百済の落人

「下の者たちはもう眠ったようだな」
「そのようですね」
陽が落ちてしばらくの後、石段を数十段下った所にある僧坊からは歓談の声が聞こえ来ていた。
その声が途切れたのが、四半刻ほど前。
地面に反射して、下からの声は上空へと抜けるので、この高みにいると配下たちの会話は、その内容までつぶさによく聞こえた。
「少し飲み過ぎているように思うが」
「無理もありません。これが初の出征の者も多いのですから。きっと強張りをほぐしたいのでしょう」

戦勝祈願の為にこの山寺に入ったのが昼時、そこから半日籠って祈祷を行った。
その後は、福智王と側近の波蓮(パァレン)の2人だけが、この本堂に誂えられた寝所に残り、手勢32人は階段下の僧坊での滞在となった。
酒宴の声が騒がしくなった時、福智王はその都度、咎めの言葉をかけに石段を下りようかとも考えた。
しかし波蓮が指摘した通り、彼らの中には親の世代が倭国に渡り、こちらで生まれた者も多く、そしてまた、こちらで得た倭人の配下も多かった。
彼らにとって戦は初めての経験だ。
怯えを拭うべく、酒量が進むのも無理はない、と浮かした膝をまた折るのだった。
近江の都からの勅使が訪れたのが5日前。
下知の内容は【山里深くに郷を構え、未だ朝廷に従わぬ球磨離(くまり)の勢力に対する征伐が敢行される。その一軍に加われ】というものだった。

「我らは、先の神門(みかど)での兵乱からしばらく日が経っておりますが、剣の鍛錬は・・」
「その話はするな。験が悪い」
波蓮は己の口の迂闊さを呪った。
福智王にとっては、先王である父君を失った苦々しき記憶の戦なのだから。
共に故国から逃れてきた先王である父・禎嘉王は、再興の志を抱きつつ、それが果たせぬままこの異国で命を落とした。

百済からの渡来人は倭国に仏法をもたらしたのみならず、普請や冶金といった種々の技術も流布させている。
大陸への足掛かりとしてだけではなく、それらに恩義を感じるからこそ大和王権も、先の復興戦である白村江に援軍を送ってくれたのだろう。
そんな経緯もあって、一行の留まるこの光林寺は、祈祷の申し出を快く迎え入れてくれた。

「しかしどこに行っても、戦、戦、だな。人の世とはこうも殺伐としたものか」
「それでもまだこの倭国で、いや今は日乃本でしたね、この地で畢生するのが正解であるのかもしれません」
少なくとも、今回の球磨離討伐の令が下るまでは、戦に駆り出される事はなかった。
あの狭い半島に百済・新羅・高句麗という3つの国がひしめき合い、唐からの干渉も頻繁であった。
この島国に拠点を置く方が、まだ平安に過ごせるのかもしれない。
いや、もはや帰りたくとも帰れないのだ。
此の度の勅令も、快いものではなかった。権威に従わせ、土地と富を奪うそのやり方は、どこに行っても逃れられぬものなのだろうか、と。
福智王は、その戦と戦の狭間にある、わずかばかりの安らぎの時間に思いを馳せた。

寺の住職は二人のいる本堂にも酒を置いて行った。が、まだ二人とも口をつけていない。
「しかし、ここの僧侶たちはどこで眠るのだ?」
「はい、何でも近隣の寺へ出向いたそうです。我らに寝所として明け渡す為に」
明朝の早い時間に、この山寺を出て一行は討伐軍の集合地へと向かう。
「寝酒として、我々も少し飲むか」
仏前で飲むのは罰当たりであろうかと、置かれた酒には手を付けないでいた。
しかし先刻よりこの本堂で、翻弄される身の上を想った時、もう羽目を外してもよいかという心持にもなってきた。
「そうですね。その方が深く眠れるやもしれません」
福智王からの提案に、波蓮が瓢箪から盃へと酒を注ぎ、王へと手渡した。
波蓮も自らの盃を持ち、「では武勲を祈願して」と乾杯した直後に、二人は同時に気付いた。
「波蓮、口に含んでおらぬな?」
「はい、大丈夫です」
福智王は壁際にそっと近づき、壁板の細い隙間から外を窺った。
「暗すぎて、確かめようがないな・・」
空の月は三日月。地を照らす光はわずかだった。
「しかし、間違いないでしょう。我ら二人が、ほぼ同時に殺気を感じ取ったのであるならば」
戦をいくつも経験したからであろうか、いつの間にか二人は殺気を敏感に感じ取れるようになっていた。

