鬱蒼とした森の中を砂利道が続いている。Tは何処までと無くジープを走らせていく。俺はその手慣れた運転に感心しながらあたりの森を眺めていた。砂利の粒は不揃いでタイヤが大きめの石を踏みつける度に前輪が軽く跳ね上がる。助手席では俺の撮影助手である吉岡が、振動を受ける度に窓ガラスに頭を打ちつけていた。車内の三人の砂にまみれた頭からは吉岡の頭のたてる軽薄そうなドラムにあわせるかのように黄色い砂埃が巻き上げられる。俺は胸のポケットに手をやって煙草のあることを確認し、ようやく気を落ちつける。
 狭い四輪駆動車の中は、熱帯の樹木が切れて差し込んでくる日差しにゆっくりと蒸しあげられて、その暑さは我慢の限界に達してきている。かといって三人とも雲のように虫が群がっているのが気になって窓を開ける気にはならない。三人の額に汗が流れ、その上に車内を舞う細かい砂の粒が粘りつき、お互いの顔が黄色く染まっていることが判る。窓ガラスは今にも曇りそうだ。
「後、少し行くと道が良くなる筈ですから、それまで我慢してください」

いつもは必要のない言葉を吐かない通訳兼案内人のTまでがそんなことを言って慰めてくれるのは、バックミラーに映る俺の顔がよっぽど不機嫌そうに見えたからなのだろう。吉岡は助手席の窓に顔を押付けるようにして俺と眼を合わせないようにしている。自分が言い出したこの旅の責任をそのはじめから取る気にはなれないのだろう。読みかけのガイドブックに描かれた蝶の絵だけが吉田の悲しい意図を教えてくれる。
 もう朝とは呼べない時間だった。四時間は森の中の緩やかな坂道を登り続けているはずだ。森の木が次第に疎らになってきたようで、窓に日差しが差し込むことも多くなり始めた。次々に流れていく風景が次第に立体的になっていく様を見ながら初めて俺は自分が高原の住人になったことを知った。
「もう少しで本道にでます」 
 Tはハンドルを急に切って横道に入り込む。振動が三人を襲う。俺は横に積み上げられたアタッシュケースの山を押さえる。吉岡は読みかけのガイドブックから手を離し、慌てて手すりにしがみついた。一撃、二撃。ケースの山が上滑りする度に俺の頭にぶち当たってくる。
 車体が右に大きく軋み、振動が急に止む。白い光に一瞬幻惑された後、まるでスクリーンに映し出されたような巨大な山陰が映し出される。俺は窓を開けて身を乗り出す。道が一方を断崖に、一方を低木の生える山に沿って続いている。時折向こうの山の上にちらちらと兵士の体が浮かんでは消える。土嚢を積み上げた対空砲陣地の周りでは談笑しているらしい兵士達がこちらに向かって銃を振って見せる。
「ここはDとの国境に通じる道ですから比較的整備されているんですよ」 
 吉岡は窓を開けて手を振り返した後、久しぶりの一服、煙が思い切り肺に広がっていくのがわかる。
「ここからどれくらいかかるんだ」 
 Tは何も聞こえていないかのように崖に沿って車を全速力で走らせていく。森林を抜けてから開けっ放した車の窓から入ってくる風が硝煙の匂いがするように感じるのはきっと気のせいだろう。高山の空気が少し黄ばんで見えるのは俺の眼が濁っているからに違いない、などと莫迦な空想が次々と頭をよぎる。
 ただ道は潅木の茂る崖に沿って曲がりながら伸びている。吉岡はガイドブックの下にあった漫画雑誌を取り出して読み始める。俺は俺であたりの山陰を眺めていた。塹壕から砲塔出した戦車の上で一人の兵士がぼんやり空を眺めている。俺も釣られて何となく空を見上げた。白い雲が一つだけ限りなく青い高山の空の中に浮かんでいる。俺は吸殻を窓の外へと弾いた。
 その時だった。Tが急ブレーキを踏んだ。俺の身体が運転席にたたきつけられ、その反動で一番上のアタッシュケースが滑り落ちる。蓋が開き、中からフィルムケースが足下に散る。俺は驚いて前を見た。ぼんやりと漫画本を読んでいた吉田がダッシュボードに頭を打ちつけて何やらうめいている。
「ちょっと待ってください」 
 軽く肩に向かって伸ばされた俺の手を払いのけると、Tはダッシュボードの中から拳銃を取り出した。黒く光るその銃身を見て吉岡は身をすくめる。運転席のドアが素早く開かれTの細い身体がそのあいだをすり抜けて行く。慌てて俺もドアを押しあけ、Tの後を追って走っていった。
