みんな「奴」のせいなんだ。そう思うと、途端に錆色の粘液が、頭の中の毛細血管に詰まったみたいな感じがして、どうにもならなくなった。眼の焦点はその機能を忘れて、上下左右に歪んだ像を、土色の網膜に叩き付ける。どうすればいいのか、何一つ考えがまとまらない。まるでそうするのが義務であるかのように、ぼんやりと座り続ける俺。壊れかけた俺の意識が、ちらつくテレビの画面に引っかかって止まった。画面では女のアナウンサーが、日本列島に近づいている戦後最大級の台風について、いつ止むとも知れない無駄話を続けている。不安と期待を漲らせた薄ら笑いが、十四インチのちんけな俺のテレビの画面を、長々と占領し続ける。その間抜け面の隣には吊るされた手拭みたいな四十がらみの予報官が、事務的な調子でその無能さをさらけ出してみせる。「・・・明日の夕方には八丈島の南海上三百キロを中心とした円内に進む恐れがありますので海などにお出かけの方は十分に注意をなさってください」目から耳から嫌味な感情の霧のようなものがかかってきたので、俺は視線をテレビから引き剥がした。だからといって、何処に目をやればいいのだろう?部屋の中はいつも通り閑散として在るだけだ。もう一ヶ月も音を出したことのない安物のステレオ、薄く埃を被った隙間だらけの本棚、あらぬ時間をさしたまま動かない時計。どれもこれも以前のままに突っ立っている。そのなんと不釣合いで無様なことだろうか!黄色く濁った午前の光の中でなければ、とても目の当てられたもんじゃない。その中でも、本棚の上に置かれたコップの中の、半分ほどのところまで水が入ったその中の、窓越しに突き刺さる朝日に輝いてみせる緑色の目玉。転げるようにして家から飛び出したときに持ち出した、マリモの置物。腐りもせず、枯れもせず、ぼんやりと、今にも倒れそうな本棚を支えているあのつまらない置物だけが、俺をこうして生かしているのかも知れない。急にそんなばかばかしい妄想が生まれてきたのは、俺の座っている足の不安定な万年炬燵の上に、一枚の封筒が置かれているからに違いない。そいつは薄茶色の身体の端を少し折り曲げて、どこにでもあるような封筒のフリをしている。精神が切り刻まれてぼろぼろになった俺でも、こいつの優等生ぶりなんかに心を乱されるつもりは毛頭ない。実のところそこに「奴」の名前が書かれていなければ、こんな封筒さっさとゴミ箱に放り込んでしまう筈だったのだから。本当はそうすべきだったんだ!俺の中に残った僅かな理性が消え入るように叫び声をあげた。別に「奴」自身が特別な人間だったと言うわけでもない。ただあえて「奴」の特別な点をあげるとすれば、「奴」は一週間前に死んでいたというだけの話だ。自殺だった。司法試験に落ちたショックだ、「奴」の友人で同じ様に司法試験を受けた連中はそう言って口述試験まで残った「奴」を嘲笑した。俺もその話を聞いた時、正直なところ同じ様に考えていたものだ。別にそれほど親しかったわけではない。学部も違い、たまに大学生活のつまらなさについて語り合う数少ない相手と言うのが、「奴」との関わりのすべてだ。孤独なはぐれもの、「奴」の口振りからそんな印象を受けたのを覚えている。ある意味では俺に似ていたのかも知れない、たぶんそのことが俺の頭に「奴」の名前を叩き込んだのだろう。そうでもなければ自殺するような馬鹿な男の名前を、どうして俺が覚えていなければならないと言うんだ?同情と侮蔑に満ちた愛情の表情が板に付き始めてから一週間が経ったが、そのあいだに「奴」が生き返ったという噂は、終ぞ耳にしたことはない。少しだけ不審に思って俺の意識が封筒の消印を探った。九月七日、杉並。無表情な消印は二日前に杉並で投函されたことだけを示していた。俺は封筒を持ち上げ目の前に翳してみた。窓からの淡い光が、一枚の便箋を封筒の中に浮き上がらせる。引き裂くべきか、読むべきか。悪戯にしても、またそうでないにしても、それは俺にとって難しい選択だ。死人からの手紙をどう扱えばいいかなんていう話を、俺は一度も聞いた事がない。