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巡虎黎明

 大晦日に太宰府天満宮へ大願を抱いて合格祈願にやってくる受験生は、全国に星の数ほどいるのだろうが、私ほど神頼みに全てを賭けている者は他にいないだろう。受験の際には一問目から鉛筆を転がすつもりだ。
 国立大学の受験に失敗して早三年、自分がいかに凡人であるかを否応なく突き付けられ、友人たちから伝え聞くキャンパスライフを夢想する日々。努力は必ずしも報われる訳ではないということを証明するように、机に向かう時間とは反比例して低空飛行を描く成績。胸を引き裂く模試結果に、もはや予備校に通うのさえ辛いと感じる自分には、神に縋る他に道はない。どうせ一か八かなら、鉛筆を転がして答えを書いても同じ事だ。
 すし詰め状態の電車の中からようやく解放され、太宰府駅を降りると、すっかり日が暮れていた。大勢の参拝客で駅前はごった返り、交通誘導のホイッスルがあちこちで聞こえる。スピーカーから流れてくる雅楽の音色がいかにも年末らしくていい。
 腐っても受験生である。無論、太宰府へは毎年やってきている。しかし、当初は応援してくれていた両親も半ば諦めかけており、去年からはついて来ることさえなくなった。私も去年まではどこか惰性で祈願に来ていたような気がする。年末は毎年予備校の年越し特別講習に参加し、訪れるのは三が日ギリギリになっていた。しかし、今回は違う。年が明ける瞬間に合格祈願をする。御守りを買い、初日の出を見るのだ。なんの根拠もないが、とにかくご利益がありそうじゃないか。
 一人で大晦日の夜を過ごすというのは寂しいな、と思わなくもない。もちろん誰かと来たかったが、友人たちは皆、恋人と過ごすので忙しいか、あるいは年末に寒い思いなどしたくないとすべて断られてしまった。勿論、私に恋人などはいない。浪人生に恋愛にかまけているような時間はないのだ。
 参道へ続く流れに乗り、最初の鳥居を潜ったときのことだった。
「ぐえ」
 どん、と突然壁にぶつかった。いや、壁ではない。壁は服など着ていない。
 顔をあげると、そこには身長が二メートルはあろうかという大男が仁王立ちに立っていた。まさしく容姿も仁王像そのもので、筋骨隆々とした肉体をしているのが服の上からでも分かる。赤いスカジャンには恐ろしい顔をした虎が描かれていた。
 ぎろり、と男がこちらを睨みつける。その恐ろしい顔といったらない。私がもし鶏であったなら、恐ろしさのあまり卵をぷりっと出していたに違いない。
「す、すいませんでした」
 立ち上げた髪は金色。もみあげまで染めているのか、まるで獅子のように見える。回れ右して逃げ出そうとした私の頭を巨大な手が掴む。
「まぁ、待て。人にぶつかっておいて、そのまま逃げようというのは無礼ではないか」
 ああ、カツアゲだ。年の暮れに金品を奪われるだなんてついてない。
 私は泣く泣く財布から一万円を取り出すと、頭の上に掲げて献上した。所詮この世は弱肉強食だが、人間は金銭で安全を買える。
「あの、これで勘弁してください」
「なんだ、これは」
「え、カツアゲじゃないんですか?」
「強請りなどするものか。阿呆め。坊主、貴様見たところ一人で暇そうにしておるな」
「え、いや、暇では、ないんですけど」
「なにか用事があるのか」
 ぐるる、と唸るように言うので、繊細な私の心身は縮みあがった。
「いえ、特には、その」
「ほれ見ろ。暇ではないか。ちょうどいい。余の手伝いをせい。なに、時間はかからん」
 そんな義理はない!と一喝できたらどんなにいいか。学生の頃からこういう筋肉で何事も解決するタイプの野蛮な人間とは関わり合いにならないよう努めてきたが、なぜかこうしてすぐに目をつけられてしまう。この大男が肉食獣なら、私はかよわい草食獣。成す術などない。
