見出し画像

照らす

光強きところ影深し。
光を当てる、という作用には、影を作る、といいう反作用がある。
照らす、とは、影の中、闇の中の埋もれてしまった何かを、他者から発見されやすいように浮かび上がらせることをいう。一方でその背後にまた、より深い影を落とす。西欧人の顔に陰影があるのは起伏が大きいからだ。私の鼻は低く眼窩も浅い、平たい顔だ。光を当てても影はつかない。くっきりはっきり明暗を白黒を、深い影をつけようにも付きようがない。

一日を過ごして帰宅すると、同居人は私に問う。「今日、何かあった?」

呆然と、漫然と、ただただ、過ごした一日。私の記憶はコントラストの無いグレー一色。同居人の問いかけによって私のイメージに少しずつ印影が付き、「何か」をなす形が浮かび上がってくる時もあるし、上がらない時もある。浮かび上がって来たとて、おやつに食べたコンビニのシュークリームや、遠くから聞こえた誰かの嬌声や、隣のおじさんの舌打ちや、そんな、わざわざ言葉にするほどでもないものばかり。なので答えはいつも 「別に…」

強烈な形が浮かび上がり、まくしたてることも、ごくまれに起こる。「起こる」のは、世界に起こるのではなく、私の中に起こるのだ。まくしたてたい、浮かび上がらせたい、そんな気持ちが先走る。そうして描き出したイメージ、語りだした「何か」は、「今日あった何か」では既になく、しばしば事実を乖離したり、過去を混同したり、妄想を惹起する。事実なんて不必要ないのかもしれない。どうせ覚えていないし、検証もされない。必要なのは、一面グレーにコントラストを与える起伏と光。光を生み出す炎。炎をもたらす可燃物と着火点だ。事実は着火点でしかなく。可燃物は、いつでも私の心の中にある。

 人の中の可燃物に、いつ着火するのか、なぜ火を噴くのか、誰にもわからない。挨拶しただけで怒り出す人、何気ない風景に泣き出す人、隣の席で舌打ちをする人。そんな小さな謎の炎や火花が次々と影響を与えて爆発を起こしたり、騒動をおこしたり、革命を起こしたりする。着火点と可燃物の社会化だ。事後に振り返って、過去に遡って着火点を探そうとも、連鎖反応を引き起こし社会化した着火点は誰にもわからない。誰かが特定したとしても、みんなが納得するとは限らない。

「別に…」と答えておきながら、私は考え続ける。対して強くない光を茫漠とし他風景に向けて、わずかな起伏を探す。やがて、私の中の可燃物が尽きて、茫漠とした景色の延長線上の夜が始まる。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?