視野の重なり

何だってんだ、この空は!俺の頭で行きつ戻りつ。降るにしろ降らないにしろはっきりしろ。道端に轢かれて伸し烏賊のようになった鼠の死体、奴だってこんな薄汚い天井の下じゃ安心して成仏も出来ない。ひび割れだらけのアスファルト。こいつにしてもどうにも空模様を計りかねた様子で、黒いんだか白いんだかわからない色のまま、とりあえず真っ直ぐに視線の消えるままに延びている。ベルトコンベアのでかいのといった車道に飛び出してみれば、トレーラーが巨大なクラクションを鳴らして通り抜けていく。その後ろから走ってくる危険物を積んだトラック運転手の迷惑そうなその瞳!馬鹿にするなと、こちらも睨み返す。頭にきたのか急にアクセルを踏み込んでまるでイタチの最後っ屁、排気ガスを顔面にひっかけられた。それでも咽ることのできない俺の肺の無神経さ加減!うんざりしている俺の横にあるのは、溝とも川ともただの窪みともつかないような水溜り。鈍い銀色の光を放つポンプが、ごぼりごぼりと溜まった溝に廃油のような水を流し込んでいる。どうせならこの下にある泥の中にでも眠っているのがお似合いなのかもしれない。こいつだけが俺を地面に張り付かせているのかと思うと、カッとなってポンプの隣でうなりをあげている野外用発電機を思い切り蹴飛ばしていた。
 そいつから眼を離して左右を見回してみたのは、ここまで来た理由があったというだけだ。門柱のつもりだろうか、一組のありふれたコンクリートブロックが突っ立っている。幾重にもつけられた引っかき傷のようなものの上に「海浜十三ー二十三」と機械的な記号を刻んでいる紺色のブリキの板が打ち付けてある。中に入れば巨大に過ぎるクレーン車の群れが誰かの帰りを待っているように砂利の敷き詰められた駐車場の上に佇んでいる。細かい砂利は踏みしめると水を含んで、靴の動きに抵抗するようにじわじわと白い敷石を黒く染め上げる。俺は帰ろうとする足を無理に引きずりながら機材置き場を通り抜けて、ひび割れだらけのコンクリートの上に出た。建設会社のロゴの入った軽自動車が一台停められていた。そこではスカイブルーの上っ張りの女の事務員が何かに躊躇しているように隣で突っ立っている。女は俺を見つけると驚いたように軽いお辞儀をした。眼の大きな女だ。顔を上げた女に俺が感じたのはそれだけのことだった。彼女も別に俺の様子を気にするようでもなく、背伸びを何度かして後ろのプレハブ作りの事務所を覗き込んだ後、ようやく手に握られていたキーを軽自動車のドアの鍵穴へと差し込んだ。俺はままよと埃に白く染め上げられたタイルが気になる玄関口に足を向けた。油が効いていないのか割の重いアルミの扉を開き、当たり前のように置かれた観葉植物の脇をすり抜ける。正面の、テーブルともカウンターとも付かないようなついたての上には、受付と書かれたプラスティックのカードが置かれているだけで人影も無い。ブルゾンのポケットからしわくちゃの履歴書と職安の案内状を取り出してそれを机の上で押し広げてぼんやりと佇む。耳を澄ませば表通りをまた何台か大型車が通り過ぎていく音が聞こえてくる。ついたてで仕切られた角を過ぎた階段の裏側から、トイレか何かに行ってきたのか、薄鼠色の作業着で濡れた両手を拭いながら、男が一人、偶然とでもいうような顔つきで転がり出た。頭の禿かかった、見たところ五十がらみの現場監督だろうか、あくびと共に顔に出た笑みを急に消し去ったかと思うと、受付に立ち尽くす闖入者に驚いた様子で駆け出してきた。
「あっ、ちょっと済みませんね」
 とりあえず挨拶でもしようと頭を下げかけた俺を残して、作業服は外に向かって駆け出していった。見れば今にも出掛けようとしていた軽自動車の天井を軽く叩いて、先ほどの事務員となにやら話し込んでいる。迷惑そうな顔が、フロントガラス越しにこちらからも伺える。作業服はありがちな笑みを浮かべて手を合わせる。彼女はいらだたしげに薄いドアを思い切り閉めるとこちらに向かってきた。
「早く!早くしてよ。……ああ、別に上着はそのままえいいから。それよりお茶、お茶入れてくれよ。ああ、すいませんね。なんだか妙な所見せちまって。ちょっと、こっち、来てくださいよ」