「わ、わかりました」
「おお、礼を言うぞ! なにしろ此処へ来るのも十二年ぶりでな。いまいち要領がつかめん。印を見つけてしまえば話は早いのだがな。この目で見るまでは思い出せんのだ」
「その印ってなんなんです?」
「だから、この目で見なければわからん。一目見れば思い出すんだがなあ。待ち合わせ場所にしとるんだ。あの方をお待たせすると後が怖いのでな。急がんとならん」
 手がかりがないにも程がある。
「待ち合わせ場所なんですから、あらかじめ話し合って決めたんじゃないんですか?」
「いや、最後に話したのは十二年前になる」
 絶句する。もしかして、この大男は十二年前の約束を律儀に守っているのか。
「それでしたら、携帯で連絡を取ったらいかがです?」
「そんなもん持っとらんわい」
 そもそも相手が約束を覚えているのかさえ怪しい。いや、こんな大男との約束をすっぽかすのも恐ろしくてできないかもしれないが。
「あの、僕がいても役に立てるとは思えないんですけど」
「いいや、これも何かの縁だ。最期まで付き合ってもらうぞ」
 がしり、と大男の巨大な手が私の頭を掴んで離さない。
「……あの、共通の知り合いとか近くにいらっしゃらないんですか?」
 大男は腕を組んで暫く思案して、おお、と手を打った。
「すっかり忘れておったわ。あやつなら今頃、間違いなく仕事に追い回されておるわい。おい、小僧。この店を知らんか?」
 手渡されたのはぐしゃぐしゃに潰れた、随分と古い境内の案内図、参道に並ぶ店のひとつに赤く丸がつけられている。まさかこれも十二年前のものというのだろうか。
「ああ、ここならすぐそこですよ」
「ようし。行こう。急がねば年が明けてしまうぞ」
 大勢の参拝客のなかで、この男だけが異様なほど大きく目立っていた。しかし、日本人らしいというか、だからといって特になにがあるでもなく、淡々と並んで前に進んでいく。
「坊主。貴様、受験生か」
「一応そうですね。まぁ、もう三浪もしてますけど」
「ほう。そいつは素晴らしい。見上げた根性だ」
「いえ、別に何も素晴らしくはないですけど」
「謙遜せずとも良かろう。それほどの年月を勉学に打ち込んで尚、叶えたい望みがあるのは素晴らしいことだぞ。夢を持てとは言わんが、夢がある方が人生は輝くというからな」
 叶えたい望みと言われて、思わず言葉を失ってしまった。私は国立大学に合格することを望みとしていたが、よく考えればそれは見当違いな気がする。私は大学に合格し、果たしてその先になにを望むのだろうか。友人たちのような華やかなキャンパスライフを送りたいと漠然としか考えて来なかった。
「別に、そんな大それたものじゃありませんよ」
「ふふん。なれば、今から貴様には素晴らしい縁を結んでやろう。なに、礼には及ばぬ」
 横で大男がなにやら大声で話していたが、私の頭では先程の言葉がぐるぐると繰り返されていた。
「おう、坊主。ここか?」
「え? あ、はい。ここですね」
 参道に面した年季の入った土産物屋で、店員たちが慌ただしく梅ヶ枝餅の販売をしている。
「おうおう。思い出してきたわ。坊主、少しそこで待っておれ」
 大男は店の年配の女性に親しげに声をかけると、すぐに店の奥へと案内された。二階へ続く階段へ無遠慮に上がっていき、私はポツンとその場に取り残される。
 今のうちに逃げてしまおうか、と思った私に、先ほどの年配の女性が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。今年はあなたが選ばれたのね。大変だと思うけれど、どうぞよろしくお願いします」
 深々と頭を下げられて、困惑する。
「はあ」
「梅ヶ枝餅、お好き?」
「あ、はい」
「良かった。焼きたてだから、火傷しないよう気をつけて」