 慣れた足どりで走っていくTの先に、何か茶色い丸いものが動いていた。射程距離まで近づいたのかTは急に立ち止まって崖下に逃れようとする影に狙いを付ける。乾いた弾丸の発射音が谷間にこだまする。弾は手前に逸れて、アスファルトの上を跳ね上がる。
 一瞬、崖っぷちの茶色い固まりの真ん中あたりが赤く裂けたかと思うと身の毛もよだつような叫び声があがる。Tはもう一発発射する。今度はその固まりの中心が軽くへこんだ。丸い固まりが一瞬止まって見える。そしてそのままの勢いで崖下に転がって消えた。
 俺はただ呆然とその有様を見つめていた。Tは何事もなかったかのように車に向かって歩き出す。俺は車道から崖の下を見下ろしてみた。潅木の茂みの下、川が一筋に流れている。打ち落とされた固まりは何処にも見あたらない。
「一体何があったんですか。ここは国境地帯でしょ、銃声なんかさせたら警備兵が・・・」 
 その時ようやく追いついた吉岡まで、谷底を見つめている。Tは俺達二人を一瞥して、
「大丈夫です、鳥を撃っただけですから」 
 Tは毅然とした調子でそう言い切る。吉岡はただ軽く頷いて、谷底への郷愁を捨てて車に戻るべく歩き出す。俺もその後についてすっきりしない気持ちのままで車へと向かった。

村に入る。するとすぐに大きな蝶を模った看板が次々と目に飛び込んできた。どの家の軒先にもその黒い縁取りと緑色の地に黄色い斑点を散らしたような羽を持った蝶のぺんき画が架かっている。その悪趣味なまでに派手な絵はこの静かな寒村には似つかわしくないように見えた。俺は黙って煙草をふかす。吉岡は喜びながら手をかざしては写真の構図でも考えながらニヤニヤしていた。
 草葺の小さな家々、痩せこけて血色の悪い子供達。時折見かける店には品物と呼べるような物すらなく、意味もないようながらくたを小商人が売りさばいている。どれ一つとしてこの村の背後に広がるM山脈とそこに棲むという大きな揚羽蝶を連想させるものはなかった。
 村の中心の広場のような所でジープが止まる。
「少し待っていてください」 
 Tは素早く運転席から滑り降り、正面の煉瓦づくりの頑丈そうな建物の中に消えた。俺は手で吉岡に荷物を降ろすように告げると、車から降り辺りを見渡した。その広場は村の家並みから少し離れたところにある。頂上に国旗を掲げたその姿はこの国の姿そのものに見えた。
 俺達が車の周りをぶらついていたところにTが一人の太った男をつれてきた。欲深そうな、それでいてどこか憎めない、そんなところがある脂ぎった顔に満面の笑みを浮かべながら男は俺達に握手を求めてきた。その節くれだった攻撃的な手を俺はようやく握りしめる事ができた。そして俺は何となくその男に本能的な不愉快を感じながらも、その男につい愛想笑いを浮かべている自分に腹を立てた。
「これが兄です」 
 Tはこの村に入ってからいつもの大人しいTに戻っていた。そんなTに比べると現地の言葉で歓迎の挨拶をまくしたてるこの男はまさに人を惹きつけるに足る情熱と理性に満ちた野人のような風があった。首都にある国立大学で電気工学を専攻したというTと、村に残って有力者の道を歩く兄。きっとこの国ではこのような兄弟が何千組といるのだろう。
 話を聞いているのかいないのかわからない客に多少苛立ったのか、村長はTに何やら耳打ちをすると俺達を村の中央にある大きなコンクリートの建物へと導いた。博物館、極彩色の看板に描かれた何匹とない蝶の群れ。自動ドア、冷えすぎの冷房。すべての説明は英語で書かれており、受付嬢もまた英語でTと吉岡を歓迎する。
「カメラ用意しましょうか」 
 吉岡は肩に釣り下げたケースを下において俺に仕事が始まる事を告げる。
「ああ、ここならお前だけでもどうにかなるだろ。ちょっと車に酔ったみたいで少し気分が悪いんだ」 
「この建物の奥に医者がいますから、ボス。そこで休んでいてください」 