それなのに、俺の仕事をこなすことしか考えない俺の手は、理性の小言など無視するかのように糊付けされた部分を千切り始めた。心の準備もする間もなく白い便箋が俺の目の前に引きずり出された。「佐々木。お前だけには俺の死んだ本当のりゆうを知ってほしい」横に引かれた罫線を無視して、ボールペンのインクが流れ下っていた。何で俺だけになんだろう。俺以外の誰でもなく、何で俺でなければならなかったのだろう。ただ人間が嫌いで、街の片隅で本ばかり読みながら生きている俺を苛めるのがそんなに面白いのか?テレビには天気図が映し出され、その前でうだつの上がらない中年の予報官が慣れない原稿を読み上げている。俺もその予報官もこのつまらない事件さえ無かったら。こんな事に悩まずに済んだのだろうに。そんな考えが頭を過ぎ去った時、部屋の隅に捨て置かれた腕時計のアラームが、出勤の時間に近づいた事を告げた。俺の身体は「奴」の手紙を開いた時と同じ調子で、万年炬燵から俺を引きずり出した。

大学を中退して、家を裸同然に追い出され、街の中を転がるようにして二年ほど生き延びていた。生きていれば妙な偶然にも出会うもので、あれほど無責任な男の筈だった俺が、いつの間にか古本屋の店長になっていた。まだ見習いの頃、どこから聞きつけたのか、店にはよく優越感を味わいに、昔の仲間がやってきた。しかし、それも奴等が四年になってからは急に途絶え、奴等のことも、奴等がいた学校のことさえ忘れかけていた。それどころか、近頃では生まれた時からこうして古本に埋もれていたみたいに、ぼんやりとカウンターに座っていることが俺の天職のように感じるようになってきたくらいだ。別に大学の連中のことなんて気にしてはいない、そう考える事自体がコンプレックスって奴なのかもしれない。決まって夕方と呼ぶには少し遅すぎる時間、なぜかいつもそんなことを考えていた。そして、そう思う度に頭を掻きながらテレビのスイッチをつけるような癖が、いつの間にか身体に染み付いてしまっていた。テレビのブラウン管にはコマーシャルが繰り返し流れている。俺の視線は店先に流れ下る。たいがい、そんな時に限って「奴」がやってきたものだ。不意に記憶の奥から見慣れた風景が湧き上がってくる。一月か、二月に一度、丁度「奴」の名前を忘れかけた頃に店に現れる。今思えば、「奴」がやってくる日は決まって、少し嫌味に感じるくらいに晴れた日だった気がする。店の前の自転車の垣根が無くなって、ようやく暇になったかなと思い、カウンターの隣にあるテレビを眺めながら売り上げ計算の続きをしようと、戸棚からノートを取り出した時、手に大き目のボストンバックを釣り下げて伏目がちに引き戸をゆっくりとあけようとしている「奴」の姿が目に飛び込んでくる。いつものように大柄な身体を申し訳なさそうに折り曲げながら、時折、店内を軽く見回して、何も買うべき物がないことを確認すると、俺の視線を避けるように陳列台の影を選んでカウンターに近づいてくる。カウンターの前で下がった銀縁の眼鏡をゆっくりと押し上げ、ついでに右腕の時計で時間を確かめ、四角い顔の中に貼り付けられた蜆のような小さな目を見開いて軽く息を整える。「また売りに来たよ」カウンターの手前で遠慮がちに呟くと、ボストンバッグからビニールの紐で大きさごとに縛った本の束を取り出す。大体中に入っている本の傾向は決まっていた。漫画本五、法学書三、文学書一、その他一。そしてこの店の品揃えも法学書の分を除けば大体そう言った割合だった。そう言えば、漫画本の束の隙間からピンク色の表紙がこぼれた時に「奴」の顔から情けなさそうな笑いが漏れた事だけがなぜか記憶に残っている。俺は「奴」から本の束を受け取ると、一応、手元の表とつき合わせて値踏みをし、それに若干色をつけた金額を手渡した。その数分の間、「奴」はしきりと店の外を眺めながら、一方では俺の手際の悪さに苛立っているかのように、何度か足でカウンターを蹴りながら黙っていた。誰かを待っているんじゃないだろうか、どれくらい色をつけるかを考えながら俺は片方でそう思っていた。