Adoと井上陽水、クイーン

ずっとAdoを聴いている。

50代にもなると、新しい音楽なんて入ってこない。
しかし、Adoを聴いている。

新しいオーディオ機器を買ったので、高音質音源を配信してるアマゾンミュージックで「音質はどうだ?」などと(音質など分からないのに)音楽を聴いていた。

俺は床に直接モノを置く男…

写真のクイーンのような、思春期から聴き込んだ音楽を最新のオーディオ機器で聴いたらどんなのだ?…という趣味。
音楽というよりは「音」を楽しんでいる。

音質が良いような気がする…

試しに、最新の、流行りの音楽でも聴いてみるか…
と、「最新ヒット曲」みたいなのを聴いて「ほう、こんな音ね」などと曲をスキップしていくと
「この声はなんだ…」という曲があった。スマホを見ると「Ado」と表示されていた。曲名は忘れた。

Adoというと、

この、怖い人?

「うっせえわ」という曲は中高年世代にも「ん?」と引っかかるように作ってあるので、俺も知ってたし聴いていた。

しかし、この「うっせえわ」という曲から感じ取ってしまったメッセージは
「老害は死ね」
である。

俺たち世代が「ん?」と引っかかるように作っておいて、そんな言わんでいいやん。

ということで、Adoという人は「うっせえわ」と共に「めっちゃ怖い若者の代表」というイメージになり、距離を置いていた。
どうせ新しい音楽は分からんし。

そのイメージが少し変わったのは紅白。
檻の中で歌ってるが…歌がやはりスゴイなぁ…動くんだこの人…


アマゾンミュージックで聴いたAdoの話に戻る。

Adoってこんな声だっけ?と思った。
Adoは1人のはずなのに、声が何種類もある。
そもそも、「うっせえわ」の頃、Adoのことを歌声から男性だと思っていた。

「Adoの歌声」というのが、よく分からんのだ。
楽器みたいだ。
ギターでいうと、ディストーションをかけて歪ませた音からアコギのような澄んだ音まで、声で出している。
人間か?

Adoの曲を曲名も分からず、ずっと聴いた。
今の音楽って、こんな音なんだ。

アレ?…新しい音楽が、俺にも入ってくるよ…???

ポップミュージックにおいて一番重要視されてる「歌声」があまりにスゴイため、聴けてしまっている。


ふと、「このAdoという人は、作詞作曲もしてるの?」と気になって、調べた。

「Adoさんが作詞作曲をしているか調べてみました!していません!どうでしたか?」

作詞作曲はしてないらしい。
ということはメッセージ性は無い。

ということは…
「うっせえわ」=「老害は死ね」
はAdoのメッセージではないのか。

「作詞作曲をしていない」という事実により、Adoへのイメージが大きく変わった。
怖い人ではない。
俺もAdoを聴いていい。

Adoは「歌い手」というらしい。
歌手とは違うのか。分からん。
「なんでも歌いますよ!」ということか。

SNS全盛の現代、有名人であればあるほど、大変だなぁ…と思う。

このAdoという人はパーソナリティを一切出さず、ものすごいクオリティで歌を歌う。

個人の言葉や意思を出さないが、スゴイことをやる。
ある意味、大谷翔平に似ている。
大谷翔平には興味が持てませんが…野球に興味が無いので…


いや?アーティストとして、歌手として、伝えたいこととか無いんか?

…いやいや?
アーティストや歌手は「伝えたいこと」を持ってないといけないのか?

「歌いたいから」でいいのでは?

いったい、いつ、ミュージシャンが「伝えたいこと」を持たなければならない、という風潮になったんだ?

たぶん、その「ミュージシャンは自分で作詞作曲をして、メッセージ性を全面に出すべきである」
…というのをやって、成功したのは、

吉田拓郎である。
そして、吉田拓郎を追う形で井上陽水が大成功した。

井上陽水の「氷の世界」というアルバムは、オリコンの年間チャートで2年連続、1位になっている。

この現象に、職業作詞家、職業作曲家は恐怖した。
俺たちの仕事が無くなる。

職業作詞家のなかにし礼は「氷の世界」についてこう語っている。

吉田拓郎、井上陽水の出現と成功により、

「職業的な作詞家・作曲家は不要になる。職業作家が書き、歌手が歌う。この形では(当時の)若者たちの精神の問題を解決できなかった」

職業作家が書き、歌手が歌う、いわゆる歌謡曲では若者は満足しなかった。

1960〜1970年頃の若者って、めっちゃ数が多い上にエネルギッシュすぎるやん?
学生運動の記録映像とか見ると「死ぬ気か?」と思う。

その学生運動も下火になり、でも悶々としていて、
そこに「自分の言葉で歌う」吉田拓郎が登場して、井上陽水が成功して、
このあと、中島みゆき、長渕剛、尾崎豊、ブルーハーツ、椎名林檎等、挙げればキリが無いが
シンガーソングライターは「若者の代弁者」となってゆく。

バブル崩壊と共に「応援ソング」なんてのも生まれて、ミュージシャンは「皆さんに、勇気を与えたい!」と言わないといけない雰囲気も作られていった。
(本人たちが本当はどう思っていたかどうかは不明だが)

中島みゆきなんて、何人の命を救ってるのだろうね。


歌にメッセージ性がある、これを長い間、俺は重要視してしまっていたし、それもいいのだけど、

それとは全く別次元で、

例えば、クイーンの「ボヘミアンラプソディ」って曲、何を歌ってるか全く分からんやん?
でも、聴いてて感動してしまう。

英語だから分からない、というのを抜きにしても、
「母さん、人、殺しちゃった」
で始まる曲に何故あんなに心を揺さぶられるのか。

音楽ってこう、もっと理屈抜きでよいのでは?


Adoという、俺たち中高年には全くどんな存在なのかが分からない、
音楽性は「無い」ともいえる、
しかし、聴いてて心が動いてしまう、
素晴らしい歌声の曲を聴いて、そんなことを思った。


現代のお笑いも、YouTuberもVTuberも、新しいものは全く分からんが、

「Adoというフィルターを通すと新しいものが入ってくる」
という能力を、オッサンは得た。

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