 不機嫌そうなT。しかしそれも一瞬のことでTは夢中になって吉岡にこの極彩色の蝶の生態について解説している。ケースの中の乾ききった標本を見てなんになるのだろう。吉岡はしきりとTの説明に頷きながら俺に助けを求めるようにして引止めにかかろうとする。俺はその横を通り過ぎてこの小さな博物館の事務所のような所に入っていった。
 数人の事務員が暇そうに机に落書きをしているオフィスの奥の一隅、白いついたてで覆われた小さな診療所。医者の姿もなく机の上には治療用具と英字新聞が散らかっている。俺は貧弱なベッドに腰をかけながら、またあの茶色い固まりについて考えてみた。生き物であることは確実だろう。しかしあのように丸くよたよたと無様に歩く丸い固まりを俺は一つとして知らない。ネズミか何かにしては少しばかり大きく、ぼさぼさに生えた毛のあるところから考えると蜥蜴の仲間でもないのだろう。
 少しばかり気分が良くなったので俺は立ち上がった。今更Tにあってはじめからあの下らない解説を聞くのはうんざりだ。裏の戸口に鍵がかかっていないことがわかったので、俺はそのまま外にでた。
 博物館の裏にはゴミの山があった。野犬が数匹俺には目もくれずにその山を漁っている脇を通り抜け、原生林の中に入っていく。鼻を突く甘い香りはあちこちに見える黄色い花の匂いのようだ。この村に入ってからと言うもの派手な色のものを見るとどうにも腹立たしい気分になってしまう自分に少し呆れながら、黄色い花が咲く森の下、獣道をそのまま歩き続けた。
 果てしなく茂る笹を切り裂いて道は何処までも続いていた。きっと樹液でも採るのだろう、道端の木に小さな木の椀がくくりつけられている。何百年と無く村人達が森に入るために切り開かれた道。しかしその道を森の破壊が通る事になるとは皮肉なものだ。 
 急に視界が開けて目の前に大きな倒木が横たわっている。獣道は少しばかり間の抜けたようなその倒木の周りで細い支線に分かれている。露出した土の上が黒く焦げているのはここで火を焚いて森の出来事でも語り明かすからなのだろうか。俺は彼らと同じ気持ちで大きな倒木に腰をかけた。
 煙草に火をつけようと腰を上げた俺の目の前に動くものが映ったように感じた。ゆっくりとゆっくりとその丸いものは藪の下を移動していく。俺は思わず胸のポケットから小型カメラを取り出してその物体が出てくるのを待った。
 あの鳥だ。ヤマアラシに良く似た球状の体を持ち、その下に二本の太い足が伸びている。心臓の鼓動が早くなってシャッターの上に乗せた指が汗で滑るのがわかる。突然自分の概念が破壊されたようだ、頭の中まで少しづつ曇ってきた。しかしそんなことはお構いなしに鳥は静かに藪の中で地面をほじくり返してはしきりと何かを探しているようだった。俺は息を殺した。できるだけ物音を消すために細い獣道を足場を選びながら進んだ。そして、笹をかき分けて大きな木の根元の少し開けたところまで来た。
 鳥の姿はこちらから丸見えになった。大きく裂けた口をときどき開くが、その中身は血にまみれたように赤く、それを見る度に背筋が寒くなるような気がした。
 しかし、何より俺を驚かしたのはその眼だった。その眼は鳥の眼というよりも人間の眼に近かった。なぜか悲しげに俺の方を見つめて来るその眼と視線が合う度に俺はなぜか気まずい気分になってシャッターを切ることができなかった。
 俺はしかたなく観察を続けた。そして、その動物に小さな羽があることに気づいた。時折ばたばたと恥ずかしさを押し隠すように軽く羽ばたいてこの沈黙をごまかしているようにも見える。やはり鳥だ。間違いない。俺はシャッターを切った。
 ストロボの光が、草陰を黄色く染める。
 急に鳥は走り出した。決して早くはない。大股で歩けばすぐにだって追いつくことはできる。しかし俺はあえて捕まえようともせずにその鳥の走っていく方向について行った。
 茶色い羽はこの土地ではかなりの役に立つ。うっかりすると木の根や泥と勘違いして見失ってしまうことも度々あった。しかし慌てているのか、ばたばたと打ち鳴らす羽の音で俺は自分の間違いに気づきすぐ追跡を開始することができた。
