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時間と合理性

なぜ僕は大学に通っているのだろう?

僕が大学に行こうと考えたのは、「みんな通ってるから」「卒業しないと就職できないから」あるいはもっと消極的な考えでは「他に選択肢を考えていなかった」くらいのものである。しかし今や授業が楽しいわけではない。さらに他に明確なやりたいことがある。そしてその実現に大学に通うことは必須ではない。

だがそれなのに大学を辞めるという合理的な決断を心のどこかで引き止める自分がいる。

①大学に入ってそれなりに頑張ってきた。
②親が学費を払ってくれている。
③卒業しないよりはする方が間違いなく良い。

大方この3つである。しかしこれらはいずれも非常に非合理的な思考であると思う。

なんでかって?

①大学に入ってそれなりに頑張ってきた。

明らかにサンクコストである。合理的に考えるなら一瞬で邪念ではなくなる。

②親が学費を払ってくれている。

大学に通うということは(学費+生活費)5~600万以上のお金と、4年間という膨大な時間がコストとなる。それに出資するのは自分であり親である(自分で学費を稼いでいる人もいるだろうが)これがビジネスならば、出資者と実行者の利益が何らかの形で整合的でなければならない。しかし大学に入る時、(僕を含め)多くの人は大学より先どうするか考えていないだろう(それどころか大学に明確な目的意識を持って入らない人もそれなりにいる)。つまり大学に通うという親(自分)との出資契約は、今後行きていく間に考えられる多くの状況を無視した不完備契約なのである。目的なく大学にいくという行為はかなりたちが悪く出資者も実行者もそれで得られる利益に合意して行なっている訳ではないのだ。

つまり②は本質に立ち返ると、親が出資する対象は大学の学費ではなく、子供の将来であるべきなのである。子供の将来の幸福が大学に通うことによって達成されると合理的に考えられる間は、特に問題は生じない。しかしその二つが乖離してしまった今、この親に対する申し訳なさという気持ちも自然と消える。(ただし出資者に対してはそうなった経緯を納得的に説明する必要があると考えられる。)

最後に③卒業しないよりはする方が間違いなく良い。

ドラッカーの言葉に「既に起こった未来」という言葉がある。(例えば人口ピラミッドを見れば20年後の人口は高い精度で予測できるという話)

今就活市場ではどんどん学歴というものが重視されなくなってきている。僕が行こうとしているIT系の会社では特に。つまり、親の世代ならば大学を卒業した方がいいところに就職できるという当たり前だった話は、(まだそれなりに当たり前の業界があるとはいえ)当たり前でなくなる。
より能力重視という風潮になるという未来が既に起こっており、必ずしも卒業した方が幸福になれる確率が高くなるわけではないと考えられる。

時間は未来から流れてくる

なぜこのような非合理的な理由に僕は縛られていたのだろうか?それはきっと思考の起点、判断の根拠が過去にあるからである。

時間は過去から現在を経て未来へ流れ続ける。これは僕たちの生きているこの物理世界はではきっと正しいのだと思う。

しかし、過去の自分があって今の自分があり、今の自分が将来の自分を形作るという時間の流れは本当に合理的なのだろうか?だとすると、過去に縛られ人は生まれた時から全て決まっている決定論の世界を生きているのだろうか?

きっとそれは違う。

何かをする理由を考えた時、「それを始めた理由」「それをする理由」「それをし続ける理由」は少なからず違うものである。過去には限定合理的な理由から始めた物事も今では状況が変わり、非合理的になっている可能性は往々にしてありうる。時間が経てば外部環境も自分の気持ちも変化でするものである。

今状況をみてやろうと判断したことも、それをすると決めるための判断の拠り所が変わってしまう将来の不確実性の素ではずっと続けなければならないわけではない。過去にどうだったかを思考の拠り所とするのではなく、未来に何になりたいのかを考える、つまり時間は過去から流れてきて今があるのではなく、来るべき未来から時間を巻き戻した結果今があるという逆の思考をすることで、より良い生き方ができるというものではないだろうか?

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