僕がこの花を見つけたのは、去年の夏のことだと思う。僕はその頃定職らしい定職は持っていなかった。とりあえず友人のコネで家の近所の本屋で店員のアルバイトを見つけてどうにか食いつないでいた。何時もひっきりなしに訪れる客の顔色を覗いながらその日も何事もなく一日が過ぎた。僕は今日の売り上げを店長に報告してから店を出た。
 暑い日だった。アスファルトの焼ける匂いもようやく一段落ついて、町にはあちらからもこちらからも肉や魚や煮物の香りが渦巻いてきた。僕はその押しては返す波の合間をさまよって歩いていた。よたよたと家に向かうわけでもなくかといってこのままどこかに向かうわけでもなく何処までも、もし時間と胃袋さえ許してくれるのならばそのまま海の向こうまでだって歩いていけたかも知れない。
 しかし、その夢も赤い物理的な制約を受けないわけには行かなかった。何処にでもあるような歩き慣れた交差点。爛々と赤く輝く歩行者用信号機。何時もならこのように車の通っていない赤信号なんか無視して渡りきってしまうだろう。
 事実、僕は渡ろうとした。
 その時だった。真っ赤に光る赤信号の他、はっきりとした赤い光をもう一つ足元に見つけたんだ。
 足元を見下ろすと、そこには一輪の花があった。それほど大きなものではない、花の姿は何処にでもありそうな、それでいて一度も写真や実物は見た事の無い、子供の絵の中にでも出てきそうな形をしている。たんぽぽによく似た平べったく広がった何枚かの葉の中心からすうっとそれは立ち上がって僕の踝のあたりの所まで来て、そこでいくつかの花茎に分かれてまた少しばかり伸びたところに五つくらいの真っ赤な花をつけていた。光はその花の一つ一つが発していた。蕾や萎れかかった花までほのかな赤い光を放っていた。
 僕は手を伸ばして花弁を軽く触ってみた。なんだか少し暖かく感じたのはきっと気のせいだろう。柔らかな赤い光が、僕の血色の悪い肌を濃いピンク色に染めていた。僕は急にその花を持って帰りたくなった。根元の辺りからざらざらした葉を優しくまとめて、軽く持ち上げた。するりと何の感触もなく浅い根は抜けて、小さな花は僕の手の中にすっぽりと収まった。なんだか余りにも抵抗らしい抵抗もないので根が切れたかとおもって、目の前にかざして見つめてみた。抜く前よりも花弁の一枚一枚が輝いて見えた。その時以来僕はこの花と一緒にいる。そしていつの間にか、この狭い部屋でじっと植木鉢の中の一輪の花を見つめながら、その成長を記録する事が僕の仕事になった。
 今もこうして咲いた花の数と、新しく伸びてきた花芽の数をメモしながら僕はじっと花の前に座っている。こうして何気なく花を見つめていることが好きだ。何気なくこうして花を見つめているうちに僕が一体何者であったのか、一体何をしようとしていたのか、そんなつまらない根や葉が次第に視界から消え去って、真ん中に洗い流された僕だけが浮きあがって見えてくる。そういう感じが僕は好きだ。
 急にドアのきしむ音がして僕は振り返った。髪の長い少女。まず最初に認識されたのはそれだけだった。次第に少女が入り口の暗がりから抜け、窓から注ぐ陽射しの中に入ってくるに従って、薄い象牙色の肌に反射する陽射しの加減から、それが少女と呼ぶにはもうふさわしくない若い女である事が分かった。盆を持った腕がまぜか機械のように動いているように感じるのは、きっとその余りに整いすぎた顔と線の細い身体つきのせいかも知れない。アンドロイドという物が作られるときは、きっと彼女のような姿になるだろう。僕は彼女と会う度にそう思った。
「お茶、お持ちしました」 
「えっちゃん」この建物の住民は彼女の事をそう呼んでいた。大崎悦子、確かそんな名前だったような気がするが、誰一人として正確な本名を知るものはいない。ただ彼女を見たものは人工的なその表情とえっちゃんと言うまったく不釣合いのあだ名だけを記憶に残す事になる。僕もここに来てからしばらくはそのような群衆の一人だった。群衆であると言う事は、僕のように一人部屋の中で仕事をする人間に取っては好都合だ。群衆は常に孤独だ。一人である限り人は観察者になれる。
 しかし、ある時から僕は群衆である資格を失ってしまった。彼女は僕の事を自分の夫だと思っている。消灯時間の直前になるといつも前の廊下を掃除して歩く老人がそう教えてくれた。しかもそのことを知らないのは僕だけだとまで付け加える念のいれようだった。僕は去っていく老人を見ながら正直言って僕はどうしていいか解らなかった。今でもそうだ。彼女は僕の机の上に少し冷めかかった番茶を置いた。
「何時も済まないね。こんなことしてくれて」