実際、駅前のこの店を待ち合わせ場所にしているらしい人間を俺は三組ほど知っていた。セーラー服を着た少女が一人、しきりと腕時計を気にしながら少女漫画のコーナーを行ったり来たりしている。何度も棚から本を取り出して、くるくると手元で回してみてはいるが、棚に並べられた本が、その薄っぺらな鞄の中に入った事はない。レジを弄くりながら店の前を見ていた俺の視線の中に、スポーツタイプのオープンカーの急停車する姿が飛び込んでくる。少女の背表紙を眺めていた目が、店の前のオープンカーから降りようとする頭の悪そうな男の後頭部に注がれる。それも一瞬のことで、彼女は店の中を軽く見回してそのまま出口の引き戸を開けて飛び出していった。男の手が彼女の腰に伸び、男は乱暴に車内へ女子高生を詰め込んで車を来たときと同じ様に急発進させる。「すまなかったね」エンジン音にかすみそうな声で「奴」は申し訳なさそうに空のボストンバッグを小脇に挟むと、生活書の居並ぶ一番狭い通路を、背中を丸めながら出て行った。「奴」の白っぽいシャツにやけに赤く染まった夕陽が当たってピンク色に見えたのが今でもはっきり脳裏に焼きついている。あれが最後だった。確か今日みたいに客の少ない水曜日だったと思う。そう言えばあの少女もあの日以来、見ていない。別に男でもできたのか、それともあの男に捨てられたのか。こんな狭いところに一日中座っていると、元々、人のことなど気にしない俺でも、そんな他人のつまらないゴシップに妙な関心を持ち始めるようになる。惰性で付けられた金庫の上のテレビの中で、「悪代官」が袈裟懸けにされた。客の一人も居ない店の中に虚しく響くファンファーレ。俺はカウンターの下から灰皿を取り出して煙草を吸い始めた。煙草の煙が尻尾を引きずりながら出口の方に這って行くカウンターの上、ノートに六百八十円と書いて、ボールペンを指でくるりと回した。あと、三十分は客が来ないだろう。そう思って犬を抱えた子供達が走っているテレビに目を移した時、引き戸が開けられた音がするのが聞こえた。顔を上げるとまず淡いピンク色が飛び込んできた。次第にそれが広がっていき、そして一人の人間の背中を形作った。「奴」の背中も確かこんな色だったかも知れない。俺の瞼の裏側でピンク色のワンピースが裏返しになる。特に見慣れた顔でもないが、別に始めて来る客というわけでもない。いつも法学書ばかり買って帰る奇妙な客。今日も彼女は文庫本のコーナーを素通りして、店の片隅の文学全集の合間に僅かに置かれた法学書を、一冊、一冊、あらためている。その殆どは「奴」が持ってきたものだ。なぜだろう、「奴」の事を思い出すたびにそのピンク色の背中の色が少しづつ褪せていくような気がする。それは目の奥に染込むような濃いピンク色から、「奴」の背中に浮き上がったあの淡いピンク色になった。

光線がゆっくりと力を失っていくのに、それでも気が済まないかのようにそれは死人の頬の色になっていた。俺の指の間から転げ落ちたボールペンが、カウンターの縁にぶつかって止まった頃には、それは純白の死装束になっていた。止まったように見えていたボールペンが気だるそうに落下運動を開始する。それに併せるかのように店内が歪み始めた。気づけば、俺は闇夜のようにしんと静まり返った小部屋の中央に腰掛けていた。足元には桐で出来た棺桶が置かれている。俺は傾いた丸椅子から立ち上がって、棺桶の側に立った。中には店に入ってきたあの女が、まるで何かを待っているかのように眠り続けている。俺の頭の中の俺はそのまま棺桶の側に腰を下ろして、別に悲しむわけでもなく、棺桶の中で白くなり続けている彼女の顔を覗き込んでいる。肩にかかった髪の先がダークグレーから薄い灰色へと変化していく。薄く塗られた口紅だけが、取り残されたように赤く顔の中央をなだらかに彩る。俺には、彼女が待つものが何時までたっても現れないだろうという奇妙な確信があった。