遼州戦記 墓守の少女 従軍記者の日記 21

 嵯峨が立ったまま目の前のワインを飲んでいる老人に頭をかいて照れ笑いを浮かべているのが見えた。その老人のとなりに点滴のチューブがあるのを見てクリスはその老人が無理を押して嵯峨を尋ねた人物であると察しがついた。近づいていくクリスの視界に映ったその横顔を見ただけでそれが誰かを知った。

「ダワイラ・マケイ主席……」 

 握った手に汗がまとわり付く。意外な人物の登場にクリスは面食らっていた。

「やあ、ホプキンスさん!」 

 頭の血の気が引いていくクリスを振り返る嵯峨。老人は立ち上がろうとしたところを伊藤に止められた。

「君か、嵯峨君の取材をしている記者と言うのは」 

 明らかにその顔色はよくない。ただその瞳の力はダワイラ・マケイと言う革命闘士らしい精神力を秘めているようにクリスには見えた。伸ばされた手に思わず握手している自分に驚きながらクリスは嵯峨の隣の席に座っていた。テーブルの上にはブルーチーズとクラッカーが置かれている。ダワイラはクラッカーを手に取るとブルーチーズを乗せて口に運んだ。

「久しぶりの固形物がこんな贅沢なものだとは……嵯峨君の心遣いにはいつでも感服させられてばかりだね」 

 そう言って笑みを浮かべるダワイラの青ざめた顔にクリスは不安を隠せなかった。

「そう言ってもらえると用意したかいがあるというものですよ」 

 そう言って嵯峨も同じようにブルーチーズをクラッカーに乗せた。

「さすがにワインはまずいのでは……お体に障られる……」 

「伊藤君は心配性だな。どうだね。実は私が彼を紹介したわけだが、こう融通がきかんと疲れることもあるんじゃないかな?」 

 その余裕のある微笑みは病人のものとは思えなかった。図星を指された嵯峨が頭を掻く。

「いえ、私の方が伊藤には迷惑かけてばかりで……」 

「いや、彼にも君にも良い経験だ。君達のような青年が増えれば遼南にも希望が見えると言う物だよ」 

 ダワイラはからからと笑う。クリスはその時折見せる苦痛の混じった顔から彼の病状がかなり進行していることがわかった。しかも教条派が台頭してきている北天の人民政府。ダワイラの隠密での視察はかなりの無理をしてのことだろうということはクリスにも想像できた。そして、そうまでして嵯峨に何かを伝えようとしている覚悟がわかって、クリスはじっとダワイラを見つめた。

「さっきから世間話ばかりしているようだが何を私が言いたいかはわかっているようだね、嵯峨君」 

 静かにワイングラスを置いたダワイラが眼鏡を直す。沈黙が場を支配した。

「終戦後のことではないですか?」 

 こちらも静かに嵯峨の口から言葉がこぼれた。ダワイラは目を閉じて大きく息を吸ってから話を切り出した。

「今の人民政府は腐り始めている」 

 ダワイラのその言葉にどこと無く影があるようにクリスには見えた。自分が夢を追って作り上げた国が理想とはかけ離れた化け物に育ってしまった。そうそのかみ締めるようにワインを含む口はそう言いたげだった。

「まあ権力なんてそんなものじゃないですか?手にしたら離したくなくなる。別に歴史的に珍しい話じゃない」 

 嵯峨のその言葉にもどこと無くいつもの投げやりな調子が見て取れた。

「だがこの国はそう言うことを言えるほど豊かではない。しかし彼らも本来は権力闘争などが出来る状態でないことくらいわかる知恵のある人物だったのだがね。本当に権力は人を狂わせる麻薬だ」 

 ダワイラはそう言うと力なく笑った。彼が作った人民の為の組織であったはずの遼南人民党。通称北天政府の末端での腐敗をクリスは目の当たりに見てきただけに黙って老革命家の言葉を聞いていた。

 しばらく空虚な笑みに体を走る痛みを意識していたダワイラだが、すぐにその目に生気が戻った。

「その麻薬に耐性のある人物に率いられてこそこの国の未来がある。違うかね?」

 子供のような表情に変わる瀕死の老人。その言葉に嵯峨も静かに笑みを返した。 

「それが私だって言うんですか?買いかぶりですよ」 

 嵯峨もワインを口に含む。伊藤が空になった嵯峨のグラスにワインを注いだ。

「君は生まれながらに知っているはずだ。権力がどれほど人を狂わせるかを。先の大戦での胡州の君に対する仕打ち、義父の片足を奪い、妻を殺し、負けの決まった戦場に追い立てた胡州の指導者達のことを。そしてさかのぼればこの国を追われることになった実の父親との抗争劇を」 

「まあできれば権力とは無縁に生きたかったのですが、どうにも私はそんな生き方は出来ないようになっているらしいですわ」 

 嵯峨そう言うと自虐的な笑いを浮かべる。

「そんな君だから頼めるんだ」 

 その革命闘士の視線は力に満ちていた。頬はこけ、腕は筋ばかり目立つほどに病魔に蝕まれながら、ダワイラは嵯峨をかつての同志を励ましたその目で見守っていた。

「玉座に着けというわけですね」 

 嵯峨のその言葉に沈黙がしばらく続いた。

「そうだ」 

 ダワイラの言葉は非常に力強く誰も居ないカフェテラスに響いた。事実上の帝政の復興を認める人民政府元首の発言である。クリスは額を脂汗が流れていくのを感じていた。

「しかし、今はそう言うことは言える段階じゃないでしょう。それに俺には今の人民政府の連中に対抗できるだけの人脈も無い。俺はね、独裁者になるつもりはないですから」

 そう言ってワインを飲む嵯峨。その無責任な態度にさすがのクリスも立ち上がりかけたところだった。だが老人は静かに言葉を続ける。 

「ならば時間をかけてその準備をすれば良い。私と違って君には時間がある。一つ一つ問題を解決していけばいいんだ」 

 そう言うとダワイラはワインを一口含んだ。クリスは緊張していた。事実上の一国の国家権力の禅譲。その現場に居合わせることになるとはこの取材を受けた時には考えられない大事件に遭遇している事実に緊張が体を走る。