 何時もと同じ台詞。一瞬、古代ギリシャの彫刻のような表情が緩んで黄色い笑顔が浮かんだ後、あたかもそうする事が当然の事と言ったふうにベッドの上に散乱した本やノートの類を片付けはじめる。これもいつもの事だ。まるで機械のように正確であること。彼女と接する上で大切な事はこれだけだ。
 僕は何をするわけでもなく何時ものように書き上げたばかりの花の観察記録を読み直して、誤字脱字がない事を確認した。そしてえっちゃんがベッドの上を片付け終わったのを見ると水をこぼしたシミのある茶封筒と一緒に彼女に手渡した。彼女はつまらなそうに僕の報告書を手に取ると、さもそうするのが当たり前だと言ったようにベッドの脇に座って読みはじめた。僕は自分の書いた物を目の前で読まれる事に少し抵抗を感じたが、いつものように何も言わずに彼女の細い眉が僕の報告書の文字を追っているのを眺める。真剣に読んでいるのか、読み飛ばしているのか、その表情だけではなんとも言えない。しかし明らかにそれが自分の義務であるとでも言うように彼女は報告書の隅から隅へと視線を移動させた。
 僕は彼女の置いていった番茶を啜りながらまた花に目を移した。近頃、なぜか光が弱まっているように見える。はじめ、ここに来た頃はこうして机に座っているだけで赤い光が嫌でも目に付いたが、最近はただこうして振り向いてやらなくてはその赤い光を見てやる事ができない。肥料が足りないわけではない。油粕は一ヶ月に一度、液体肥料もちゃんとやっている。また水のやりすぎで根腐れしているわけでもない。この前、植え替えをしたときに根をよく見てみたが、特におかしな所は何処にもなかった。しかしそれでいて昔のような光は何処にも見られなくなってしまった。昔は空に向かって垂直に伸びていた茎も、今では重い頭に耐えかねたようにずり下がり、葉には虫食いの痕が点々としてその何枚かはもう既に黄色く枯れかかっていた。しかしこの花を枯らす事はできない。
「殺虫剤、役に立ちましたか」 
 僕の意識がこの部屋に立ち戻ったとき、えっちゃんは読み終えた報告書を封筒の中にしまい終わっていた。
「ああ、本当に助かったよ。また今度変な虫が湧いたときもよろしく頼むよ」 
 無意識だったが僕は彼女の肩に手を掛けた。えっちゃんは静かに俯いた。化繊の様な艶を持つ髪が耳から眉、そして鼻とあたかも劇場の幕が降りるようにその一つ一つを隠していく。僕はその一つ一つを思い出しながらえっちゃんの肩を強く握った。なぜか震えているように見えたのは気のせいだったのだろう。そう思うと急に恥ずかしくなって、僕は彼女から手を離して机の上のお茶に手を伸ばした。思えば不思議なものだ、彼女は明らかに狂っている。しかし、それでいて僕についての諸々の思い出を除いて仕舞えば彼女は何処と言って悪いところなど無い。なのになぜ・・・。 
 止めよう。それ以上考えるのは。
 僕が再び薬の礼を言おうとして振り向いたとき、もうえっちゃんはいなくなっていた。何時も聞かされている僕の知らない昔の僕の話を聞けなかった事が、少しばかり残念な気がしたが。
 僕は番茶の最後の一口を飲み干すと、昨日の大風のため埃にまみれたサッシを開けて、光を失いつつある僕の花のために新鮮な空気を部屋に取り込んでやろうと立ち上がった。せめてそのぐらいしか僕にできる事はない、そう思っていた。
 ふと植木鉢を見下ろした瞬間、僕は奇妙な光景を見た。植木鉢の中の光が急に赤々と燃え上がって、僕の身体を包んだかと思うと、次の瞬間急に辺りが真っ暗になった。何が起こったのか解らず、僕はその場に座り込んだ。
 
 僕は歩いている。視界は殆ど無い。足元には白い砂があるから砂浜かもしれないが、波の音が聞こえないので海の近くだとも言い切れない。ただ僕は歩いている。何やらさっきまで僕は相当気になる事があったらしいが、もう僕はすっきりとした気分で歩いていけるようになった気がする。何か音が聞こえる。自然音ではない事だけは分かる。何やら金属的な、ものを引っかくような、叩くような、そう言った無駄な音だ。それが一体何であるか、僕はそれを知ろうともしない。ただ僕は満たされようとしている。何に満たされているかすら、僕には分からない。
 足が重くなった。地面が緩くなってきて足を取られているらしい。砂粒が靴に入って足の裏がざらざらとしてきた。僕はそれでもなお歩き続けている。満足感は更に大きくなっている。ここで止めてたまるか、そう思いながら更に歩き続ける。
 霧がだんだん薄くなってきたのが分かって、僕は立ち止まった。視界が開けてくるに従って、何やら黒っぽい影が見え、それがだんだん大きく、はっきりとしてきた。いつの間にか黒い塊は数人の人影となった。そしてその一人一人の顔に浮かんだ不安と嫌悪が僕の満足感を薄めようとしているかのようで僕は目を反らしたくなった。
