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文交夜紗

 私の元へ一枚の葉書が届いたのは、年が変わって久しい一月末日のことだった。
 文面には新年の挨拶と共に、去年の暮から入院していたという旨の内容が毛筆で記されていた。葉書の宛名には妻の名があり、差出人には『木山』とだけある。
 身内や親戚、知り合いに木山という苗字の者は思い当たらない。
 文面を読む限り、まだ妻が鬼籍きせきに入ったことを知らないようだった。

 妻が亡くなったのは昨年の夏のことだ。春に体を患い、床に伏すようになってからは早かった。花が朽ちていくように痩せ細り、夏の盛りを迎える前には静かに息を引き取った。最期まで美しかったが、頬のこけた顔で繊細に微笑うわらう姿には心が痛んだ。
 半身を裂かれたような喪失感は、今もまだ私をさいなんでいる。
 この木山という人物のことが妙に気にかかった。筆致ちひつと文体からかんがみるに、恐らくは男性だろう。それなりに旧知の間柄のように感じられるが、妻の口からそのような話は出たことがない。
 一体、どのような関係なのだろうか。
 ともかく文机ふみづくえに座り、便箋をしたためることにした。時節の挨拶を添え、訃報を知らせる旨の内容を簡素に書き記す。そうして便箋を折りたたもうとした時、ひとつの考えが脳裏をよぎった。
 書き終えたそれを握り潰し、新たな便箋へ筆を落とす。
 妻の訃報の後に、関係を問う内容を可能な限り穏便に書き記した。礼節に欠く行為だとは思ったが、どうしても問い質さずにはいられなかった。
 投函して一ヶ月以上、返信はなかった。
 気分を害してしまったのかも知れない。不躾に、あのようなことを聞くなど、やはりするべきではなかったのだ。私は自分の短慮を後悔した。
 そうして、三月も半ばを過ぎた頃、一枚の封筒が届いた。
 宛名には私の名前があり、差出人には「木山」とある。思わず、その場で封筒を破り、便箋を開いた。
 内容は私への挨拶に始まり、妻の冥福を祈る一文が丁寧に記されている。そして、その後に興味深い一文が記されていた。
『奥様からお預かりした品が御座います。是非、ご主人様に受け取って頂きとう御座います。尚、私と奥様の関係は、教師と生徒のようなものですから、危惧しておられるような心配は無用であります』
 この木山という男は、まだ若者であることが伺い知れた。
「教師と生徒、か」
 戦前から、妻は小学の教師をしていた。その頃の生徒だろうか。もしもそうなら、文を交わし合っていたとしても不思議ではない。だが、預かっているという品物とはいったいなんなのだろう。
 仏壇に線香を上げながら、妻の遺影を眺める。遺影の中の彼女は美しく微笑んでいた。気に入っていた牡丹ぼたんの着物、あれはたしか私の母が遺したものだ。
 そういえば、妻が亡くなる少し前に奇妙なことがあったのを思い出す。

   ⚪︎
 その日は朝から煙るような細雨が降りしきっていた。
 仏間に布団を敷いて横になっていた妻は、縁側のガラス戸を叩く雨を無表情に眺めていた。
 微熱が続いているせいか、呼吸が荒い。こけた頬には張りがなく、生気に乏しかった。
「すいません。あの、外に猫がいませんか?」
 白湯を持ってきた私に、妻が申し訳なさそうに聞いてきた。
「猫?」
「ええ。黒い猫です」
「今日は雨だから、猫も外を出歩かんだろう」
「もし、見かけたなら戸を開いて中にいれてやって下さいますか?」
「猫の毛は気管によくないだろう。治癒してからにしなさい」
「雨で濡れて凍えているかもしれません」
