続・Ado

椎名林檎の「無罪モラトリアム」が発売されてから四半世紀が経ったらしい。

俺が「新しい音楽」をリアルタイムで「新しい音楽そのもの」として受け取った最後の体験だ。
俺は当時、30歳だった。

その後は、同様の体験が、無い。約54歳の今に至るまで無いのだから今後も無いと思う。

これは「無罪モラトリアム」以降の音楽がツマラナイという意味ではなく、
俺側の感性が衰えただけ、ということを素直に認める。 

あのマドンナでさえ「今の音楽は全て同じに聴こえる」という発言を数年前にしている。
凡人の俺の感性が衰えないというのは無理がある。


誰もがそうなるとは言わないが、
感性・脳の処理力の衰えにより誰でも「最新の、今のものが分からない」という状態に陥る。

そして核となる感性、これは俺の場合10代までにインプットしたものだが、その「好きな核」に似ているものを選んでしまう。

「これは(昔の)〇〇っぽいね」というようなことを思う。

新しいものを「〇〇を彷彿とさせる〜」という宣伝文句で売ろうとするやつがあると思うが、アレが若者だけではなく、幅広い層に売るための手段であることが、今は分かる。


歳を取ったら、自分の感性の死を素直に認め、新しいものに口を出さないことが大事になる。

分からんものは分からんままにしとこう。
新しいものに口を出そうとすると「ツマラン。昔の〇〇の方が良かった」という言葉が出てきがち。


(年齢を重ねることの負の部分ばかり書いてきたが、年齢を重ねることでイイこともあり、それは「穏やかになる」こと。感情の起伏が穏やかになるので「天気が良くて、身体に不調がない」という理由だけで「幸せだな〜」と思って生きている。
社会の構造的に俺たち以上の世代の存在が若い世代に負担をかけていることは明白なので、大きな声で言えることではないが)


「今の音楽は分からなくて、音圧がデカくて、聴けない…」などと四半世紀に渡り思い続けて若い頃に聴いた音楽ばかりリピートしてきたが、
最近はなんと、Adoを聴いている。

なぜAdoなら聴けてしまうのか?…と考えてみると、単に

「歌い方が好きだから」

という理由になる。

歌を生業にして生きてる人は全員、歌が上手かろう。
ピッチがどうとか、そういう専門的なことは分からない。
技術的な歌の上手さを追求していけばオペラとか声楽に辿り着くだろう。

「好み」を追っていけばいいのだ。
どうせもう、新しいものは入ってこない。


音楽に限って言えば、俺の好みは「エモーショナルなもの」であることは自分で把握している。

エモーショナル、というのは情熱的、というのとは違うし「エモい」という意味ではない。

エモーショナルなボーカリストの最高峰にいるのが、
個人的には
ジャニスジョップリン
である。

前述の「〇〇っぽい」という言葉を使って申し訳無いが、

Adoの歌はとてもジャニスジョップリンっぽい。

だから老いさらばえた俺にも入ってくるのだろうと思う。


20代の頃は永遠に続くと思っていた、
NO MUSIC, NO LIFE.
な生活は10年以上前に終わり、できるだけ静かな生活をしているので音楽なんて1日30〜60分聴ければいい方だが、

今は寝る前にAdoを聴くことを楽しみにしている。

まだ60曲くらいしかリリースしてない状態のこのアーティストを早めに知れて良かった。
中高年ホイホイ要素を使った「うっせえわ」というプロジェクトはしっかりと「もう新しい音楽に用はない」と思っていたジジイを繋ぎ止めた。


ちなみに、俺は融通の効かないゼロヒャクな人間で「音楽にしっかりと向き合いたい」という気持ちが強いため、ビクター犬のようにAdoを聴いている。

ビクター犬

寝る前にビクター犬のようにイヤホンでAdoを聴きながらドロップザナンバーをすることを楽しみにしています。

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