 手にした上着を机の群れの上に投げつけて奥の給湯室に消えて行く事務員を無視して、作業服は先ほど階段へと向かった。奴のガニ股にくっついて、狭苦しい通路を潜り抜け、安物のタイルの貼られた階段を身をかがめるようにして昇る。体を傾けるだけで軋むような安普請を気にしながら、その名には相応しくないほど狭い踊り場を抜けて、ヘルメットの並んでいる廊下を通り過ぎ木目がわざとらしい扉に突き当たった。
「入るよ」
 開いた扉の隙間から聞き慣れたテレビタレントの浮ついた笑い声が聞こえてきた。作業服は一声唸って小走りで奥の方へ急ぐ。俺はその後ろに続いて申し訳なさそうに部屋の中に入った。雑然と長椅子の並べられた部屋の中で、事務屋のような眼鏡の男が、のろのろと食いかけの弁当をロッカーの上に運んでいる。
「いやあ、すいませんね。こういった職場だとどうしても男ばっかで、人目を気にしたりすることもないもんだから……。休憩室なんて名前で呼ばれたりすると、すぐこうなっちゃう訳ですよ。まあ、しばらくそこの椅子にでも座っててください」
 さすがにこの男は「面接」には慣れているらしい、別に表情を変わる訳でもなく、どうにか格好だけはつけようと長机を前に焦っている作業服を後目に、椅子を軽くそろえただけで座り込んだ。その口元に「笑い」が浮かぶ。俺もまたそれにあわせて義務的な笑みを頬に作り上げる。
「ゲンさん!お茶はヨウコちゃんに頼んだの?」 
 作業服の顔に曖昧な困惑の表情が浮かぶ。作業服の持つ机の脚が、ひ弱に見える壁にぶつかって悲鳴を上げた。その様子を見ても眼鏡は眉を顰めるが決して立ち上がって助けようとはしない。
「あの……、お茶なんですけど……、何処に置きましょうか?」
 開けっ放しのドアから音もたてずにのっそりと「ヨウコちゃん」が現れた。凍り付いたように椅子を両手に抱えながら動きを止めた作業服の眉間に、同情とも諦めともつかない悲しげな皺が刻まれては消える。
「あんなあ、今、こうやって用意しているんだってのに……、とりあえずこの棚にでも置いてだ……、あっ、なんだ。二つしか入れてこなかったんかよ?」
「だって……。いいえ、すいません。気が付かなかったもので」
「気が付かなかったって、新人じゃあるまいし、俺のはどうでも良いけど部長のくらい入れてこなきゃダメだろ?」
「申し訳ありません!」
 「ヨウコちゃん」の大きすぎる瞳が凍り付いた。働くのを止めた作業服の姿を頬杖で見守っている眼鏡の痘痕だらけの顔がその中に映っているだろう。眼鏡は気にする風でもなくつけっぱなしのテレビの画面を表情も変えずに見つめている。俺は目の前に置かれた緑茶を飲んだ。熱湯で入れたうえに葉を入れすぎたのか、苦味とエグミが舌の両脇に纏わり付く。
「……ヨシオカ……ヨシオカさんでしたよね……?」 
 引き戻されたように俺は眼鏡の奥の濁ったような瞳の奥を軽く覗き込んでいた。安っぽい面接会場にありがちな値踏みをするような視線だ。俺はムキにでもなった風を装って睨み返す。奴は遠近両用眼鏡の下側に俺の視線を捉え直して逃れた。
「まあ楽にしてください、すぐ始めますから」
 銀縁の眼鏡、その振り返る先。急に背筋を伸ばして緊張している「ヨウコちゃん」に向けて特に抑揚のない言葉が漏らされる。
「僕の机の上、確か黄色いファイルがあったと思うけど……、持ってきてくれないかな?」
「それと、ポットときゅうす。それに僕の湯飲みもできれば……」
 二人の言葉を聴き終わることもなく「ヨウコちゃん」は扉の向こうへ消えて行った。ようやくパイプ椅子を片づけ終わった作業服は、事務的な緊張には慣れていないのか、しきりと狭すぎる椅子の下で脚を組み替える。その度にパイプ椅子と机は鈍い悲鳴を上げて、奴は情けなげな笑みで眼鏡の方を同情を誘うように眺めてみせる。眼鏡は目の前の湯飲みに何度か手を伸ばしかけては、胸のポケットに入れた煙草の箱を取り出したりしまったり、時に立ち上がって灰皿を取りに行こうとする作業服を目で制すると、今度はボールペンを取り出して意味も無くノックする。
「……遅いなあ。確か、机の上に置いていたはずだけど……、そうだゲンさん。明日の予定表だけど、四時までにはどうにかならないかな?社長が帰ってきたら見るっていってたから」