「賊だろうか?」
「ならばわざわざ階段を上がってここまでは来ないでしょう。我が君、あなた様がここへ居ると知って現れた者でしょう」
「つまり刺客である、という事だな?」
福智王のその問いかけに、波蓮はしっかりと頷いた。
「何人であると思う?」
「大人数だと目だってしまい、こちらの手勢と交戦になってしまいます。おそらく隠密行動の数名かと・・」
寝込みを襲うつもりなら、頭数もそれほど必要はない。
「どこの手の者でしょうか・・?」
数日後に相まみえる事となる、今回の討伐対象の敵軍が、ここまで出向いて来るとは思えない。
「おそらく、この辺りの豪族のいづれかが放ったのであろう。まあ、おおよその見当はつくが・・」

二人の脳裏に、この問題をどう凌ぐか、その案が駆け巡った。
下の配下に知らせる。その為のほら貝などの類は持っていない。建物を出て大声で呼びかけても、その間に襲われてしまうだろう。
何より、配下たちは酒に酔った状態で眠っている。階段を駆け上がれるかどうかすら怪しい。
「おそらく、灯りが消え、我らが寝静まったところへ踏み込んでくるつもりでしょう」
「窓には格子があるな?」
「ええ、ございます」
「となると、侵入口はこの正面入り口のみ」
「誘い込みますか?」
「それが得策であろうな。外では囲まれてしまう」
こちらが勘づいたのを悟られぬよう、二人は周到に備えるべく行動を起こした。

それぞれが身を隠す位置を柱の裏側と決め、寺院の用意してくれた二つの寝台を、その脇に配した。
蓆(むしろ)を丸め、寝台に乗せ布団を被せ、二人がそこに眠っているように装った。
うまくすれば、刺客は二手に分かれるはずだ。
「まずは寝込みを狙うであろう。あえてそれをさせ、柱陰から出て背後を取る」
一人目を柱陰から弓で狙えれば、それに越したことはなかったが、残念ながら弓も槍も下の僧坊だ。手持ちの二本の太刀だけで事に当たらねばならない。
次に堂内の区切りの木柵である結界を動かし、柱の奥の位置に横倒しにした。
楢の木で作られているそれはずっしりと重い。
「一人を斬った後に、すぐ柱陰へと翻す。横倒しにした結界を飛び越えてな。仏の加護が働くなら追手はつまずいてくれるだろう。そこを斬る」
音を立てぬよう細心の注意を払い寝台と結界を配置し、その間灯りが潰えぬように気を配った。
こうして敵を迎え討つ全ての準備を終えた。
問題は踏み込んでくる刺客が何人いるかだった。
もし四人きりであるならば、この策が上手くいけば、それで決着がつく。
それ以上であるならば、隘路へ誘い込み、一対一の形で応じる。
そして敵が何の武器を手にしているかも問題だった。
道中、目立つ事になる槍は持たない可能性もあったが、こればかりは予断が許されない。
「同士討ちが一番つまらぬ。互いの腕を信じて、個々に刺客を引き付けようぞ」
「はい、心得ました。殺気をこれほど漏らすとなると、そこまでの手練れではないのやもしれませんね」
「だと良いのだがな。しかし気は抜くなよ」
その後、夜目を利かせる為に、灯りはそのままに、二人で目を瞑って時を過ごした。
「出征前の腕試しだな」
当初、ぼそぼそ声を用いていたが、逆に眠らずに会話をしているよう装く為、普通の話し方に変えた。ただし内容が聞こえぬよう、声の大きさは絞った。
酔ったふりをして、敵を油断させる案も考えたが、逆に演技の不自然さを悟られるやもしれぬと、それは止めにした。

目をつむって時間を過ごす最中、波蓮が呟いた。
「もてなしとはいえ、僧が酒を置いていくなぞ、おかしいとは思っていたのです。もしや住持が手引きしているのではないでしょうか?」
「酔わせて、我らと兵を人事不省にさせようと?」
「はい」
「確かに、我ら二人だけをこの本堂に導いたのも怪しく思えるが、それを断じるにはまだ早い」
「そうですね。我が君、まずはこの場を切り抜けましょうぞ」
再度、段取りを思い描き、決戦への意を新たにした福智王が告げた。
「では、灯りを消すぞ」
「はい」
打ち合わせ通り、それぞれが柱陰に潜み、刺客の侵入を待ち構えた。
福智王も、また波蓮も、暗闇の中でひとつの懸念に捕らわれた。
もし、こちらが刺客の来襲に気付いていると、向こうが悟っているならば。
もし、この策の裏をかかれるようなことがあったなら、と。
しかし、もはやそんな懸念は無用の長物だ。
ただ、目の前に現れる事象に、己のその時の判断で対処するしかないのだから。

