお互いに牽制をしながら突っ立っている。
「いや、たぶんバスぐらいあるかと思ってね。十年前に来た時は確か走っていたような・・・」 
「いやだな、お客さん。この駅にバスが走っていたことはただの一度もありませんよ。少なくともあたし達がこの駅の駅員になってから近くの小学校の遠足のためのバスが止まるくらいでそんな路線バスなんか一度だって来た事はないですよ」 
 俺はその奇妙なほどに親切ぶった視線を逃れるべく残忍な日差しの照りつける広場に出た。二人は一度戸惑ったようにお互いの顔を見合わせたままその場に突っ立っていた。
 照りつける日差しにどうにも耐えられなくなって日陰に後ずさりを始めたとき、駅前のロータリーに一台の黒い大型車が止まった。俺は一人、公衆電話すらない駅の改札の前でこの暑さにはふさわしくない深紅のネクタイを締めた男をぼんやりと見つめていた。ちらちらと俺のほうを見つめ、軽く右足を踏み出して俺のほうに向かおうとするが、少し気が変わったと言う様に一度首を傾げて、そのまま立ち止まる。かつて俺を同じようにして迎えた事が何度と無くあった時そのままに目を伏せてようやく決心がついたかのようにして向かってくる。変わらない七三わけの脂ぎった髪の下にある顔が、少しだけ昔より太っているように見えた。
「いやあ、待たせたね」 
 相変わらず消え入るような小さな声、そのくせ語感は一つ一つはっきりとしている。決して俺と視線を合わせようとはせず、ただうつむいたまま俺がゆっくりと車に向かって歩き始めるのを待っている。
「荷物、持とうか」 
 俺は一語一語、間違えることを恐れるかのようにゆっくりと話す聡に、俺は持ってきた荷物を差し出した。奴はようやく安心したようにそれまでの不安げな足どりが少しだけ軽快になっているように見えた。聡は車のトランクを開け、まるで貴重品でも扱うように丁寧に俺の荷物をその中に入れる。俺はオートロックによって解除された後部座席のドアーを開き、昔のように無造作に座る。
「一応、禁煙だから・・・」 
 遠慮がちにそう呟いて聡は運転席に座った。俺は取り出しかけた煙草を胸のポケットにしまうと開け放たれた窓から顔を出して生暖かい風を思い切り吸い込んでは吐き出した。
「さっき、健一が話してたの・・・、あの二人、双子なんだよ」 
 俺は何気なく頷いた。気の利いたことを言ったつもりが、とうに見透かされていたことを恥じるように、聡はかつての卑屈な笑い声をもらして道なりにハンドルを切った。道は舗装されてはいるものの、予算が足りないのか、路面はかなりの部分がひび割れていて、時折、タイヤが大きめの石を踏みつけるたびに前輪が軽く跳ね上がる。俺は振動を受けるたびに足を踏ん張って自分の体を支えていた。左右に広がる畑には生える草も無く、表面の砂が弱々しく山から吹き降ろす風と車の起こす衝撃波によって巻き上げられ、開け放たれた窓ガラスから入り込んでくる。
「名札を見たから知っていると思うけど、さっきの双子は鈴木っていう苗字で、兄貴が亮二、弟が敬一っていうんだ」 
 名札を見ていなかった俺はそのまま黙って空を見上げていた。七月末、悪意のこもった夏の日差しが、汗をかくのをやめた俺の肌を咎めるように突き刺さってくる。聡にも同じように日差しは照りつけているはずだというのに、奴はまるで真冬の冷気に耐えているかのように首をすぼめ、ハンドルに覆いかぶさるようにして車を走らせていく。
「そういえば武はどうしたんだ。高校出てすぐ家出したって聞いたけど、あれから何も言ってこないのか」 
 ふと無意識にこぼれ出た言葉が、妙に厭らしい香りを持って俺の口の中で反響する。聡の丸められていた背中が一瞬垂直に伸び、バックミラーに曇りきった奴の目玉が落ち着きも無くさまよっている様が映し出される。俺は少しばかり後悔しながら、それでもかすかに残った好奇心を顔一杯に引き延ばして、奴の一見冷酷そうにも見える薄すぎる唇からこぼれだすであろう言葉を待ち受けた。
「あいつなら・・・、この前ひょっこり帰ってきたよ。何かずいぶん苦労したみたいで・・・、まあしかたないかもしれないけど。態度も物腰もずいぶん変わって、昔は僕の事兄貴だと思っていないような・・・、そんな奴だったけど、大人しく、かなり大人しくなったね。昔からガキのような奴だったからね。まあ世の中見て、世の中がどういうものだかよく見てきて、一皮むけた、たぶんそんなところだろうね」 
 途切れ途切れにつぶやく、口元に浮かぶ微笑が、俺を昔の記憶の中にたたき落とした。いつも人の不幸を笑う時に奴が愛用したその表情。得意げに話す口元から、時折その笑みがこぼれる。俺はバックミラーに魅入られた視線を無理やり引き剥がした。車は平地を抜け、森に包まれた林道に入った。聡は手元のボタンを操作して窓ガラスを閉めた。エアコンの吹き出し口から熱風が顔面めがけて吹きつけてくる。体は少しでも涼しい空気を求めて全身の毛根から粘り気のある汗を吹き上げる。さらに悪い事に車内に滞留していた砂がこびり付いて人の神経を苛立たせる。俺は胸のポケットに手をやってタバコのあることを確認し、ようやく気を落ち着ける。
「後、少しするとクーラー効きはじめると思うよ。夏だからね、何しろ。まあ、暑いけど、それまではどうにか我慢してくれよ」 
 聡が申し訳なさそうに言ったのは、バックミラーに映る俺の顔がよっぽど不機嫌そうに見えたからなんだろう。先程の饒舌は影を潜め、聡は真正面を向いて運転に集中している。相変わらず悪い道が続いている。俺はどうする事もできずに車に揺られて外を見ていた。俺の目に映るのは風景といえないような風景、意識もぼんやりとして見るという行為をする事だけに集中している。
 日差しが絶え、次第に効きはじめるクーラーの冷気に心地よい疲労感。俺は全身の力が次第に抜けていくのがわかった。森の中の緩やかな坂道が与えてくれる衝撃、聡の子守唄のような独り言。しかしなぜだろう、そういう時に限ってきまぐれな日差しが俺の顔面をひっぱたき、眠りは自然に遠くへと去っていく。残された俺はバックミラー越しに心配そうに俺を見守る聡の濁った目玉を見つめながら咳払いをしてどうにかその場を取り繕う。