 作業服が机の脚に膝でもぶつけたのか、大仰な金属音が部屋の中に響いた。眼鏡が少しばかり口元を緩める。作業服は咳払いをして、そいつが俺に感染するのを前もって防いだ。そんな奴の心配とは何の関係もないかのような能天気なスリッパの音がドアの向こうに響き、「ヨウコちゃん」がいかにも申し訳なさそうに入って来ると書類を遠慮しながら机の端に置いた。
「ああ、ありがとう。それじゃあヨシオカさん。履歴書の方、お願いできますか……」
 ポケットから申し訳程度の封筒に入った紙切れを引きずり出す。六つの無神経な視線が罪人の所作を観察するような調子で俺の手の動きを見つめているのがわかる。最初に眼鏡が眼を反らした。そのまま立ち上がって後ろの戸棚の灰皿を書類の上に並べる。それにあわせて「ヨウコちゃん」は俺の手から履歴書を奪い取ると出口へ向かった。ようやく作業服も気がついたとでもいうようにひどく歪んだ灰皿を取り出して折れかけた煙草に火を灯した。
「それにしても、大変でしょ?この不景気じゃあ。うちらももろにこいつの影響を受ける所だから、特にそうなんだけど、正直な話し、結構きついですわ。それでついついみんな辞めてって、まあ、前にいた奴は少し違いましたけど」
 二人は意味ありげに顔を見合わせて笑う。俺もつられて笑顔らしいものを浮かべてみる。そしてまた、沈黙。
「コピーしてきました」
 黄色い声と同時に長机の上に二枚のコピー用紙が広げられた。作業服と眼鏡はそれを手に取ると黙って読み始める。俺が何となく視線を二人の中年男から「ヨウコちゃん」の方に向けて見てみれば、彼女は路上の吐瀉物でも見たといった感じ俺から眼を背けた。
「じゃあ、買い物の続き、よろしく頼むよ」
 眼鏡の呟きを確かめるようにして「ヨウコちゃん」は消えて行った。
「まず最初に……」
 作業服の法が口を滑らすとは俺も思っていなかった。奴も自分がそういったことが間違いであったとでもいうように顔を顰めながら口をつぐんだ。眼鏡の方は相変わらず書類にポケットから取り出した蛍光ペンでマークをつけている。それが一種の拒否の仕草とでも受け取ったのだろう、作業服は眼鏡と俺の顔の上に視線を走らせているばかりで、今にも憤死しそうな表情を浮かべて黙り込んだ。
「どうして、うちの会社を運んだんですか……」
 眼鏡の下の薄べったい漏れた言葉は、硬く俺の耳に響いた。つられて俺の口の端に、ヒキツレのようなものが浮かんできた。いつものことだ。作業服はそれを愛想笑いとでもとったのか、草食動物のような頑丈な顎のあたりを歪め、笑いかけているような表情を作る。
「とりあえず職種を優先して会社を選びました。皆さんもご存知の通り、経理関係の求人となると今の時期はちょっと……、そして……」
「まあ、そんなものでしょうね。別に無理して作らんでいいですよ、アタシも同じような経験ぐらいありますから。まあ、職安の求人票なんか職種と待遇と連絡窓口くらいしか書いてないですから……、まあこっちとしてもねえ……、まあ履歴書見せてもらいましたけど、前の会社はずっと経理の方ですか?」
「いいえ、初めの半年くらいは営業の方だったですけど、どうも性があわないと言うか……。まあ早い話が外された訳です。それからはずっと経理の方で……、まあコンピューターをいじるのは慣れてた……」
「ああ、それはいいですね、うちも経理の方は機械を入れてるんですけど、あれの操作はどうも……、アタシみたいな古い人間には向かないみたいでしてね。ヨウコちゃんやら若いのにどうにか教わって、とりあえず画面の見方くらい覚えようとするのがやっとって所ですよ」
 ずり落ちた眼鏡を不器用そうに持ち上げながら、上目遣いにこちらを見上げてくる。感情を押し殺しているうちに、感情そのものから取り残された無神経な目玉が俺の全身を隈無く見つめている。助けを求めるように横の作業服を見てみれば、一切の関心を失った表情で履歴書のコピーの端を何度となく折ったり伸ばしたりを繰り返している。そんな俺を眼鏡は特に何を切り出す訳でもなく、再び眼を履歴書の方へと落とすと何か大きく印をつけてから、トントンと机の上を鉛筆で叩いた。
「話しは飛びますが……通勤のことなんですけど、電車ですか。それともバス?」 
「今日はとりあえず電車で来ましたけど……もし決まったらバイクで通おうと思います」
