『君の名は。』と生死の地平

東京の男子高校生、立花瀧(神木隆之介)が目を覚ますと、自分の身体が地方の女子高校生、宮水三葉(上白石萌音)と入れ替わっていることに気づく。東京の都心で暮らしていたときの記憶はほぼそのままに、自分の身体が女性のそれになり、またその所在も東京ではなく地方の一軒家の上階に置かれているのである。三葉はその逆で、都心の集合住宅の一室に、男性の身体をまとったみずからの姿を見いだすことになる。

映画『君の名は。』は、ふたつの人格の、離れた二地点の交換から幕を開ける。人口の疎密、物価の高低、人間関係の距離感などの点で、都市と地方の歴然とした差異が印象づけられ、数値や図表に示される特徴にとどまらない、そのただなかで社会の成員として過ごすことの実感にそくした表現が可能になる。それが、身体の交換という設定の意義であろう。

睡眠を契機として発生する入れかわりの現象に見舞われながら、入れかわったときの記憶を共有するために互いのスマホに日記を残す作業などはいかにも現代的で楽しい。ふたりで協力して謎に立ち向かう経過が、めまぐるしい画面の変化とともに示される。

しかし三葉の身体を手にした瀧がその乳房に触れ、瀧の身体を手にした三葉がトイレを出て赤面するような描写が、決してその逆ではなく披瀝されることに、女性の身体に対する性的な興奮を煽るような気味があることは否定できまいし、三葉の身体で目を覚ました瀧が鏡の前で衣服を取り去ったのち、すぐに日を違えて三葉が三葉として目覚めた朝の様子に移ってしまうのは不親切な展開であろう。さほどには、説明と描写に困難を伴う、荒唐無稽な設定であるとも言えようか。

序盤のコミカルな筆致が転換してゆくのは、実は瀧と三葉の入れかわりが、単に場所的な位置の交換ではなかったことが判明する段階である。三葉が瀧に、彗星の接近の日時が近づいていることを告げた後、瀧の身には三葉との入れかわりが起きなくなる。記憶の景色をたよりに三葉の住む地区を目指した瀧はやがて、三葉が暮らしていた糸守地区が三年前の隕石災害によって甚大な被害を受け、住民の多くが犠牲になったことを知る。そしてその犠牲者名簿に、三葉、妹の四葉(谷花音)、祖母の一葉(市原悦子)の名前を発見し、自身が経験した入れかわりの現象が、場所のみならず時間をも超えていたことに気づくのである。

つまり瀧は、三葉との入れかわりにおいて死者の時間を生きていた。現在では死者となってしまった存在の、かつての生の時間、と言えばより正確だろう。その意味では、本作の前半は冥界下降譚の変奏であるとさえとらえることができる。瀧は文字どおり身をもって、現在の死者の、かつての生ある時間を経験したのだから、ここには生と死の全身的な交感がある。そしてこの、実は三葉がすでに死んでいたという事態は、生者が死者を想像するということの根本的な性質を想起させる。浮上してくるのは、霊の問題である。

死んでゆくのはいつも他人、という。この言葉は、ひとは自身の死を経験としては保有できないということ、したがってそれを語ることもできないということを示している。死という事象はつねに外側から思いみられることによってしか存在できず、死者はただ生者の想念のうちにのみ住することができる。しかし生者が死者を想像するとき、動かぬ遺体としての死者を想像するのでなければ、想像される死者は動く身体をそなえた生者のかたちで、すくなくともそれに近いかたちで出現するほかはあるまい。生者は生者の似姿によってしか死者を想像することができないのである。死と死者を理解することの絶対的な不可能性をふまえれば、ここで想像と理解はほとんど同義であろう。

死者の身体に内在することで、その死者のかつての生者としての経験を追体験すること、それが映画の異常な設定のなかで瀧が背負わされた役割である。ただし、これは必ずしも特別なことではない。死者が残した記録に目を通すこともまた、死者の生者としての経験に身をさらすことに他ならないからである。それを映画は、よりあからさまに展開してみせたのである。生と死がいりみだれる、夢幻能やロマンティック・バレエの世界をも思わせる。

踏みこえられるのは、生と死の境界ばかりではない。過去と現在、都市と地方の境界もまた、ふたりは越えてゆく。たとえば瀧は、三葉がスマホにのこしたメッセージで彗星の接近について告げられてなお、三年前の隕石災害とそれによる死者のことに思いがいたらない。このことは、やや不自然にも思える。入れかわりによってたびたび糸守地区の風景を目にしていながら、そしておそらく三年前にもたびたび報道を通じてそれと同じような風景を目にしていながら、東京に暮らす瀧はつい三年前の地方の大規模災害を想起することができないのだ。ここで極端なまでに強調されているのは、それほどまでに巨大な、地方と都心の意識の隔たりだと考えるべきである。