 受け取った梅ヶ枝餅は確かに熱く、慌てて両手で転がして冷ます。
「ありがとう、ございます。二階は宴会場か何かですか?」
「ええ、普段はそうね。でも毎年、年末年始にかけては大切なお客様たちに座敷をご提供しているの。夜通しで何日も交代しながら御役目を果たされる。その御手伝いができるのは、とても光栄なことよ」
「あの人も、そのメンバーなんですか」
「そうよ。あの方にしかできない、大切な役目をお持ちなの。でも、それはあなたもでしょう?」
 梅ヶ枝餅を頬張ると、塩の効いた餡子の甘みが口に広がる。
「いえ……。僕は、強引に連れて来られただけです」
「——それでも、選ばれたのはあなたよ」
 それから暫くすると、二階から大男が誰かと一緒に降りてきた。見るからに疲労困憊といった様子でなんだか顔色が悪い。目の下にはクマがあり、眠そうに何度も瞬きしていた。
「やあ、どうも。今年捕まったのは君か。ご苦労様」
 瘦せっぽちの彼はそう言うと、椅子に腰かけて首をボキボキと鳴らす。
 戻ってきた大男は偉業を成し遂げたようにふんぞり返っていた。
「おう、坊主。そこに直れ」
「え、どうしてですか」
 ようく聞け、と前置きを言う。
「目の前のこやつこそ、何を隠そう、太宰府天満宮の祭神たる菅原道真よ!」
「……はあ」
 意味が分からない。どう見ても働きすぎの大人だ。勉学の神様のようには見えないし、もし彼が本当に太宰府天満宮の神様であらせられるのなら、拝殿の奥に帰るべきだ。
「いきなり何を言うんですか。やめてください」
 眼の下にクマのある神様は迷惑そうに言って、あらためて私に頭を下げた。
「はじめまして。菅原道真と言います。凄い名前で驚いたでしょう?」
 確かに凄い名前だと思う。名古屋で織田信長と命名するくらいの名乗るのに勇気がいる名前だ。
「はい。あの、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「年末年始は仕事柄、どうしてもね。二階に詰めている同僚たちと徹夜で事に当たっているんだが、修羅場だよ。でも、これが務めなのだから仕方がない」
 社会に出ると、年末年始までこれほど必死に働かなければならないのか。ブラック企業には気をつけよう。
「彼の道案内をしてくれてありがとう。あなたのような方がいるから、私たちも安心して年を越せます」
「いいえ。成り行きというか、断り切れなくて。あの、菅原さんはその待ち合わせ場所というのは御存知ですか?」
「いえ、私も知らないのです。こればかりは探してみるしかありません。最近は特に少なくなってきましたから。なかなか骨が折れるでしょう」
「菅原よ。では、印について教えてくれぬか?」
「ダメですよ。私たちは教えてはならないという決まりですから。破れば私が叱られてしまいます」
「どうにかならんか」
「どうにも出来ません」
「なら仕方あるまい。他を当たろう。よし、小僧。せっかくの機会だ。なにか願いはないのか。どうせ後で本殿へ参るのだろう? ここで本人に祈願しておけ」
「うーん、そうですね。あの実は僕、国立大学の受験に失敗して、もう三浪しているんですが、今年こそ受かりますかね」
 自分でも何を言っているのか、と恥ずかしくなったが、彼は真剣に私の顔をじっと見て、なにか考えてくれているようだった。
「神に祈っても、合格を約束してはくれませんよ」
「そう、ですよね」
「神前は神に誓う場所です。自らの力を尽くす誓いをし、最後の天与を神に乞う。天候など、人の力の及ばぬ範囲には神が力を貸しますが、人の力の及ぶ範囲は人が行わねばなりません」
「受験は、自分次第だということですか」
「運任せにしてはならない、ということです」
 どきり、と胸の内を見透かされたような気がした。