 妻は老いてから益々、生き物を愛するようになっていた。昔からよく捨て猫だの、捨て犬だのを拾って庭で飼っていたが、どれも長生きはしなかった。庭に埋めてやる度に、妻が冷めざめと泣く姿を見るのが辛かったのを思い出す。
「わかった、わかった。もし見かけたなら家にいれておこう。奥座敷なら良いだろう」
「寒いようでしたら、火鉢も使ってあげてくださいね」
 その時、ミャア、と鳴き声がした。それは廊下の方から聞こえたように思う。襖を開け、廊下へ顔を出すと、奥座敷の方からまた、ミャアと確かに猫の鳴き声がする。
「ほら、猫がいますよ」
「どこかから入り込んだな。待っていなさい。すぐに見つけてくるから」
 薄暗い廊下の灯りをつけ、奥座敷の襖を開ける。一見して猫の姿は見当たらない。明かりを点けて座敷中を見渡しても、やはり姿は何処にも見当たらなかった。
 ミャア、と声がする。だが、姿は見えない。
 おかしい。鳴き声は目の前から聞こえてきた。だが、そこには何もいない。何も視えない。
 私はなんだか気味が悪くなり、座敷を後にした。
 妻は私の顔を眺めながら、なんだか楽しげに微笑んだ。
「視えましたか?」
「いや、声はするんだがな。いったい何処に隠れているのやら」
「恥ずかしがりなんです。今度はようく目を凝らしてあげてくださいな」
「動物は好かんよ」
 それから何度か猫の鳴き声を聞いたが、終ぞその姿を見つけたことはなかった。

   ◯
 二度目の手紙を送って間もなく、その男はやってきた。
「はじめまして。木山と申します」
 男と呼ぶにはまだ若い。背が高く、痩せぎすで線が細い。学生帽を被った細面ほそおもてにはまだ幼さが多分に残っていた。
「この度は御愁傷様でした」
「御丁寧に有難う。まあ、上がりなさい。座敷で話そう」
 はい、と涼しげに答える彼の顔はどこか中性的に見える。
 奥座敷で卓を挟んで向かい合い、沈黙が下りた。おそらくは自分の祖父ほども歳の離れた私に気後れする風でもなく、堂々と私を見据える姿は歳相応のそれに見えない。
「今日は遥々、ご足労だったね。遠かっただろう」
「いいえ、それほど」
「見たところ、まだ学生のようだが。今日は平日だろう?」
「両親の命日ですので、許可をいただいております」
「……そうだったのか。ご両親が」
「はい、先の大戦で。以来、祖父と二人で暮らしております」
「そうか」
 沈黙が降りる。目の前の青年に違和感を覚えずにはいられなかった。私が彼くらいの年頃の時には、堂々とああして自分のことを話せていただろうか。まるで、こちらのことを見透かしているような態度が妙に気になった。
「妻とはどういう関係なのか、聞かせて貰えるかね?」
 直接的な私の問いに、彼は僅かに微笑んだように見えた。
「気になりますか」
「当然だろう。君とうちのとでは親子以上に歳が離れている。気にならない方がどうかしている」
「奥様は祖父の教室の生徒でした。戦前よりの付き合いと聞いております」
「失礼。君のお爺様は何を指導なさっているのかね」
「書道家です。特にこれといった業績を持っていた訳でもありませんが。奥様はよく出入りなさっていまして。私も幼い時分から随分とよくして頂きました」
 そういえば、昔から手習いに通っていることは知っていた。書道とは思わなかったが、言われてみれば確かに妻の字は美しかった。
「そうだったのか。私はてっきり、君の方が教え子だと思っていた」
「私は生徒だと思っていますよ。奥様はよく唄を教えて下さいました。故郷の唄を」
「すまない。気を悪くしただろう」
 安堵した心地になり、思わず足を崩した。|杞憂『きゆう』にも程がある。私はいったい何を心配していたのか。
 その時、微かに墨の匂いがした。
 気がつくと、彼の傍に大きな行李が無造作に転がっている。さっきまでこんなものはなかった筈だ。