「君は君のやり方で進めば良い」 

 そう言うとダワイラは力が抜けたように車椅子の背もたれに体を投げた。

「それにどうやら私の役目は終わったようだ」

 老革命家はそう言うと静かに車椅子の背もたれに寄りかかって嵯峨を見つめる。彼の土色の表情を見れば下手な励ましが無意味だと言うことを思い知ることになる。クリスはそう重いながら嵯峨の表情を探った。 

「そんなことは無いですよ、あなたにはこの戦いの結末を見る義務がある」 

 この言葉に嵯峨は真意を込めているようにクリスには見えた。それまでのふざけた様子が消え、にごっているはずの目もするどくダワイラを見つめている。

「ありがとう。私もそうしたいものだ」 

 そう言うとダワイラは静かに目を閉じた。

「だがこの戦いが終わるまで私の体は持たないだろう。そのことくらいはこの年になれば分かる」 

 伊藤は励ましの言葉をかけようと身を乗り出したが、ダワイラは彼を制した。

「癌だとわかったのは二十年前だ。ちょうど伊藤君達が武装蜂起を始めた頃だろう。私もその頃は病魔などに負けてたまるかと手術をすることに戸惑いなど無かった」 

 静かに天井を見つめるダワイラ。その目は非常に穏やかだった。

「私にしか出来ないことがある。私にしか伝えられない言葉がある。そう信じていた。医者が止めるのも聞かずに胃を切って一週間でゲリラのキャンプを視察したものだよ。まるで私が胃を半分切り取った人間ではないかのように彼らの笑顔が元気をくれたものだ」 

 遠くを見る視線のダワイラを三人が見守っていた。

「しかし、きれいごとでは政治は、人は動かないよ。そのことがわかり始めたとき、今度は癌が大腸に転移したと診断された。このときは少しばかりメスを入れるのをためらったね。ここで私が現場を離れれば人民政府は瓦解すると思ったんだ。結局周りの説得で入院することになったが、思えばこの頃から私はもうただの飾りになっていたのかもしれないな」 

 誰も言葉を挟むことが出来なかった。ダワイラの言葉ははっきりとしていた。そして悲しみのようなものが言葉の合い間に感じられた。

「そして遼南でのガルシア・ゴンザレス将軍のクーデターとムジャンタ・ムスガ帝の退去を知って北天を首都とする人民政府樹立宣言を発表したのだが、肺に癌が転移していると聞いたときはもう手術はやめることにしたよ。誰もが私の話など聞かずに支援先の遼北の方を向いていることに気づいたとき、私は道を誤ったことを理解したよ。そんな老人がいつまでも権力を握っていることは良いことではない。彼らも私から独り立ちすれば自分の過ちを素直に認められるようになる、そう思ったんだ」 

「ずいぶん甘い考えですねえ」 

 そう言ったのは嵯峨だった。そんな彼を一目見ると、ダワイラは満足げな笑みを浮かべた。

「そうだ。私は君と違って性善説をとることにしている。いや、科学者は性善説を取らなければ研究など出来ないよ。その技術が常に悪用されるということを前提に研究をする科学者が居たら、それは人間ではない、悪魔だよ。それは三流物理学者の僻みかも知れないがね」 

 再び嵯峨を見て笑うダワイラ。彼が北天大学の物理学博士であった時代の面影が、クリスにも見て取ることが出来た。

「国を打ち立てるには理想と情熱が必要だ。だが、それを守っていく為には狡さと寛容を併せ持つ人物が必要になる。今の人民政府には狡さはあっても寛容と言う言葉がふさわしい人物が居ない」 

「僕はただずるいだけですよ」 

「いや、そう自らを卑下できるということはそれだけ人を許せる人物だと言っている様なものだ、自分の言葉が絶対的に正しいと信じ込んでいる人間は自分を卑下することも、人を許すことも出来ないよ」 