なぜそんなことを思うのだろうか、俺は何も知りはしないのに、俺の煙草の火が燃え尽きて、プラスティックの溶ける時の鼻を突くにおいで我に返った。細い通路越し、店内を一回りした女が、多少遠慮がちに俺の目の前に現れた。「あのいいでしょうか」俺は燃え尽きた煙草の吸殻をカウンターの片隅に置かれた灰皿に放り込んで、無為な幻想を忘れ去ろうとする。顔面の神経を走る職業意識は、素早く俺を古本屋の店員へと変貌させた。視線は女の右手にある埃にまみれた商法概説2を捉える。すると俺の意識とは関係ないところで、記憶の倉庫からハードカバーの専門書の定価が呼び出される。「この本なんですけど」俺の声帯を中心とした全身の筋肉が、次に切り出される彼女の言葉にむけて準備の態勢に入るのが分かる。「ああ、その本ですか。ちょっと見せてください」もうすでに分かっている定価を調べるべく、俺はカウンターへ置かれようとしている本に手を伸ばす。俺の手の先が本に触れようとした瞬間、彼女の手が急に引っ込み俺の指が空を切った。別にこのようなことは珍しくないさ、突然、俺の中でそんな声が聞こえるのは先程の幻影のせいだろうか。「これ・・・」何か言いたげに凍りついた眼。しかし、俺はただの店員にすぎない。ただ彼女の決心がつくまで待ち続ける。時折、解けかけた瞳が右手に滑り落ちてゆく、まるで葬儀の席のような眼差しだ、そう思うと同時に、彼女の眼が影のように黒い色に染まり始めた。本来の嗅覚が香水の匂いで満たされ、穏やかで悲しげな噂話の列が目の前を過ぎる。一体、誰の葬式だろうか、顔の無い参列者は一体誰なのだろうか。俺の視線の中央には、相変わらず、彼女が商法概説2を右手に持ったまま、目の前を運ばれていく棺桶を見送っている。白い布に覆われた棺桶はゆっくりと参列者の列の間を通り抜けて、頑丈そうな焼き場の釜の中へ滑っていく。二重顎の坊主が低く重たい声で話し始める。周りで漏れる啜り泣きのせいか、坊主の話し始めた「迷い」という言葉しか聞き取れなかった。参列者はその話を聞き流しながら、燃え続ける釜の中を想像して俯き加減に知りもしない死者について語り合っているようだ。坊主はようやく気が済んだように、なにやら手に持った数珠を摺り合わせて奥へ引きさがって行った。参列者もそれに合わせるようにお互い肩を寄せ合うようにして奥の間へ行進を続ける。双子の大男が薄ら笑いを浮かべながら焼き場を後にして、俺と商法概説2を持った女だけがカウンター越しに残された。不健康なほどに白い女の手がゆっくりとカウンターに伸び、無言のまま箱に入った本を灰皿の隣に横たえた。自動的に俺の手がそれを持ち上げ、箱をゆっくりと外す。俺は手垢にまみれた黄色い表紙に新しいシミが付いているのを無視して裏表紙をめくり値段を・・・、
 1992年9月2日生協にて購入
 遠山義孝

何か夢を見ていたような気がする。今日は古本屋は休みだった。それに気がついて寝ようとしたが、壁に貼り付けられたメモで万年炬燵を引き払い、こうして大学の近くの喫茶店に来てしまった。寝る事と、働く事。これ以外のことをするのは二月ぶりだ。だからと言って別に新鮮な気分になんかなれない。むしろこうして俺として他人の目の海を泳ぐ事の後ろめたさをどのように克服するかを考えながら、息を潜めてどうにかこうにか転がってきたようなものだ。時間をもてあましながら二杯目のコーヒーの、最後の一口を飲み干した時、観葉植物の隙間からいかにも申し訳なさそうに背広姿の鶴岡が現れた。この男の浮ついた視線が、嘲笑の色をたたえているように見えるのは、俺のかんぐりすぎというものだろう。そのどこかで見た事があるような派手なスカイブルーのネクタイを見て、不意に目を背けたくなった。「やあ、ちょっと駅前で色々あってね」何か言いたげな薄い唇から、低く腹に通る声がテーブルの上から転がり落ちる。奴が時間を守る事などあてにしていなかったのと古本屋の店員の職業意識が、俺の口から漏れそうになる怒りの言葉を圧し殺してしまう。「ちょっとすみません。