「それはなんだね」
「奥様からお預かりしたものです。本日はこれをお届けに来ました」
 うっそりと微笑って、彼は行李を重たそうに横にする。すると、行李のあちこちに滲んだ血のようなものが見えて、思わず息を呑んだ。
「何が入っているんだ」
「中をご覧になれば、お分かりになりますよ」
 開けるな、そう叫ぼうとして言葉が喉から出てこないことに気がついた。声どころか、瞬きさえできない。金縛りにあったかのように目を逸らすことさえ出来ない。
 行李の蓋が開く瞬間、血塗れの胎児が見えた。しかし、それは瞬きと共に消え失せ、中には小さな木製の勾玉が転がっているだけだった。傷をつけない為の配慮なのか、使い捨てた習字紙を丸めて緩衝材のように敷き詰めている。
「なんなのだ、これは」
「奥様が祖父へ預けられたものです。ご自身の死後に処分してほしいと仰っていたのですが、祖父がご主人へお返しすべきだと。私自身は、正直惜しい気もするのですが。この色は、中々に僕好みだ」
 その物言いに、背筋が総毛立った。
「こんなものを貰っても困る。なんなのだ、これは」
「奥様が仰るには、御神体だ、と」
「なんだと」
「何処かで祀られていたものかも知れませんが、詳しくは……」
「妻は、どうしてそんなものを」
「理由は存じかねますが、御神体ですから。何か余程叶えたい望みがあったのでは?」
 そんなものはない、そう言おうとして息を呑んだ。
 木の勾玉が、机の上に転がっている。そして胎児のように身じろぎした。
「う、動いた! 動いたぞ」
「目の錯覚ですよ」
 木山は立ち上がり、学生帽を目深まぶかに被る。
「では、私はこれで。役目は果たしました」
「おい、待て! こんな気味の悪いものを置いていくな!」
「私は預かっていたものを、お返しに伺っただけです。本来なら線香のひとつでも上げていきたい所ですが、ご容赦ください」
 座敷へと出た彼を追い、廊下へ出ると、そこにはもう誰の姿も見当たらなかった。

   ◯
 行李を固く紐で縛り、とりあえず押入れの奥へ封じ込めることにした。近いうちに処分してしまわなければならないが、仮にも御神体であるならば相応の手順が必要だろう。
「本当に妻が、あんなものを持っていたんだろうか」
 私の知る妻からは、とても想像できない。
 戦前から戦中、そして戦後と二人で手を取り合って生きてきた。一人息子も立派に育てあげ、三人の孫にも恵まれた。妻は子や孫にも優しく、満ち足りていた筈だ。あんなものに何を願うというのか。
「馬鹿馬鹿しい。あんな若造の言葉をそのまま信じてどうする」
 妻のことは、私が一番に理解している。慎ましく、思慮深く、夫を立てることのできる器量の良い妻だった。あれほど出来た妻はそうはいない。
 襖を閉じたところで、玄関から物音がする。
「旦那様、こんにちは」
「ああ、ツネちゃんか。どうぞ、中へ入ってくれ」
 よいせ、と立ち上がって玄関へ向かうと、割烹着姿かっぽうぎすがたの若い女性が手にかごを持って温和に微笑んでいる。近所に住む彼女のことは幼い時分より、よく知っていた。家事のできない私のことを案じ、奉公に来てくれている。
「悪いね。いつもいつも」
「山菜を頂いてきましたら、今夜は天ぷらにしようかと思います。旦那様の好きなお煮しめも仕込んで帰りますから、楽しみにしていてくださいね」
「旦那様なんて呼ばなくていいと何度も言っているのに。こんな年寄りの世話を焼きに来てくれているだけで有り難いことだよ」
「お給金を頂いているんですから、線引きはきちんとしておかないと。それに父と母も花嫁修行だと喜んでいますから、気になさらないでください」
「いつもすまない。親父さんの腰の調子はどうだい」