 作業服の口元から漏れたのはくしゃみだろうか、それとも嘲笑だろうか。奴にもわかるように大げさにそちらに顔を向けると、作業服は悪びれる様子もなくポケットからちり紙を取り出して大きな音で鼻をかんだ。それが合図だったのだろうか、履歴書に大きく丸をつけた後、突然眼鏡の方が立ち上がった。
「まあ、本来ならここでうちの会社の概略やらなにやらをお話しする所なんだけど、ちょっと今日、社長が出張に出ちゃってて……、近いうちに電話で次の面接の日取りをお知らせしますから、それまで待っててください。それでは遠い所ご苦労様でした」
 作業服は何のことだかわからぬまま取り残される。俺はとりあえず立ち上がって、もうドアから出て行こうとしている眼鏡について茶番の舞台を後にした。哀れみを請うような作業服の視線が背中に突き刺さってくる。定員オーバーなのだろうか、俺が体を傾ける度に狭すぎる階段は哀れみを請うような悲鳴を上げた。脚が少しばかり震えているようで、その音を聞く度に俺は何度と無くバランスを崩しかけた。下りきって下の詰め所、現場から帰ってきたらしい作業着の一団が詰め所の真ん中の応接テーブルに群がって煙草を吸っている。眼鏡は彼らを無視してそのまま玄関まで早足で進む。自動ドアを滑り抜け、行き着く先は石ころだらけの駐車場、不器用に頬を歪めて笑いのようなものを浮かべると、背広の内ポケットから財布を取り出して千円札を二枚俺の手に握らせた。
「まあ、結果は何とも言えない……と言うか、うちの会社はワンマンな所があるから。まあ、たぶんもう少ししたら連絡しますから、今日はこれくらいで勘弁してやってください」
 ようやくのどに支えていたことを吐き出してさっぱりしたとでもいうように、眼鏡は無愛想に背中を向けると事務所の中へ消えて行った。
 茶番の後、あれほど荒んで見えた地面の一欠片すら思わずひれ伏してみたくなるほど愛しく、懐かしく見えるような気がする。やけに軽く感じる腹を気にしながら、薄汚い門柱を通り抜ければ、先ほど代わりののないはずの産業道路が目の前に飛び込んできた。割れたアスファルトからは、枯れかけの雑草が伸び放題に伸びて、ただひたすら帰って眠りたいという衝動によって動かされている足を時に押しとどめようとする。だが俺は無理に同じベースで歩道もない、本道を歩き続けた。鉄柵や金網や、放置された鉄骨や積み上げられた土管。これらの時代の忘れ物の間を、薄汚い事務所の群が塗りつぶすのに懸命な埋め立て地。日の光りが煤で濁った雲の間からこぼれ落ちてくる。きっと人から見れば眼にゴミでも入ったかのようにもとれるように、俺は何度となく乾燥した瞼に指を擦り付けた。その間も俺の足は止まることを知らない。顔を上げて、急に視界が開けたと思えば運河。そしてその脇には代わり映えのしないだだっ広い道が飽きることもなく続いている。それを横切ると、貨物の引込み線の脇にある歩道のようなものの上へ辿り着いた。そこには三台ほどの営業車両が忘れられたように止められ、その脇では背広姿の営業マンがなにやら談笑に花を咲かせていた。奴らは俺の姿を見かけると一様に顔を顰めて、そのままそれぞれに小脇に持った書類ケースや、携帯電話を取り上げて軽くお互いに挨拶もそこそこに、車に飛び乗って走り去って行った。俺とともに彼らに置いてけぼりを喰らった倉庫の群は巨大に過ぎた。果てしなく続くかと思えた引込み線は、本線へ合流するために俺を見捨てて高架の上へと消えて行った。俺は道端に置き去りにされた苔の生えたライトバンのように途方に暮れつつも、そのまま高架沿いの道を進むことを選んだ。地響き、そして警笛。一瞬視界が曇り、そして晴れて、その先にはまたコンテナーターミナルの大きすぎる影。俺の脇では背の高さを優に超えるようなアワダチソウが風にそよいでいる。小人になっていた俺は急ぎ足でかすれきった横断歩道の上を通り抜けた。視界の果てには電機会社の研究棟が俺の視界を遮るように突っ立っている。俺の足ははじめからわかっていたとでもいうようにその隣の未整備地区、轍の目立つ草むらの中を突っ切って行く。地面に白いものが目立つのは、貝殻だろうかそれとも腐った紙切れだろうか。