「疲れているのか。高校の先生って、結構大変だって言うね。最近じゃあ予備校の真似みたいに特設授業とか、健一のところは確か進学校だから・・・」 
「馬鹿だな。俺がそんなこと真面目にするわけねえじゃないか。四時間も列車に乗れば疲れもするし眠くもなるよ」 
 いつもの受け答え、慣れた唇はいつもと同じ調子でいつもと同じ台詞を並べる。聡はハンドルを切って未舗装の小道に車を乗り入れた。前輪が軽く跳ね上がり、タイヤが小石を撒き散らす音が足元に響き渡る。その嫌味な木々の続く林を走る車のエンジン音が次第に遠慮がちになり、我が物顔でのさばっていた下草が力を失い、目の前に小さな広場を見つけたところで聡はエンジンを切った。しかし目の前には大人一人で持ち上げるには少し大きすぎると言った程度の石に注連縄を巻いた程度のご神体らしきものがあるだけで、これから始まるこの地方唯一の祭りの始まりを示すようなものは何一つ無かった。俺は何気なくドアを押し開け、軽く伸びをすると肌に絡みつく粘り気を含んだ風に顔をしかめて見せた。そして、車から降りたもののいかにも自信なげに車のドアのそばで立ちすくんでいる聡に向かってわざとらしく微笑んで見せた。
「いや・・・、確かにここでいいはずなんだよ。前に案内してもらったときもちゃんとあの石が正面にあったし、周りの下草だって青年団の連中に刈らせてこれだけきれいにしてあるんだから・・・、そうだ、それに確かここでやるのは最後のなんとかっていう儀式だけで、それにはうちの人間と神社の連中しかでないはずだからこれだけの広さがあればどうにかなる筈だと思うよ」 
「筈だ、筈だってお前の土地なんだろここら辺一体は、それにしちゃあ随分自信なさそうに言うじゃないか。テメエが仕切ってるんだからもう少しははっきりと・・・」 
 そんな俺の話を無視するように聡はまっすぐにご神体に向かって歩き始めた。そしてその三メートルほど手前の所に立って中腰になり、なにやら観察を始めた。首を左右に捻り、手を軽く拡げて見せ、何度かまるで写真の構図を決めるときのようなポーズを取った後、もう一度立ち上がって軽く左右に歩き回る。俺は俺でこの人工的な聖域の有様を観察すべく、限りなく続くブナの林に足を踏み入れた。この広場の周囲二十メートル程までは完全に草と言う草は刈られ、貪欲に張り巡らされた巨木達の根が或いは絡み、或いは突き出し、「聖域」の周辺部を廻ろうとしている俺の行く手を遮ってみせる。そのため俺は、彼らの自慢の枝ぶりなんぞに目を奪われることもなく、淡々と歩く事ができた。そして一際大きな欅の木の雨露が目に入ったとき、なにやらその中に動くものを見つける事ができたのも、きっとそんな事が原因していたのかもしれない。
 それはまるで団子かなにかのように大木に開かれた深淵の中に供えられていた。俺の足音に驚いたのか軽くその身を震わせたとき、俺は狸かなにかが木の中で眠っているのかと思って、足を忍ばせ近づいてみた。そいつはその気配を察してはいるがどうしたのもかと思案しているのか、同じ様な調子で体を揺すりながらじっとその場に蹲っていた。近づくに従って、その洞穴に住む毛玉の黒褐色の光が獣の毛皮の光とは違う何処かしら乾燥した雰囲気をたたえていることに気付いて俺は足を止めた。俺は何気なく近づく速度を速めた。まさにその時だった。
 その毛玉の中央部が真っ二つに裂け、その中央に真っ赤な口が開かれた。人面鳥(ハーピー)の叫びにも似た背筋の凍るような叫び声が俺の耳に向かって突進してきた。俺はそのまま足を滑らせ、ふくらはぎを木の根に嫌と言うほど打ち付けた。その音に気をよくしたようにもう一度、その悲鳴は俺の耳元を掠めて後ろの森へとばら撒かれ、鳥は勢いにまかせて洞穴から転がり落ちる。逃げるのか、俺を誘っているのか、判断に迷うような足どりでそいつは草むらに消えていこうとする。俺はその後をつけようと足に力を入れるのだが、踏ん張った調子に靴の踵が木の根の間に挟まっている事に気付いてようやく思いとどまる。
 そいつは聖域の果てまで来て何を思ったのか一度だけこちらを振り向いた。
 視線が合った。なぜかそう感じたのは、それまで気がつかづにいたがま口の上の澄んだ目を見つけたせいかもしれない。それはこれまで見たどんな人間の目とも違う、それだけはその時にははっきりとわかるような目だった。人を動物の位置まで引き釣り降ろすような目としか表現のしようが無い。ほんの数秒の間のことだったろう、しかし、その間俺は動く事もままならず、思いもかけない不気味な生き物の登場に気が動転しているにもかかわらず、じっとその目を見つめてそらすことはなかった。
 一声、あの耳を切り裂くような叫び声を上げると鳥は木の陰を縫うように消えた。ようやく気付いたように、俺はその消え去った草むらに目をやったが、何処に行ったものか、草一つ動くことも無く、生き物の気配と呼べるようなものはみじんも残っていなかった。諦めて俺は車の方に向かって歩き出した。
 車のそばまで来て軽くあたりを見回すと、相変わらず聡がご神体の前に座ってなにやら一心にその前に積み上げられた小石をいじくっている有様が目に入った。俺は無言で車の中に乗り込んで、わざと聞こえるような大きな音をたててドアを閉めた。その音に驚いたかのように急に飛び上がる聡を少し滑稽に思いながら、何事も無かったような表情を作って、目を丸くして俺を見つめて来る聡の濁った目を冷たく見返してやった。聡はそんな俺の目にあわせるかのように情けなさそうな笑いを浮かべながら車に乗り込んだ。黙りこんでいる俺を聡は不思議そうに見つめている。昔なら俺の蹴りが後頭部に飛んでもおかしくない。きっとそんなことを考えているのだろう。