「相変わらずです。縁側で俳句ばかり詠んでいます」
「はは、相変わらずだなあ」
 ツネちゃんも今年で成人になる。妻の元教子でもある彼女は、孫のような存在だ。彼女の晴れ着を妻もきっと目にしたかったに違いない。
「そういえば、どなたかお客様がいらしてましたか?」
「あ、ああ。珍しくね」
「香水の匂いがしましたから」
「今時は男も香水なんてものをつけるのかね」
「ええ。そういう時代なんです」
 戦前生まれには想像もつかない。しかし、時代はめまぐるしく変わった。これからも変わり続けるのだろう。
「旦那様。まだ時間は良いのですか?」
「ああ、そうだった。寄り合いに顔を出さんとならんのだった。悪いけれど、留守番を頼めるかい」
「はい。いってらっしゃい」
 若い娘さんに送り出されるのは少々気恥ずかしいが、その心遣いが有り難い。彼女が嫁ぐときには御祝儀ごしゅうぎをうんと弾まないとならない。
 家を出て緩やかな下り坂を降りながら、ぼんやりと腕を組んで考える。あの木山という若者の言葉をどの程度、信じられるだろうか。妻は教え子だったというが、彼の祖父と私たち夫婦はそれほど歳は離れていないだろう。そもそも妻が私に黙って他所の男と会っていたというのは、俄には信じ難い。それに、あの気味の悪い御神体とやらはなんなのか。
「悪い夢でも見ているようだ」
 藪蛇という言葉が脳裏を過ぎる。あの時、あんな事を書かなければよかったのだ。自分から災いを招いてしまったような気がした。
 ふ、と顔をあげると、御笠橋みかさばし欄干らんかんから身を乗り出して大勢の人が何かを眺めている。只ならぬ空気があった。
「どうかしたのかい」
 近くにいた若い夫婦に声をかけると、青ざめた顔で首を左右に振る。
「見ない方がいいですよ。どなたか亡くなっていますから」
「ああ、それは痛ましいことだ。しかし、こんな浅い川で溺死するというのも珍しい」
 私の言葉に旦那の方が顔をしかめる。
「あれは溺れ死んだ人間の有様じゃありませんよ」
 視線の先、浅い川底に引っ掛かったように漂う男。それは一見して奇妙な遺体だった。露出した顔や手足が枯木のように朽ちかけている。対照的に胴体は生々しいほどだ。
「まるで出来損ないのミイラだ」
「よして下さい。気持ち悪い」
 そうして立ち去っていく夫婦を尻目に、私は食い入るように遺体を眺めていた。遠くてよく見えないが、どこか見覚えがあるような気がした。
「おい。あれは酒屋の一郎じゃないか?」
 野次馬の誰かが呟き、あちこちで納得したように声があがった。
「そうだ、そうだ。一郎だ」「酒屋のせがれに間違いない」「おい、誰か親父を読んでおいでな」
 あたりが騒然となる中、私は愕然がくぜんと目の前の死体を眺めていた。酒屋は我が家からとんと離れていない。赤ん坊の頃から見知っている。息子が遊んでやっていたのを昨日のことのように覚えている。いい加減嫁を貰え、とつい最近話したばかりだった。他人の空似だという思いとは裏腹に、見間違える筈がないと冷静に考える自分がいる。
 手足から血が引いていくのが分かる。初めて空襲を体験した、あの夜のようだ。親しい者が前触れなく、刈り取られるように命を落としていく。
「爺さん。大丈夫かい。顔色が酷いぞ」
「あ、ああ。すまない。肩を貸してくれんかね」
 若者の肩を借りて、橋の袂にあるバス停のベンチへ腰掛けた。胸の動悸が激しい。
「大丈夫かい? 医者を呼ぼうか」
「いいや、大丈夫だ。ありがとうよ」
 気をつけてな、と若者が橋の方へ戻っていく。ここからでも一郎の姿がよく見えた。思わず手を合わさずにはいられなかった。
「ナンマンダブ、ナンマンダブ」