ブレンドとトーストお願いします」俺と眼を合わせるのを避けるためか、わざと慣れた調子で立ったままウェイターに向かって手を挙げてみせる。レジの所で雑談に興じていたウェイターは、降って湧いた客の突飛な注文に目を白黒させながら厨房に向かって飛び出していった。「ちぇ、なんだよ、今日は野郎しか居ねえじゃないか。しばらくぶりにウェートレスのネーちゃんのお足が拝めるかと思って多少楽しみに・・・やべえな、どうもどこかの人事課のオッサンみたいになっちまった」何時もの軽口の後、軽く厨房の方を見てから、俺の使い古したおしぼりでゆっくりと手を拭った。店内は確かに妙に静かに感じた。俺達の他は、眼鏡をかけた女の子が窓際で一杯のコーヒーで何度と無く窓の外を見やりながら、粘り続けているくらいのものだ。「しかし本当に誰も居ないな。金曜の昼だって言うのにこれだけ空いていると気味が悪くなるぜ」鶴岡は丹念に指の間の油をおしぼりに擦り付け終わると、席に放り投げてある大き目の書類ケースから手帳と名簿のような物を取り出し、軽くおしぼりで拭いたテーブルの上に拡げる。俺もまるでそうしなければならないかのように、それにあわせて鞄から手帳を取り出した。「別に話す事もないから本題に入るぞ。それじゃあ今度の同窓会の話だけど・・・」俺は鶴岡の持っているコピー用紙に目を落とす。妙に凝ったレタリングの文字で俺の出た高校の名前がプリントされている。そしてその下にはもう忘れかけた同級生の名前が連ねられている。上から三番目、鶴岡の名前の下に俺の名前がある。同じ大学に入った奴で括っているのだろうか。そう言えば鶴岡は法学部だった。それを思い出したのと、急に目の前が暗くなったと感じたのは殆ど同じ瞬間だった。わざと数回瞬きをして、息を整え、軽く頭を持ち上げるとそこにウェイターがいた。いかにもつまらなそうに、鶴岡の正面のコピー用紙を避けながらコーヒーとトーストとミルクを置いた。俺のほうに向けた視線が小さい頃に見た死にかけた蛙のように見えた。「おい、このコーヒー空じゃねえか。佐々木、何か注文しろよ」しきりと右手に持っているペンで手帳に印をつけながら、鶴岡は無表情のまま呟いてみせた。「それもそうだな、じゃあ、またアメリカン」勢いで三杯目のコーヒーを注文した。蛙の目をしたウェイターは聞いていたのかいないのかさえ洩らすことすら面倒に感じているようで、相変わらず無表情なままで俺の前に置かれたコーヒーカップを持ち上げた。白いコーヒーカップの底に茶色いコーヒーの滓が輪を描いているのが目に入った。コーヒーの死体、そんな馬鹿な言葉がこぼれてくる。俺は俺の中でまた「奴」についての妄想が膨らんでいくのを感じていた。「しかし莫迦な奴が居るもんだぜ、試験に失敗する度に人が死んでいたら予備校の商売上がったりじゃねえか」テレビのブラウン管の明かりが白い電話機を七色に染める。「奴」は死んだのか。実感は何一つ湧かず、耳の中を鶴岡の無意味なお喋りが通り過ぎて行く様を眺めている。どの鶴岡の言葉も、浮ついた足どりで俺の耳の中を走り抜けて行く。まるで汚い水溜りを早く飛び越えようとするときの足どりだ。そんな妄想の風景を凝視していた俺の耳が、その水溜りの中の奇妙な風景に目をつけて立ち止まった。薄汚い下宿の、砂でざらついた床の上、耳のような俺が足音をたてないようにして、その中央の奇妙な影に近づいて行くのが見える。近づいていくに従って風景は重苦しく実在の叫びを上げ始めた。こちらの方でもいつのまにか耳のような俺は、俺そのものになってしまっていた。軋む床は寂しげに湿気を帯びて、鈍い光を俺の顔に乱反射してくる。力は殆ど無いくせに、不思議なほどに目に付く霧のような光に多少閉口しながら、長すぎる玄関を通り過ぎようとしていた。その俺の視線の先、先程の奇妙な固まりが影であることに飽きて、俺の眼の中に転がり込んできた。それは、椅子の下に寝転んで、天井をみている「奴」の横顔だった。椅子の背もたれには包丁がぶら下がり、刃は俺の喉に向けたまま左右にゆっくりと揺れている。天井を向いた「奴」の顔は不思議なほど白く、そして、安らかに見えた。