「受験に限らず、生きるという事は本来そういうものですよ。成すべき事を見定め、成すべきときに、成すべきを為す。それも、自分自身でそれと決めて。これが最も難しい」
「ぼ、……私は、国立大学に入学するのが目標でした。でも、なんの為に大学に行くのかということを考えてきたことがなかったんです。大学生になりたい、ただそう漠然と思っていただけなんです。大学生って楽しそうだなって」
 なぜ会ったばかりの人にこんな話をしているのか。自分でも不思議に思ったが、彼は特に嫌がるでもなく、鷹揚に頷いてくれた。倒れてしまいそうなほど疲弊しているのに、どうしてこの人はこんなに優しいのか。
「それが悪いということではありませんよ。あなたはまだ若い。これから沢山のことに出会うでしょう。あなたの中にはない価値観と出会い、その度に新しい世界が見える筈だ。これしかない、などと世界を狭めるような真似は勿体ないことです」
「神頼みは、無駄ですか?」
「あなた次第ですよ。頑張って」
 彼はそれだけ言うと、肩を回しながら再び二階へと上がっていった。
「ふふん。勉学の神というのも伊達ではないのう」
 いや、本当に。もしかしたら、と思ってしまう程、彼の言葉には力があった。

      〇
「今からどこへ?」
 店を出た私たちは参拝客の流れに任せて、鳥居を潜って拝殿へと向かう。赤橋に並ぶ人々を横目に、大晦日の夜によくもこれほどの人が集うものだと感心してしまう。
「実はな、口を滑らすやもしれん御方に心当たりがある。偏屈で怒りっぽく話も長いが、ああ見えて慈悲深くもあるんでな。もしかすると、もしかするかもしれん」
「また神様ですか」
「当然だ。年末年始の神社など、八百万の神々の坩堝よ。此処太宰府なぞ、石を投げれば神に当たるわ」
「そんなに沢山集まって、なにをしようって言うんです」
「そりゃあ、小僧。貴様のような者たちの願いを聞き届けようと集まるのよ。これほど多くの大願を一柱でどうこう出来る筈がなかろう? 故に神々が合力しようと集うのは当然のことだ」
「そういうものですか」
「苦難は大勢で乗り越えた方が良いと思うのは、人と変わらぬわ」
 自分でもどうかしているが、与太話だと笑えない気持ちになっていた。私はこの世の中のことを知っていた気になっていたけれど、実際にはほとんど何も知らないのじゃないだろうか。
「しかし、当面の問題は、あの御方が今どこにおわすかだ」
「おうちにいらっしゃるんじゃ?」
「いや。あの方の動向は、まるで見当がつかん。昨年は宝船へ人間をお連れしたとかで、随分とあちこちから僻まれたそうだが」
 宝船とはなんなのか気になったが、ぐっと堪える。
「まぁ、良い。とにかく社へ詣ろうか。となれば、手土産のひとつも用意せねばなるまい」
 男は辺りを見渡すと、太宰府幼稚園の前に並ぶ露店の一つを指差した。
「坊主。あそこの天津甘栗を買ってくれい」
「買ってくるのは良いですけど、お金は?」
「もっておらん。見ての通りのスカンピンじゃ」
 そういえば手荷物一つ持っていない。携帯も財布も持たずに出かけるなんて、神経が図太すぎる。
「……はぁ。いいですよ。買ってきます」
「一番でかい袋で頼むぞ」
 露店で天津甘栗(特大)を買いながら、改めて自分はなにをしているのかと思わずにはいられなかったが、不思議と怒りが湧いてこないのはどういうことか。あの大男の人徳だろうか。
「買ってきましたよ」
「おうおう。すまんなあ。あとで、なんらかの形で恩を返さねばな」
 では行こうか、と大男はそのまま真っすぐに拝殿の横を通り、本殿を迂回する形で神社の敷地の背面へと回って行く。
「お詣りしないんですか」
「さっき祭神と直接話してきただろう。今更、何を願うのだ」
「でも、御守りとか」
「後にせい。急がねば年が明けてしまうぞ」
「明けたらどうするんです?」