 草むらが途切れて現れたのは何の変哲も無い住宅街だというのに、俺には立ち入るのが躊躇された、建て売りの規格の表情のない一戸建ての密集した小道の上、太陽は何処へ行ったのか分厚い錆色の雲に覆われている。間遠に吹く風は道端のプラタナスの梢を通り過ぎたままの姿勢で俺の頬を撫でる。寂しげな通路といった風情の十字路には、車の影どころか人通りもなく、人影は偶にベランダに干してある洗濯物でも取り込もうという主婦が顔を出すくらいだ。右の足を踏み出せば、がらんどうの町にこつんと音はこぎみよい音が響く。さもそれが当然というように立ちはだかる高層マンションの間を通り抜けてメインストリートの振りをしている皐の生垣の続く大通りに出れば、その音に誘われたように小型車や軽自動車やらが、夕方の雀さながらに群れて俺の目の前を走り去る。道はどこを向いてもただ一点、貨物船に無理に取り付けられた薄汚れた駅に向かって延びている。人々はそれぞれに駅から遠ざかり、そして駅へと向かう。そんな彼らを後目に空はトーンを落とし続け、影のような雨粒が俺の後頭部を軽く叩いた。自転車の主婦は車から降りて、買い物籠から折り畳み傘を取り出す。まあ別にそれは人の話だ。女子高生がアーケードに駆け込む。さすがにこれは少しばかり工夫をしなければなるまい。俺は歩道に乗り上げて止められた軽自動車を避けながらアーケードばかり派手な商店街の中に駆け込んだ。洞窟じみたその中には個人商店の群。客はすべて視界の果てのスーパーに向かって歩いて行く。そんな中、海よりの工場の群から来た買い出し部隊だろうか、上っ張りの若い女子事務員達が花屋の前で立ち話をしているのが見える。すべてが流れる通路に、まるでどぶ川の杭に引っかかったゴミ袋といった格好で早引けの白髪のサラリーマンが白い眼で睨みつけているのも気付かない振りをして、アーケード一杯になって二、三人群を作りつつ雑談に花を咲かせている。俯いて彼らの手にするつるされたビニール袋から飛び出している模造紙をへし折らないように注意しながら通り抜けようとした。弾みがついて見上げればその中の一人が俺に頭を下げている。仲間の輪から少し離れてただじっとデッドストックとなったゴムの木の葉を丁寧に撫でている。よくその表情を観察しようと眼を凝らすと、それを避けるように向こうを向く。そんな俺の動作がいかにもわざとらしく見えたのか、ソフトクリームを持ったその中のリーダー格とでも言った女がいかにも迷惑そうな視線を俺のほうに向けてくる。俺はそれに向かって答えるという訳でもなく通り過ぎ、彼女達の視線を避けるべくアーケードに沿って道を折れ曲がると、目の前の喫茶店に転がり込んだ。
 黒く煤けた木製のドアを開け入った店の中は薄暗く、淡く流れるピアノの調べ、念入りに選ばれた調度の類、新興住宅街の浅はかな雰囲気と一線を画しているつもりだろうか。滑らかな手つきでコーヒーを入れている髭のマスターが観葉植物の向こうから入口に立ち止っている俺を睨んだ。店内の寂しさを強調するように正面にあるガラス窓、大通りに面したテーブル席の方へ向かってしまったのはただ単に雨の様子を知りたかったからというだけだ。目の前の通りを高校生達が自転車を全速力で走らせている。笑顔、まるで雨に濡れることを喜んでいるようにお互いに相手の車輪を蹴飛ばしながらいきなり車道を横断して住宅街の小道へと消えて行く。俺はひねくれるようにして彼らから眼を反らすと席の隣に山積みになっている週刊誌の山をテーブルの上に載せた。高校生くらいの長い髪を茶色く染めたウエートレスが立っていた。俺の動作をいかにも面倒だというような調子で一瞥すると、水とおしぼりをわざと週刊誌の山の向こう側の、俺の手の届きにくい位置へと置くと早足でカウンターへ姿を隠そうとする。
「ブレンド」 