 車は狭い広場をゆっくりと一回転するとまたあのガタガタ道へと入り込んだ。たまに俺がバックミラーを覗こうとすると、聡の恐怖に歪んだ目が視線から消えていくようなことが何度と無くあった。そうしてだらだら坂も終わり、右手に初めてタバコ屋が視界に入ってきた。道は林道のときよりもさらに細くなり、さらにあちらこちらに止められた軽トラックのために何度と無く俺の乗った大型車の車体が大きく傾くようになった。そしてその傾く頻度が多くなるにつれて、背中にまで浮かんでいた聡の俺に対する恐怖心が少しづつ和らいでいくのがわかった。そして俺も、少しづつこのありふれた田舎の空気に体が慣れてきたのか、次第次第に昔の俺のように珍しげに朽ちかけた土蔵の白壁や、その隣にそびえる二階建てのコンクリートの住宅や、派手に塗装されたバンの後ろに貼り付けられた人気歌手のステッカーと言ったものを眺めるだけの余裕が生まれてきた。
 そんな俺の視線も、大きな長屋門をくぐったところでようやく現実世界に引きずり下ろされた。隣の養鶏場から響いてくる悲しいほどに滑稽な雌鳥の声、アメリカシロヒトリの巣を幾つと無く釣り下げた桜の木、何一つ変わることの無い俺の親父の生家。
「ほら、武が座っているよ」 
 サイドブレーキを引きながら聡がさりげなく言う。見れば縁側に一人、若い男が所在無げに座ってお茶を飲んでいる。若さと言うものを感じさせないほどにやつれ果てていることを除けば、あれは確かに武以外の何者でもなかった。かつて祖母がそうしていたように、車から降りる俺を軽く一瞥して、頭を下げて申し訳程度の笑顔を浮かべると、また自分の前に置いてある湯飲みをまじまじと見つめ、何事も起こらなかったかのようにそれを啜った。
「いつもああなのか、武の奴」 
「武の奴、お婆ちゃん子だったから。帰ってきてから、いつだってあんな感じで座って、周りの人が何を言っても知らないふりをしているんだ。まあ、大人しくしていてくれるだけ、こっちも助かるけどね」 
 そう言って笑う聡の表情に尋常ならざるものを感じながら、俺は聡の差し出す荷物を受け取ると引き戸を開けて家に上がりこんだ。
 家の中は閑散としていた。たぶん昔のこの家の有様を知っているだけにそう思えるのだろう。玄関に置かれた鷹の剥製。かつてこれは武の悪戯の格好の標的だった。俺が最後に見た時には、紫色の鉢巻と、おもちゃのサングラスが取り付けられていたが、今ではただ聡の虚栄の象徴以外の何の意味も持っていないようだった。真っ直ぐに延びる廊下も、塵一つなく、壁一面に貼り付けられていた車とバイクのポスターもすべて剥がされたばかりでなく、画鋲の跡までみごとに消えていた。
 そして何よりも、家中あくまで静まり返っていることが妙に不自然に感じられた。かつてなら三番目のドアの向こうから、不必要な音量で流れていた筈のロックのビートも聞こえない。聡はまさにその扉の前に来たところで俺を追い抜き、ドアを軽く押し開けた。
「ここを使ってくれ。しばらく使ってなかったから汚いかもしれないけど、まあ自由にしていいから」 
 そう言った聡の言葉が自信を持っているように感じられたので、俺はすばやくその部屋の中に入り込んで、聡が入り込む前にドアを思い切り閉めた。
 抜け殻のように閑散としているはずの部屋が、不思議に息苦しく狭苦しく見える。壁はすっかり塗り替えられ、ありふれた応接セットと巨大なベッドが置かれたその部屋も、俺にしてみればきわめて場違いで不釣合いなものに感じられた。あの武が使っていた頃の垢抜けた野生というものはそこには微塵も残ってはいなかった。
 ドアが開いて、若い女が入ってきた。真っ直ぐにテーブルのところまで来て頭を軽く下げ、盆の上の茶をそっと置いた時、初めてそれが今の聡の妻となった真由美だとわかって少しばかり気恥ずかしく思った。俺が三十三だからもう三十になるわけだ。昔と比べると少し痩せたように見えるが、細く切れ込んだ眦と、その意志の強さとやさしさを無理もなく表現してみせる口元は少しも変わることはなく、俺が「若い女」と思い込んだのも無理もないようにそのきめの細かい肌は蒸し暑い空気の中、淡く反射しながら俺の視界の奥底にある甘い思い出を緩やかに解凍し始めた。
「そんな気を使わなくてもいいよ、それほど長くいるわけにはいかないけど。それとこれがお土産、時間がなかったから地元の駅で買ったんだけど、見本を見たら、こいつがなかなかうまそうに見えたから・・・」 
「そうですか・・・、それはまた結構な物を・・・」 
 馬鹿話をして間を持たそうとする俺の安っぽい視線が真由美の黒い瞳と初めてであったとき、まるで下女でも見るような突き放された気分だけがそこに残っていた。彼女は俺の手にあるカステラの入った箱を持つと、入ってきた時と同じように音もたてずに木目調のドアに消えていった。俺はそのまま用意されていた馬鹿話を飲み込みつつ荷物を部屋の隅に押しのけた。
 久しぶりの墓参りがこんなことになるとは思わなかっただけに、俺は少なからず動揺する自分をあざ笑ってみた。狭苦しい部屋に一人で座っていることは今の俺にとって、あの駅を降りてからの俺にとって、また、あの奇妙な鳥を見た後の俺にとっては苦痛以外の何者でもない。俺はドアを開け、廊下をゆっくりと下り、裏口の通路まで来た。
 手を軽くぶらぶらさせて、ニコチンの切れ掛かった頭に軽い刺激を与えながらタバコを吸う場所を探している俺の目の前に妙な人影があった。それが先ほどの武であると分かるだけに、それが祖母の真似をしているとわかる武だけに、それはいっそう奇妙に見えた。
 便所から出てきたようで、水の滴る手を薄汚いジャージでいかにも面倒そうに拭いながら軽く右を向き左を向く。そのあいだ、何回か俺の姿は視界に入った筈なのだが、まるで見えていないかのようにゆっくり伸びをすると伸びていた背筋を緩やかに丸め、下を向き、上を向き、正面を向き、もう一度上を向き、そしてジャージのズボンに引っ掛けてあるタオルで申し訳程度に手を拭いてそのまま廊下を奥の部屋に向けて歩き始めた。その姿は、ちょうど今くらいの時間、祖母がしていたことと寸分たがわぬ動作だった。違うことと言えば、その足元が年の分だけしっかりしているくらいのものだろう。もしこの姿を知らない人が見たならば、それが二十八の青年であることなどきっと気づかないほどにその動作は衰えていた。
