『クローズZERO』の場所と祝祭

不良の不良たる所以は、大人たちに強制された規範や序列を自明のものとして受けいれることなく、自分たちの生活の様相を自分たちの手で決しようとする点にある。行儀よく教室の序列に従うことが優良なる学生の要件であるなら、そこからの逸脱として不良が成立するのである。不良たちが自身の腕力を競い、支配と服従の関係を自発的に成立させてゆくことは、言わば私闘による自決を意味する。そして優勝劣敗の原則のもとに階層化された人間関係が、不良たちの群像を描く劇映画のひとつの軸となってゆく。つまり不良は不良でも、それはただちに無秩序や混乱を意味するのではない。教師と生徒、あるいは学年という既存の枠組をいったん離れて、別個の枠組を新たに組み上げることで映画の不良の人間関係は形成されてゆくのである。

今世紀の最も早い不良映画の傑作のひとつに、『青い春』(02)がある。九條(松田龍平)や青木(新井浩文)の属する集団でその頂点を決めるのは屋上の手すりを用いた度胸だめしだった。屋上の手すりの外側に立って、仰向けに身を投げるようにして半身を空中にゆだね、両手を打ち鳴らしてすぐに手すりを摑む。すこしでも手すりを摑むのが遅れたら屋上から投身したのと同じ結果になってしまう。手を打ち鳴らす回数を増やしてゆき、最も多く鳴らせた者がアタマとなる。映画の冒頭で九條がその座を得る。

ここで屋上が特殊な含意を持つことは、言うまでもない。閉塞的な教室からはつねに夢想される位置にある屋上は、若者たちの開放区として機能する。教師たちの目を逃れたこの場所の持つ意味は、たとえば『キッズ・リターン』(96)、『69−sixty nine−』(04)、『リンダリンダリンダ』(05)、『ちはやふるー上の句ー』(16)でも基本的に変わらないと言っていい。『青い春』ではまさにこの場で不良たちの自決権が行使されるのだ。『クローズZERO』では、舞台となる鈴蘭高校の屋上の壁にスプレーで「芹沢多摩雄」と記されてあるのを、わざわざ脚立に上って滝谷源治(小栗旬)が抹消し、上から「たきやげんじ」と書く。これも屋上であることに意味があり、ここから物語が出発する。

不良たちが派閥をなして割拠し、鈴蘭高校の制覇を目指すなか、最も有力なのは芹沢多摩雄(山田孝之)に率いられた一派である。脳に病気を抱えながらも芹沢の親友として行動を共にする辰川時生(桐谷健太)は、そこへ転校してくる滝谷のかつての親友だった。滝谷は田村忠太(鈴之助)や牧瀬隆史(高橋努)、伊崎瞬(高岡蒼甫)などを味方に引き入れて勢力を拡大する。これに危機感を覚えた芹沢の派閥の三上豪(遠藤要)らは一計を案じ、滝谷と恋仲になりつつあった逢沢ルカ(黒木メイサ)を拉致してその容疑を阪東秀人(渡辺大)率いる武装戦線と称するグループに被せることで、滝谷らと武装戦線の対立を煽る。芹沢自身の知らぬまに進行していた計画はやがて滝谷にも内実を知られることとなり、映画は芹沢と滝谷の直接対決へと展開してゆく。

映画の筋を簡明に述べることができるのは、映画のなかの人間関係が明確な序列を保ち、その形成過程が簡明だからである。不良たちによる自決的な人間関係が、既存の制度を逸脱したあとでもまた別の規範を必要としていることは、ここからも明らかである。敗れた者は勝った者に従う。いま敗れた者にかつて敗れたことのある者たちも、原則としていま勝った者に従う。それだけの約束で、多数の人間は簡単にひとつの列におさまる。E組をたばねていた忠太を倒せばE組は滝谷のものになり、芹沢はB組をたばねていた三上兄弟(伊崎右典、伊勢央登)を倒してB組を従わせる。C組の牧瀬はやや特殊で、何度敗れても果敢に芹沢に挑む牧瀬の意気に感じたC組の連中は決して芹沢の下につかずにいるという。だが滝谷は忠太の助言で牧瀬を合コンに誘い、その首尾は散々だったものの、親交を深めてC組も動かすことができるようになる。伊崎は大人数で単身の滝谷を襲って屈服させようと試みるが、殴打されてもくり返しもがき、立ち上がろうとする姿に将器を見出だし、自身が滝谷の派閥に参加することを認める。C組の連中が牧瀬に抱いていた感情を、今度は伊崎が滝谷に向けるのである。味方を増やしながら魅力も倍加させてゆく様子が端的に語られている。