 俺は投げやりに呟いてグラスに手を伸ばし、口に転がり落ちてきた氷を一かけ噛み砕いた。口の中に広がるカルキと歯に突き刺さるような痛みに顔を顰めながら、「山」をかき分けかき分けしているうちに、この雑誌の群が一つ法則に基づいて収集されていることに気付いた。女性週刊誌、写真週刊誌、総合雑誌、表紙に同じくある聞き慣れていない人物の名が一様にどこかしら印字されている。そしてその中でほとんど見たこともないような装丁の一冊。抹香臭いペンネームの隣に並ぶのは「可能性」、「神秘」、そして「信仰」の文字。畳みかける文句が鳩と南国の花に見るものを圧倒するような一本の光りの上に踊っている。俺はそれを手にとってパラパラとページを捲ってみた。裏表紙一杯に背広姿のどこかの経理課長とでもいった男がどこぞの独裁者よろしく片手を振り上げて叫んでいる姿が描かれている。それに続く目次には信者達の他愛もない告白が飽きもせずどこまでも連なっていた。本を閉じた、眼を閉じた。真っ暗闇だ。もう一度グラスに手を伸ばし、ようやく冷たくなってきた水を啜り込む。微かに塩分を含んでいるのか、水は舌の上を曖昧な味覚を残して駆け下りて行く。それにつきあうようにしてそれまで気付きもしなかったコーヒーの香りが、人気のない店内を巡って俺の鼻の辺りにまで広がってきた。眼を開けるとカウンターの向こう、無心でコーヒーを入れている髭の脇に身を隠すようにして、さっきのウエートレスが俺の方を珍しそうに覗いている。俺が睨むとわざとその視線を拒むようにして髭の背中に逃げ込んだ。俺は再び雑誌の山を崩して、写真週刊誌のページを覗き込む振りをした。
 ドアが開いた。青い上っ張りを着込んだ女が一人、店内を覗き込むようにして入ってきた。彼女は事務所で出会ったあの時とまるで見違えたように滑らかな足取りでこちらへと向かってくる。俺は別に無視する理由を探す訳でもなく、目の前の雑誌の山を空いた椅子の上に片付けると彼女がボックス席に腰掛けるのを待った。
「奇遇ですね、こんな所にいらっしゃるなんて、面接の方、どうでしたか……と言っても社長がいないんだから……また今度っていわれたんでしょうけど」
 雑誌を閉じて俺の顔を捉えているその大きめの瞳が暑苦しい。肩の辺りで切り揃えられた髪を掻き上げながら俺の手にしている雑誌に眼を移しながら、慣れた手つきでテーブルの端の砂糖とナプキンの下で下敷きの振りをしているメニューを取り出していた。
「雨、結構降ってきてるみたいですね。これじゃあ、現場は結構大変なんじゃないかしら……と言っても別にアタシに何ができるという訳でもないし」
 まるで独り言のように呟くその唇の影は別の言葉を吐こうとしたなれの果て、ただのぼんやりしたとしたかすれた響きだけが俺の耳にしがみつく。髭はこちらに背を向けている。その肩が微かに震えているのは笑いのせいか?茶色い髪のウエートレスの引きずるような笑い声が聞こえる。「ヨウコちゃん」は俺の顔に浮かんだ笑みの意味を計りかねたように手を挙げた。茶色い髪のウエートレスは弾かれるように髭の影から飛び出して、カウンターの脇に集められたグラスを手に取ると自動人形のような格好で歩いてくる。彼女はその流れを引き継ぐような調子でその手からグラスを受け取ると、メニューの一隅を指さした。茶色い髪のウエートレスは顔色を変えずに頷いて俺が寄せ集めた雑誌の束を小脇に抱えると、また髭の方に消えて行った。テーブルの上には一冊だけ、新興宗教の機関紙が置き去りにされている。「ヨウコちゃん」の視線がその雑誌に集中しているのがわかる。自然と薄暗く見える笑みが俺の頬に浮かぶ。彼女は隣の椅子に載せた荷物を何度か確認する振りをする。深めのクッションの効いた椅子の上で紙袋はそんな彼女をあざ笑うように確かにそこに存在している。俺は何もいわずに痒みが走る唇をグラスの先で浸した。安心でもしたように「ヨウコちゃん」はようやくテーブルの上に置いてある雑誌を手にした。それにタイミングをあわせるかのように茶色い髪のウエートレスがカウンターに置き去りにされているようなカップとクリームを手に俺の前のテーブルに並べて間を持たせる。髭は相変わらずこちらに背を向けたまま肩を震わせて笑っているようだったが、勢いよくドアを押し開けて飛び込んできた高校生の集団を見つけると、再びあの無愛想な面をこちらに晒して、不器用に並べられているカップの整理を始めた。髭に無視された高校生達は手にした大学入試の過去問題集を見つめたままお互い聞き取りにくいような低くかすれた声で呟きながら俺の後ろの席に陣取った。「ヨウコちゃん」はふらふらと焦点の定まらない俺に呆れ果てたような大きなため息をつくと、手にした雑誌を慣れた調子で一ページ、一ページ、捲りながら、俺にはとても真似ができないような真剣な視線をその上に浴びせかけている。俺がクリームが入った壷を無造作にテーブルの上に落したりしなかったなら、彼女は俺のことなんか忘れ去ったかもしれない。弾むように雑誌から引き剥がされた恨みがましい瞳。そこからは曖昧な光りだけが俺の眼の中に焼き付いた。