振り子は背もたれとの摩擦でゆっくりとその力を失っていていき、いつの間にか止まっていた。包丁の刃に一瞬、俺の顔が映った途端、「奴」は足の親指と人差し指に挟んだビニールの紐を放した。すると相変わらず静かに、それでいて確実に、包丁の刃がもう既に生気を失っている「奴」の気管に突き刺さるのが見えた。噴水のようにあふれ出る血、喉を走る痛みに、一瞬、「奴」の口元が歪む。喉に突き立った包丁が、ゆっくりと右に倒れ、「奴」の喉を引き裂いてゆく。吹き上がった血を浴びた包丁の柄が、ようやく床に当たってその円運動を中止した時、呆然とその有様を見守っている俺の目に、明らかに死につつある「奴」の視線が当たったような気がした。声は聞こえないが、確かに「奴」の口元は何かを語ろうとしているように見えた。しかし、動きもすぐに止まり、ただ不気味な死人の視線だけがそこに残っていた。俺はその視線を避けるべくドアを開けて飛び出した。冷たい空気が、一瞬、背中を転げ落ちたように感じた。「おい、聞こえてるのかよ。だから俺はお前を副幹事にするのは嫌だって言ったんだよ。だから、この名簿を人数分コピーして、それを全員に送るのがお前の仕事だぞ。分かったな」厚くマーガリンを塗られたトーストを頬張りながら、鶴岡はしきりと時計を気にしていた。内定企業の拘束でもかかっているのだろうか、鶴岡のことだ、口には出さないが相当苛立っていることだけはいつものこぎれいな格好をしているこの男のネクタイが歪んでいることと、スーツに飛び散ったパン屑を見ればわかる。「わかったよ。悪かったな、それだけのために呼び出して。なんか時計気にしてるけどこれからなにかあるのか」「実は会社から呼び出しかかっててさ、また訳のわからない講習とか受けさせられるんだろうけどよ。本当に、お前はいいよなあ、勝手気ままに行きてられて。その点俺なんか・・・」いい気なもんだ、そう思いながら封筒に入った名簿を受け取って俺は立ち上がった。「なんだ、もう行くのかよ」鶴岡はコーヒーを啜りながら俺を見上げる。「ああ、金はここに置いていくから」ポケットから千二百円を取り出してテーブルの上に置き、店を出ようと鈴のついたドアを押し開けた。鶴岡は手に付いたマーガリンに悪戦苦闘しながら俺に肩を押し上げて軽く挨拶する。「糞馬鹿野郎」口の中でそう呟くと、そのまま喫茶店を後にした。

信号の無い横断歩道をゆっくり歩きながら、ビルの谷間を吹き抜ける風の色が変わっていくのを何も考えずにぼんやりと見回していた。久しぶりに歩く道だった。一見何時ものような夕方だと言うのに、やけに人通りが少ないのは近づいて来る台風のせいだろうか、道路脇に植えられた公孫樹が南から吹く生暖かい風に揺れている。不意に見上げた雲もなにやら物々しげに、西へ向けて列を組んで駆け抜けているように見える。流しのタクシーは、家路を急ぐサラリーマンを見つけようと、舐めるように路側帯に沿って走っている。俺の脚は駅に向かう大通りに飽きて、心地よい登りの勾配をもった脇道へと逸れる。大学の無愛想な鉄柵が、低く垂れ込めた雲の隙間から照る夕陽で赤く染まっている。右足、左足。どうということのない繰り返しだと言うのに、どうしてこんなにももどかしい気分になるのだろうか。脇道の急な坂、柵の隙間から気まぐれに飛び出した猫が一匹、目の前を横切る。黒猫だったか、白猫だったか。いつもだったら、そんな事ぐらいは覚えていられるはずなのに、俺の目にはただの猫の輪郭だけが、物言いたげに何度と無く走り抜けていく様が映っている。俺は一体どこへ向かっているのか。坂を登りきり、目の前のホテルに入る無関係な客たちを見ながら右に折れ、後ろから迫ってきた軽トラックを避けて、そのまま道なりに坂を下る。法学部の校舎の前の吹き溜まり、塵の山の頂上に広げられた新聞の見出し。その太枠の大見出しには、近頃、巷を騒がせている女子高生バラバラ殺人事件の記事が踊っている。写真の少女の笑顔、どこかで見た事がある気がするが、成り上った俺の頭の不正確さに気づいて、思わず拾いかけた手を止める。