 森はだんだん暗く、深くなっていく。鳥は相変わらず無様な逃避行を続けている。それはまるで逃げるというよりも俺をどこかに案内しているように見える。もし、彼に急に立ち止まってじっとしていると言うような能があれば、とうに俺は彼を見失っていたことだろう。
 鳥の逃げる速度が遅くなってきた。俺にはときどき立ち止まっては逃げていく鳥の姿をカメラに収める余裕が出てきた。鳥の方は相変わらず必死になって疲れてきた体に鞭打ちながら森の奥に向かって走り続ける。
 時計は三時を指していた。もう三十分はこうして間の抜けた行進を続けたことになる。急に森が切れて原っぱのような所に出た。光が急に激しく俺の脳天を撃った。目の前が一瞬白くなり視界が奪われる。俺は眼を閉じて地面に蹲った。時間が流れていった。俺は何度となく立ち上がろうとしてみたが、足にそれまでにない疲れを感じて立ち上がれずにいた。さすがに三十を過ぎた体にはかなりの無理が来ていたようで、足ばかりでなく体のあちこちが激しく痛み出した。
 風を感じた。村を出て初めて感じる山から吹き降ろす冷たい風。俺の後ろの森が悲しく啼く。
 風の音に混じって、足音がしたのは気のせいだろう。はじめのうちはそう思っていた。しかし確かに草を踏みしめて近づいてくる音が俺のすぐ近くにあった。鳥だろうか、いやそんな筈はないだろう。俺が蹲ったときにもう逃げてしまったはずだ。それなら・・・、俺は頭を上げた。
 それは少しばかり奇妙な光景だった。先程まで俺から必死に逃げようとしていた鳥を一人の不思議な格好をした少女が抱きかかえている。鳥は不思議そうに蹲っている俺を眺めている。まるでさっきまでの鳥の立場に置かれたようで俺は鳥に向かって笑いかけた。しかし、その少女の格好を見るとその苦い笑いが次第に本当の笑いに変わっていくようで不思議な気がした。
 不思議と言えば彼女の格好も不思議だった。ズボンを少し太くしたような濃い緑色の袴を履き、襟元から胸にかけて大きく太陽を模したと思われる縫い取りをした服のベルトと思われる皮ひもの下から紅の縁取りが膝のあたりまで伸びている。そして白く大きな円筒形の冠の両脇からは金色の装飾品が口元あたりまで垂れ下がり、髪はその中にまとめ上げられているようでお下げの髪が二筋両の肩の上を滑り降りている他は見ることはできない。
 俺はヨロヨロと、驚きと喜びに自分を見失いそうになりながら立ち上がった。少女はと言えば相変わらず大きな口の鳥を抱えたままで俺の方を微笑みを浮かべたまま見つめている。風が吹く度に冠の房の間から南国に似つかわしくない白い肌が見え隠れする。何を話せばいいのか、話したところで通じはしないだろう。俺は何をすればいいのか、ポケットカメラのフィルムはもう空だ。ただ口を開けて彼女の様子を見守る無様な茶色の鳥とともに次に彼女が何をするのかをじっと見守るしかないのだろう。
 風が吹く、木の葉が数枚落ちる。そしてその中の一枚、エメラルドグリーンの一際大きな葉がふわふわと空に向かっていく。
 突然、少女が胸に抱えた鳥を放り投げた。鳥は重力に従って尻餅をつくとすぐに立ち上がって上空を舞うエメラルドグリーンの大きな葉を追いかけ始める。そしてその後姿を確かめるように少女は歩き始める。俺もまたその影を見失うまいと大股で歩き始めた。
 空を舞う葉はふわふわと上昇気流に揉まれながら、林の中を漂うように飛んだ。眼がその静かな姿に慣れていくに従って、それがあの村で見た蝶らしいことがわかってきた。一体何だってこの不恰好な鳥はあの揚羽蝶を追うのだろうか、あの姿が憎いのだろうか、かつての記憶を思い出したのであろうか。それとも少女がこの鳥を仕込んで揚羽蝶を捕らせているのだろうか。相変わらずどたどたと、まさに地を這うという言葉の通り無様な進軍は続く。空を舞う蝶に比べるとその姿は滑稽に過ぎた。Tがあれほどまでにこの鳥を殺そうとしたのも、その姿を見れば頷ける。しかし何だってあんな拳銃を使って、この鳥を殺すのだろうか。こんな動きの鈍い鳥なら素手でも捕まえることはできるだろうに。
