『ラヂオの時間』の痛苦と前進

今夏は上田慎一郎監督の映画『カメラを止めるな!』がずいぶん話題になった。ごく少ない上映館からの公開開始にもかかわらず異例の動員数を記録し、公開規模を拡大させていった。内容を明かしてしまえば、奇妙なホラー映像の本編を長時間のワンカットで見せたあとでその撮影の経緯をドラマ仕立てで見せて伏線を回収するという構成の面白さが魅力のひとつであり、画面の背後を種あかしのように披露することで観客に次々に発見の快楽を与えたことがヒットの要因だったように思う。しかし、前後半で物事の表裏両面を描き分けるという手法は、たとえば濱口竜介監督の『親密さ』(12)がそうであったし、吉田恵輔監督の『ヒメアノ~ル』(16)が背筋を凍らせるのは後半の惨劇の要因が前半の平穏にも伏流していたことを思い知らされるからである。また『パーマネント野ばら』(10)や『桐島、部活やめるってよ』(12)で吉田大八監督がくり返し試みたのも、同一の時間軸上の出来事を、複数の偏った視点から描き分けて全体を浮かび上がらせるという手法だった。映画における吉田のその関心の方向性はすでに『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(07)の澄伽(佐藤江梨子)と清深(佐津川愛美)の視点の複層の時点から抱かれていたと考えるべきかもしれない。ともかく、『カメラを止めるな!』の美点は単にその構成の妙に尽きるものではないはずで、求めるべき点はさらに別に存在する。それは、全編に流れる軽やかさである、と見さだめたい。

ワンカットのゾンビものを、生放送で撮り切らねばならないのに、キャストもスタッフもいまひとつ結束していない、という撮影現場を仕切らねばならない監督の苦悩が、家族の協力や周囲の努力によって徐々に分担されてゆく。次々に押し寄せる難題は、かろうじて解決され、人々は次なる展開へと急ぐ。渋面と破顔が性急に交替を続けるのがこの映画の後半の時間の流れだと言ってもいい。小さな快感が蓄積されて大団円に至る。それはやはり軽やかな運動なのだ、と思うとき、そこに重苦しさを基調とした一本を対置するなら、『ラヂオの時間』がその座を占めるだろう。

脚本コンクールの公募に入選した作品を、ラジオドラマの生放送で上演することになり、プロデューサーの牛島(西村雅彦)は、キャストの千本のっこ(戸田恵子)や浜村(細川俊之)、広瀬(井上順)、野田(小野武彦)らの機嫌をとったり投げかけられる質問に答えたり、リハーサル直後から忙しく立ち働いている。一方でディレクターの工藤(唐沢寿明)と大田黒(梶原善)は、粛々と仕事をこなしつつも休憩に入るや真剣な眼差しで将棋を指しはじめたり、心ここにあらずの感じがある。緊張が抑えられない様子の、原作者で主婦の鈴木みやこ(鈴木京香)ににこやかに声をかけたり、身勝手な編成部長の堀ノ内(布施明)の周囲で献身的に働き回る永井(奥貫薫)も、差し入れの食べ物に調理の必要なポップコーンを買ってきたりと、たよりない。千本のっこが自身に与えられた役名が気に入らないとマネージャーの古川(梅野泰靖)を通して牛島に伝え、それを受けてみやこが脚本から修正をはじめたことを皮切りに、それぞれのキャストも自身の役柄や出番に注文をつけはじめ、修正が未完了のまま仕方なく生放送に時間どおり突入するものの、キャスト間の確執やスポンサーの意向、それらに翻弄された結果として崩れてゆく脚本の整合性に現場は混乱を深めてゆく。