 ダワイラがそう言ったとき、伊藤の通信端末が鳴った。

「どうやら時間のようだ。ホプキンスさん、だったかね」 

「はい」 

「この会談の記事は少し発表を待ってくれないかね。いつか嵯峨君がこの遼南を治める日が来た時、その日まで……」 

 そこまで言うとダワイラは力なく笑った。クリスは何も言えずにただダワイラと言う老革命家のやせ細った手を握り締めた。

「それとこれが今の私に出来るすべてのことだ」 

 そう言ってダワイラは窓の外を指差した。降下してきた大型輸送垂直離着陸機。黄色い星の人民軍の国籍章が見える。

「では、行こうか伊藤君」 

 伊藤に押されて車椅子はエレベータに向かう。嵯峨はタバコを取り出し、それに火をつけた。

「どうしてあなたは断ったのですか?王党の復活は……」 

「そんなもの望んじゃあいませんよ」 

 タバコの煙を吸い込む嵯峨、彼はまるで何事も無かったかのように外の光景を眺めていた。渓谷に続く道に北兼軍の二式が見えた。

「ああ、これで難民の流入は一区切りって所かねえ。搬送の手配はダワイラ先生が済ませてくれたしな」 

 そう言うと嵯峨は遠くを見るような目つきになった。

「ですが、今の北天の政府は腐っている。ゴンザレスの独裁政治にそれが取って代わっても何の違いもありませんよ!」

 クリスの言葉。嵯峨は聞くまでも無いというように窓の外の輸送機を眺めていた。 

「まあ、そうなんですがね」 

 嵯峨は室内に視線を移す。エレベータが開き護衛達に囲まれてダワイラが姿を消した。

「一つ一つ物事は処理していかなければならない。明日の敵のことを考えて今の敵に当たれば勝てる戦いも負けることになる」 

 タバコの煙が天井に立ち上る。

「戦争は勝つか負けるか。二つしか選択肢は無いが、負けたときの悲哀はそれは酷いものですよ。だから勝つ方策を考えてそれを実行するだけですわ」 

 そう言うと嵯峨は立ち上がった。

「とりあえず仕事でもしようかねえ」 

 首を回しながらのんびりとタバコをもみ消す嵯峨。クリスもあわせて立ち上がる。そして思いついたようにエレベータへ向かう足を止める嵯峨。

「そうだ。明華達が戻ってきているでしょうから取材してみたらどうですか?」 

 嵯峨はそう言うと再び歩き始める。そしてクリスもその後に続いた。

「中佐……」 

 エレベータで北天からダワイラに帯同してきたらしい背広の男に車椅子を預けた伊藤が心配そうな顔で嵯峨を見つめる。

「伊藤、何も言うなよ。俺は私欲で動けるほど素直な根性の持ち主じゃねえんだ」 

 そう言うと上がってきたエレベータに三人は乗り込んだ。

「さあて、報告書。たたき返されてるかねえ」 

 執務室の階でエレベータは止まる。嵯峨のいつものシニカルな笑みが垣間見える。

「それじゃあ、失礼」 

 そう言うと嵯峨はエレベータを降りた。代わって入ってきたのはキーラだった。

「どうしたんですか、ジャコビンさん」 

 クリスの言葉に少しキーラの顔が曇った。

「あーあ、これなら東和に移住するんだったわ」 

「ああ、遼北の人造兵士移住計画ですか。応募したんですか?」 

 そう考えも無く発せられたクリスの言葉に、キーラは少し悲しそうな顔をした。戦う為に作られた存在の彼女達は決して歓迎される存在では無かった。地球の感情的なまでに彼女達の存在を抹消しようとしている態度に比べればかなりマシとは言え、遼北政府も『魔女機甲隊』の亡命を機に彼女達を軍の人材不足で悩んでいる東和に押し付ける算段を続けていることは知っていた。

「まあ、いいか。書類取りに来て会えたんだもんね」 

 誰に話すでもなくキーラがつぶやく。ちらちらとクリスの顔を見るキーラ。だが、クリスには先ほどの会合の余韻が残っていて、彼女の頬が赤らんでいることに気付くことが出来なかった。

 それ以来二人の間に何も言葉が交わされることが無かった。一階でエレベータの扉が開くと、キーラはそのままクリスを無視して歩き出そうとした。

「ジャコビンさん!」 

「キーラって呼んでくれないんですね」 

 振り返ってそれだけ言うとキーラはそのまま本部に入ってきた北兼軍の兵士達の中に消えた。クリスはそのまま本部を出た。難民達が陸路を行くトラックと空路を行く輸送機に振り分けられているのが見える。

「あーあ、詰まんないの」 

 シャムはダンボールの中のカブトムシやクワガタムシを見つめながらつぶやいている。

「どうしたんだ、一人で」 

 声をかけたクリスに目を輝かせているシャムがいた。隣の熊太郎も嬉しそうに舌を出している。

「これ、あげるね」 

 虫の入った非常食が二十人分も入る大きなダンボールを押し付けてくるシャム。慌ててクリスはその箱を押し返す。

「逃がしてやればいいのに」 

 クリスの言葉に、シャムは不思議そうにしていた。そしてちらちらとダンボールに目を落とすシャム。

「なんか、君。それを食べそうな目をしているんだけど……」 

「カブトムシの成虫は食べないよ!」 

 シャムはそう言い切った。

「じゃあ幼虫は食べるんだね」 

「うん!やわらかくて甘いんだよ!」 

 クリスは昔、地球の東南アジアでの紛争によりこの星へ移民してきた人達が喜んで巨大なカブトムシの幼虫をほおばっている映像を見たのを思い出した。

「それよりシャムちゃん。君の機体見せてくれないかな?」 

 クリスの言葉にしばらくまじまじと彼の顔を見つめた後、満面の笑みを浮かべてシャムは立ち上がった。

「いいよ!次からは私の後ろに乗るんだよね!」 

 箱を熊太郎の背中に乗せて歩き出すシャム。彼女は元気良くクリスを連れて格納庫に向かう。

「隊長の機体って大変なんだねえ」 

 シャムはそう言うと稼動部分と動力炉を外されてフレームだけの姿になっているカネミツを見つめた。その隣には取り外した部品を冷却しているコンテナから湯気が上がっている。

「あれだよ」 

 シャムに言われるまでも無く、その白い機体は一際目立っていた。そのまま足元に立つシャムとクリス。シャムが自分を『騎士』と呼ぶ理由が、この気品を感じさせるアサルト・モジュールのパイロットであることからもよくわかるとクリスは思っていた。どこか西洋の甲冑を思わせる姿は二式が戦闘用の機械にしか見えないことに比べるとかなり優美な姿を誇っているように見えた。

「シャム、カブトムシくれるんだろ?」 

 若い整備員が声をかけるのを聞くと、シャムは熊太郎の背中の箱を彼に渡した。整備員達がそれに群がり、談笑を始めたのを見計らうように、シャムはそのままコックピットに上がるエレベータにクリスを案内した。