「これで外が晴れていればいいんだけど……。私、よくこんな買い物なんかに出掛けたとき、よく寄るんですよ、ここに、ここら辺ってもうほとんど新しい住宅街だから喫茶店とか寄り道するとこほとんどないでしょ?だからどうしてもこんな、駅の近くの狭い喫茶店なんかについ寄ってちゃって……」 
「しかもここなら駅前の立体駐車場に車を置いておけば、事務所にはばれないしね」
 「ヨウコちゃん」の手が雑誌をゆっくりとこちらに近づけるのを見るとつい無駄な合いの手を入れたくなった。彼女は慌てたようにグラスを手に取り、一息に水を飲み干した。虫歯でもあるのか、氷に軽く冷やされただけの水の冷たさに顔を顰めながら俺が黙ってカップの中をかき混ぜている姿を見つめている。俺は少しだけ。ほんの少しだけ自分のいったことに後悔しながら、無意識に置き去りにされた宗教雑誌の方に眼をやったいた。彼女はグラスを置くと再びそれを取り上げた。拝むようにそれを胴の前で広げながら俺の方を覗き込む。視線に押し切られるように俺はカウンターの方をみればいつの間にか髭の姿がそこから消え、茶色い髪のウエートレスがおっかなびっくりコーヒーをカップに注いでいる姿があるばかりだ。「ヨウコちゃん」はようやくそんな俺の習慣を飲み込んだとでもいうように、引き戻されてきた俺に向かって落ち着いた調子で語り始めた。
「これ……、お読みになりました?ヨシオカさて意外と本とかお読みになるような感じですから……」
「まあ、一応。ざっとですけど……眼は通ししてみました」
 俺はそう呟くと、静かにカップを手にとってそれのたてる静かな香りを鼻に吸い込んだ。彼女は目の前のグラスを横に動かして、雑誌を俺からも見えるような感じで広げた。そして見上げてくる。口元、微かな笑み。
「感想とか……、正直な所でいいんですよ。別の遠慮なんかなさらなくても、何か思いついたこととか、触発されるような所とか……」
 その言葉のたどたどしい所は、俺の口元の皮肉を込めたような歪みのせいだろうか。茶色い髪のウエートレスがいかにも重そうに運んできた頭でっかちチョコレートパフェを受け取りながら、遠慮がちに俺の方を覗き見る。俺は言い訳でもするように再びコーヒーカップを手に取って静かにその中の沈殿物を飲み干した。目の前にしたパフェと雑誌を見比べるようにして、ただ手にしたスプーンで文字とも記号ともつかないものを空中に描いている。矢継ぎ早のありきたりな比喩を交えた質問や、一種の論理のすげ替えを期待していた俺にとって、そんな彼女の姿は意外だった。何かを隠すように額や頬を無意識に触る手つきが痛々しい。僅かに震えて見える瞼の下に浮かんだ後悔。止めどなく押し寄せる問いをスプーンを口に運んで誤魔化してみせる。
「これも『巡り合わせ』って奴じゃないですか?」 
 「ヨウコちゃん」は一瞬安心したようにこちらを見上げた。まるでその姿に引きずられるように頬の端が引っ張られるような感覚にとらわれる。彼女はすぐに目つきをいかにも軽蔑するように細めた。彼女が何かを言い出す前にちょいと眼を反らせば茶色い髪のウエートレスがそんな俺達の横を通り過ぎて、まるで葬式の帰りとでもいった悲壮でわざとらしい高校生の群へ与える餌を運んで行く。
「追加を頼みたいんだけどいいかな?」
 ぐっとのめるように項垂れていたせいで、両脇にはっきりと分けられた髪の間から覗く額が青白く光って見える。右手を軽く挙げた俺のせいで茶色い髪のウエートレスは立ち往生したままだ。「ヨウコちゃん」が口を開こうとするとメニューを突き出してくる。
「なんか……こう……」
「今度は、アイス……」
  同時にこぼれだした言葉に、残されたのは茶色い髪のウエートレスの仏頂面。俺はコップを啜り、彼女は俯いて黙り込む。俺が間を嫌ってコップの中の融けかけた水を口に含めば、彼女は何を思ったのか目の前の雑誌を横にどかしてゆっくりと身を乗り出してきた。
「それは少し……」 
「そう言えばさっきは花屋の前で群れていたの……あれ友達?」 