 俺はその姿を見ただけで、少しばかり重荷になっていた尿意も消え去り、奥にある和室へと、かつて祖母が使っていたその部屋へと、今まさに武が消えていった引き戸の中へとその意識を集中させていった。無理に押し曲げられた腰、作り物じみた頭は必死になって引き戸の取っ手を探している振りをしている。長年狂気を装う技術ばかり磨いている生徒達を相手にしているうちに見につけた勘が武の行動を解体して、俺の手の上に広げて見せた。そして俺はその後姿に付き従って、部屋の中へと入り込んだ。
 武は驚く風でもなく俺を迎え入れた。部屋の中は祖母が生きていたときそのままに、少し古びた箪笥も、経文の置かれた文机も、磨き上げられた仏壇も、残忍な夏の日差しから隠されたまま静かに佇んでいた。
「けん・・・いち」 
 呼びかけているのか、自分の心の中で確認しているのか。どちらかと言えば後者のような気がしてならない。文机の前に置かれた座布団に何気なく腰掛けている武は、部屋に入る時のあの衰えた目つきで俺を見つめた。俺は黙ってその前に腰を下ろすと、ぞんざいに胡坐をかいた。武は黙ったまま俺を見つめ、俺も口を開くことを忘れて奴の有様を観察した。物まねとしてはなかなか大したものだ。しかし、いったい何のためにそんな行動をとるのか。俺はそのわけを知っているのかもしれないが、俺の心の表面にある何かが、それを口に出すことを意地になって妨害しているようで、俺は結論を口にできないままでいた。
「けんいちよ。おめえ・・・よく来たな」 
 無理につくられたしわがれ声が、重く心のそこに響いているように感じる。
「ああ、帰ってきたよ。夏休みがあるのは教師の特権だからな。それにしても武・・・」 
 武は俺の言葉をさえぎるように手を翳すと、何気なく首を左右に振り言葉を捜すように天井を見つめた。俺も釣られてその天井をみつめた。何百年という年月に燻された天井には黒いシミが丸く浮きあがって見える。俺の背中に寒気が走り始めた。それは背中から脳髄へと回り、顔の表面に奇妙な愛想笑いを形作るとそのままそこに張り付くことを決めたようだ。
「なんかつかれてんのか、ここととうきょうはきょりがあるかんな。かおがあおいぞ。まるでやまがみにでもあったみてえだぞ」 
 久しぶりに聞く言葉に、俺は昔話の一節を思い出した。昔、祖母が東京の家に帰るのを嫌がる俺に向かって何度と無くした山神の話。手が二十本ある大猿、尻尾が九本ある狸、首が七本ある熊。話す度に姿を変えていく化け物は、ませた俺には理解の外にある迷信でしかなかった。むしろその後に続く、出会った者の味わう地獄のような苦しみの物語の方が、まるでワイドショーのゴシップを聞くような不愉快な気分に俺を陥れたことだけが、俺の記憶の中に残っている。
 俺の目の前にいる武も、きっと同じような話を聞かされたことだろう。恐怖に慄く口元は、その観察の結果だろうか。そんな皮肉な感覚が、引き延ばされていく沈黙の中で次第にかつて祖母が本気で味わったであろう恐怖の渦の中に引き込まれていくようになったのは、もう一度あの奇妙な叫び声が響き渡ったせいかもしれない。俺は思わず立ち上がって左右を見渡し、そのような声が聞こえるはずもないことを確認した後、今度こそ武の言うことを聞き逃すまいと思って、今度は正座をして奴の前に座りなおした。
「なんでそんなおどろいたかおするんだ。まあとかいもんのけんいちに、やまがみがすがたなんぞあらわすわけねえよ」 
 俺の見た物。山神、名前を与えられて安心するわけでもなく、むしろ名前を与えられたが故にその奇妙な生き物の陰が俺の頭の中で跳ね回りはじめる。
 俺が武のいる部屋を出る決心がついたのは時間とすれば五分くらいの間のことだったかもしれないが、俺には半日くらいの長さに感じられた。俺はそのまま部屋に閉じこもると、気だるい皺を浮かべるベッドへ転がった。
 目を向ける先、そこには天井があった。ベッドの上に乗って手を伸ばしたとしても、きっとそこには手が届かないだろう。こんな馬鹿げたことを考えるのは本当に久しぶりのことだ。それより先に物を考えると言うことすら久しくしていない気がする。テストの問題を選ぶのも、設問に多少ひねりを加えて生徒の青い顔を想像することも、すべては周りの同僚達の受け売りのプログラム、俺が特にその主体である必要なんて何も無い。
 しかしあの鳥を見て、そしてあの武に会った俺は天井に浮かんだ木目すらまるでなにかの意味を持って俺に語りかけてくるように見える。たぶん気のせいだ、いや俺が疲れていると言う証拠以外の何者でもない。少なくとも俺以外の人間がこうしてぼんやりと天井を見ている俺を見つければ、そう考えるだろう。俺もそのことを否定はしない。しかし、そんな他人のおしゃべりが今の俺にとって何になると言うのだ。確かに俺は鳥を見た。そして祖母のような従弟に出会い、こうして天井を見つめている。こういう在り方以外に俺はどうあれば良いと言うのだ。
 朝があった。人はどうだかしらないが、何一つとして新しさのない朝がそこにはあった。部屋を出て廊下を抜け応接間に出た。ぼんやりと居間のソファーに腰掛けて俺のほうを無言のまま見つめる聡の視線も昨日と何一つ変わることなくその怯えたような視線が俺の額の辺りをさまよっている。俺は奴のつまらなそうな瞳に嫌気が差したように部屋を出た。
 朝の田舎の空気は不健康なまでに重く水分を含んで俺の目の前に重くたちこめる霧となって現れた。その中を走り抜ける音はまるで水中で聞く泡の音のようににごったまま俺の頭の中を転げまわる。気のサンダルが玉砂利を掻き分ける音、養鶏場の鶏の声、辺りの森に潜むキジバトの雄叫び。その一つ一つの絡み合いの中、俺は真っ直ぐと長屋門の下をくぐりぬけた。
 通りは人々から見捨てられていた。放置された三輪トラックの荷台からセイタカアワダチソウが伸びている。道に切れ込んだクレバスの間にもその子供達がしつこくはびこっている。そして俺の足音が響く。俺だけのための道のように、その音は響く。かつて俺はこんな道をなにかに追われているような気になりながら必死になって走ったものだ。しかし、今はその追われる感覚などどこにも有りはしない。
