149.スーパードライ (1)

西暦2033年12月21日午後4時40分。
チャイムが鳴った。教室は50分前の騒がしさを徐々に取り戻し始めた。チャイムが鳴るのと同時に数人が教室を出ていくのが見えた。数人が箒で床を掃き、目に見えないゴミを集めるふりをし始めた。僕は解きかけていた問題をそのまま、消しくずも払わずテキストを閉じ、鞄にしまった。僕は大きなカバンを使っていた。古びた旅行用の鞄だったが、余計なポケットや仕切りがない。本とテキストとペンを入れてしまうにはそれで十分だった。僕の鞄はまるで大きな書店の隅にある新書の本棚のように、いつもとてもきれいに整理されていた。本当に本棚のようだった。僕はその鞄を肩にかけて教室を出た。12月の京都はすでに制服のブレザーでは外に出られないほど冷え込んでいた。僕は冷えた昇降口からもっと冷えたピロティに出た。ピロティのそこらには落ち葉がうず高く積もっていた。誰かが掃いて集めたのだろうか。それとも風が運んで来たのだろうか。建物に囲まれた場所では風はパターン的に吹く。そうして落ち葉をパターン的に集めていく。僕は普段は開けているジャンパーのジッパーを上まで上げて、ポケットに両手を突っ込んで歩調を上げて歩いた。バスの到着まではまだかなり時間があるのは分かっていたけど、とにかく寒くて、体を動かしていたかった。動きが緩慢になればすぐに全身に寒気が走って緊張する、そんな寒さだった。
バス停には友人の(僕の慎ましい高校生活で得た唯一友人と呼べるような)男がいた。彼も同じように、彼の体格にしては大きすぎるコートのポケットに手を突っ込んで体を小刻みに震わせているようだった。彼がよう、と言い僕がうなずいた。バスを待つ間僕と彼はとりとめのない話をした。先日の模擬試験の結果はどうだったとか、クラスメイトが官能的な不祥事を起こして三者面談が執り行われたらしいとか、今どきのバンドはポピュリズムに走って、なんというかびよーんとしているとか、そういう類の本当にくだらない話だった。でも寒さを紛らわすには何でも良かった。口を動かせる、それもできるだけ長い間動かせるようなものであれば何でも良かったのだ。バスが来てからも、僕たちはそんなくだらない話を続けた。そうして無目的で無意味で無感動な会話をしていたところで、彼は突然自慰というものがいかに知的で文化的で人間的な営みであるかを語りだした。極めて非生産的で時間のムダでしかもおぞましい、と彼は言った。しかしそれらは実に肯定的な意味で用いられた言葉だった。イギリスの上流階級がみんな哲学を勉強したがるように、非生産的な行いは人間を人間たらしめる。そう言っているようだった。生産を目的とする行動はどんなものであれ文化的にまったく価値のないもので、人間同士のセックスを見て手を叩いて喜ぶような奴は野蛮であるとさえ言った。正直彼が本当に何を言いたかったのかは分からなかったが、彼の口調は常に自信と知性に溢れていて、僕は大きな木の下で仏の説教を聞く鹿になった気分だった。しかし本当は、彼が馬で僕が鹿、これは疑いようのないことのようだった。
そのうちに彼はバスを降りっていった。バスが動き出して、前を歩いていた彼を間もなく追い越した。隣に彼がいなくなると僕は目を閉じて、浅い眠りに落ちる準備をする。バスの揺れに体を揺らして、停留所を二つ過ぎたあたりで意識を段々と闇に浸していく。これと同じようなことを昨日も一昨日もした。そしておそらく明日も明後日もする。とにかく毎日繰り返す。それが求められてもいる。OK、応えよう。どうせそれ以外にできることも思いつかない。そう、それが求められていて、そして僕はこれに応える。複雑なことはなにもない。とてもシンプルだ。知的だ、と僕は思った。