「マズいことになる」
「具体的には?」
「こう、どかーんと」
 手を大きく広げてなにかを表現しているが、象徴的すぎて意味がわからない。
「まぁ、ともかく間に合えば良いのだ」
 そうして拝殿の後ろから小高い丘の上へ続く道へ、ずんずん進んでいく。太宰府天満宮の敷地内にこんな場所があったなんて知らなかった。あちこちに朱色の幟が立っており、そこには『開闢稲荷社』という文字が書かれている。
「まだ、登るんですか」
 傾斜が地味にキツい。運動不足の浪人生には辛い道のりだ。
「若い癖に足腰が弱いのう。もっと身体を鍛えねばならんな」
「普段は、こんな場所になんて、来ないから、いいんです」
 膝がガクガクする。長い坂道をすいすいと進んでいくものだから、追いかけるだけで精一杯だ。
「たわけ。心身を鍛えるのは、大事な者の危機に駆けつける為よ。いざそのような場面に出くわしても、貴様はそんな言い訳をするのか」
 バシバシ、と背中を叩かれる。巨大な掌は、私の倍は大きい。
「正しく鍛えられた鋼は曲がらず、折れぬもの。なに、貴様はまだ若い。今からでも高品質プロテインと激しい筋トレを積めば、必ずや鋼の肉体を手に入れられよう」
 はちきれんばかりに張り詰めた胸筋が、まるで別の生き物のように動くのを見てゾッとした。
 石段の先に赤い鳥居が見える。
「おお、よかった。無駄足にならずに済んだぞ」
 目の錯覚か、小さな社の前にコタツがある。コタツの上にはみかんが篭に山積みにされており、左右に神主と巫女の格好をした男女がそれぞれ座り込んでいた。上座には如何にも機嫌が悪そうな老人が厳しい顔でこちらを見ている。
「招いてもおらぬのに、勝手に我が御所へと上がり込むとはどういう了見か」
 回れ右して帰ろうとする私の首根っこを、大男がつまみ上げる。ぷらん、と両足が地面から離れて最早なす術なし。
「憎まれ口は相変わらずですな。ほれ、手土産も持参しております。天津甘栗が好物だったでしょう」
「どうせ貴様が買うたものではあるまい。おい、そこのもやし。そこに突っ立っておると景観が悪くてかなわん。早うコタツへ入らんか。ほれ」
 初対面でもやし扱いされたのにも驚いたが、この寒空の下でコタツで平然とぬくぬくしていることが一番の驚きだ。よく見ればコタツの下にはホットカーペットまで敷かれている。
 靴を脱いでカーペットに上がり、コタツ布団の中へ足を入れる。その瞬間、凍えていた足と尻が熱に溶けるような快感があった。
「どうじゃ。寒空の下で入るコタツは格別であろう。今宵の働きを期待しての馳走、とくと味わうがよい」
 老人はそう言うと、カゴのみかんをこちらに投げて寄越す。枝葉がついたみかんは手にとっただけで香りがあたりに広がり、指で剥けばするすると解けるように皮が落ちた。大粒の実を一粒、口に放り込む。歯を立てると薄皮が破れて、濃厚なみかんの果汁が口の中に溢れ出す。あまりの美味しさに驚いてしまうほどだ。これは本当にみかんなのか。もしそうなら、今まで食べてきたみかんはなんだったのか。
「美味いか。小僧」
「はい。あの、これってどこで売っているんですか」
「これはな、大国主命が手ずから作ったものよ。まさに甘露よ」
「こんなに美味しいみかん、初めて食べました。感動しました」
「たんと食え。病や傷もたちどころに平癒しようぞ」
「慢性鼻炎にも効きますか」
「無論だ」
 みかんを貪り食べる私を見て、大男が笑う。
「昨年はまた無茶をなさったそうですなあ。只人を宝船へと招くとは」
「ふん。招き入れてはならぬと勅を賜ったことはないわい。それよりも、貴様らこんな所に立ち寄るとは随分と余裕があるのう。日を跨ぐまでもう半刻もあるまいに」
「なんのなんの。ウカノミタマ様の御座所に立ち寄らぬ訳には参りますまい。しかし、何か寂しいと思えば、酒精の類が見当たりませぬな」