 コールタールを塗りたくられた電柱の陰を抜け、地蔵を目印に切通しの小道に入り、そのまま道なりに小さな落花生畑に転がり込む。かつてはここまで線香のにおいがした墓地のはずれも、人影もなく、ただ腐りかけた卒塔婆だけがこの地の意味するところを知らせてくれている。俺はそのまま柔らかい地面を慎重に通り過ぎ、踏み固められた墓地の小道に入る。墓地の周辺、新しく作られた無意味に大きな墓の続く分譲地を抜け、みすぼらしい旧家の墓の続く本堂の裏手にでた。目の前に続く緩やかな瓦の坂は、最近葺き替えられたように見えて、朝日のにごった光を灰色に変換して俺の顔面にたたきつける。俺は急に気が変わって石造りの階段を下りるのをやめ、泥濘の目立つ杉木立の中の道へと進んだ。
 道はゆっくりと小さな丘の上にある寺から神社へと下っていた。子供の頃何度と無く歩いたこの道が、かなり荒れ果ててはいるもののまだ生きていることはうれしくもあり、悲しくもあった。昔のこと、取るに足りないつまらないことを考えながら歩いた。昔のように。土の感覚が冷たく、俺の意識を今の杉木立の中に送り返してくれるように。
 ようやく杉木立が切れようとするときだった。寺と神社の敷地をしきる大人の膝ほどの土塁の上、なにやら丸い塊が蠢いているのが目に飛び込んできた。それは右に左に軽くその体をゆすりながらこちらの様子を窺っているように見えた。
 あの鳥だ。そう直感すると同時に、俺の体は自然と二股に分かれた杉の木の陰に隠れていた。見れば見るほど、それは俺の意識を超越したように丸く大きく固まっていくように感じる。しかしそんなこととはお構い無しに鳥は静かに藪の中で地面をほじくり返してはしきりと何かを探しているようだった。俺は息を殺した。できるだけ物音を消すために細い獣道を足場を選びながら進んだ。そして、笹を掻き分けて土塁のそばの少し開けた窪地まで来た。鳥の姿はこちらから丸見えになった。大きく裂けた口を時々開くが、その中身は血にまみれたように赤く、それを見るたびに背筋が寒くなるような気がした。
 しかし、何より俺を驚かせたのはその眼だった。その眼は鳥の眼というよりも人間の眼に近かった。どこか悲しげでその眼と視線が合いそうになる度に俺はなぜかきまずい気分になって思わず眼を背けてなにも見えやしない杉木立の隙間からのぞく空を見つめた。空は昨日と変わらず、その前の日とも変わらず、薄い煙のような雲をあちこちに撒き散らかして俺の頭の上に広がっている。その一点の光、太陽は葉陰の間をすり抜けるようにして俺とこの鳥に同じように照り付けていた。俺はじっとそんな林の下の光景を見つめながら時がやってくるのをじっと待っていた。
 鳥がよたよたと倒木に向かって歩き始め、柔らかなおがくずに足を取られながら辺りを見まわせる位置まで来ると不意に俺のほうに眼を向けた。
 それが合図だったのかもしれない。俺は木の陰から飛び出しそいつを捕まえようと倒木めがけて突進した。鳥はのんびりと俺を待ち受けているように見えたが、俺がその手を伸ばせば届くというところまで来た時ひょいと向こう側へ飛び降りた。俺はそれを追って慣れないサンダルを脱ぎ捨ててその障害物を飛び越えた。
 鳩が二羽、その音に驚いて飛び出した。俺もまた眼を見張った。びっしり生えた苔の上、一つとして動くものも無く静まり返っている。もしあれほどの大きさのものが動き回っていたとすれば、痕跡はどこかに残っている筈なのだが、なめらかに光る苔にはどこにもその爪あとは見えやしない。俺は奴の隠れそうな穴ぼこや木の雨露を見つけようとしたが、五メートル向こうの杉の木はまるで電信柱のように滑らかな円柱をなしているだけでろくろく隠れる場所さえ見つからない。
 消えたのだろうか。俺の眼の錯覚だったのだろうか。表の方では先ほどまで気づかなかった杭を打つ槌の音やなにやら指示をして回る若い男の声が響き渡っている。その中に聡の声がいくつかはいっているのもよく判る。
 俺は自棄になって脱ぎ捨てたサンダルを手に持ったまま、もと来た道を引き返した。

俺は天井を見つめていた。目の前には聡が新聞の経済欄に蛍光ペンでなにやら書き込みをしていた。武は相変わらず俺を迎え入れたときの表情そのままに呆けたように椅子に腰掛けている。昨日は気づかなかったが、その膝の上に丸い玉のようなものを抱えてそれをいとしげに撫でながらたまに俺と聡の方を軽く眺める。
「何か気に入らないことがあったのか?あの部屋が嫌だったら奥の洋間でも・・・」 
 昨日から一言も口を利かない俺に苛立っているような口ぶりが聡の自分を取り戻したことの宣言のようにも感じられる。俺は奴に答える代わりに軽く右手を振って、立ち上がろうとする。
「おい、何とか言ったらどうだ。気に入らないなら気に入らないって。確かに順番から言えば今度の祭りを仕切るのは当然だけれど、やっぱり祭りは・・・、よう・・・地元に」 
 俺が椅子に座ると同時に急に聡の表情が硬くなり、言葉がすべて口元に吸い込まれていく。そんな姿を見ていると、聡の誤解を解く気なんかは急に失せ果てて、このまま不機嫌な面を装うことを硬く決めてしまいたくなる。
「祭り、かなり今回は派手にやるんだな」 
 俺はテーブルの上に置かれた新品のピースの箱を開けながらつぶやいた。聡は少しばかり眉をひそめたあと、無理に平静を装いながら言葉を切り出そうとしてみたが、どうにも喉の奥で慣れない緊張と無意味な虚勢とがせめぎあっているようで、声にならないうなり声だけが俺の心の中に響いた。俺はわざともったいつけて手にした火の付いていない煙草を手の上で転がした。聡はその姿をしばらく呆然と眺めていたが、すぐに気を取り直して机の上に置かれたジッポで俺の煙草に火をつけた。俺はその煙を胸いっぱいに吸い込みながら、誰も手をつけたことがないだろう灰皿に手を伸ばし、気短にその上にわずかな灰を転がした。
