『きみの鳥はうたえる』の交情と疎外

『オーバー・フェンス』(16)が公開されたとき、「佐藤泰志の函館三部作」などという惹句を目にして私は憤激した。

村上春樹と同学年に生まれながら四十一才の若さで世を去った佐藤泰志という作家は、熊切和嘉の手で『海炭市叙景』(10)が、呉美保の手で『そこのみにて光輝く』(14)が映画化されたことなどを契機としてすこしずつ再評価の波が寄せはじめていた。二作のあとを継ぐようにして山下敦弘の『オーバー・フェンス』が公開されたことは歓迎すべきことなのだが、四部作にも十連作にもなりうる佐藤泰志の小説の映画化を、「三部作」の呼称に押しとどめてどうするのだろう、という偏狭な憤りを、私は感じたのである。三宅唱による『きみの鳥はうたえる』の製作は、その偏狭に光明をもたらす事件でもあった。

男二人、女一人の関係を軸として、夏の函館の日々が綴られる。僕(柄本佑)と同居する静雄(染谷将太)、そして僕と同じ書店のアルバイト店員の佐知子(石橋静河)の三人が展開する関係は、三角関係とも呼べないような曖昧な軌跡を描く。アルバイトを怠けて夜の町へ出ていた僕は、書店の店長(萩原聖人)と連れ立って歩いていた佐知子に、すれ違いざま腕を触られる。二人が通りすぎた後も、佐知子が戻って来るのではないかという予感にとらわれた僕は、黙って数をかぞえはじめる。120まで数えよう、と思いさだめていたその局限のところで、佐知子が戻ってきたところから、二人の関係が特別であることを信じたくなる気分が一気に高められてゆく。

数をかぞえはじめた僕の姿を、道に面した建物の中からガラス越しにとらえたショットの緊張感が素晴らしい。大胆に僕の方へ視野を狭めてゆくなかで、こころなしか画面はブレを見せるようにも感じられ、これが、僕の静かな鼓動の高まりそのもののように思える。夜更けの町角に立ちつくし、二人はこれからどうするかを話し合う。煙草の火のために佐知子からライターを借りた僕は、そのままライターをポケットに仕舞う。もう僕は佐知子を離すつもりはないのだろうし、数をかぞえるまじないが思いがけず奏功した時点で運命のようなものが二人の間を結びつけはじめた、という印象は拭えない。それなのに僕は、佐知子との待ち合わせを約束して自室に戻ったまま、再び佐知子に会いにその晩、町へ出ることはしないのである。

白昼のカフェで、僕に再会した佐知子は、夜の約束を果たさなかった僕のことを、誠実じゃない、と言う。たしかに僕は、一般的な規範に照らして行動をふりかえれば、おおよそ誠実な人間とは思われない。連絡もなく書店の仕事を休み、事後的にその理由を問われれば出まかせらしい言葉を放ち、出会った異性との約束を即座に破る。万引きの犯人を追いかけようと意気込む同僚を協力もせずに見送る。店長もまた溜め息をつきながらその不誠実を嘆じるのは、無理からぬことだ。

それでも佐知子が僕と狭小な二段ベッドの下段で身体を重ね、何度も何度もくちづけをかわすのは、僕の側にもまた別の種類の誠実さがあることを、佐知子が察知したからだろう。既成の行動規範に準拠し従うことが誠実と呼ばれるなら、そのときどきの自分の気分や欲求に身を委ねることは、どうしてそれよりも劣ることだと言われねばならないか。道徳に忠実であることと同じくらいに、自分の深奥に忠実であることは価値を持つのではないか。いや、他人との関係のために不如意を正当化するのが誠実と呼びならわされた美徳ではあれ、自分のために自分の身体を用いること、それを許し、むしろ勧めることこそが自分の生に意味を与えることなのではないか。僕の生き方はそう問うていて、佐知子はその、もうひとつの新たな誠実に魅かれたのだと考えることができる。

その僕の誠実さは、僕と一緒に夜ごとに酒を飲み、酔って町に置かれた大きな花飾りを抱えて運んでふざける静雄も共有している。静雄は失業中だが、僕と一緒に遊興に耽り、時間を忘れたように過ごす。その性情に従順であることに、二人なりの誠実があるのだ。それは恋人を得たり家庭を築いたり職業上の成功を手にしたり、という典型的な幸福を享受する者たちへの不満に基づいた、開きなおりの自己弁護から生じるようなものではない。誰がうまい汁を吸おうと、自分は自分の気分を死守するという、超然の趣もそこにはある。

だからこそ、店長と佐知子の愛人関係について悪しざまに語り、へらへらと笑いながら同調を求めるアルバイトの同僚の森口(足立智充)に僕は苛立ち、トイレで暴行をくわえることになる。他人の幸福を貶めて得られるような愉快に救いを求めるようなことはしないのだという、それは矜持とも言えるような心性である。僕の言葉を借りるなら、そのことを森口は「わかっていない」のである。

佐知子もまた、静雄に「わかってないよ」と告げられる場面がある。三人で酒を飲みながらビリヤードやダーツに興じているとき、佐知子が遊んだり飲んだりして何が悪いの、と言い放ったのを受けて、静雄が返すのである。森口が静雄や僕の誠実さの方向を理解できていなかったように、佐知子もまた見落としていることがある。それは静雄と僕が抱える後ろめたさのような感情だろう。