雨が朝から降っていた。僕は傘を学校に忘れたことを思い出して、仕方なく傘をささずに家を出た。フードを深くかぶって頭の周りで雨がトツトツと弾かれる音を聞きながらバスまで歩いた。僕がバス停に着くとすぐにバスが来た。まるで僕がバス停に着くのを待ち構えていたかのようだった。朝から雨が降っていたからか、僕が乗ったときには空席はなかった。僕はドアのそばに立って、読みかけていた本のページに指を挟んでからバスの中を見渡してみた。いつもより人が多いことを除けば、乗っている人にあまり違いはなかった。通勤するサラリーマンが数人。老人たち。僕は老人たちがこんな朝っぱらからどこへ行くのか分からなかった。でも特に知りたいと思わなかった。それについて考えるには僕の想像力はいささか不十分な気がしたからだ。それと、十人にも満たないほどの高校生が乗っていた。僕と同じ高校の制服を着ている学生が殆どだったけど、一人だけ違う制服を着た女の子が一番うしろの席に乗っていた。あまり趣味の良い制服だとは言えなかったけど、高校の制服なんてどこも同じように趣味が悪かった。でもとにかく僕はその女の子が視界に入ったとき、じっと彼女のほうを見てしまった。それはもちろん彼女の装いが馴染みのないものだったというのもあった。でもそれとは別に、彼女はとても綺麗だった。黒い髪を肩のあたりできれいに切りそろえていた。そこから1センチメートルでも長ければ、あるいは短ければ一瞬にしてその美しさの均衡は崩れてしまいそうだ。そう思えるほど、それは彼女の身体のかたちに完璧に収まっていた。そして彼女は銀縁の上品なメガネをかけていた。その眼鏡は、彼女の神経質そうに澄んだ瞳の前で、彼女の謙虚な鼻の上に気持ちよさそうにかかっていた。彼女を見ていると、彼女の着ている制服も幾分上品に見えてくるくらいだった。ちょっと非現実的でさえあった。でもいつまでも彼女の非現実性に見とれているわけにはいかなかった。これ以上見ていたら変な人間だと思われる。関わることがないと分かっている人にさえどう思われているのかいちいち気にしてしまうのが一般的な人間で、当然僕もそこに含まれる一人だった。僕は彼女から目を離して、指を挟んでいたページを開いて本を読むことにした。ダンス・ダンス・ダンス。もう何回も読んでいたけど、僕は偶にそれを詩を読むように楽しんだ。本を読みながら、僕は唐突に学校に行く気を失ってしまった。もう今日は学校に行くのはやめよう、と思った。何がきっかけなのか、あるいは彼女の非現実的な雰囲気のせいかもしれなかったけど、そんなことはどうでもよかった。とにかく僕は、自然と、当然のように、学校に行く気を失ったのだ。予定調和、と僕は思った。高校は都合がいい。一日くらい行かなかったくらいで余計な電話が家にかかったりしない。簡単。シンプルだ。一度学校に行かないと決めると、気持ちが軽くなった。ちょっとした興奮状態にあった。自慢じゃないけど、僕はこれまでも学校に行かなかったことはなかったのだ。
学校の前にバスが停まっても、僕は動かなかった。ただじっと目の前の本の同じ一文を繰り返し眺めていた。まるで強面の刑事の取り調べを受けながら、机の上の汚い灰皿をじっと見つめてシラを切るように。ただじっと黙って、言い訳もせず学校にシラを切っていた。僕と同じ制服を着た学生が僕の前を歩いて、バスを降りていった。僕のことを不思議そうな顔で見るのも一人くらいはいるかと思ったけど、一人もいなかった。僕のことは見えてさえいないようだった。まあそんなもんだ。自分と同じ制服を着た人間が自分と同じバス停で降りなくても気にならない。僕は目の前を歩いてバスを降りていった数人に好感のようなものを持った。僕も同じだ、と思った。もし今度僕と同じ制服を着た人が高校の前でバスを降りなくても、僕は目も合わせずにバスを降りてあげよう。
ドアが閉まって、バスが動き出した。僕はなんとなく本を閉じて古びた旅行鞄にしまった。本をしまいながら、どうしよう、と思った。どこへ行こう。急に学校に行かないことにしたから、僕には行き先というものが用意されていなかった。でも実際にはどこでも良かった。バス停がある場所であれば、どこへ行こうが同じだ。帰りたいときに帰れる。カントリーロード。とりあえずもう少しバスに揺られながら考えることにした。時間はいくらでもある。

ふと後ろの席に目をやった。さっきの停留所から先には高校はなかった。だから僕はあのきれいな女の子はどこかでバスを降りているものを思っていた。しかし彼女はまだ座っていた。僕が彼女を見ていると、彼女もこちらを見た。少し微笑んだような気がした。いや、思い違いだろう。僕は物事を少しポジティブに捉えすぎる。彼女はこちらをちらりと見て、またすぐに窓外に視線を戻した。僕も窓の外を眺めることにした。雨は止んでいるようだった。

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