「明日になればわかるよ」 
 下を向いたまま、久々に浮かんだ気の利いた台詞回しをかみ殺しながら聡は部屋を飛び出していった。俺は満足して灰皿に手を伸ばして得意げに煙草をふかして見せた。やけに苦く感じるのは、きついニコチンのせいだろうか。それとも慣れない虚勢のせいだろうか。奴の前でガキ大将面を平然とできるような年は、もうとうに通り越していることぐらい俺自身が一番良く知っている。教壇に立って、人の話を聞くという能力を少しも持とうと思わない連中に、切り刻まれた不恰好な古典の文句を繰り返し話してばかりいる年月が、俺のかつてのような無邪気な大将の座から引き摺り下ろしてしまっていることなど、聡以外のものならすぐにでもわかるだろう。
 そんなことを考えながら煙草の灰を灰皿に落としこんで顔を上げたとき、武がそれまでとはまったく違った眼で俺を見つめていることに気づいた。膝の上に乗せられた黒い鞠のようなものを撫でながら、奇妙な罪悪感のようなものに操られているかのように、俺の顔を見るたびに昔以上に情けなさそうな笑いを浮かべるとまた膝の上の鞠に集中する。どいつもこいつもそうなんだ。自分の掌の上のものだけがかわいいんだ。明らかに自分の論理がゆがんでいるのがわかりきっているだけに、ここで一区切りつけることが必要なんだ。俺はそう直感すると体をその直感に任せていた。
「畜生」 
 俺の手は自然とその鞠を叩き落としていた。幾何学文様が描かれた絨毯の上を手垢で黒くなった鞠がころころ転がっていき、壁の所で躊躇したように止まった。その中央に浮き上がる赤い線。かつての名残をとどめる赤い糸がまるであの鳥の口のように見える。今のもそれはあの忌まわしい叫びを発しそうに見える。俺は鞠を叩いたときと同じ中腰の姿勢のままその鞠をじっと見つめていた。
 武は何事も無かったかのようにゆっくりと立ち上がるとそのまま部屋を出て行った。俺は力尽きてそのままソファーに倒れこんだ。
 一つ一つの疑問。どうしてそんなことをするのだろうと言う疑問を抱えながら、俺は爆発音を耳に響かせながら目を覚ました。祭りの朝、号砲の音が響き渡る。時計を見ればいまだ六時前、そのくせいつもは見捨てられている道路を歩く人影が目についてくる。ひときわ胃の下に染み渡る空腹に命ぜられて食堂に行った。用意された朝飯は冷え切っていたが、一日ぶりに食べる食事の味は俺の舌に妙に懐かしく響き渡った。それでいて吐き気がするのはなぜだろうか。結局そのすべてを食うことも出来ず、俺は部屋に戻ると手にポケットカメラを持って外へ出た。
 カメラを片手に人々の群れがひび割れた道の上を移動している。俺もまた、その流れを利用して歩き続ける。風も無く、人々の無意識な熱気に蒸しあげられ、朝の空気は白くよどんで見えた。道を覆うように生える木々は、今まで見たことも無いような数の人々に怯えるようにその葉を揺らしている。俺はそのまま朱に塗り替えられた安っぽいコンクリートの鳥居をくぐり、砂利道の鳴る参道に入り込んだ。人々は思い思いに露店に引っかかったり、木々にまとわりついたり、カメラを構えたりしながら時を過ごしている。俺はどうすることもなくて、ただ参道を直進した。
 この小さな集落にどうやってこれほどの人間が隠れていたのだろうか、そう思えるほどの人出に狭い境内は混乱していた。誰もがここにいる理由をこじつけるために笑顔を浮かべている有様が目に付いて、俺は人ごみを避けながら人員整理のために張られたロープを伝って本部席のあるテントの中に転がり込んだ。
「こっちこっち」 
 さもそれが当然といった風に安っぽいテーブルの上に置かれた時代遅れの無線機の隣で、実行委員長という腕章をつけた聡が手招きをする。その隣で立ち働く青年団員が、俺の方をめんどくさそうに見つめると形だけの会釈をする。どうもこの場に不釣合いに見える武は俺を見つけるとなにかに出くわしたような顔をして人ごみの中に消えていった。
「どうだ、凄いだろう。こんなに祭りに人が出るなんて、ここ数十年無かったことだぜ。あの古い神社の石っころがこんな効能を持っていたなんて、全くお釈迦様でもわかるめえってのはこのことだな。まあ見てろ」 
 聡はそう言うと携帯電話を手に立ち上がった。俺は奴の座っていた席に腰を下ろして目の前を横切る人々をぼんやりと眺めていた。後ろの方で馬の嘶きが聞こえる。俺は急に気分が悪くなって立ち上がった。
 三頭の白馬が気だるそうに突っ立っている中庭を抜け、大きな欅の影を通り過ぎた。確かにそこには村の子供達が、世間の喧騒とは無縁なところで遊んでいた。その姿、無邪気で何一つ足りないものはないというような姿。それなのに俺はその姿の中に奇妙なほどの嫌悪感が輪郭をあらわにしていく。どうしようもないじゃないか。どうすればいいんだ。こめかみに手を当て、そこにあってしかるべき痛みの無いことを悲しむようにして俺の足は自然と森の方向へと向かっていた。
 原生林の中に入っていく。果てしなく茂る笹を切り裂いて道はどこまでも続いていた。俺は足場の悪い獣道を迷うことなく一直線に進んだ。一体そこに何があるのか、そんなことは何一つわかりはしないが、ただあの村でつまらぬ光景を見るよりはいくらかましなように思えた。
 手入れの行き届かない杉の森を歩くことは、特にこのような蒸し暑い日に一人だけで着の身着のままの格好で歩くことはそれほど生易しいものではない。胸に届くくらいまで生い茂る下草に悪戦苦闘しながら進んでいたかと思うと、急に視界が開けて目の前に大きな倒木が横たわっている。さらにその木に沿って進んでいくと腐りかけた雑誌とタイヤの山に打ち当たる。それでも俺はどうにかこうにかむき出しの肌に何箇所とない蚊にかまれた跡をつくりながら獣道を進んでいった。確かに無駄なことかもしれないが村に来たその日から、こうすることになるとはわかっていた。そんな気がしていた。