「コックピットは掃除しといたからな!」 

 下でカブトムシの取り合いをしている整備員が叫ぶ。シャムは笑いながら彼に手を振った。

「そう言えばこれまでは熊太郎が乗ってたんだな」 

「うん!広いからちゃんと椅子を乗せても大丈夫だったんだよ」 

 エレベータが止まる。コックピットハッチがシャムの手で解放され、内部が天井の透明になった部分からの昼の日差しに照らされた。コックピットが広いというより、明らかにシャムの座席が小さめに出来ていた。

「これははじめからこうだったのか?」 

「違うよ。明華ちゃんがアタシが乗りやすい様に調整してくれたの」 

 そう言うとシャムはコックピットの前に立った。クリスはその隣から中を覗いた。全周囲モニターが新しい。他の内部装置もすべて二式やカネミツの部品の流用のように見えた。

「中はずいぶん手を入れたんだね」 

「明華とキーラがやってくれたんだ。だから凄く乗りやすくなったよ」 

 シャムは満面の笑みを浮かべながらクリスの顔を見つめた。

「そう言えばクリスはキーラのこと嫌いなの?」 

 コックピットに頭を突っ込んでいたクリスは、背中を見ているシャムの言葉に思わず咳き込んだ。

「何言ってるんだ、それに会ってからそう日も経ってないし……」 

「恋に時間は関係ないって明華も言ってたよ」 

 振り向いたシャムがニヤニヤと笑っている。彼女に自分が宗教右派の家庭に生まれてその呪縛からキーラと向き合えないなどと言い出したい衝動に駆られながら静かに彼女を見つめるだけのクリス。だが続く生暖かい視線に呆れたように無難な話題で切り抜けることを彼は選んだ。

「だから、俺は取材に来ただけだ。たぶん北兼台地の戦いが終われば国に帰るつもりだ」 

「えー!クリス帰っちゃうの?」 

 驚いたように叫ぶシャム。クリスは困惑した。

「そんなに驚くこと無いじゃないか。北兼台地が人民軍の手に落ちれば地球各国の部隊は撤退を決断する国も出てくるだろう。今度、遼南に来たらそちらの取材をするつもりなんだ」 

 シャムはしばらくクリスの言葉が理解できないと言う顔をしていたが、どうにか彼女なりの理解が出来たところでなんとなく下を向いた。

「あっ!」 

 そのままシャムが凍りつく。何かとクリスが下を見れば、工具箱を落としたのか工具を拾い集めているキーラがいた。クリスは何も言えずにいた。下のキーラはシャムの視線に気付いて上を見上げた。キーラとクリスの視線が合った。そしてお互い避けるように目を反らした。

「あんまり大人をからかわない方が良いぞ」 

 クリスはそう言うと再びコックピットの中を覗きこむ。

「重力制御システムは既存のものを使っているみたいだな」 

「きぞん?なにそれ」 

 帽子を直しながらシャムが訪ねる。

「そう言えばエンジン出力と関節動力装置のバランスはどうしたんだ?この前はかなり技術者にエンジンを絞れと言われていたみたいだけど……」 

 クリスの前に立つシャムが不思議そうな顔で見つめ返してくる。

「無駄よ。シャムにそんなこと聞いても」 

 はしごを上って来てそう言ったのはキーラだった。

「その問題はかなり改善しているわ。カネミツの予備部品を組み込んでみたのよ。規格があっていたから使えたんだけど、それでも出力の70パーセントくらいで動かしてもらわないといけないけどね」 

 キーラはそう言うとクリスを見た。先ほどのシャムの言葉を聞いていたクリスは笑顔を作ろうとするが、どこと無く不自然な感じがした。それを見て少し失望したような顔をしたキーラはそのままクリスの隣に立ってコックピットの中を覗きこんだ。

 黙り込む二人に戸惑うシャム。

「何してるの!」 

 叫び声の主は明華だった。三人で下を見ると、パイロットスーツの明華が手を振っている。

「これから昼の炊き出しの仕事があるから降りて来なさいよ!」 

 そう言うと明華は更衣室に向かう。

「そんな時間だったんだね」 

 そう言うとクリスはエレベータに向かう。キーラもシャムもなんとなくその後に続いた。彼等はハンガーの前を見た。すでにまだこの基地で出発を待っている難民達は炊き出しのテントの前に並びだしている。輸送機を待つ群れには隊員がレーションを配布していた。

「相変わらず手際がいいね」 

「伊藤中尉はこう言うことは得意ですから」 

 キーラはそれだけ言うと下を向いてしまう。難民達の群れに頭を下げられながら、キーラは早足で炊事班がたむろしているテントに向かった。

「シャムちゃんはこの人達をどう思うんだ?」 

 クリスの問いに行列に加わろうとしていたシャムが振り向いた。それまでひまわりのように明るく黒い民族衣装の帽子の下で輝いていたシャムの笑顔に影が差す。

「おとうが言ってたけど、戦争では弱いものが一番の被害者なんだよ。戦えるのは強い人だけ。その人達は何でも手に入るけど、弱い戦えない人はみんな持ってるものを取られちゃうんだ」 

 シャムの視線がさらに何かを思い出したような悲しげな光を放つ。

「だからね、アタシは戦わなければいけないんだよ。騎士なんだから。それで余った分はみんなに分けてあげるの」 

 シャムの決意にも似た言葉を聞いてクリスは少しばかり胸が痛んだ。

「でも君は子供だろ?」 

「騎士は騎士なんだよ。戦う意思と力があるから弱いものを守って戦えっておとうは言ってた。それにおとうやみんなの墓があるんだ。みんなが見ているから一人だけ逃げるなんて出来ないよ……」 