 瞬くそうしていると、胸の動悸もマシになってきた。妻がいつ迎えに来ても後悔はないが、往来おうらいの真ん中でくたばる訳にはいかない。できることなら、畳の上で往生したいものだ。
 その時、不意に視線を感じて顔をあげると、橋脚きょうきゃくの間に何かが立っていた。それは苔生したような色をした裸の幼児で、表面が濡れたように赤くてらてらとしている。黒々とした光沢のない瞳が、まっすぐに私を見ていた。
 あまりの恐ろしさに目を瞑ると、次に視線を向けた時には跡形もなく消えていた。
 ぶるり、と身震いがした。何故かあの木山という男が持ってきた、行李の中の勾玉のことが気になった。
「まさか」
 立ち上がった所をタクシーが通りかかったので、手を振って停める。
「はい。どこまで?」
「坂の上だ。急いでくれ」
「坂の上だって? お客さんねえ」
 運転手は露骨に嫌そうな顔をしたが、財布から紙幣を二、三枚渡すと笑顔でドアを締めた。
 唸りをあげてタクシーが坂道をあっという間に駆け上がっていく。家の前の道を箒で掃いているツネちゃんの姿に思わず胸を撫で下ろした。
「あそこだ。あの家の前で止めてくれ。釣りはいらん」
「へい。まいど」
 タクシーを降りると、驚いた様子でツネちゃんが目を白黒させている。
「まぁ、もうお戻りですか? お忘れものでもなさいました?」
「いいや。そうじゃないんだが、寄り合いは休むことにしたんだ。急用を思い出してね」
「そうですか。でしたら、すぐにお茶を淹れますね」
「ああ、いやいや。ツネちゃんも今日は帰ってくれて構わないよ」
「いいえ。まだ来たばかりですから、お掃除も出来ていませんし、夕餉の支度もできていません」
「いいんだ、いいんだ。今夜は適当に済ますから気にしないでいい」
 なんとか彼女を言いくるめて見送ると、私はすぐに門を閉じて屋敷の中へ戻る。家中の戸締りをして、押入れの中の行李を取り出した。
 いつの間にか降り出した雨が、薄い窓硝子を淡々と叩いている。しん、と静まり返った屋敷に雨音だけが響いていた。
「そんな筈はない。ありえん事だ」
 行李の蓋に手をかけ、一息に外した私は息を呑んだ。思わず取り落とした行李の蓋が畳の上に転がる。
 赤黒い血に斑に染まった習字紙。赤く塗らぬらぬらと濡れた木の勾玉。
 それは今朝見たときよりも一回り肥大していた。まるで血を吸って成長したとでも言うように。
 酷く錆臭いさびくさい、血の香りが座敷に漂っていた。
 
   ◯
 手紙に記された住所を頼りに、あの木山という青年の家を訪ねることにした。行李から取り出した勾玉をサラシに巻いて、家にあった桐箱へ入れてから鞄へ詰める。時折、鞄のなかで身悶えするように桐箱が動いたが、冷静に努めた。
 春は遠く、刺すような冷気に身体が凍える。老体に鞭打ってやって来たはいいが、冷たい空気が肺を刺し、咳をする度に、身体が軋むように痛む。
 屋敷町は空襲に晒されることがなかったと聞いていたが、これほど古い街並みが残っているとは意外だった。路地の石畳も美しく整えられ、かつて妻とやってきた頃のままだ。古書店や骨董店が多く軒を連ねている様子は昔となにも変わらない。
 途中、通りがかった警官に道を尋ねると、住所は屋敷町の外れにある、小高い丘の上だと教えて貰った。
「いや、助かりました」
「失礼ですが、あんな所へどんな御用で?」
 中年の警官は険しい顔で、警察帽を目深に被り直す。
「知人を訪ねるだけですが」
 それがなにか、と問う前に警官が声を低くして耳元で呟いた。
「あの丘の上には木山さんの御屋敷しか、もう残っていませんよ。戦前には幾つかの家がありましたが、どの家も没落して、今じゃ竹林に飲み込まれちまいましたから。その木山さんの家にしたって、五年前に御隠居が亡くなってしまったから、もうあの家には若いお孫さんが独りで暮らしているだけですよ」
