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改元はおめでたいけど、天皇制って無条件に受け入れるものなのだろうか。

新元号が発表された4月1日と令和元年が始まった今日5月1日は、私は仕事の関係でラオスに滞在していました。ラオスにいながらも、日本の改元騒ぎの雰囲気はインターネットを通して十分に伝わってきました。グローバル化した現代において、日本人だけが共有している時の流れがあることに不思議な感慨を覚えました。

一方で、日本人はなぜ元号を使うのだろう、という疑問も自然と浮かび上がってきました。日本国民の圧倒的多数は象徴天皇制を受け入れ、元号制度も当然のように存在していますが、世界には王室が政治に介入する国や、革命によって王制が打倒されで共和国化した国があるなかで、日本に象徴天皇制があることは当たり前のことではないからです。

戦後日本は、日本国憲法が象徴天皇制を定めて以来、70年以上の月日を象徴としての天皇と共に歩んできました。政治的権能を持たない天皇は象徴天皇としての役割を御自覚され、困難を抱えている人々を激励されたり、国家元首として国賓をもてなしたり、世界の王室と密接な関係を関係を築いたりされてきました。誤解を恐れずに言えば、天皇は対内的にも対外的にも大きな利益をもたらしてくれる存在であったと思います。

その一方で、天皇制度は、基本的人権との観点から矛盾を抱えている制度です。日本国憲法が象徴天皇制を定めている以上、皇族に生まれた者は言うまでもなく様々な人権が制限されています。イギリスの歴史家トインビー博士は、日本の天皇制についての見解を問われた際に、将来は天皇自身のボイコットにより崩壊するだとうと述べています。現在の天皇制は、皇族の方々が御自身の役割を受け入れているからこそ成り立っていますが、そうではない場合には根本的に成立しない制度です。

天皇が政治的アクターとして存在していた戦前の天皇制と比べ、戦後確立した象徴天皇を元首とする立憲君主制はたしかに良く機能しており、日本国民に広く浸透し支持されています。実際のところ、この「国のかたち」を守りたい、伝統を大切にしたい、という保守的感情は私の心の中にもあります。

しかし、天皇を神として崇めていた敗戦直後の日本国民には天皇制が必要不可欠だったとは思いますが、信仰の対象ではなくなった現在、天皇制は日本国民の統合のために必要不可欠とまでは言えなく、共和制を選択する余地がすでに生まれていると思います。天皇制を存続させる「公共の利益」と皇族の基本的人権の制限とを天秤にかけた際、前者を後者より優先させるべきだと結論づけることは、現代の人権意識からは出来ないと思うのです。

随分と堅い話になってしまいましたが、改元はおめでたいことに違いはないので、今宵はラオスのビールで祝杯をあげながら令月でも眺めてみたいと思います。めでたしめでたし。

※敬称略につきお許しください。