瀧が彗星そのもののことをまったく覚えていないとは思えない。瀧が自宅の屋上から、夜空を美しく彩る彗星を目にしたことは映画の冒頭ではっきりと示されているからである。ただ瀧は、この彗星がもたらした現象をただ美しいものとしてのみ受けとったのだ。糸守では三葉のみならず多くの死者を出すことになった忌まわしいはずの彗星を、東京の瀧は享楽的な興奮のうちに見ていたのである。ここにもうひとつの問題がある。

たとえばニューヨークの世界貿易センタービルに航空機が突入したとき、東北の太平洋岸を大きな津波が襲ったとき、現場から遠く離れた地点の人々は、ほとんどリアルタイムにその状況を見ることができた。言うまでもなく、映像が全世界に配信されたからである。むしろ現場を離れていたほうが、よく事態の全容がつかめたかもしれない。そしてそのとき、異様な光景を目にした私が、それが悲惨な結果をもたらしていることは理解していながら、刺激的な興奮を覚えなかったかと言えば、どうにも自信がない。これまでに目にしたことのないものを見て興奮し、その体験を楽しみさえした、という側面がまったくないとは言い切れないのである。

そしてそのひとときのことーー当事者以外にとってはまさにひとときであっただろうーーをやがて忘れ去ってしまうとすれば、たとえばドラマや映画の色彩や音響の刺激に興奮し、それを情報として消費してしまうことと、いったい何が違うだろうか。瀧は彗星を、はっきりと美しい光景を現出したものととらえたのであり、そのことのみにおいて彗星を記憶していた。この現象を目撃できることを時代の幸運として伝える報道の音声が印象的に被せられることは、未曽有の災厄のもたらす光景の、この不条理を剔抉するものに他ならない。どんな無惨も、興奮の材料たる性質を捨てられはしないのだ。

結局、瀧はその災害のことをきれいに忘れてしまう。その忘却の残酷さもさることながら、映画が訴えるのはその忘失からの回復の重要性である。今は失われてしまった何ごとかを忘れないこと、そしてくり返し思い出すこと、映画後半の活劇は、その試みが岩をも動かすような強大な威力を発揮することを物語ろうとしている。入れかわりからさらに五年後の東京の場面に登場する人々を注意してみれば、かつて糸守に暮らしていた人々がそこで生活していることがわかる。過去に何かが失われたということは、現在の世界に存在するはずの何ごとかが、その位置を失したということであり、その当然のことが、あらためて鮮烈に描き出されてゆく。

瀧の身体をまとった三葉が、初めて朝の新宿南口の雑踏を歩き出すときの、画面全体にひろがる陽光と喧騒の清新さは特筆に値する。初めて目に映る雑踏はかくまで清新な印象を持つということであり、新宿の猥雑さにうなだれるような価値観が一蹴される。同じものも、視点が違えばまったく異なって見えうるということだ。そして、そのようにして新たな視点を得ることが、たまらなく魅力的だということである。

微細に描き込まれた東京の風景、とくに新宿から四ツ谷にかけての風景は、見ればそれとわかるほど精密に再現されている。しかし実写と見まがうようだ、とは言えないだろう。アニメーションであることを忘れるような映像が見られるわけではない。細部に至る克明な再現が、しかし現実とは明確に異なる色調でなされていることで、観客もまた新たな眼を得て、新たな視点で現実をとらえなおす。

遠く離れた位置にあるふたりが互いを求め合い、思い合うことは、『ほしのこえ』(02)以来の新海誠作品の主題のひとつである。『秒速5センチメートル』(07)や『言の葉の庭』(13)ではその個的な関係が強調され、特に後者では教師と生徒の関係の不義性と挫折、周囲との折り合いの困難が焦点化された点で、物語がひろがりを欠いた印象は否めない。そのなかで『君の名は。』は都市と地方、生と死などさまざまな懸隔を正面から扱い、また最終的に三葉と瀧がめぐりあう場面を描いた点で新海作品の系譜を大きく更新したように思われる。また一方で、この作品は現実的な問題を大きく背後に抱えながらも、あくまで非現実の虚構として楽しむことができるしかけに満ちている。同じ時代にこの作品に接することができる幸運には、いま、心おきなく浴するべきだろう。

2016年、新海誠監督。


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