静かに、扉が開いた。
柱に息を潜める福智王と波蓮は、息を殺し、闖入者の姿を捕えるようと瞳を凝らした。
共に朝鮮半島に古来より伝わる剣技、即妙の構えをしている。
二つの寝台へ、それぞれ二人づつ、つまり四人の刺客が、彼らもまた息を潜めて歩みを進めていた。
幸いな事に、賊の手に握られているのは太刀だった。もし槍であったならこの後に苦戦を強いられる事となる。二人はその事に安堵した。
手筈では、寝台の蓆に連中が刃を突き立てるまで待つ予定だ。
福智王も、波蓮も、すぐにでも飛び出したい逸る気持ちを抑えた。
賊は互いの顔を合わせ、互いの目配せを合図に一斉に剣を振り上げ、そして振り下ろした。
賊が寝台の主が偽りと気付いたその瞬間に、柱陰から飛び出した福智王と波蓮の二本の太刀が、刺客一人づつを斬り裂いた。
暗闇に刃(やいば)のきらめきが舞った。
斬られた刺客の二人は、蓆へ振り下ろした剣を引き上げる間もなく、この本堂での最初の死者となった。
残り二人の刺客は、一瞬、呆気にとられたものの、すぐに身を引き、剣を構え直し襲い掛かって来た。
手筈通り、その場では応ぜず、本堂両脇の柱陰へと、それぞれに敵を誘導した。
顛末は申し分なかった。
死角にあった横倒しの結界に気付かず、追って来た刺客は両者とも見事に転倒し、そこに止めを刺すのは造作もなかった。
荒いだ呼吸を整え、静寂の戻った本堂でしばし二人は無言だった。
「上首尾に終わりましたが、四人きりでしょうか?」
「うむ、他に気配は感じぬが・・」
新たな闖入者が現れない事を確認すると、波蓮は入り口より外を窺い見た。
もし外に他の刺客が居たとして、仲間が戻らなかったらどうするだろう。
四人より多ければ、第二波として突入してくるだろうが、見張り役として残したのが一人か二人なら、仲間が戻らぬ事から計画は失敗とみて撤退するだろう。
しかし弓を携えている可能性もあり、その場合、のこのこと出て行けば恰好の的にされてしまう。
しばらく、本堂内に留まり、新たな動きを待ったが、しかし何も起こらなかった。
今回、先に察知できたのが勝利の鍵だった。この後の戦でもこの勘が働けば、死地を潜り抜けられるだろう。
「戦場に赴く前からこのような沙汰とは・・」
「仏前で殺傷とは、仏と我らが聖明王に許しを請わなくてはならないな」
百済の聖明王が、倭国に仏教を伝えたのが百年前とされる。大和王権は仏教の普及をひとつの手段として、全国の統治を推し進めている。
信心とは何であろうかと、福智王は懊悩せずにはいられなかった。
「先ほどの話だが」
「はい」
「僧侶であるなら殺傷は望まぬはず。もし手引きしていたのだとしても、それはおそらく無理強いされての事だろう。だからそれは不問としよう」
「かしこまりました。して、これからどういたしましょう?」
「下の僧坊へと参ろう。さすがにここでは眠れぬ」
「遺体は運び出しますか?」
「いや、他に潜んでいる者がいるやもしれん。運び出す最中に背後を取られるのはまずい。もし僧が手引きしたのであれば、葬るのは任せよう。弔いは彼らの勤めでもあるしな」

下の立ち番は機能しているのか。していたとすれば、闇を忍び進む刺客に気付けただろうか。
福智王は、やはり飲酒を咎めるべきであったと、いや、この仏の地であれば立ち番すらそれほど重きでないと考えていた己の脇の甘さを自戒した。
本堂の敷居を越えて、背中合わせに表へと進み出た。
何も起こらず、新手の気配は感じられなかった。
「どうやら、刺客は先の四人だけのようですね」
「ああ、しかし油断はするな。気配を殺すのに長けている者もいるのだからな」
福智王と波蓮は、夜具は下にあるだろうと。太刀のみを携えたまま、下の僧坊を目指した。
階段を下っている途中に、峠の道をたいまつが近づいて来るのが見えた。
その速さからそれが馬であり、近づくにつれ、二人が騎乗しており、後ろに乗る者がたいまつを掲げていると判った。