静雄は体調の悪い母を持ちながら失職中、僕はアルバイトはしているもののその職場に適応しているとは言えない状況である。そうした状況の中で、静雄も僕も、思うままにできることといったら遊興しかないのだ。仕事もできないし、家族の面倒も満足に見てやることができない。そのような自身の無能の、限られた活路として酒があり、ダーツがあり、ビリヤードがある。後ろめたさを抱えながら、他に輝ける場所を持たない二人は、言わば決死の覚悟で遊んでいるのだ。それに対して、佐知子の発言は、仕事もできて社会生活をそつなく送ることができ、そのうえで酒を飲んだり遊んだりしている者の言い草である。その切羽詰まった遊興の感触を、佐知子はつかんでいない、というのである。

つまり、それを言ってしまうところに、佐知子の社会的な余裕がある。店長と僕を同時に夢中にさせ、さらに静雄の心もつかんでしまう魅力があるというだけでなく、店長との関係にきちんと思い悩み、関係を断つために店長と話し合うことができる、という余裕である。佐知子との約束を平然と破り、静雄とキャンプに出かける佐知子を引きとめることもしない僕には望むべくもない、着実で堅牢な誠実さを持っているのである。

そのゆえでもあろう、佐知子は僕と静雄と一緒にクラブや酒場に出かけ、かなり謹直に遊ぼうとする。青白い照明のなかで心地よさそうに踊る佐知子だが、自由気ままな雰囲気を醸しつつ、その挙措は美しく統御されている。静雄と並んではしゃぎながら歌うカラオケの「オリビアを聴きながら」の歌声の、何と美しいことか。「疲れ果てたあなた私の幻を愛したの」という歌詞は、幻惑されたとも言える僕と佐知子の関係を思わせて切なく、新たな恋をともに迎え入れつつある静雄に聴かせてしまう点に皮肉と残酷があるわけだが、その歌詞だって既成の言葉の並びなのであって、自身の言葉ではない言葉を、用意された旋律に乗せて歌っている点にも佐知子の謹直は見てとれるのである。

しかしこのとき、静雄の顔には色を変えながら明滅する光が映える。それはあたかも、佐知子の放つ光の多彩さを、静雄が身をもって発見し、見つめているようでもある。佐知子の余裕や謹直さの背後の懊悩が決して単純なものではなく、このひとが単に意図なく男を狂わせる魔性ではないということに、ようやく静雄は気づくのであり、それが静雄と佐知子の関係の深化の決定打になってゆく。気づけなかった僕は、もう遅いのだ。

三人の関係は、つねに二人が一人を疎外する構図をとる。佐知子が僕なりの誠実さを察知して僕に接近するとき、静雄は二人の楽しげな声を聞きながらそっと部屋の扉を閉めて立ち去る。佐知子と静雄が陽を浴びながら遊歩道をのぼり、静雄が佐知子の懊悩の所在を確信するとき、僕は無愛想に別れの予感を受けとめるばかりだ。そして佐知子は、静雄と僕の抱える後ろめたさに想到することはできないし、この二人の間の黙契に、割り切れない思いを持たざるをえない。僕のことに限って考えるなら、問題は、120をかぞえた夜の奇跡に裏打ちされた佐知子との運命を信じるか、それとも遊興にすがりつく決死の日々を共有できる静雄との交情を優先するか、ということになる。

漱石の「こころ」におけるKと先生とお嬢さん、という男二人と女一人の関係を参考に置いてみると、本作の難しさははっきりとする。明確な規範と時代の精神が不在なればこそ、僕は順当に悩み苦しむこともできないのである。恋は堕落である、などという言明からははるかに時を隔ててしまったことは、言うまでもない。

夜の町で出会った二人は、明るい日中の町で別れを迎える。別れを告げて佐知子が背を向けて去ったあとで、また数をかぞえる僕は、流れに逆らうようにして走り出し、佐知子を追う。ふり返った佐知子の表情は愛を告げられて、笑ったかと思えば、また曇る。驚くべきことは、このカットが始まってすぐに、観客はこれが本作の最後のカットだということに気づいてしまうことだ。画面を注視しながら、ゆったりと明暗を行き来する佐知子の表情から、ほとんど初めて、余裕が失われてゆく。意識的な統御を離れた表情の転々は、映画がまったくのオープンエンドであることを示しているようにも思われる。

夜明けの町を歩く店長と森口、はやくも深い間柄になりそうな書店のアルバイトのみずき(山本亜依)と新人の青年(柴田貴哉)を点描的に挿入して、映画は未来を思わせつつ終わりに向かう。悲劇も喜劇も、またくり返されるのだろう。

題字が佐藤泰志自身の筆跡で表示されることともに、エンドロールに泰志の妻の喜美子の名が見えることも涙を誘う。また、柄本のちょっとした表情が柄本明を、石橋静河のたたずまいの気品が原田美枝子をどうしようもなく思わせることも、本作を忘れがたいものとした。傑作である。

2018年、三宅唱監督。

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