 老人はむっすりとしたまま押し黙っていたが、隣に座る美女がくすくすと笑った。
「ふふ。実は、畏れ多くも大御神様より直々に『今宵は酒を慎み、身を慈しむように』と文がございましたの。ですから今夜は一滴も口にしておられません」
「なるほど。それは違える訳には参りませんな」
「ですから、今宵ばかりはこうしてみかんで溜飲を下げておいでです」
 美女はそう言って、剥いたみかんを一粒、老人の口へと放り込む。あんな美女にみかんを口に入れて貰えるのなら、どんなことでも我慢できるだろう。
「神使が要らぬことを言うでないわ」
 美女を押し除け、傍らの天津甘栗の袋を抱き寄せる。
「ええい。供物は受け取った。貴様らはさっさと行くがいい。万が一のことがあらば、年が越せぬわ」
「ウカノミタマ様。その件で一つ、伺ってもよろしいか」
「なんじゃい」
「十二年前、自分は何を印として探しておったのか教えて貰えぬでしょうか」
 沈黙が訪れ、老人の指から甘栗がころりと落ちて転がる。
「貴様、よもや印を忘れたと言うのではあるまいな」
「ワハハ! どうやらそのようで!」
 老人は怒鳴るかと思われたが、呆れたように額を押さえて黙り込む。
「どうなさいました」
「頭痛がしてきおったわ。どうして貴様らはそう揃いも揃って、肝心なことを忘れるのだ」
「十二年も間が空くと、記憶が曖昧になっていけませんな」
「馬鹿者め。知っておろうが、我らの口よりそれを教えることは罷りならぬ」
「ヒントだけでも、どうか」
「なんの為に人に手を引いて導かれるのか。その意味をようく考えよ」
 老人がこちらを見て、みかんをもう一つ投げて寄越す。
「小僧。貴様は童の頃に作ったことがあろう。ようく思い出してみよ」
「え?」
「我が分社を忘れたとは言わせぬぞ」
 その言葉に脳裏を子供の頃のあれこれが通り過ぎていく。年の暮れ。子供会。近所の神社のイベント。正月飾りをみんなで作った。そうだ。あそこも稲荷社だった。
「あ!」
 こたつから勢いよく立ち上がり、慌てて靴を履く。
「なんだ、坊主。藪から棒に」
「わかりました! 思い出しました! 急いでください!」
「おお、本当か!」
 大男の手を引き起こして、老人たちに一礼する。
「ありがとうございました!」
「礼には及ばぬ」
 踵を返した背中に、早う行けい、と老人の声がした。
 年が明けるまで、もう十五分もない。
 石段を駆け下りながら、木々の向こうに太宰府天満宮の明かりが見える。市街地までは間に合うかどうか。それに今時、あれを飾る家なんてそうはない。実際、我が家にもない筈だ。
「小僧、印が何か分かったのか」
「はい。門松です」
 あの時、子供会の集まりで稲荷社の神主が話してくれたのを思い出す。正月飾り。特に門松は新年を迎える為、歳神の目印として家先に飾るのだと。
 大男が立ち止まり、おお、と声をあげた。
「そうだ、思い出したぞ! 門松、門松だ! はは、どうして忘れておったのか。歳神様はそこでお待ちだ! 急がねば!」
「でも、走っても間に合うかどうか」
「歩いていては到底、間に合わぬ。本来ならば許されぬが、今宵ばかりは神々にも目を瞑って頂こう!」
 その瞬間、男の身体が闇夜に溶けるように滲んだかと思うと、石段の上に巨大な虎が現れた。金色の体毛、夜よりも濃い縞模様、口の隙間から覗く牙が恐ろしい。けれど、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。この不思議な夜に、もう何が起きてもおかしくはない。
『乗れ』
 雷のように響く声。屈んだ首の肉を掴むと、体毛がふわふわと柔らかく、暖かい。跨ってみると、途轍もなく巨大な首だと分かる。