 なぜだろう、身体が急に凍ったように動かなくなった。僕の目はただ正面の一点を向いたまま瞬きもできずにいる。僕はその一点に目の焦点を当てていった。ただ一人、表情をまったく消去したような顔がそこに浮かんでいた。何処かで見たような女だった。僕は必死に思い出そうとしたが、或一点までくると急に何もかも忘れて出発したところに戻ってしまうようで何一つとして思い出すことはできなかった。
 僕は固まりつつある頬の筋肉を動かして愛想笑いを浮かべようとした。
 人々は僕の表情を見ると口々に何やらささやき合っては僕を軽蔑の視線でみた。そして僕と視線を合わす度に急に顔色を変えて早口で何かささやき合う。そんな事を繰り返していた。
 一人、大柄の老人が振り向くと砂丘の向こうへと歩き出した。それが何かの合図だったのだろう。一人、また一人と僕を置いて砂丘の向こうへと消えていった。
 残ったのは僕とさっきの女だった。僕は相変わらず凍っていた。僕はまた彼女の顔を見た。白い頬に、光る筋を見つけた。
「何で行ってしまったんですか」 
 そういうと女は僕に向かって右足を踏み出した。近づいてくる、近づいてくる、ちかづいてくる、チカヅイテクル、CHIKAZUITEKURU・・・・、

それからどれくらいたったのだろう。僕が目を開けたその先にはえっちゃんの顔があった。暗くなった部屋の中で僕はベッドに寝せられていた。医者も看護人ももうどこかへ行ってしまったのだろうか、彼女は一人で静かに僕の顔を見入っていた。いつもの発作だろう、はじめのうちはそう思った。これまでも同じ様な事は何度か合った。しかし今度のそれはなんとなく不安だった。頭がガンガンと痛んでくる。意識を失ったときにどこかにぶつけたようで包帯が頭を締め付けて気持ちが悪い。しかし断じてそれが原因ではない。
「あ、気がつきましたか。下で林檎を剥いて貰ってきましたから」 
 林檎を取ろうと彼女が振り向いた瞬間、彼女が少し笑ったように見えた。そしてほぼ同時に僕は不安の原因を突き止めた。
「僕の花、花はどうしたかい」 
 僕は搾り出すようにそう呟いた。
 林檎の乗った皿が僕の布団の上に落ちた。沈黙。突然、えっちゃんの表情が少し寂しそうな表情に変換された。
「どうしたんだい」 
 僕は彼女の細い肩に手を掛けた。しかし、彼女はパッと飛び上がって。部屋の隅に座り込んでしまった。
 僕はそんな彼女をはじめてみた。いや、どこかで見た事があるかも知れない。ただ忘れてしまっただけかも知れない。僕はしかたなく上体を起こした。今、重要なのは花である。そしてゆっくりと祈りをこめながら窓の方へ首を回転させて行った。
 机の上、僕の視線はふらふらと徘徊を続けた。そこには何もなかった。いや、植木鉢だけは明らかにそこにあった。しかしその上から伸び上がっている緑の茎も、鉢の縁からはみ出した葉も、そして真っ赤に輝く花弁もそこにはなかった。僕はすべてを了解したような気がした。それと同時に身体の力が抜け、何もかも嫌になっていくような気がした。
「そうか分かったよ」 
 僕はそう言うと立ち上がろうとした。
 その時、急にえっちゃんが立ち上がって僕の前に立ちふさがった。彼女は泣いていた。僕はそのまま押しのけて立ち上がろうとしたが、白く細い腕は思いのほか力強く僕をその場に固定した。
「私が捨てたの。この植木鉢には何も生えてなかったから・・・」 
 僕は知っていた。いつかこうなるだろうという事ぐらいは。僕は別に怒るわけでも嘆くわけでもなく、立ち上がりかけたそのままの姿勢で彼女を見つめていた。彼女は下を向いて何かに必死に耐えているようにも、また何か違った変化を待っているようにも見えた。確かに変化はあった。彼女はきっと正しいだろう。そして僕は間違っているだろう。
「植木鉢には何も生えてなかったの。だから捨てたの・・・。あなたにもそれを知って貰いたくて・・・、捨てたの」 
 僕は肩の上に乗せられた悦子の手を握った。他にどうしようもなくて笑顔を浮かべると彼女もようやく落ち着いたように僕に向かって昔のような金属製の微笑みを浮かべていた。
「解っているよ。僕は知っているよ。ただなんとなくそう言ってみたかったんだ」 
 僕はゆっくりと立ち上がって、もう一度、昔、僕が生えていた鉢に目をやった。素焼きの粗末な植木鉢の底、こびり付いた砂粒の中に昔ながらの見慣れた世界が何処までも果てしなく広がっていた。
 橋が壊れた今僕はもう戻れない。

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