 クワー、鳥の鳴き声が林にこだまするのを聞いて俺は我に返った。黄緑の木が一本、俺のちょうど正面にあった。何やら緑色の固まりが幾重にも覆い被さって隙間一つ無い。鳥はその固まりを大きな口で剥がしては飲み込んでいる。よく見るとそれは蝶の幼虫だった。何万何千という数の芋虫が一本の木に集ってその葉も枝も幹も食べつくそうとしているかのようだ。時折その幹から飛び出した枝には幾つと知れない蛹がまるで木の実のようにぶら下がっており、その周りを蝶が、今までに見たことも無いような数の巨大な蝶が舞っていた。 
 俺の傍らで鳥の食事を見つめていた少女が懐から小さな銀色の笛を取り出した。キーンと言う金属的な音が森の中に響き渡る。そしてまもなく草の陰から次々と茶色い不恰好な鳥達現れ、木に集まる芋虫達を次々に食らいはじめた。芋虫が次々とあの巨大な真っ赤な口に飲み込まれていく度に幹や葉が次第に見えてくる、どうやらこの木はかつてあの森の入り口にあった村人達が樹液を採っていた木であったようだ。舞う蝶とそれを襲う醜い鳥達。いつまでもなくその光景が拡大していく。

急に意識がはっきりとして俺は自分がベッドの中にいる事がわかった。きっとあのまま気でも失っていたのだろう。ふと頭をまわすと相変わらず吉岡が漫画を読んでいる。
「水をくれ」 
 俺が目覚めた事に気づかない吉岡をせきたてる。
「あ、眼醒めたんですね。水ですか、ええと、確かミネラルウォーターの瓶が・・・」 
 吉岡が出て行く後姿を見ながらこの部屋の中を観察する。二人が泊まるにしては大きすぎる部屋だ。壁には幾つとない猛獣の首が晒されている。まるで死刑囚のような気分だと一人で考えながら窓の外にまで視線を走らせた。
 夕陽に次第に変色しながら青い峰が果てしなく続いている。しかし何処と無く変だ、そして俺はその窓の中央に立ったTの姿が俺に変な気持ちを起こさせていた事がわかった。
「ボス」 
 Tは怪訝そうな眼をしている俺に向かって歩き寄ってくる。これまで奴に感じた事のない威厳に圧倒されそうになりながら、俺はようやくベッドから上体を起こした。
「あなたもずいぶん変わった人ですね。私もずいぶんこの村に日本人を案内してきましたが、あなたのような人に合うのは初めてですよ」 
 何という威厳だろう、猫背だと思っていたTがヤケに背筋を伸ばして俺に近づいてくる。もう少しで取り乱す、その極限のラインでようやく奴の後ろに影のようにして張り付いているものを見つけた。
 なんと言う事だろう、俺はこんな山奥にまで逃げてきたと言うのに、
「もう少し私の身にもなって考えて下さいよ。兄はああ見えて結構心配性で何か気に入らないことああったのかって私に聞いてくるんですよ。それに今日これからハンティングの予定が入ってますから、それには必ず出てもらいますよ」 
 機械的な足どり、ミネラルウォーターを持って戸口に立っている吉岡を押しのけてTが部屋から消えていく。ようやく俺も一息ついてベッドに再び横たわる。
「俺が何をしたって言うんだ」 
 吉岡は聞こえないふりをしながら、薄汚れたコップにぬるいミネラルウォーターを注いで俺に差し出した。横になったままそれを受け取る。バランスに気をつけながらゆっくりと頭から腰にかけて湿ったベッドの表面から引き剥がす。窓からさす日差し、赤く染まりかけたその一筋一筋が、水面に落ちた埃の欠片の起こす模様を浮かび上がらせる。
「なあ、吉岡よ」 
 吉岡は窓の外を見つめていた。景色、きっとそんなものを眺めているのだろう。それが何になるというのだ、そういう言葉を吐きそうにになって俺は自分でも驚いた。
 風景、そもそも俺はそんなものを相手にするためにこんな山奥にやってきたのか?いや、そもそも俺はこんな所にいる理由など有るのだろうか。所詮、誰一人として真剣に見る事のない雑誌の背景に使われる写真。風景も言葉も、ただの記号に還元されてしまう世界。感動が金の目方で計れると考える連中への給仕。俺が自分のしていることに気づき始めたのはこの仕事のことが掴め始めた頃からだ。しかし、はじめのうちは割り切ってやっていられた。実際世の中はそんなものだ。俺のカメラに写る物達だってそう割り切って生きているに違いない。しかし・・・、
「また考え事ですか。ここ数日ずっとそうして下を向いて、先生変ですよ」 
「別に今に始まった事じゃないだろ」 