 一瞬、力を蓄えるように身体を沈めると、駆け上がるように夜空へと飛翔する。凍てつく空気が頬を刺して、寒さに耳が痺れた。眼下には天満宮の灯りと参拝する人々が見えたが、誰も夜空など眺めていない。
「はは、あはは!」
『あまり声を上げると見つかるぞ』
「いや、なんだか可笑しくて」
『人を背に乗せるなど、どれほどぶりか判らぬわい』
「行きましょう」
『おうさ』
 夜空を踏みつけ、虎が闇夜を疾走する。夢でも見ているような光景だが、身を刺す寒さが否応なくこれは現実だと突きつけてくる。このまま走り続けていれば、私は凍死して地面へ墜落するだろう。
 しかし、焦る気持ちとは裏腹に、なかなか門松を飾っている家がない。これでは、歳神がやってこれないじゃないか。
「見つかりません」
『小僧、きっとこれは貴様でなくては見つけられん。他の誰でもいかんのだ』
「でも」
『人事を尽くさねば、神の御神徳は得られぬぞ』
 願うような気持ちで、家々を見つめる。
 不意に、なんとなく、本当にただ視線を投げた先に、それはあった。
「ありました!」
 生垣に囲まれた古い日本家屋、入口には松の木があり、門扉の前には立派な門松が一対飾られている。
 音もなく家の前へと降りる。虎の背中から降りるのが、なんだか勿体ない。
「やっと来た」
 声に振り返ると、いつの間にか門松の隣に制服姿の女子高生が腕組みをして立っていた。マフラーに手袋までしているのに、スカートの丈は短いと言うのがいかにも女子高生らしい。
「遅すぎ。どれだけ待ったと思ってんの」
 ぽかん、としている私の背を虎の頭がぐい、と押す。
『小僧。この御方が大歳神様よ。武神スサノオノミコト様の子にて、ウカノミタマ様の御兄妹でもあらせられる』
「女性なんですね」
 しかも女子高生だとは思わなかった。
「髭の生えたお爺さんをイメージしてた?」
「あ、はい」
「私はね、年を迎える度に姿形が変わるの。それに、私の依代はそっち。この姿は借りているだけ」
 門松を指差して微笑む。その瞳が琥珀色に輝いていた。
「干支を導く務めを全うした事、誠に大義である」
 朗々とした声が響き、彼女の背後に後光が射す。まるで夜明けの太陽のような眩しさに、思わず目を閉じる。不意に掌の中に、虎の尾がするりと飛び込んできた。
『小僧。今宵の道行、誠に愉快であったぞ。息災に、人事を尽くして暮らせ』
 光に飲み込まれるように、意識が白く塗り潰されていく。
 私は声を上げることもできずに、その光に呑み込まれていった。

 気がつくと、一人で門の前に立ち尽くしていた。
 歳神の姿も、虎の姿も見当たらない。
 ごーん、と何処かで除夜の鐘の音が聞こえる。年が明けたのだ。
 今夜の出来事が、なんだか夢だったような気がした。追い詰められた浪人生が見た、明晰夢だったのではないだろうか。
 右手の違和感に気付いて見ると、手首に金色の編み紐があった。電灯に翳して見ると煌々と光を弾いている。触れてみれば、あの虎の毛並みそのものだ。
「今年はもう、御守りはいらないかな」
 新年の夜空に吐いた息は白く、軽やかに高く広がって消えた。

 為すべきを見定め、為すべき時に、為すべきことを成す。
 特別なことでもなくていい。
 私がすべきと思ったことを、懸命にしたらいいのだと言われたような気がした。
 きっと私たちが思っているよりもずっと身近で、神々は私たちのことを見守ってくれている。
 その証拠などなくとも、私はもうそれを信じることができる。

 帰ったら、近所の稲荷社にも御礼参りに行かないと。
 大好物の天津甘栗を持参して。
 その前に、初日の出を眺めに行こう。
 一度立ち止まって、呼吸を整えて、新しい自分のことを考えよう。
 きっと、今年は良い年になる。

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