見出し画像

レガシーと宇宙に対する郷愁

小松左京の虚無回廊という作品に、どれだけ影響を受けたか、
わからない。なんで、それだけ影響をうけたのかというと、
それは、おそらく、父が、むずかしい作品だよ、と言っていたからだろう。
賢い父がそういうなら、とっても重要な小説なのだろうと思い、
真剣に読んだ記憶がある。小学生や、中学生の時ほど、
小説を真剣によんだことはない。
特に、はまりこんで読んだのは、水野良さんの
ロードス島戦記だった。こどもの頃に読んだからなのか、
この本は、本当に面白かった。30代くらいのころに、
角川書店のライトノベルのイベントで、報道のビデオカメラマンとして
仕事をしたときに、水野さん本人にお会いできた時は、
本当に嬉しかった記憶がある。そもそも、僕がした仕事の中で、
一番嬉しかったのは、報道撮影の仕事だった。
放送と、映画は、あこがれの仕事だった。報道の仕事の、
臨場感は、半端ない。カメラに被写体が写らなかったら、終わりだし。
 話を戻す。
虚無回廊は、人工知能存在が、深宇宙の果てに、仲間と共に
旅をする話だ。僕は、こんなにすごい作品が、なぜ映画化しないのだろうと、ずっと思っている。とてもいい作品が、必ずしも、映画化するとは
限らず、正直、それほどでもないものが、映画化するような気がする。
さよならジュピターの映画化は、とても良かったと思うが、
さらには、日本沈没は、二回も映画になっているが、
小松さんの真骨頂は、やっぱり、ハードSFだし、ゴルディアスの結び目だと思う。幼いころは、ハードSFではないものは、SFとしての価値は、
それほどではないのではないか、と偏った考えをしていたが、
40代になってみると、そんなことは全くなく、むしろ、読みやすい
ジュブナイルでもいいんじゃないか、と思うようになってきた。
そもそも、本質的なことを、わかりやすい語り口で、伝えられるということは、結構すごいし、大事なことだと思う。
難しいことを、難しいように伝えることは、それほどのことではないだろう。それよりも、解きほぐして、かき砕くように、記述することにも役割があると思う。入りやすい方が、広がる可能性が上がる。
 そうはいっても、だが、虚無回廊は、秀逸な作品だと思う。心に残る、
人物描写は多いし、イマジネーションが豊かに残っている。
 小松さんは、お父様が、発明に関わる仕事をしていたと聞いて、その時は、腑に落ちた。小松さんは、アイデアがとても豊富で、短編作品にも、
アイデアが満ちている。だから、僕の中では、SF小説というのは、アイデアで創作するものだと思っている。アイデア自体が、輝くし、コアになるものなんだ。4次元ラッキョウとか、わびしいときは立体テレビ、とか、最近の、おりたたみ北京にやっぱり通じるような、SF的な、型があるのだろう。
 途中で気が付いたのだが、SFは、ともすれば、ファンタジーとあまりかわらないという側面がある。科学的な設定があると、科学風な小説になるのだけども、それをはずしてしまえば、空想的なお話、空想小説の形が残っている。空想といえば、小説自体が、つくりばなしなのだから、気晴らし程度に活用すればいい程度のものなんではないか、楽しめばいい程度のものなのでは、ということに気が付いてしまった。それに気がついてしまったので、小学生や、中学生の時のように、超真剣には読まなくなった。これを、成長という。まあ、普通のことに気が付いただけなのだけど。自分は、特別な存在ではなく、魅力的なSF小説に魅了された、一SF好きな親子に過ぎなかった。小松左京さんは、まだ、貧乏だったころに、奥さんに、自分で書いた小説を、すこしづつ、書いて渡していたといいます。僕は、この話が、とても魅力的だと思ったので、イラストを渡すという、形で、やってみています。小松左京さんのような作品を書こうと力むと、なにもかけなくなるので、しがない力がそんなない、一SFファンとして、僕のできることをしていけばいいのだろうと思っています。まあ、そもそも、世の中には、SFよりも面白かったり、大事だったりすることは沢山あるし、科学的なアプローチや、視点だけが、大事なわけではないし、科学の発達による弊害のようなもので、温暖化がすすんで、滅びかけているようにもみえて、科学や、技術崇拝一辺倒で、このままのかたちで進んでいって、ほんとに大丈夫なのかと思ったりしている。地球環境が、一蓮托生で、同じ井戸に住む蛙に、自分で緩慢に効いていく毒をさらさらとまいているような感じで、いくのは、たぶんだめで、手遅れだと思わなくもなく、斜陽の没落でも、それでも、新しい子供たちが、きらきらとした目を持って、産まれてくるわけだから、パンドラの箱には、希望という砂粒が、落ちているといいな。
 僕のライフワークとしてやりたいと思ってきたことは、
①保護猫活動②砂漠の緑化
なのですけど
②の砂漠の緑化よりも、喫緊の課題として、温暖化する地球を冷やす活動をする方が先なのではないか、とここ数年の夏の酷暑を体験して、思い始めている。環境問題は、もはや環境問題ではなくて、もはや、人類が、これからも、生存できるのか、できないのかがわかる、斜陽の没落の谷です。
ただ、これは、考えるスケールとして、個人にどうこうできるレベルの話ではなく、もっと、巨視的な視座で、神の視点で、俯瞰的な視座に立つところから始めないと、たぶんだめだし、改善していくことはできないでしょう。
そのためには、どうしたらよいと思いますか?

今日もおいしい木の実を食べに行こう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?