このまま坂を下りていけば公園に出るだろう。そこで煙草でも吸おうか。あたりを軽く見回しながら、胸のポケットに放り込んだ煙草の箱を確かめてみる。潰れた紙のケースの中に、何本かの煙草が入っているのが右手の指に感じられた。女が一人、俺の後ろを歩いている。法学部の校舎にでも行くのだろうか。俺はそのまま坂を下り続ける。公孫樹の大木が二本、俺の視界を遮ってみsる。公園の入り口、俺が通っていた時と同じ様に煙草の吸殻と紙くずが風で踊りながら俺を迎える。無様な石の階段、石屋の気まぐれとしか見えない遣り水、公孫樹の木に群がる鳩の群れ。広場に並べられたベンチには、手帳に何か書きつけながら、時折、群がる鳩を眺めている中年のサラリーマンが居るだけだ。俺は彼から少し離れたベンチに席を占め、胸のポケットから煙草を取り出すと、不規則に吹き付ける南からの突風に気をつけながら、百円ライターで火をつけた。ようやく火がついたとき、サラリーマンは手帳を右手に持ったまま近くの電話ボックスの中へと消えていった。そのまま視線を持ち上げて、俺は空を見上げてみた。鳩の群れが矢印の形をして風に逆らうようにして公園の上を飛び回っているのがわかる。安心したように引き下げられた俺の視線にはゆっくりと石段を下りてくる女の像が写っていた。階段を下りきったところで、それまで足元を見つめていた女の視線が俺のほうに向けられた。どこかで見た事があるような、今にも泣きそうな目、わざとらしく公園の砂利道の中に眼差しを落としながら、俺の頭はそんなことを考えているようだった。女はまっすぐに俺の座っているベンチへと向かってくる。足りない、そう思ったのは気のせいだろうか。彼女の周りの空気がいかにも居心地が悪いとでも言うように、俺に向かって吹き付けてくる。俺はフィルターの近くまで火の移った煙草を投げ捨てた。女は俺の前まで来ると自然と立ち止まって、俺の顔を見つめた。「あなたは駅前の古本屋の・・・」風で変質された声が、俺の記憶を昨日の今頃の時間へと巡らされる。二倍速で流れる脳裏に広げられた画面の中で、白いコートのしたから喪をあらわすピンク色がときどき転げ落ちる。俺は黙って頷きながら、彼女の顔を覗き込んだ。細い眉の下に開かれた目が、なぜか、俺の視界の中で静かに拡大を開始していた。「いや、もっと前にあったような気がするね。確か・・・ここで・・・気味の隣に誰かいたような・・・」俺の言葉が風に食いちぎられた時、女の眉が震えているのが分かった。俺は言葉を切った。風に浚われた言葉の一つが、女の隣で立ち上がって、気の弱そうな一人の男の姿へと変形を遂げた。あの日も風の強い日だったと思う。特に理由があったわけではないが、久しぶりに俺は大学に来ていた。誰ともしゃべらず、たまに見かける顔見知りの視線を避けるようにして、ようやく公園のベンチに自分の居場所を見つけ出した時、静かな笑いを浮かべながら近づいて来る二人連れを見た。どこと無くぎこちなく、吹き付ける春の風から相手を庇うようにして、ゆっくりと石段を下りて、いかにも申し訳なさそうな二人の男の視線が出会った。連れのあるような大柄の男は、急に困ったような表情を浮かべると無意識に頭を掻いて見せた。「やあ、久しぶりだね」それが「奴」だった。俺は煙草を咥えたまま、「奴」の影に隠れるようにして俺を見つめている女と、吹き抜ける風のことを考えていた。しかし、それから後どうしたのか、何を話し何について笑ったのかという段になるとまるで思い出せない。石段を下りてくる二人の様子は裾の風に揺れる有様まで正確に思い出せると言うのに、そして何かを話し何かについて笑った事だけは覚えていると言うのに。俺はその記憶をどこで無くしてしまったのだろうか、黙り続ける俺を彼女はじっと見つめている。その目の奥に、俺はなにやら罪悪感のようなものがあるように思えた。俺の目を避けるようにして地面の一隅に視線を落とすと、新しい革靴で俺の踏み潰した吸殻を蹴飛ばした。