 アイスコーヒーが運ばれてきた。俺はいつものようにストローを包んでいる紙を粉々に引きちぎって、おもむろにコップの中に突き立てた。その作業が進展する間も、決して「ヨウコちゃん」は俺の問いに答えようとはしなかった。俺は汗が噴いているコップを握りしめると、薄すぎるコーヒーを口の中に啜り込んだ。彼女は何も切り出せないまま諦めたような調子でパフェをつついている。眼は座ったままだが、彼女は微笑もうとしているように見えた。不自然で悲しげで、刺々しくて、まるで先ほどの中年コンビが繰り広げた滑稽な面接ごっこの裏返しを演じているようだ。
「話は変わりますけど……なんか変だと思いません?このごろの天気って。今朝だって、きっちり天気予報では一日中晴れるはんて言ってましたけど、結局こんなに、雨がふっちゃって……なんか今朝も世界中で洪水とか干魃とかテンペンチイが起きているみたいで……まるで何かが……」
 一息に、捲し立てるように、まるで何かを誤魔化そうとでもしているように絞り出された言葉。背中に視線を感じる。俺にも身に覚えのあるような荒唐無稽な大学進学講座が途切れ、残酷な忍び笑いが俺と彼女との間に闖入してくる。
「でも本当に、大変なことが起きようとしているんですよ。実際、新聞なんか読んでみるとどう見ても乱れていると言うか……このままだと、きっと大変なことが起きるような変な感じ。少しばかりするときはとかありませんか?」 
 その言葉の語調と彼女の表情との間のつながりは、ちょうど目の前のパフェとその脇にのけられた勘定書みたいなものだ。俺のそう言う直感は「悲しげな表情」のままこちらを見つめている「ヨウコちゃん」からはどんな風な感想を引き出すことになるのだろうか?変わらずに、確かに、静かに、彼女は俺を見つめている。凍り付いたように動かないその姿は後ろの高校生達がたてる忍び笑いへと行きそうな意識を無理にでもその一点に縛り付ける。
「そうですかね?そんなになんか起きそうに見えますか?世の中。だとしたら少しばかりましになってもいいような気がしますがねえ。それに、そんなこと俺みたいなつまらない……自分一人が生きているってので精一杯の人間がそんなことを気にしてどうするって言うんですか?俺にはそっちの方がどうにも気になるんですよ。どうせ何もできやしないのは分かり切っているっていうのに……まるで何かに追い立てられるように……」
 『追い立てられる』という言葉がこぼれたとき、俺の唇はようやくその動きを止めた。妙な間の悪さに自然と頬の筋肉がひきつる。それも彼女も同じだ。期待はずれの言葉の裏にまた全く違うマニュアルのページが聞かれ始めているのだろう。その視線は宙に浮かび、手にしたスプーンはその回転の速度を速め、それにつれて固体であったアイスクリームはすっかり液化してしゃぶしゃぶという音をたてる。
「いえ、あなたはそう言いますけど、確かに変わっているし、それに……」 
「そもそも、悪いってなんですか?それにそもそもそんなことに対してあなたは何ができるって言うんですか?別に僕が納得できるような言い方じゃなくてもいいですから、なんかはっきりここに示してみてください!」 
 「ヨウコちゃん」の手が止まった。その唇は何かを訴えるように堅く結ばれている。肩が微かに震え、その眼の下に浮かんでいるのは涙だろうか。俺はコップのそこに僅かに残った黒い液体を一息に啜り込んだ。
「あっ、雨。止んだみたいですよ」
 彼女はそう言って窓の外を指した。俺は気詰まりを感じて振り返った。外で、人々は濡れた傘を振り回しなから飽き果てたような調子で早足に歩いている。福音を待ち続ける女はそんな俺を哀れむような目つきで見つめている。
「あ、それじゃあ私、仕事があるから……、」
 二枚の伝票を掴んで「ヨウコ」は立ち上がった。
「ああ」
 俺はそんなことにも気付かずに目の前の何もない空間を見つめていた。「ヨウコ」はきっと俺に二度と会うこともないだろうとでもいうように、振り返らずにそのままレジの方に向かって早足で歩いて行った。
 取り残された俺もまた窓の外の雨垂れを見つめながらもう二度と何も見ることのない眼の中に、なぜ月が見えていないのかそれを少しばかり不思議に思いながら席を立った。

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