 無理に顔に笑いを浮かべようとしてみる。ヤケに頬の肉が重く感じる。
「下は何か大変みたいですよ。色々軍服を着た連中が出入りしているみたいですし、先生何か聞いていませんか」 
 吉岡は屈託の無い笑顔を浮かべている。奴は何時になったら俺の気持ちが分かるのだろうか。仕事の方は一人前、いや、それ以上だ。しかし奴は何もわかっちゃいない。
 起き上がる。別に何の苦労も無く身体は素直についてきてくれた。
「平気ですか」 
 無視して俺は靴を履き、壁にかけてある上着を素早く羽織った。昼間の車の中の暑さがぶり返したように、全身から汗が噴出しているのがわかる。
「本当に大丈夫ですか」 
 額の汗が眼に流れ込み、心配そうに俺の顔を覗き込む吉岡の顔がゆがんで見えた。なんだというのだ、これがなんだって言うんだ。吉岡の眼が鳥の眼のように見える。
「大丈夫だ。そんなことより昼間の鳥のこと覚えているか」 
 呆然と俺を見つめ続けるその眼、あらゆる感情が一瞬停止したような無感情なその眼。お前は本当に人間なのか、そんな言葉が思わず口から出そうになる。口の中が次第に乾いていく。なぜかわからない。どうしても寝ていられない、俺は吉岡を押しのけて部屋を飛び出す。
 理由なんてどうでも良い。後ろから俺を呼び止める吉岡。髪を振り乱した外国人の奇行を好奇の目を持って見守る薄汚い兵士達。奴等の眼はどれも人間の眼じゃない。
 突き当たり。黒くひからびたドア。漆喰で塗り固めた白い通路をいきなり途切れさす黒い笑い。俺はその扉を蹴飛ばしてそのまま暗い倉庫に飛び込んだ。
 暗い棚が延々と続く窓の無い小部屋がそこにはあった。少し大きめの棚にの中には、整然と自動小銃が並んでいる。どれもこれも手入れが行き届いているらしく、奥からこぼれてくる白熱灯の光に黒い銃身を僅かに橙色の油で化粧をしていた。
 狭い棚の隙間を縫い、雑然と置かれた迫撃砲の林を抜けると、白熱灯の下、作業場とでも言うべき場所で銃の手入れをしている男がいる場所に出た。男はまるで俺を待っていたかのように顔を上げる。おきまりの挨拶笑い。幸い光の加減で奴の眼は見えない。しかしそれがTの眼である事だけはよくわかった。
「見てくださいよ。銃、銃、銃。どれもこれも人の一人や二人撃った事のある奴ばかりですよ」 
 押し付けがましいヒューマニズム。俺はただTの眼だけを見つめていた。黄色く染まった白目。白熱灯の黄色い光のせいばかりではあるまい。その中に浮かんだぼんやりとした黒目はどんよりと濁ってその中に感情の光を見つけ出す事は難しい。
 あの鳥の眼と比べたら!
 俺はあたりを見回した。銃は静かに出番を待っている。
「なるほど。蝶、風景、そしてハンティングか。なかなか良い行楽地になりそうだな」 
 撃つ相手が服を着ているか着ていないか。要するにそれだけの差ではないか。
「ほめてるんですか、ボス」 
「だけどあんな鳥ならすぐ絶滅するんじゃないのか」 
 いや、あの鳥の方がもっとましだ。こんな濁った眼の持ち主達に奴を撃つ権利なんてあるものか。
「そうしたら豚でも牛でも放しますよ。そうすれば今度は安定的に観光収入が期待できますし、それ以上にここの生活も楽になるというものです」 
 牛、豚。どっちにしたってこんな濁った眼なんか持っちゃいない。
「ここの人間なんか絶滅しちまえばいいんだ」 
 Tの顔が蒼ざめる。
「お前らみんな飢え死にすればいいんだ」 
 Tは一旦銃の方に目をやった後、どす黒い顔を俺の方に向けた。何十年、いや、何百年という恨みがそこに結実したようにその眼は静かに見開かれていく。銃は静かに彼の傍らで出番を待っているようだった。
「悔しいか、憎いか。撃ち殺したいか。ああ、撃てよ。好きなだけ撃てよ」 
「何言ってるんですか、先生。本気で言ってるんですか」 
 吉岡が叫ぶ。
「ボス、あなたには幻滅した。私は・・・」 
「撃てよ。所詮俺はあんた等の敵だよ、丁度あの無様な鳥みたいにね。あんた等のお宝を食い潰すあいつ等・・・」 
 銃声が響いた。

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