 そこまで言うとシャムはしゃくりあげ始めた。クリスは難民達からまるで子供を苛めている外国人と言う風に見られて思わず頭を掻いた。

「なんだ、クリス。子供を泣かせるとは許せないなあ」 

 難民達を写真に納めるのも一段落着いたのか、レーションの箱を開けるのをその棍棒のような褐色の腕で手伝っていたハワードが冷やかしの声を上げた。

「別にそんなつもりは……」 

 ハワードの顔を見ると、少しばかりシャムは安心したように涙を拭った。彼女の隣には熊太郎が心配そうな顔をしながら座っている。

「じゃあお手伝いをしよう」 

 そんなクリスの言葉にようやくシャムは笑顔を取り戻した。

「ホプキンスさん何をしてるんですか?」 

 パンを難民に渡す手伝いを始めたクリスに声をかけたのは伊藤だった。

「ああ、とりあえず僕に出来ないことがないかなあと思って」 

「別にそれは良いんですが、取材はどうしたんですか?」 

「これも取材の一環ですよ」 

 そう言うクリスの肩を叩いて伊藤は感心したような笑みを残して人ごみに消えた。未だに難民の群れは止まることを知らない。新しくやってくるのは車やオートバイで逃げてきた難民達。徒歩で来た人々は休憩を済ませるとすぐに輸送機で後方に向かっていた為、残されたのは比較的若い人々だった。若い男の中には軍への志願手続きを終えて似合わない軍服に身を包んでいる者もいた。

「なんだ、お前も志願したのか!」 

 スープを盛り分けている若い炊事班員がそう声をかけるところから見て、どうやら彼も朝の志願兵受付に応募した口らしい。あちこちで着慣れない軍服を笑いあう若者の姿が見える。

「ようやく終わったみたいですね」 

 クリスは隣の太った炊事班員に声をかけた。ふざけあう元難民の隊員達だけが残された広場を見て、彼は満足げに頷くと空になった鍋を持ち上げようとした。クリスが手を貸してかまどから持ち上げられた鍋を駆け寄ってきたつなぎの整備班員に渡す。

「いやあ千客万来だけどなあ、夜は作り過ぎないようにしないと材料が無くなっちまう」 

 両手を払いながらその太った整備班員が笑った。クリスもそれにあわせて笑っていた。右派民兵組織が壊滅した今、この基地にとっては北兼台地南部基地への侵攻作戦の準備に取り掛かる絶好の機会であることはどの隊員も自覚しているところだった。炊事班の補助をしていた管理部門や通信部門の隊員は早速本部ビルに駆け足で向かっている。

「ご飯食べたの?」 

 そう言って近づいてきたのはシャムと熊太郎だった。

「いやあ、そう言えば忙しくて食べられなかったなあ」 

 そう言うクリスにシャムは手にしたパンを差し出した。

「コーヒーくらいなら詰め所にありますけど……」 

 シャムの後ろから近づいてきていたキーラ。クリスは何を言うべきか迷いながら彼女を見つめた。その白い髪が穏やかな午後の高地の風になびく。思わずクリスも彼女に見とれていた。

「じゃあご馳走になりますよ」 

 そう言ってクリスは嬉しそうにハンガーに向かうキーラの後に続いた。

 踏み固められた畑の跡を通り抜けると、いつものようにハンガーが見える。カネミツの前では菱川の青いつなぎを着た技術者が日の光を浴びながらうたたねをしていた。白いつなぎのこの部隊付きの整備班員は帰等した二式のチェックも一段落着いたというように、だるそうに歩き回っていた。

 キーラは軽く彼らに手を振るとそのままクリスを連れて詰め所に入った。中には明華と御子神、それにジェナンとライラがコーヒーを飲んでいた。

「班長!どうですか?二式は」 

 キーラの言葉に明華はただ手を振るだけだった。それを見ると少し微笑んだキーラはそのまま奥のコーヒーメーカーに手を伸ばした。

「飲んじゃったんですか?」 

「あ、一応空になったら次のを作る決まりだったわね。ごめんね」 

 明華がそう言うとキーラに軽く頭を下げた。コーヒーメーカーを開けたキーラは使い古しの粉を隣の流しに置いた。

「ホプキンスさん。とりあえずかけていてください」 

 キーラの言葉に甘えてクリスは空いていたパイプ椅子に腰掛ける。天井を見上げてぼんやりとしている御子神。コーヒーをすすりながら何も無い空間を考え事をしながら見つめているジェナン。借りてきた猫とでも言うようにそのジェナンを見つめているライラ。

「そう言えばミルクは無かったんでしたっけ?」 

「そうね、しばらくはどたばたが続くでしょうから、手が空いたところで発注しておいてね」

 相変わらず上の空と言うように明華が答えた。

「許中尉」 

 クリスの呼びかけにだるそうに顔だけ向ける明華。

「確か君は15歳……」 

「16歳ですよ」 

 強気そうな明華だが、さすがに疲れていると言うように語気に力が無い。

「私の年で出撃は人道的じゃないと言うつもりなんでしょ?別にいいですよ」 

 そう言いながら微笑んだ明華が惰性で目の前のマグカップに手を出した。

「すっかりぬるくなっちゃったわね。キーラ、私のもお願い」 

 そう言うと明華はマグカップをキーラに渡す。

「それと、シャムはいつまでそこでじっとしてるの?」 

 明華の視線をたどった先、詰め所の入り口で行ったり来たりしているシャムがクリスの目に入った。シャムは照れながら熊太郎に外で待つようにと頭を撫でた後、おっかなびっくり詰め所に入ってきた。

