『ハッピーアワー』の青空と未来

冒頭、トンネルの出口が明るく見える暗闇がうつし出され、やがて出口を抜けるとそこはケーブルカーの内部と知れる。肩を並べて座る四人の女性が親しげに言葉を交わしている。まもなく場面は転じ、雨にけぶる山上の四阿で先ほどの四人が弁当を食べている。曇って海が見えないことを「私たちの未来みたい」と嘆きつつ、有馬温泉に出かける計画を話し合い、楽しげに見える。主要キャストのクレジットのあと、神戸の街並を見下ろすショットに黄色く「Happy Hour」のタイトルとなる。二つの「H」がはじめに浮かび上がる画面に、『Helpless』(96)がその表題の「elple」の部分を強調したタイトルの画面を見せてくれたことを思い出した。幸福と救いのなさは、表裏の関係にある、とは考えすぎだろうか。

5時間以上の作品中で四人の女性たちは離合を繰り返す。鵜飼景(柴田修兵)による身体を動かす奇妙なワークショップとその打ち上げ、純(川村りら)の離婚調停裁判、有馬温泉への旅行、純の夫である公平(謝花喜天)との喫茶店での会見、小説家の能勢こずえ(椎橋怜奈)の朗読会とその打ち上げ、と彼女たちの複数が出会う印象的な出来事を列挙することができる。銃弾や血飛沫がとびかうわけでもなく、スターの美しい肢体や表情が見られるわけでもない。私たちが日常的に見られるようなものが、淡々と映し出される。

劇中の人々は相互に自らの内面にあるものを他者に伝えようとし、ほぼうまくゆかない。私が何かを他者に伝えようとするとき、いくつかの手段がある。まずは言葉による伝達だが、これは劇中の彼女たちにもあまり信頼されていないだろう。ワークショップの説明を求められた鵜飼の言葉がはつまづけばつまづくほど、かたやトークショーの席上における公平の言葉は整然とすればするほど、そらぞらしい。鵜飼の顔貌は執拗に逆光でぬりつぶされ、聞く者の表情のかげりが無慈悲にも映し出される。芙美(三原麻衣子)と夫の拓也(三浦博之)は食器を手渡すときも親しく言葉を交わすのに、表情は冷たい。そして何より彼女たちの会話における「何やねん」という反問の発語の多さが、際立つ。

「自分の物差しで相手をはかるだけやろ」と喫茶店であかり(田中幸恵)を責めた桜子(菊池葉月)が「自分かてそうやないか」と反論され、朗読会の打ち上げでも能勢に独善性を指摘される。5時間に積みかさねられる膨大な言葉が、まさにその膨大さによってそれぞれの人物の発言に矛盾と独善を生み出し、それが白日のもとに曝される。5時間退屈させないのがすごい、という感想のささやきも耳にしたが、この長時間の映像の集積によってのみ孕みうる、矛盾と独善のなまなましさにこそ驚嘆すべきだろう。鵜飼の妹である日向子(出村弘美)の発言をあかりが「シンプルやねえ」と評し、公平が「わかりやすく言おうとすれば嘘になる」と言うように、言葉はそもそも現実をくまなく表現することはできないものなのかもしれない。とはいえ、芙美のように言えないことを秘めていては、その夫は与えられた「チャンス」にも気づかない。

また彼らは身体を触れ合わすことによって通じ合おうとするが、これも有効な方法とはならないらしい。ワークショップで風間(坂庄基)と額をあわせた桜子は自販機前の突然の誘いにとまどい、相次いで二人の男と寝たあかりにはむなしさがのこり、浴衣姿でままふざけて身体を折りかさねた行為によって四人がわかりあえたとは思えない。電車で芙美の肩に首をもたせかけた桜子は、その場面を即座に裏切るように、偶然に再会した風間の誘いに乗って芙美をのこして去ってゆく。

夫との離婚調停中にあり、姿をくらませていた純をのせたフェリーが出航するとき、純はマフラーをなびかせてその轟音を聞いている。轟音が鳴りやまぬまま画面は、居間の卓に伏して眠る桜子の顔に切り替わる。あたかもこの重低音を耳にしたかのように桜子は突然目を開ける。ここには身体を触れ合わず、かつ言葉も交わさずにふたりが、はたと通じてしまった瞬間が描かれている。同じことは、芙美が床に倒れこんだとき、画面が切り替わる一瞬前から彼女の夫の自動車事故の現場の警告音が流れ込こむ箇所にも言えよう。しかし純は夫から逃げ、芙美は若い女性小説家と時間を過ごした夫との離婚を決意し、桜子は「愛している」はずの夫とは別の男と一夜を過ごし、あかりは男たちとの将来を考えることができない。他者との思い、思われる関係をうまく構築するために、言葉も触れ合いも有効な手段たりえず、テレパシーのような交信も期待はできない。

のこされた方途は、まなざしを向けること、見る者と見られる者との関係に立つことにあるようにも思われる。芙美は運転席の夫を見ながら彼に話しかけるが、彼は彼女の方を見ずに食事の感想を言い、彼女をいたわる。あかりにアプローチする男はグラスを傾けながらあかりをまなざし、彼女もそれに応じようとするが、視線は交わらない。窓辺で身体に手をかけられた純の夫はあのとき、ぼんやり宙を見ていたに違いない。桜子の息子と、彼が妊娠させてしまったその恋人さえ、電車で身を寄せあいながら、見つめ合うことはしなかった。鵜飼のワークショップで「正中線を一致させるように」向き合う人びとの姿が印象的なのは、劇中ほとんどふたりの人間が見つめ合わず、また見つめ合うべきふたりがそうしないからだろう。目の大きな桜子と純、小さな目をした彼女たちの夫たち、そして小さな目をした芙美と口ひげと長髪によって際立つつぶらな瞳を持った彼女の夫、彼らの顔貌さえもそれぞれの男女の見る、見られる関係において意味を与えられてしまっている。不倫から帰った桜子の目に「そんな目をするなよ」と呟く彼女の夫(申芳夫)は、それまで長く彼女と見つめ合わなかったのだろう。このことは、しかし、桜子のセックスレスの告白とは直接は関係がない。少女を妊娠させてしまった中学生の息子を指して、ままごとみたいなセックスしやがって、と吐き捨てるように言われた言葉が示唆的だ。果して、ままごとでない、誰の真似でもない情事などが存在するのか、どうか。

冒頭ちかくに示されるように、海はそのまま未来の喩であり、視野を阻む雲は未来を見えなくするものを意味する。ビニル袋を提げて自室へ帰って来る純を見下ろす視点は、純がこちらへ話しかけることで彼女の夫の視点であることがわかるが、それは、ぼんやりと海を見ている。海を背にしてこちらへ向かって来る純がようやく未来を見ることができるようになるのは、ひとりになったフェリーの上だ。桜子の夫と純をのせた車のフロントガラスは、たえず曇った空をうつしていた。

四人でいるとき、彼女たちは楽しげに過ごしながら晴れた空と海を、すなわち未来を見ることはできなかった。そのように去っては訪れる幸せな時間、ハッピーアワーをめぐる5時間17分である。

2015年。濱口竜介監督。

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