 獣道は少しばかり間の抜けたように一際大きな倒木の周りで細い支線に分かれている。一体なぜこのような場所が生まれたのか、理解に苦しみながらその倒木に近づいていった。煙草に火をつけようと腰を上げた俺の目の前に動くものが映ったように感じた。ゆっくりとゆっくりとその丸いものは藪の下を移動していく。俺は思わず胸のポケットから小型のカメラを取り出してその物体が出てくるのを待った。
 奴だ。心臓の鼓動が早くなってシャッターの上に載せた指が汗ですぺるのがわかる。突然自分の概念が破壊されたようだ、頭の中まで少しづつ曇ってきた。しかし、そんなことはお構い無しに鳥は静かに藪の中で地面を穿り返している。俺は息を殺してできるだけ物音を消すために細い獣道を足場を選びながら進んだ。そして、笹を掻き分けて大きな木の根元の少し開けたところまで来て観察を続けた。こいつをどうにかしなければならない、すべての不安や憤りが急に人差し指に凝縮されたように感じた。俺の指はシャッターを切っていた。
 ストロボの光が草叢を黄色く染める。
 急に鳥は走り出した。決して早くない。大またで歩けばすぐにだって追いつくことができる。しかし、俺はあえて捕まえようともせずにその鳥の走っていく方向についていった。茶色い羽はこの土地ではかなり役に立つ。うっかりすると木の根や泥と勘違いして見失ってしまうこともたびたびあった。しかし慌てているのか、ばたばたと打ち鳴らす羽の音で俺は自分の間違いに気づきすぐ追跡を再開することができた。
 森はだんだん暗く、深くなっていく。鳥は相変わらず無様な逃避行を続けている。それはまるで逃げるというよりも俺をどこかに案内しているようにも見える。もし、彼に急に立ち止まってじっとしているという能があれば、とうに俺は彼を見失っていただろう。
 鳥の逃げる速度が遅くなってきた。俺は時々立ち止まっては逃げていく鳥の姿をカメラに収める余裕が出てきた。鳥のほうは相変わらず必死になって疲れてきた体に鞭打ちながら森の奥に向かって走り続ける。
 時計は十時をさしていた。もう三十分はこうして間の抜けた行進を続けたことになる。急に森が切り開かれて原っぱのようなところに出た。光が急に激しく俺の脳天を撃った。目の前が一瞬白くなり視界が奪われる。俺は眼を閉じて地面にうずくまった。時間が流れていった。俺は何度と無く立ち上がろうとしてみたが、足にそれまでにない疲れを感じて立ち上がれずにいた。さすがに三十を過ぎたからだにはかなりの無理が来ていたようで、足ばかりでなく体のあちこちが激しく痛み出した。
 風を感じた。村を出て初めて感じる山から吹き降ろす冷たい風。俺の後ろの森が悲しく啼く。
 クワー、鳥の鳴き声が林にこだまするのを聞いて俺は我に返った。真緑の木が一本、俺のちょうど正面にあった。これほど真剣に一本の木を見つめたのは久しぶりだ。それは様々に生い茂る木の中、一本だけ真っ直ぐにまるでこの森の空間を仕切る一筋の線のように伸び上がっていた。そこから分かれる枝はほかの木のねじけた枝を押しのけてこの広場一帯を覆い尽くし空と言う空をその緑色の広い葉で覆っていた。俺はその尊大な姿に少しの抵抗と同じくらいの敬意を払いながらゆっくりと近づいていった。そしてその枝の一本から垂れ下がっている奇妙な陰を俺の眼がなぞるようになったとき、俺の足はそれまでになくしっかりと大地を捉えるようになっていた。
 ぶらさがっている奇妙な物体。風にその枝が揺れるたびに左右に、時折回転するようにしてそれはあった。近づくに従ってそれは人間の姿をなしているように見えた。俺の眼の高さの部分。それはシミだらけんジャージ。良く見ればかなりの間着古したようで、毛玉が多く浮き上がっている。筋張った右手。その手は昔、それもかなり昔には多くの物を運ぶ役にはたっていただろうが、今やその力の影は跡形もなく、肉は落ちて、浮き上がった血管と骨のあとだけが妙に物寂しげに俺の眼の陰に焼きついては消える。伸ばされた髪。後頭部で纏められたその髪は脂ぎって、そのくたびれたように不健康な頬にはえた無精ひげと重なって妙にやつれきった印象を見るものに与えた。
 武だった。木の枝の一本、まるで仲間はずれにされたように下に向かって伸びる奇妙な枝にロープを巻きつけて、武は首を吊っていた。俺はゆっくりと近づいていって、その周りを何度か回った。足元には木で出来た台がちょこんと置かれているだけで、遺書のようなものは見当たらない。不思議なことかもしれないが、俺は取り乱すこともなく淡々とその死骸を見つめていた。口から泡のようなものを吹いて、白目をむいたその物体は決して気持ちのいいものではなかったが、少なくともこの村に入ってから初めて愛着の湧くようなものに出会ったような気がして、俺はさらに何回かその周りを回ってみた。何度回ってみてもただ風が吹くばかりで武は生き返る気配もなく、俺もやがてその歩みを止めた。ぼんやりと俺は地面に腰を下ろした。熱気を帯び始めた森の空気が俺の顔面を緩やかに撫でる。右手の先に当たるのは一昨日聡が撫で回していた丸っこい石。その正面には武が持っていたあの鞠が当たり前のように転がっている。俺はそれを手に持つと、軽く目の前で放り投げてみた。
「おい、何してるんだ」 
 青年団の一人が駆け込んでくる。俺はただ膝の上の鞠をころころと転がして見せた。鉢巻を締めた二十二三の男が後ろに駐在を引き連れてこちらに走ってくる。彼らは広場の中央にぶら下がった武の死体を取り巻いてただ呆然とそれを下ろすべきかどうか思い悩むことに夢中なようで広場の片隅で座っている俺のことなどまるで眼中に無いように見えた。
「おい、早く下ろしてやれよ」 
「これ以上誰か入れるんじゃねえぞ」 
「誰か本部に連絡しろ、早くしねえか」 
 広場に人が満ちてくる、俺はどうも居辛くなって立ち上がった。
「健一さん」 
 一番はじめにこの広場に現れた鉢巻を締めた男が俺を呼び止める。俺はその言葉に刺激されたように走り出した。人々はそんな俺をただ呆然と見送っていた。

「荷物、持とうか」 