「手紙・・・読みましたか」ゆっくりと、凍えるような声が、さりげない顔つきをして耳の奥に突き刺さる。手に残る紙を引き裂くような感覚が、音速で繰り返される。
「義孝さんが・・・そう言ったんです」砂利粒の一つ一つを数え上げているように見えた彼女の視線が、俺の手に軽く触れたように見えるのはきっと気のせいだろう。その手は引き裂かれた紙の断末魔の叫びをその耳に留めていることを訴えるようにかすかに震えていた。
「あいつは・・・いえ、佐々木さんは・・・知っている、少なくとも俺よりは、って。何を知ってるのかは教えてくれなかったけど・・・いつもそんな事ばかり言ってた」そんなことは無い、そう言おうとした俺を目で制止して、彼女は話を続けた。
「あの日、義孝さんが電話をくれて・・・いつもは私からかけるのに・・・」 
「その時、頼まれたの?」 
「いいえ、その時は、それが自殺のことだなんて気づかなかったんです・・・、ただ、しばらくは会えなくなるって・・・ちょっとこれからしなければならないことがあるって・・・、けど・・・、」こんな冷たく悲しげな言葉を俺はこれまで聞いた事があるだろうか。頬にぶち当たる風はこんなに生暖かいと言うのに。
「一体・・・なぜなんですか、彼が・・・、義孝さんが死んでしまったのは・・・」俺を見つめるその瞳から、感情の水が流れ出していた。
「何で、俺に聞くんですか?」俺はまた、煙草を取り出して、手で軽く覆ってライターに火をつける。彼女の視線は俺に注がれ続けている。俺はそのままその視線を無視して、胸一杯に煙を吸い込んだ。顔を見上げた時に彼女と視線が出会うのを感じた。敵意、悲しみが変形した先はそんなものであろう。
「そんなこと、一体、誰がわかるって言うんだ。きっと奴だってなにも知らなかったんじゃないかな。自殺の理由なんて誰も知るべきじゃないし、知ろうとするのは警察の仕事だよ。別に誰が死のうが関係ない話だからね、少なくとも古本屋の店長には。それより君は自分のことを考えた方がいいんじゃないかな?世間体ってものがあるだろうし・・・」 
 最後に滑り出したこの言葉の群れは、彼女ばかりではなく俺をも驚かせるに十分だった。別に俺は俺の残酷さに驚いた訳じゃない。残酷なのは生まれつきだ。しかし、なんだってその残酷さを世間体なんて言葉を使ってあらわさなきゃならないんだ?俺はそんなに卑怯な人間だったのか?自問自答、答えなんて出るわけも無い。彼女の表情が次第に驚きから怒りへと変貌している。彼女の目の中で俺はただの無責任な男から、世間そのものへと変換されていく。
『俺が世間だって!あの莫迦どもと同類だって!』 
俺の中で寝ぼけた目をこすっていた俺が、顔をひきつらせて怒りをこらえているのがわかる。
「じゃあ、佐々木さんは彼が死んだのは当然だとでも言うのですか?私にはそんなことは理解できません。忘れろと言うんですか?」涙、それが悲しみによって流されているものでないことは俺にもわかった。一度軽く目を伏せた後、彼女はようやく言葉を引き当てて見せた。
「理解するかしないかなんて些細なことだよ。死ぬべき奴が死んだ。残されたものはそれを受け止めるしかしょうがないんだ」本当の言葉がこぼれた時だった。俺の目には彼女が走って行く姿が映っていた。俺は偶然の凪の間に続けざまに煙草に火をつける。「奴は死にたくて死んだんじゃない、死ぬべきだから死んだんだ。それ以外の答えが、一体どこにあるって言うんだ」言いたい言葉がようやく見つかって俺は安心したように空を見上げた。空は隙間無く雲が積み上げられているというのに、雨はまだ降りそうにはない。それならば仕方がない。俺は立ち上がって向かい風の中を南へ向けて歩き出した。俺はどこに居るのだろうか、昔から考えていたことに戻ってきてしまったらしい。煙草は今日でやめることにしようか。言い訳はそれからにしよう、それでも遅くはないだろう。

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