「ココア!」 

 シャムの叫び声が響く。どたばたが気になったのか奥の仮眠室からレムが顔を出した。

「レム!」 

 シャムが抱きつこうとするのを片手で額を押さえて押しとどめる。

「お嬢さん、私に触れるとやけどしますぜ!」 

「何かっこつけてんのよ、バーカ」 

 明華の一言に頭を掻くレム。さすがにシャムの大声を聞きつけてルーラが出てきた。

「何?何かあったの?」 

「何も無いわよ。コーヒー飲む?」 

 コーヒーメーカーをセットしたキーラが二人を眺める。

「私はもらおうかしら」 

「それじゃあ私はブルマン」 

「レム。そんなのあるわけ無いでしょ、と言うかどこでそんなの覚えたの?」 

 呆れる明華。

「いやあ隊長が時々言うんでつい」 

「あの人にも困ったものよね」 

 そう言いながら明華は手にしていた二式の整備班が提出したらしいチェックシートを眺めていた。

「なんだか軍隊とは思えないですね」 

 クリスがそう言うと明華は頭を抱えた。

「確かにそうかもしれないわね。周同志もそのことは気にかけてらっしゃるみたいだけど」 

 苦笑いを浮かべながら明華がコーヒーメーカーに手を伸ばす。まだお湯が出来たばかりのようで暑い湯気に手をかざしてすぐにその手を引っ込める。その様子をニヤニヤしながら見つめるレム。

「ああ、あの紅茶おばさんの言うことは聞かないことにしてますんで」 

「レム!」 

 口を滑らせたレムを咎めるキーラ。レムは舌を出しておどけて見せる。

「紅茶おばさん?」 

「ああ、周少将のイギリス趣味は有名だから。紅茶はすべてインド直送。趣味がクリケットと乗馬と狐狩り。まあ遼北の教条派が粛清に動いたのもその辺の趣味が災いしたんでしょうね」

 明華はそう言うと再びチェックリストに集中し始めた。

「なんかにぎやかだな」 

 そう言いながら入ってきたのはセニアだった。

「コーヒーなら予約は一杯よ」 

 キーラの言葉にセニアは淡い笑みを浮かべる。

「シャムも飲むのか?」 

「アタシはココア!」 

「だからココアはもう無いの!」 

 やけになって叫ぶキーラの声にシャムは困ったような顔をしてクリスを見上げた。

「あのー静かにしてくれないかな?」 

 そう言ったのは一人二式の仕様書を読み続けていた御子神だった。ジェナンとライラと言えば、呆然と人造人間と明華、シャムのやり取りを見つめていた。

「はい!入ったわよ」 

 そう言うとキーラは明華、クリス、レム、ルーラ、御子神、ジェナン、ライラそして自分のカップを並べた。

「私のココアは?」 

「だから無いんだって!」 

 しょんぼりと下を向くシャム。

「すみませんねえ」 

 ジェナンはそう言うとコーヒーをすすった。

「あの……」 

 ライラはカップを握ったまま不思議そうにキーラを見つめた。

「そう言えば東モスレムにはあまり私達みたいなのはいないらしいわね」 

 キーラのその言葉にレム、ルーラ、そしてセニアがライラに視線をあわせる。

「確かにあまり見ないですし、もっと感情に起伏が無いとか言われていて……」 

「酷いわねえライラちゃん。私達だって人間なのよ。うれしいことがあれば喜ぶし、悲しいことがあれば泣くし、まずいコーヒーを飲めば入れた人間に文句を言うし……」 

「レム。文句があるならもう入れないわよ」 

 カップを置いてキーラがレムをにらみつける。

「レムさんの言うとおりだ。ライラ。偏見で人を見るのはいけないな」 

 ジェナンはそう言うと静かにコーヒーをすする。

「いいこと言うじゃないの、ジェナン君。それに良く見ると結構かっこいいし……」 

「色目を使うなレム!」 

「なに?ルーラちゃんも目をつけてたの?」 

「そう言う問題じゃない!」 

「あのーもう少し静かにしてもらえませんか?」 

 レムとルーラのやり取りとそれにかみつくタイミングを計っているライラの間に挟まれた御子神が懇願するように言った。

「無駄じゃないの。こんなことはいつものことじゃないの」 

 平然と機体の整備状況のチェックシートをめくりながら明華はコーヒーをすすっていた。

 そこにドスンと引き戸が叩きつけられる音が響く。

「ぶったるんでるぞ!貴様等!」 

 そう叫んで入ってきたのは飯岡だった。ランニング姿のまま机の上のタオルで汗を拭う。

「あ!それ私の!」 

 レムの言葉にタオルを眺める飯岡。

「別にいいだろうが!ランニングから帰ってきたところだ。汗をかくのが普通だろう!」 

「それじゃあ雑巾にしましょう」 

「リボンズ!俺に喧嘩売ってるのか!」 

 怒鳴りつけた飯岡だが、彼を見つめる視線の冷たさに手にしたタオルを戻した。

「それじゃあシャワーでも浴びるかな……」 

「ここにもシャワーあるよ」 

 シャムの一言に口元を引きつらせる飯岡。

「うるせえ!俺は本部のシャワーを浴びたくなったんだ!」 

 そう言うとそのまま飯岡は出て行った。

「全く何しにきたんだか……」 

 コーヒーをすすりながらチェックリストの整理が終わった明華が立ち上がる。

「すいません、ちょっと聞きたいんですけど……皆さんは何で戦ってるんですか?」 

 突然のジェナンの言葉に明華は視線を彼に向けた。

「私は任務だからよ」 

 そう言うと明華はチェックリストを手に出て行く。

「私は何かな……」 

 言われた言葉の意味を図りかねて天井を見上げるレム。ルーラも答えに窮してとりあえずコーヒーを啜っている。

「私はね。騎士だからと思っていたけど……」 

 そう言うとシャムは腰に下げている短剣に目をやった。そして力強く言葉を続けた。

「もうね、出しちゃ駄目なんだよ。私みたいにおとうを殺されたり、熊太郎みたいにおかんを殺されたり。もうそんなことが繰り返されちゃ駄目なんだ。だから戦うんだよ。もう私達みたいな悲しい子供ができない為に」 

