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人魚歳時記 如月 後半(2月16日~29日)

16日
ブルーデイジー、クロッカス白と黄、シルバー・ディコンドラ、植物を買う。お昼、車の中で焼芋を珈琲と食すと、暑くて汗が出てくる。「もう終わり? 早いよ」胸の中で冬に語りかけた。空には雲がない。見上げると、必ず昼の月がある。海原に浮かぶヨットの帆に見える白い月。

17日
ヒヤシンスの香りが急に変わった。見ると艶やかだった花も、いつの間にか変色している。気分転換を兼ねて愛犬の散歩に行くと、歩くより道路脇の匂いを嗅ぐのに夢中。なかなかな動かない犬の傍らに、目を覚ました蜜蜂が、乾いた道に小さな影を落としながら停止飛行していた。

18日
午後、布巾を買いに百円ショップへ。陽の差し込む店内は閑散としてボサノバが流れて心地よいので長居すると、「逢いたいなぁ」と、誰をも思わず、ただ甘ったるい気持ちだけが膨らみ、せつなくも気持ちが良くて桃の飲料水を買って車中で飲み、「アァ、春だなぁ」と実感した。


黒ビオラ

19日
ストーブの温度は微弱で。午後にケーキを買いに行くと店主の妻が風流にも「ケイチツの頃みたい」土中の虫たちが動きだす啓蟄。三月の季語とはいえ、二月を押しのけ居座る弥生の気配濃厚な日和。硝子の中のケーキを選ぶ私のお腹の中でも、食欲虫が盛んに目を覚まして騒ぎ出す。

20日
早朝、外では猫が妻を求めて野太く鳴いている。階下に降りる。昨夜作った料理の微臭が台所に漂っている。同じものを作っても、寒い時期はこんな甘い匂いは残らなかった。やだ、もう本当に春? ヒュイっと寒い冬が好きなのに、弥生どころか皐月が卯月を跨いで来たみたい。

21日
朝から雨。昔は憂鬱を感じた鉛色の雨日も、この数年は落ちつきを感じる大好きな天気だ。こんな日、夕食の支度など、夜に向けてしだいに気ぜわしさを感じる午後に、ふいに外でヒヨドリの濁った鳴き声が響くと、あぁ冬だなと、郷愁にも似た気分がしんしんわいてくる。

冬はしるミキサー車

22日
祝日前日の今日も冷たい雨。東京に住んでいた頃、こんな日和を選んで美術館や博物館によく行った。湿ったコート姿で、孤独を保ったまま館内を歩き回る時間の素敵さを思い出して、久しぶりに都会が懐かしくなるも、雨の庭を歩く土鳩の姿を見れば、田舎もまた良いと思い直す。

23日
天皇誕生日。旗日。雨三日目。朝は霙が降っている。昼寝。私の脇腹に猫が身を寄せてきて、昼過ぎまで夢も見ずに熟睡。起きても雨。薄暗く静か。夕刻、母屋に行く。回り廊下から金柑を啄む鵯を見る。日本間は薄墨色一色でその中に沈んだような仏壇の、仏具が鈍く光っていた。

24日
昨日はよく寝た。今朝は普通に起きる。愛犬の散歩。寝すぎたので、病みあがりみたいにおぼつかない、危うい感覚。頭の中は諸々の事がすっぽり抜けて真っ白。凝った疲れは溶け、全身が緩みきり、体内は春爛漫。頭の中にも花が咲き、今もまともな文章など書けないでいる。

25日
昼には降るというので、朝のうちに愛犬と散歩に行く。墓場の裏の竹藪から、大きな猫がぬっと現れる。ここにはいつも近所の老婆三人が集まり、私が通りかかると毎回必ず「その犬の名前は?」と訊いてくる。教えても次も必ず訊く。でも今日は寒いので、墓地には誰もいない。

#2
「そろそろ出して」と、押し入れの中でお雛様が騒ぐ雨の夜。

見つけたよ

26日
戦前の東京で祖父母は結婚した。式の途中から青年将校たちの謀反の情報が伝わり騒然となった。夜、人も車も消え、電車も止まり、雪の中を国鉄線路に沿って、祖母は花嫁姿のまま、新居まで一時間以上も夫や仲人と歩いた。仲人の妻が後から着物の裾を持ち上げて歩いてくれた。

27日
一昨日から脱衣所の白い壁に蛾がいる。羽を畳んだ姿は二等辺三角形。琥珀色の羽は透き通り、黒い模様が入っている。瞳を凝らすと『火星の運河』に見えてきた。三寒四温。急な冷え込みに慌て、暖を求めて迷い込んだのだろう。浅い春の夜に、蛾の運んできた幻を楽しむ。

28日
犬と差散歩に出る。冷えた足指に血が回る。陽射しは暑い。住宅街を抜けて田園地帯に入ると、花粉が舞っていて顔にコロコロあたる。幾粒かはまつ毛に串刺しになった。お腹の中で胃が疲れを訴えてくる。こんな時は何がいいのか考えながら歩き、帰宅するとチャイを作って飲んだ。

29日
町はずれの物凄い廃屋。所々剥がれ落ちた漆喰の壁から竹を麻紐で縛って組んだ骨組みが覗く、茅葺屋根の家。朝になれば骸骨に戻る女房が棲む『浅茅が宿』そのもの。それが今日、行ってみると取り壊されている。奇跡的な中世の幻影は、古井戸のみを残して永遠に消滅した。

#2
殺風景だった冬田も、ホトケノザの緑と明るい紫に埋め尽くされた。枯れ草を燃やす白い煙が農家の庭から流れてきて、玉虫を呑み込んだように白濁して鈍く光る空や、華やかな田をゆっくり舐めながら広がっていく。ヒヨドリが去る冬を追うように鳴いている。


春に向けて畑を焼く


梅まんかい

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