読後感 ポストサブカル焼け跡派(百万年書房)

サブカル好きの男性2名がサブカルと政治を結びつけて 様々なアーティストが その当時の時代と いかに(意図的に)シンクロしてきたか ということを延々と論じている面白い切り口の本。

彼らは語る。「 欺瞞的な平和や戦後はもはやこの国にはない。 だからといって首相が語る「美しい国」という夢の中に取り込まれるのは癪だ。サブカルの軌跡をたどることでサブカルの後の時代を考えよう」


例えばKREVAだったら「 アグレッシブに自分のやりたいことをやりまくる、しかも頭が良さそうな感じでクールに遂行するのを良しとして勝ち上がっていく」というキャラクター。 彼はホリエモンに代表されるその時代の風景と見事に同化して自分のマーケティングに成功した。KREVAに特段の興味があるわけではない自分でも、この見立ては頷ける。


そして、 BUMP OF CHICKEN に関しての考察が興味深い。 「 社会とは切れた趣味に没入できる環境が整えられていた。そこの流れに乗ったのがまさに BUMP である。徹底的に社会性を排除したBUMPの(客観性の獲得への志向を感じさせないという意味での)貧しいリアリティには強烈な説得力がある。そこに嘘が無いからこそ大きな支持を得たのだ」つまり作者達の見立てはたぶんこういうこと。「BUMPはゲームで育ってきた男たちであるがゆえに 社会とか戦争とかいうものと全く無縁に、ごく自然にフィクションのストーリーを奏で続けている」

いやあ。

もちろん、作者たちは決して彼らをディスってるわけではない 。確かに BUMP は 2 メートル以内の友人に対して話しかけているような曲が圧倒的に多い 。楽曲の中に、天変地異や疫病に対する特段の思い入れも感じられない。

極端なことを言うと クーデターが起きても 、人口が半分になっても、次の月に同じような歌を歌っているのではないか、と思える。国家に代表されるいわゆる「 権力」にうさん臭さを感じ、アーティストの社会性に興味を持ってなにがしかの期待をしている作者2名にしてみると この立ち位置は決して愉快なものではないらしいのだが、我々BUMP愛好家にとってはそれこそが彼らの立ち位置、アイデンティティであり、 藤原氏の卓越した「ベストワードを拾ってくる能力」に取り込まれて、世の中のあらゆる息遣いから逃げ出したい若者たちのシェルターとして、圧倒的に受け入れられてきたのであろうと思う。シェルターには外の空気は入ってきてほしくない。シェルターから出るも出ないも聞き手の自由。

かくいう自分ももはや完全なおっさん世代ではあるが、毎朝「シリウス」で起きて、「オンリーロンリーグローリー」で気合い入れてます。選ばれなかったら選びにいけ。

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