案ずる必要はなかった。刺客ならわざわざ姿の知れるたいまつは持たぬはずなのだから。
とはいえ、福智王にも波蓮にも、それが彼らの一門の者ではない事も判ぜられた。
二人は石段を下りきり、寺院の全ての建物が収まる外壁の前で待ち構えると、馬は数尺先に停まり、先に下りた騎手が、後ろに乗っていた者を介添えして下ろした。
「もしや、あれは・・」
騎乗と同乗者の相貌が捕らえられるようになると、それが見知った顔である事に福智王は気が付いた。
刹那に同じ気付きを得た波蓮は「私は側に控えております故」と述べて、福智王の側を離れた。
手綱を繋げられる杭を探す騎手を残して、下馬したもう一人がこちらに駆け寄って来て、勢いそのままに福智王の腕(かいな)に飛び込んで来た。
「やはりあなたでしたか。姫」
この地域の有力豪族の娘、久世姫だった。
「このような刻に、危険です」
「障りありません。伴の児佐武は馬を走らせるのに長けておりますし」
「しかして、何故ここに?」
「女房の一人が、壁越しに謀議を聞いて、私に報せてくれたのです。刺客があなた様の下に向かったと。私の父が放った兵なのです。慌てて屋敷を抜け出して、ここまで馳せ参じました」
やはり、そうだったのか、と福智王は合点した。
「本当に、父の狼藉を何とお詫びしてよいか・・」
福智王の衣服に飛び散った血の臭いから、そしてつつがなく階段を下って来た福智王と波蓮の姿を見て、久世姫は事の顛末を理解した。
福智王は、暗闇の中でも姫の頬に涙が伝っているのを見て取った。
彼女が自分の身の無事を悟って流す涙が、彼にとっての至宝だった。

久世姫の父は、先の豪雨によるいくつかの橋の普請を担ったとして、今回の派兵要請を突っぱねている。
表向きは大和王権に恭順の意を示してはいるが、面従腹背で、王権のやり方に不満を抱いている。
そして今回の討伐対象である球磨離の里とは通じている。
そして彼は純潔主義者だった。
自分の娘が渡来人と結ばれぬ事のないよう、また球磨離に加勢する意味もあって、刺客を放ったのだろう。
そして姫もその事情を十分に理解していた。
「父は私があなた様をお慕いしているのが気にくわないのです。福智の皇子(みこ)様、いえ、今はお父君の後をついで、福智の王君(おうきみ)であられますね
「それは言わないで下さい、今の私は皇子でもなければ、王でもありません。もう私の故国は存在しないのです」
そう、即位もしていない、流浪の王族。
大和王権のその覇は、畿内を全て手中とし、今や日乃本の全土を覆いつつある。
やがては全ての氏士族・豪族が従い、完全にひとつのまとまった国家となるだろう。
その王権に、どれほど忠義を尽くすのか、それが推し量られている。
もはや故国は存在せず、再興もあり得ない。この日乃本で確固たる礎を築くことでしか未来は描けぬのだった。
その為には此度の征伐で、戦功を挙げなくてはならない。

「久世は心配でたまりませぬ。福智王様の身に何かがあったらと・・」
「ご安心下さい。この度の戦は数はこちらが大いに勝ります。決して難しいものではありません」
やがて大勢が決し、国土全てが王権の下にひれ伏すならば、そして自分がこの土地での勢家となり、一角の地位を築くならば久世姫の父君も婚姻も許されるだろう。福智王も久世姫も、そこに二人の将来を委ねていた。

お互いがきつく抱きしめあう最中、福智王の脳裏に一つの懸念が閃いた。
もし、父親から殺害の密命を受けていたなら、もし彼女がその手に短刀を忍ばせていたなら、この抱擁で命を奪われるかもしれない。
少しでも疑った自分を恥ずかしく思うと同時に、この女性に引導を渡されるなら、それはそれで本望だと福智王は感じ入った。
必ず武勲を立て、地位を確かなものとし、必ずやこの女性を迎え入れる。
日乃本の客人(まろうど)ではなく、一豪族として身を立てる。

「さあ、屋敷へお戻り下さい。朝になってあなた様の姿がなければ騒ぎになります」
「はい、福智王様もどうかご無事で・・」
二人は別れ難いその腕を解き、福智王は久世姫を馬丁の下へと促した。
走り去る馬の背の姫の姿を見送りながら、福智王は、故国での過去を想い、この日乃本での将来を想った。

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