「亡くなった?」
 彼は祖父と二人で暮らしている、と話していた。
「ええ。ご自宅で首を吊りましてね」
「そんな」
「悪いことは言いません。あそこに出向くのはお止しなさい。元々、あの丘は塚だったんです。本来、人が住んでいい場所じゃないんだ」
 あなたも祟られますよ、と警官は念を押すように囁いて、軽く敬礼してから踵を返した。
 件の丘というのは、なるほど近くから見てみると、確かに巨大な塚のようにも見える。高く生い茂った竹林が風に揺れて、笹の葉が擦れて恐ろしい音を奏でていた。ぼこりぼこり、と鞄の内側で蠢いているのが分かる。
「ここまで来ておいて、尻尾を巻いて逃げ帰るというのも性に合わんわ」
 口に出して言ってみると、胸のうちに火が灯ったような思いがした。
 舗装されていない坂道は左右に蛇行していて、まるで人を拒んでいるようだ。
 私は何度もつまづきそうになりながらも、一歩ずつ登っていく。手すりの一つもないので、立ち止まれば転がり落ちてしまいそうな気がした。それでも、どうにか丘の上まで辿り着くと、尻餅をついてしまった。
 ぜひぜひ、と胸が喘ぐあえぐような声をあげている。目の前がチカチカとして、とても立ち上がれない。手首の脈を測ると、まるで出来損ないのエンジンのようだった。
「なんのなんの」
 えいや、と立ち上がり、鉛のように重たい鞄を手に道を進む。竹林に挟まれた小路は薄暗く、気温もずっと低く感じられた。竹林の奥に潜む闇の中から、こちらを見ている何かの気配をひしひしと感じ、背筋がぶるりと粟立った。妻はこんな場所に通っていたのか、という思いが疑念と共に浮かび上がる。
 やがて、大きな古い屋敷の前へ出た。門の庇から吊るされた提灯が辺りを仄かに照らしあげている。
「丸に百足の家紋とは、如何にも気味が悪い」
 表札には『木山』とあり、ぐるりと敷地を囲う漆喰しっくいの塀、その表面の凹凸おうとつが揺れる灯りに照らされて、幾つもの人の顔のように見える。
 門扉を手で押すと、閂はかかっておらず、音を立てて内側へと開いた。
 門から玄関まで、広い中庭をまっすぐに跳び石が続いている。古風な池があり、奥には古い土蔵が見えた。池の魚が跳ねて、どちゃり、と水面を弾く。
 呼鈴を押し、声をあげる。
「もし。どなたかいらっしゃるか」
 声が庭に響き渡り、慌てたように魚がまた跳ねる。
 暫くして、玄関の硝子戸の奥に明かりが点く。人影がこちらへとやって来て、音もなく戸が開いた。
「ああ、貴方でしたか」
 うっそりとした声。薄く笑んでいるような貌が今は不気味で仕方がない。
「突然の訪問、申し訳ない。少し話せるかね」
「ええ。構いませんよ。どうぞ」
 沓脱くつぬぎをあがり、廊下を進む彼の後に続く。
 暗い板張りの廊下に、前を行く彼のやけに細い肩と白いうなじが浮かぶ様が、どこか幽霊画ゆうれいがのようだった。
「君は独り暮らしだそうだな。どうして嘘をついた」
「ああ、バレましたか」
 振り向きもせずに、悪びれる様子もなく笑う。
「私も嘘を申し上げるのはしのびないとは思っていたのですが、故人の願いを無碍にすることも出来なかったんです。お許しください」
「許す許さないという話ではないだろう」
「では、何がお望みで?」
「真実を話して欲しい。君の話は、何処から何処までが嘘なんだ。妻が君の祖父の弟子だったというのも嘘なのか」
「いいえ。正しく、貴方の奥方は祖父の教え子でしたよ。ただ書道というのは嘘です。他にも嘘ばかりついていました。私はあなたにアレを届けさえすれば、それで良かったのですから」
「妻は、何を教わっていたんだ」
「なんと言えばいいのでしょうか。いや、言葉を選びますね」