ヒロインの役名が外国人名になったことからドラマの舞台は熱海からニューヨークへ移ることになるが、冒頭にマシンガンの効果音を挿入したためにミキサーの辰巳(田口浩正)がマシンガンならシカゴだと強硬に主張する。それにおされて舞台はさらにシカゴへ変更されたものの、シカゴには海はないため洋上の遭難という設定が使えなくなってしまう。問題が生じるたびに必要になる脚本の修正はまずは原作者のみやこに対して求められるのだが、素人のみやこに臨機応変の対応ができるはずもなく、次第にその主導権はバッキーさんと呼ばれる構成作家(モロ師岡)の手に移ってゆく。一同が困惑し途方に暮れる一方で超人的な発想力と速度で脚本の補正を完成させてゆく作家の技量はドラマ放送の窮地を何度も救い、そのたびにスタジオは安堵と高揚に包まれる。しかし当然ながら、何とか作品を完成させるための無理を通して劇が進行すればするほど、ドラマの全体は奇妙なものに変形させられてゆく。原作者のみやこはそれに心を痛めざるをえないが、どうすることもできない。時間の決まっている生放送でひとつひとつの問題を解決して次の展開へ向かうことは、作品が完成へ近づくことを意味しているにもかかわらず、一同の目的意識と原作者の目的意識がはっきりと乖離してしまう。単にすれ違っているだけではない。構成作家を中心とするスタッフが難局を打開して歓喜すればするほど、脚本を玩具として扱われているような気のする原作者は苛立ち、逆に脚本家が脚本通りの進行を求めて収録ブースに籠城すれば、ディレクター以下の制作陣の不快感と嫌悪感はいや増す。原作のままにきちんと作品を完成させてほしいという原作者の意向と、時間内に何が何でも作品を完成させて逃げ切りたいというスタッフらの目的は、一方が満たされれば他方が折れるという、天秤の両側のような関係に陥ってしまうのである。

キャストやスタッフの論理や利害に翻弄され、そしてその衝突や矛盾をほぼ一身に引き受けて右往左往する牛島の姿は、演じる西村雅彦によって喜劇性が保たれているだけに、かえってその内奥の忍従や耐苦を思わせて悲劇的である。それでもこの牛島という存在が一連の騒動における英雄的な役割を勇敢に果たしていることが印象づけられるのは、脚本の度重なる改変に業を煮やしたみやこがブースに立てこもって、元の脚本どおりの進行を要求する場面のためだろう。今にも泣き出しそうなみやこが、さもなければ自分の名前をクレジットから外してほしいと言い募ると、ガラスを挟んで相対した牛島は落ち着いてみやこを諭しはじめる。自分でも名前を使ってほしくないと思うような仕事にかかわることはある、でも、今回はだめだったという認識を甘受して、仕事はこなすしかないのだ、というのである。

文章を書いたり絵画を描いたり、およそ表現に関わったことのある立場なら実感的に理解せざるをえないことだろう。一点の悔いもない完成を目指して表現の彫琢を行うことは重要ではあるのだが、すべての条件について理想が実現することを待っていてはいつまで経っても作品は完成の目を見ることができない。どこかで見切りをつけて他人の目の前に供さなければ、それは表現として認知されない、という事情である。しかしこの牛島の発言が、表現にのみ関わることだと解しても、それは片手落ちだろう。つまり、何かを企て、実行するとき、関係者の全員を満足させることはきわめて困難かもしれない。しかしやらないよりはやった方がよいということを信じてやるほかはなく、たとえ不満足な出来だったとしても、今回はそうだったまでと考えて次に向かうべきではないか。毎日を無為に過ごすことに価値を見出ださないのであれば、このような信条を秘めて生きるより他の方途が残されているとも思えない。

長距離トラックを運転しながらドラマを聴いていた男(渡辺謙)は、千本のっこ扮するメアリー・ジェーンと浜村扮するマクドナルドが再会する結末に涙を流して感動し、そのあまりトラックで放送局にやって来る。建物から出たところの牛島と工藤はこの男に声をかけられて苦笑する。キャスト陣をなだめすかして演技を続行させ、突然に必要になった効果音を求めてへそ曲がりな元効果マンの警備員(藤村俊二)の協力をあおぎ、何とか結末へとなだれ込むために牛島の手足の自由を奪ってまで工藤は独自の計略を完遂したが、その結果として放送された作品が奇妙で無理のある内容だったことを、二人はよくわかっている。それに感動で涙にむせぶなどという行動は笑止千万で、この男の理解の軽薄さの証明でしかないわけである。しかしこの男のような熱烈な反応がなければ今日のようなラジオドラマを作りつづけてはこられなかったであろうし、今後も作りつづけられはしないであろうこともまた事実である。表現された内容など容易には感受されず、不当な評価がむしろ表現の現場を維持し擁護するという、暗い皮肉が夜闇とともに提示される場面となる。

『カメラを止めるな!』に戻って言うなら、映画の撮影が開始されて間もなく監督が主役の二人を罵倒したとき、『ラヂオの時間』の流儀にそくするならば二人のうちに不満や反発が醸成され、それが後の撮影において障害となるはずだったのだと思われる。単純に言うならば、それがないために『カメラを止めるな!』は軽やかさを手に入れ、それを充溢させた『ラヂオの時間』は滅入るような重苦しさを底流に持つことになった。もちろん、いずれも褒辞である。

三谷幸喜監督、1997年。

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