 そう言うとシャムは腰の短剣の柄に手をかけた。

「君は強いんだな」 

 ジェナンはそう言うと下を向いた。ライラが心配そうに彼に寄り添うように立つ。

「いいわねえ、ジェナン君には彼女が居て。あーあ私も素敵な彼氏が欲しいなあ」 

「私では駄目なのかね?ルーラ君」 

 レムはそう言いながらルーラの顔に手を伸ばそうとする。ルーラはその手を払いのけた。

「何をやっているんだか……」 

 呆れたセニアの言葉にじりじりと地味な笑顔を浮かべたレムとルーラが近づいていく。

「そう言うセニアはどうなのよ。やっぱり隆志君一筋?」 

「俺がどうかしましたか?」 

 悪いタイミングで仕様書から目を上げた御子神。全員の視線が彼に集中する。

「何でしょうか?」 

 自分が話題の中心になっていることを知らない御子神隆志中尉は鳩が豆鉄砲を食らった表情だった。

「ニブチン!」 

「最低!」 

 レムとルーラにけなされて、何のことかわからずに首をかしげる御子神。そこに入ってきたのはシンだった。彼は微妙な控え室の空気を観察しながらクリスに目で訪ねてきた。

「ジェナン君が何の為に戦っているのかって話題を出したんですよ」 

「なるほど、ジェナンらしいな。俺は信念のために戦っているな。モスレムの同胞の苦しみ、ゴンザレスの圧制への人々の叫び。それに俺なりに出来ることがあると思って東モスレムにやってきた」 

 シンはそう言い切るとセニアと御子神を見た。

「ブリフィス大尉、御子神中尉。嵯峨隊長がお呼びだ。南部基地攻略作戦の会議だ。急ぐように」 

 そう言うとシンはすぐに去っていく。

「動きが早いな。さすがに百戦錬磨の指揮官ではないというところだろうな」 

 ジェナンはそう言いながら爪を噛んだ。すぐさまライラの右手が飛んだ。

「ジェナン!その癖みっともないわよ」 

「それじゃあ行って来るわ」 

「僕も……」 

 立ち上がったセニア、仕様書を机に投げて後を追う御子神。

「お熱いわねえ。そう思いませんか?ホプキンスの旦那」 

 ニヤニヤと笑いながらレムがクリスに話しかけてきた。

 セニアと御子神が出て行くのを見守るクリス達。

「それにしても早いわね展開が……」 

「たぶんここまでの手順は嵯峨中佐は準備していたみたいだよ」 

 クリスのその言葉にジェナンとライラは頷いた。

「本当に?あの人一体何手先まで読んでるの?」 

「相手が投了するまでじゃないの?」 

 ルーラの叫びにレムが淡々とこたえた。そんなレムの言葉にクリスは共感していた。

『あの御仁なら、そこまで考えていなければ戦争を始めたりしないだろうな』 

 嵯峨がわざわざ追放された故郷に帰ってくるのに郷愁と言う理由は曖昧に過ぎた。彼はどこまでも軍人だった、それも戦略を練る政治家としての顔さえ垣間見えるような。情で動く人間とは思えない。嵯峨とは相容れないゴンザレスと言う男の政権でどれほどの人間が傷つこうが彼には他人事でしかない。その濁った瞳にはすべての出来事が他人事にしか映っていないはずだ。クリスはそう確信していた。

 クリスは思い出していた。嵯峨惟基がかつて胡州の国家改造を目指す政治結社の創立メンバーの一人であったことを。そして陸軍大学校時代、嵯峨は既得権益を握った貴族制度が国家の運営にいかに多くの障害となると言う論文を発表し新進気鋭の思想家として胡州の若手将校等の支持を得ていた人物であるということ。

 しかし、彼は結婚の直前、自らの著作をすべて否定する論文を新聞に発表し論壇を去った。彼の以前の過激な思想に不快感を持っていた胡州陸軍軍令部は彼を中央から遠ざける為、東和共和国大使館付きの武官として派遣した。それ以降、彼は決して自らの思想を吐露することを止めた。

 この取材に向かう前に嵯峨と言う人物を知るために集めた資料からそのような嵯峨という人物の過去を見てきたクリス。そして今の仙人じみたまるで存在感を感じない嵯峨と言う人物の現在。そう言った嵯峨の過去を目の前の部下達が知っているかどうかはわからない。だが、今の嵯峨にはかつての力みかえった過激な思想の扇動者であった若手将校の面影はどこにも無かった。そして彼の部下達はただ嵯峨を信じて彼の実力に畏怖の念を感じながらついてきている。

「だから、二式の性能でM5はどうにかなる相手なの?」 

 ぼんやりと考え事をしていたクリスの目の前でルーラがキーラを問い詰めていた。

「確かにM5はバランスは良い機体よ。運動性、パワー、火力、格闘能力。どれも標準以上ではあるけど、ただアメリカ軍のように組織的運用に向いている機体だから南部基地みたいに指揮系統が突然変更されたりする状況ではスペックが生かせない可能性が高いと言ってるのよ」