 廊下の一番奥の座敷へ入ると、そこには夥しい数の古書が乱雑に散らばって、足の踏み場もない。
「申し訳ない。私も今は余裕がないのです。どうぞ適当に座ってください」
 本をどかし、畳の上に腰を下ろす。木山は反対側の柱に背中を預けて座る。室内は薄暗く、表情が読めない。吐く息は白く、指先がかじかんでいくのを感じた。
「妻は、ここで何を」
「呪術ですよ。魔術、妖術と言っても良いですが。そうしたものを習得する為に祖父の元に来ていました」
「呪術、だと」
「邪法などと呼ばれたりもしますが、呼び名に意味などありませんよ。端的に言えば、人を呪う稼業かぎょうです。あなたの奥様が習っていたのも、同じものです」
 含み笑いに満ちた声。こちらを哀れむような声音に虫唾むしずが走る。
「馬鹿馬鹿しい。どうして、妻がそんなものを習う必要がある」
 あはは、と木山が愉快そうに笑う。
「何が可笑しい」
「可笑しいですとも。傑作だ。やはり、あの人には才能があった。祖父が心を奪われるのもよくわかる」
「どういうことだ」
「いいですよ。お話しましょう。種明かしは大好きだ」
 悪意を隠しきれない様子でそう宣う、目の前の男が酷く邪悪なものに見えた。
「あなたですよ」
「は?」
「あなたの心を奪い、独占すること。それが、あの方の望みでした。その為に多くの供物くもつを捧げ続けた。死後も、その呪いが解けてしまわぬように」
「何を、言っているんだ」
「魅了の魔術だ。呪いと言ってもいい。祖父の元へ奥様がやってきたのは、学生時代のことです。愛する男を自分のものにしたい。自分だけのものに」
 つまり、私はまじないによって妻を愛していた、と?
「馬鹿馬鹿しい。くだらない妄言だ」
「では、一つお聞きしましょう。あなた、ご実家とは今もお付き合いがありますか?」
 あまりに突拍子な問いに、眉を潜める。
「何を馬鹿な。絶縁したとも。妻の為だ。当然だろう」
「空襲で家を燃やされた妹さん一家からの懇願を、無碍にあしらったそうですね」
「無論だ。妻と子供以上に優先すべきものはない」
「ご両親の葬式にも、行かなかった」
「妻の誕生日だったからな」
 何を当たり前のことを言っているのか。
「ふふ、本当によくかかっている。狂乱と魅了。一体どれほどの供物くもつを捧げたのか。一匹、二匹ではきかないだろうに」
 何が言いたいのか、まるで理解できない。
 鞄からサラシに包んだ勾玉を取り出し、突きつける。
「そんなことより、この勾玉はなんなのだ」
「ああ、それは祖父からの贈り物です」
「妻のものではないのか?」
「元は奥様のものでしたよ。しかし、願いが成就したのですから、もう必要ないでしょう? 祖父は自身の死の間際、これに願いをかけました。彼はきっと奥様のことを好いていたのですよ」
「意味が、分からない」
「本来なら、それで話は終わっていたのですが、まさかこうして家を尋ねてくるとは思いませんでした。あのまま貴方の周りにある命をかてに、これは成長していた筈なのに」
 残念です、と音もなく近付いた男の細い指が、さも愛しそうな動作で、それをそっと撫でる。
「祖父の願いを叶えるのは、きっと私の役目なのでしょうね」
 不意にてのひらが灼けるように痛んだ。勾玉から伸びた鋭い枝が数本、まるで木の根のように右手の掌に突き刺さっていた。指先、手首へと激痛がのたうちながら蠢いている。ばっくりと切り裂かれた掌の中へ勾玉が埋没していくのを見て、私は絶叫した。
 得体の知れないものが自分の腕を侵していく恐怖。
 木山は悠然と微笑みながら、悶え苦しむ私を眺めていたが、不意に目を見開き、立ち上がった。
「ああ、そうだ。そうとも。そうすべきだ」