興味深いのは、くりひろげられる不良たちの抗争の場が、ほとんど学校という建物、敷地を離れないことだ。はじめに滝谷がE組の忠太を倒してクラスを手中におさめるとき、奇妙でありかつ驚くべきことに、同級の者とおぼしき面々はひしめき合うようにしてひとつの教室にいる。抗争の基本単位がクラスに他ならないことを思い切り可視化した演出と言えるが、それは学校行事の運営の基本単位と等しい。もっとも、『GO』(01)の序盤で挑戦者たちが杉原(窪塚洋介)が次々に校内の腕自慢たちを打倒してゆき、その勝負に野次馬たちが多額の硬貨を賭けてゆく場面を想起することもできる。ただ『GO』の場合は挑戦者たちが杉原の教室を訪れるのであって、ひとつひとつの教室を割りあてられたクラスを、ひとつひとつ平定してゆくという感覚が『クローズZERO』には強い。学校が生徒に求めるものは拒否しているはずでありながら、学校の制度によって与えられた単位を基本に頭数を勘定しているところに、不良は優良の対立項としてはじめて発見されるものであるという皮肉が見える。映画の最初の争闘シーンが、入学式で新入生代表の挨拶を妨害した坊主頭の男と、中学時代から勇名を馳せていた海老塚中トリオ(大東駿介、小柳友、橋爪遼)らの間に、講堂で行われるものであることも示唆的である。入学式から年度がはじまるように、ここから映画もはじまるのである。そして、この三名は劇中で一年生を統一したあと、最後の芹沢と滝谷の両軍団の対決には直接参加することなく、校舎の窓からグラウンドの争闘を見つめるだけだ。上級生の試合を見学、応援している運動部の下級生の姿を思い出させるのは偶然ではない。クラスという単位だけでなく、上級生と下級生の区別もまた重大な規範として有効性を保っている。

この運動部との類比は、さらなる考慮に値する。不良たちが喧嘩をする場をふり返ってみれば、それがほとんど学校の敷地を離れないことはすでに述べた。飲食店で合コンに興じ、クラブで酔い、ダーツに遊ぶことはあっても、暴力が展開されるのは決まって屋上であり教室でありグラウンドである。武装戦線と滝谷らの衝突は廃屋のような場でなされるが、それは三上らの計略が明らかになるまでのつかのまに過ぎない。つまり不良たちの殴り合いは、校内でのみ行われることを基本とするスポーツのようなものとすら考えられる。金属バットが持ち出されることはあってもごく稀にであって、基本は素手と素手のやりあい、フェアプレーもよく守られているのである。だからこそ、滝谷は芹沢らとの対決の場所を「俺たちの鈴蘭」と指定したこともまったく不自然でない。ただこれは、学校という特殊な環境下での暴力の結果を、治外法権的な特例によって守ってほしいという潜在的な甘えた思料の結果と見えなくもない。しかし場とルールの制約を設け、それらによって相互の立場を保全しながら肉体の能力の優劣を競うそのことが、やはり劇中の喧嘩のスポーツ性を証していることは間違いなさそうだ。そのようにして見たとき、同作は不良映画というよりむしろ闊達で健康的な青春の活劇である。先に触れた『青い春』が、個々人の能力の多寡とその落差を乗り越えることの不可能性、その絶望を抱えきれない自意識の挫折と敗残が主題であったことを思えば、対照的である。三池崇史が『クローズZERO』シリーズ2作を監督したあと、『青い春』の豊田利晃はその後を承ける『クローズEXPLODE』(14)を撮ったが、シリーズの系譜を共有してもその性質の隔たりは明白だった。

滝谷源治の父のやくざの頭目(岸谷五朗)、対立する組の長(遠藤憲一)、その配下の片桐(やべきょうすけ)らの物語は本筋ではないものの、刑事(塩見三省)を介して源治たちの世代ともつながりを保つ。その面々のやりとりの恐ろしさが、それと比べれば牧歌的でさえある芹沢や源治の様子の明るさを際立たせた。祝祭的な一本である。

2008年。三池崇史監督。

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