 一語一語、間違えることを恐れるかのようにゆっくりと話す聡に、俺は持ってきた荷物を差し出した。まるでこの村に来てからの出来事が夢のように感じられる。奴はようやく安心したようにそれまでの不安げな足どりが少しだけ軽快になっているように見えた。聡は車のトランクを開け、まるで貴重品でも扱うように丁寧に俺の荷物をその中に入れる。おれはオートロックによって解除された後部座席のドアーを開き、昔のように無造作に座る。
「一応、禁煙だから・・・」 
 聡が申し訳なさそうに言ったのは、バックミラーに映る俺の顔がよっぽど不機嫌そうに見えたからなんだろう。先ほどの饒舌は影を潜め、聡は真正面を向いて運転に集中している。
 日差しが絶え、次第に効き始めるクーラーの冷機に心地よい疲労感。俺は全身の力が次第に抜けていくのがわかった。森の中の緩やかな坂道が与えてくれる心地よい衝撃、聡の子守唄のような独り言、意識は次第にうすくなりかける。しかしなぜだろう、そう言うときに限って気まぐれな日差しが俺の顔面をひっぱたき、眠りは自然と遠くへと去っていく。残された俺はバックミラー越しに心配そうに俺を見守る聡のにごった目玉を見つめながら咳払いをしてどうにかその場を取り繕う。
 あのロータリーに車は止まり挨拶もせずに俺は車を降りた。ポケットから切符とハンカチを取り出し、右手に持ったハンカチで額の汗を拭いながら時代物の駅舎に填められた木の枠を持つ窓のほうを見つめた。中には二人の駅員がこのように客も降りない駅だと言うのに、いかにも忙しそうに立ち働いていた。一方は風邪でも引いているのか、口のところにマスクをしている。しかしそれを除けば、切れ込みを入れただけのような目も、潰れた鼻も、にきびだらけの頬も、時折、下を向いて帽子のつばをこする癖までも全く瓜二つだった。
 そのうちの一人、マスクをしていない方の駅員が、雑巾を持ったまま窓枠の方に顔を向けたとき、ようやく珍しい乗車客を見つけたのか、マスクをしているほうの駅員の肩を叩くと雑巾を放り投げてそのまま奥の部屋へと消えていった。俺はその様子をじっと眺めていたが、このままホームにいっても仕方が無いと思って、とりあえず改札口に行こうと駅舎を横に見ながら歩き始めた。
 かつては大いに栄えたのかもしれない。事実この長大なホームは二両編成のディーゼルカーが止まるにしては不必要な長さで、小さな村の中央部を占拠していた。周りの民家も、多くは半分崩れかけながらただここが村であったことを証明するためだけに立っていた。
 そんな風景を見ながら改札口に行くと、二人の駅員が先を争うようにして改札口に立とうとしている。二人ともその定位置を確保することに一生懸命で、俺の方は眼中に無いと言ったような感じでおれは改札口の手前で立ち往生してしまった。
「困るなあ、それじゃあ通れないんだけど」 
 咳払いをしても反応を示さなかった二人も、俺のこの言葉が聞こえたのか急に争うのをやめて、一番俺に近かったマスクをしている方が切符を受け取り、俺はようやく改札口に入ることができた。
「お客さん、かなりお疲れのようですね」 
 マスクをしていない方の駅員が後ろからそう尋ねる。振り返ってみると気づかなかったが、遠慮がちに覗き込んでくるその瞳の色がやや青いような気がしていた。
「いえ、別にそれほどでは・・・」 
「いいえ、私の見たところではかなり疲れていますね。そう言うときはこれなんかどうですか、これは馬の脂を煎じて・・・」 
 マスクをした方が懐に手を伸ばそうとしたとき、もう一方がその手を押さえ込んでそのまま俺の手から切符を奪いはさみを入れた。
「インチキですよインチキ。そうに決まっているじゃないですか。さもなきゃ世の中に過労死する人間はいませんよ」 
 そのままホームへと向かい木造の駅舎の手前で気持ち悪そうに身体を震わせながらディーゼルカーが停止する有様が目に入る。俺は手にした写真の束を無造作に足元にあるボストンバックに放り込んだ。俺が乗ってきても車内の乗客は一人として反応を示さない。まるでここには駅などと言うものは存在しないとでも言うように、彼らは無関心を装い続けている。
 腕時計を見る。列車はゆっくりと加速しながら窪地のようなところを進んでいく。掘っ立て小屋のような家のそばでは老人がいつまでとなくトラクターの修理をしている。
 各駅停車のディーゼルカーのたてる憂鬱なエンジン音が昨日から続く夢から俺は弾き跳ばして、硬すぎる座席の上に叩きつけた。窓の外には汚らしいくらいに茂り続ける広葉樹の森。視界は開けたり無くなったり、下のほうに光ってみせるのは地図で見たY川の水面だろうか。
 外のありきたりな風景に飽きた俺は、これもありきたりな車中の人々にその視線を移した。昼下がりのノンビリした空気の中、誰もが思い思いにゆっくりと流れる空気の中にたたずんでいる。向かい合わせの七人がけのロングシートには計ったように等間隔に四人の客が座っている。
 一番右端、丁度俺の正面に座っている女子高生。しきりとカールのかかった脱色された髪を繕っている。うすいかばんの中身はたぶんファッション雑誌かなにかだろう。時々目が合うたびに、まるで汚いものにでもであったように顔をしかめて見せる。その隣には行商の帰りだろうか、小豆色のふろしきに包んだ自分の胸の辺りまで積み重ねられた荷物を座席の前においていかにもさわやかそうに首に巻いた手ぬぐいで額の汗を拭っている。それも一段落すると、駅のゴミ箱から拾ってきたようなしわくちゃのスポーツ新聞を広げて芸能欄ばかり飽きることなく読み続ける。
 俺はその隣に座った無愛想な山歩きの人々の視線を無視すると、もう一度、外の変わることのない景色に目を移した。相変わらず外を流れる木の葉の群れはどれもこれも申し合わせたように鈍い緑色の光を俺の顔に向かって注ぎ込みながら俺の行く先の風景をわざとさえぎって見せる。
 結局俺に残されたのはこの風景だけだったのだろうか。そこには変わらない外の空気を見ながら、深い絶望の色を浮かべている俺が映っている窓ガラスを息を殺して眺めている俺がいた。

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