 畳の上で悶える私の右肩を、木山は思い切り足で踏みつけた。衝撃と痛みに骨がきしむ。ぼきり、という太い木の枝が砕けるような音がして、急に痛みが遠退とおのいていった。
 横になった視界の中に、肩口から落ちた私の右腕があった。それは生々しい人の肉というよりも、彫刻された木の腕のようで。ぼんやりとした頭で肩口に触れると、硬くてゴツゴツとしている。
「お爺様の願いよりも、私の願いの方がずっと美しい筈だ」
 木山がわらっている。
「夢から覚め、現実を知ったとき、貴方の魂はどんな風ににごちるのかな」
 それは罅割れたような、邪悪な微笑ほほえみだった。

   ●
 気がつくと、私は自宅の居間で横になっていた。
「う、うう」
 起き上がろうとして、右腕の付け根が酷く痛んだ。触れると、やはり右腕がない。断面はまるで木の節のように固まってしまっていた。
 しかし、あれほど恐ろしい思いをした筈なのに、やけに頭がすっきりとしていた。まるで今までずっと頭の中にあったもやが、綺麗に晴れ渡っているような気さえする。
 立ち上がり、台所でコップに水を注ぎ、三杯も飲み干す。酷く喉が渇いていた。いくら飲んでも口の中が渇いてしょうがない。
 不意に、壁にかけられた家族写真に目がいった。そこに映ったものを見て、思わずコップを取り落とし、足元でそれが粉々に砕け散った。
「は?」
 信じられない。そんな筈がない。
 胸の動悸が激しい。悪寒に胃の中がおかしくなりそうだ。
 居間の壁にかかった家族写真、そこには私と見知らぬ女が二人で写っていた。骸骨のように痩せこけ、髪を振り乱し、陰鬱いんうつわらっている。
「誰だ、これは。息子は、私の息子は?」
 不意に、疑問が浮かんだ。
「息子? 私に、息子?」
 いた筈だ。愛しい一人息子が。しかし、どうしても、その名前が思い出せない。誕生日も、血液型も、通っていた学校の名前も。息子の妻や、孫達の名前も思い出せない。
「あ、ああ、ああああ」
 濡れた紙が、描いていた絵もろともに消えていくように。
 あった筈のものが、指の間から溢れ落ちていく。
「ああああああ! あああああ! うわああああああああ!」
 何もない。何もない。何もない。
 ここには、見知らぬ女と私の写真しかない。それが何枚も、何枚も、何枚も、何枚も飾ってある。
 見知らぬ女。美しい妻とは、似ても似つかない邪悪な顔をした女が、嗤っている。
 残された左手で顔を掻き毟る。
 私の一生、私の生涯、それらが崩れ落ちていく。
 仏間へ駆け込む。老いた足は、もうまともには動かない。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 嘘だ! 騙されんぞ! 私は!」
 仏壇に飾られた遺影、そこにはあの邪悪な顔をした女が勝ち誇ったように微笑んでいた。
 プツン、と頭の奥で決定的な何かが千切れる音がして、膝から力が抜け、右の視界が真っ赤に染まる。どさり、と薄暗い仏間に転がり、呼吸が次第に止まっていくのを感じる。
 ミャア、と猫の鳴き声が聞こえた。
 気がつけば、仏間を埋め尽くすように、大勢の首の折れ曲がった猫が徘徊していた。廊下にも数えきれないほどの生き物の死骸が蠢いている。
『一体、どれほどの供物くもつを捧げたのか』
 木山の言葉が脳裏を過ぎる。

 窓の外、傘を差した若い男がこちらを見ている。
 その貌はまるで、美しい絵画かいがを目の当たりにして感極まったように、わらっていた。
 命の火が絶える、その最期の瞬間まで、私は絶叫していた。
 声にならぬ断末魔は、雨音に掻き消されて、薄闇の中、にじむように沈んでいった。

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