「吉田少佐にはそのような希望的観測で向かうべきじゃないですよ。百戦錬磨の傭兵だ。甘く見れば逆に全滅する」 

 キーラの言葉をジェナンがさえぎった。

「ずいぶん弱気ね」 

 つい口に出したというライラの言葉にルーラが目を向ける。

「そうじゃないわよ!ルーラが言ってるのはちょっと急ぎすぎじゃないかと……」 

「やはりびびってるんじゃないの」 

 ルーラとライラがにらみ合いを始めた。きっかけを作ったキーラとジェナンはただ二人をどう止めるべきか迷っていた。

「ったくなんだって言うんだ……」 

 そこに入ってきたのは飯岡だった。彼はタオルを首からさげながらぶつぶつとつぶやいて空いたパイプ椅子に腰掛ける。

「なにか会ったんですか?飯岡さん」 

 話題を変えようとキーラは飯岡に話を投げた。

「ああ、見慣れない団体が会議室の周りにうろちょろしてるんだ。帯刀している士官風の奴も居たからあれは胡州浪人だな。なんだって今頃そんな奴等が……」 

 そう言うと飯岡は目の前にあった飲みかけのセニアの冷めたコーヒーを飲み干した。

「あーあ」 

 ルーラがそれが御子神の飲んでいたコップだと気づいて声を上げる。

「御子神さんに教えておこう」 

「ガサツなんだから本当に」 

 レム、キーラが飯岡の手にあるカップを見つめる。

「なんだよ!喉が渇いたんだから仕方ないだろ!」 

 言い訳する飯岡だが、クリスは彼の言葉に興味を持っていた。

「見たことの無い胡州の軍人?」 

 逃げるように彼女達から視線を反らした飯岡に尋ねた。

「ああ、文屋さんなら心当たりあるかな?一応、人民軍の制服は着ていたが、どうも北天の連中とはまとってる空気が違う。それに楠木の旦那と話をしていたから隊長の関係者だと思うんだがな」 

 今度は誰も手にしそうに無いのを確認してから机の上の団扇で顔を扇ぎ始めた飯岡。

「胡州陸軍遼南派遣公安憲兵隊。前の戦争でゲリラ掃討で鳴らした嵯峨惟基の部隊だ」 

 それまで黙って飯岡の話を聞いていたジェナンが放った言葉は周りの空気を凍らせる意味を持っていた。

「でもそれってそのまま隊長の下河内連隊に再編成されて南兼戦線で全滅したはずじゃあ……」 

 キーラのその言葉にジェナンは静かに後を続けた。

「公安憲兵隊は市街地戦闘でその威力を最大限に発揮する部隊なんだ。確かに上層部の恣意的な人事で嵯峨や楠木と言った幹部はそのまま下河内連隊に再編成されて全滅したけど多くはそのまま胡州の占領地域でのゲリラ狩りや国内の不穏分子の摘発に回されたと聞いている」

 ジェナンの言葉には妙に彼らしくない自信のようなものがあった。まるで昔そう言う連中に追い回された経験者のような言葉の抑揚にクリスはすぐに気がついた。 

「つまり幹部連から引き離された兵隊達が隊長を慕って加勢に来たって話ですか?」 

 レムの言葉にジェナンは頷いた。

「公安憲兵隊はそのやり口で一兵卒に至るまで戦争犯罪者として指名手配がかかっている。つまり彼らには頼りになるのは嵯峨惟基という人物しかいない。元々大貴族の私領として拡大した胡州星系のコロニー群。閉鎖的なその環境なら戦争犯罪人を多量に抱え込むことなんて造作も無いことだ。そうじゃないですか、ホプキンスさん」 

 ジェナンに話題を振られたクリスは静かに頷いた。

「次にあの人物がどう言う行動を取るか。それを僕は見定めるつもりだ」 

 そう言うと彼は静かに話を聞いていたライラに視線をあわせた。ライラはジェナンの瞳がいつもと違う光を放っているのを見て少し困惑した。

「そうなんだ。ふーん」 

 いつの間にか存在を忘れられていたシャムと熊太郎が冷蔵庫からアイスを取り出して食べている。

「おい、なんで熊連れてるんだ?ここは人間の……」 

 思わず愚痴る飯岡。

「フウ!」 

 熊太郎のうなり声で驚いたように飯岡が後ずさる。

「しかし、そうなると隊長は市街戦を行うことを考えてるってことなのかしら。でも、北兼南部基地は市街地からかなり離れているわね。隣の普真市はそれほど大きな町でもないし、戦略上はただ北兼台地の中心都市、アルナガへの街道が通っているだけだし……」 

「いや、わかったような気がする」 

 嵯峨の意図を測りかねているルーラに対し、ジェナンははっきりとそう答えた。

「どう言うこと?」 

「今は言えないな。ホプキンスさんの目もある」 

「君は僕の事を信用していないと言うことか」 

 その言葉に静かにジェナンは頷く。

「当たり前でしょ?あなたはアメリカ人だ。遼州に介入を続ける政府の報道関係の人物を信用しろと言うほうが無理なんじゃないですか?」 

 ジェナンは鋭い視線をクリスに向けながら笑った。

「そうだよね。ホプキンスさん。すいませんが席外してくれますか?」 

 珍しくレムがまじめな顔をしてそう言った。

「シャムちゃん。一緒にお墓参りしてきたら?これからたぶん忙しくなるから暇が無いわよ」

 ルーラは食べ終えたアイスのカップをシャムから受け取って流しに運ぶ。

「クリス……」 

 少し表情を曇らせながら仲間を見やるキーラが居る。

「そうかもしれませんね」 

 そう言いながらクリスは立ち上がると、よく事態が飲み込めていないシャムにつれられて控え室を出た。

「ああ、また組み立てるんだね」 

 シャムが立ち働いている菱川の青いつなぎの技術者の群れを眺めた。冷気が開いていくコンテナから流れ出し、ハンガーを白い霧に包んでいく。フレームだけになったカネミツには検査器具を持った技術者が群がり、再び組み立てを待っている。

「あれって大変そうだよねえ。動かすたびにああやって組み立てないといけないんでしょ?」

 シャムにそう言われてクリスは黙って頷いた。カネミツは嵯峨にしか扱えない機体だと聞いていた。それがくみ上げられるということは嵯峨が出撃することを意味している。正面から決戦を挑む。クリスにはその覚悟のようなものをくみ上げられるカネミツから感じていた。

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