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桜花慈酒

 春の花見は我が国の伝統行事である。
 美しい桜を眺めながら一献、唄を詠めたら、他には何もいう事はない。
 生前、私が平安の世に貴族であった頃にも春となれば、麗かな陽気に誘われて平時の仕事も忘れて、桜に酔ったものだ。この太宰府の地に左遷された後も、部下たちと共に花見をしている時だけは慰められた。
 死してのち、神として祀られるようになった後も、こうして花見が出来るとは思いもしなかった。
 そして、まさか神でありながら、場所取りをさせられることになるとは、本当に予想すらしなかった。
 理由は単純明快。
 家が近いから。

 ご存知の方も多いかと思うが、八百万の神々というのは総じて宴好きである。酒も騒ぎも大好きで、自分の社のお祭りには必ず参加する。しかし、もちろん山車の上で鎮座する訳にもいかない。そんなことをすれば頭のおかしい人間扱いされて通報されるのが関の山だし、山車の上に登る祭りも昨今は少なくなった。かと言って氏子側で参加するのは気恥ずかしい。自分を祀る祭りで、柏手を打ったりしたら笑ってしまうに違いない。なので、祭りは一般参加、遠巻きから眺めるくらいがちょうどいい。宮参りに来た赤ん坊が、成長して神輿を担ぐ姿など涙無くしては見れないものがある。親子三世代どころか、その十倍以上は見守ってきたのだ。思い入れが半端ではない。
 さて、神々は春夏秋冬、何かと理由をつけて集まりたがる。しかし、花見は別格だ。何があっても必ず花見はする。
 福岡中の神々が一同に会し、花見を行うのである。もちろん天候は晴天。その日だけは決して風雨のない絶好の花見日和となる。万が一にも雨など降ろうものなら神の面目丸潰れである。その為、花見の前日には福岡の各地で天に向かって一心に祈る不審者が目撃されるが、それは仕事中の神様なのでそっとしておいて欲しい。
 場所は、ここ半世紀は太宰府政庁跡と決まっている。かつての職場の跡地で花見をするのも複雑な気分だが、ここの桜は間違いなく福岡でも有数の名所と言えよう。広大な敷地には芝生が青々と茂り、小さな子供を連れた家族連れから仲睦まじい老夫婦まで、誰もが思い思いに過ごすことができる。
 しかし、今現在、朝靄の煙る早朝にビニールシートを広げて、その中央でポツンと座り、膝掛けと缶コーヒーで暖を取る私の他に人影はない。時計に目をやると、時刻はまもなく朝6時。花見の場所取りは早い者勝ちの真剣勝負が不文律、後から来た者が割り込もうものなら血を見ても仕方がないことだ。この暗黙の掟は、平安の時代から変わってはいない。
 先にも触れたが、私が栄誉ある神々の花見の場所取りを命じられたのは、単純に家が近いからというだけではない。私が福岡に棲まう神々の中では新参者であることが最大の理由だろう。古今東西、花見の場所取りは新参者の仕事である。おまけに幹事まで歴任されるので、たまったものではない。
 無論、生前の職業柄、そうした雑多な手続きを片付けるのは苦痛ではないものの、受験シーズンでくたびれ果てた身には辛い。横になってしまうのも良いが、春とはいえ朝はそれなりに冷える。このまま横になって御臨終は避けたいところだ。
 日が射してくると、仄かに暖かくなってくる。青々と萌える草木が美しい。郷里の山野を思い出すのは、どこか匂いが似ているからかもしれない。
 ポカポカとした陽気に誘われて、どこからともなく人が集まり出す。いかにもご近所のご年配といった風で、よくよく見るとうちの神社の氏子である。あのヨチヨチしている女の子は孫だろうか。ついこの前、うちで宮参を済ませたばかりのように思ったが。
 欠伸を噛み殺しながら、ゴロンと横になる。これだけ暖かくなってくれば構わないだろう。どうせ、まだ誰も来ないだろうし、少しばかり休憩してもバチは当たるまい。
「やぁ、いい天気だなあ」
 ゆっくりと流れていく雲を眺めていると、不意に影が差した。視線をあげると、純白のレースのパンツを履いた御御足がスカートの中に見えた。
「朝から私のパンツを覗くなんて良い度胸ね。菅原くん」
 にっこりと微笑む美女、もとい神功皇后様のご尊顔がこちらを見下ろしていた。
 慌てて立ち上がると、いかにも春の女子大生のような格好をしていらっしゃる。
「わ、わざとじゃないんです!」
「知ってるわよ。サービスで見せてあげただけ」
 こんな心臓に悪いサービスはない。
「まだ誰も来てないじゃない。集合時間は何時なの?」
「9時です。まだ、かなりありますよ」
「いいわよ。遅れてくるよりマシだわ。あなたも大変ね。毎年毎年」
 皇后様はそう言ってシートの上に座り、疲れた疲れたと言いながら足を伸ばした。
「駅から歩いてきたんだけど、かなり距離あるわね。毎年のことだけど、なんでか歩いてきちゃうのよね。太宰府って雰囲気が長閑で、あちこちに神気があるでしょう。居心地が良くて好きよ。高いビルがないのもポイント高いわ」
「マンション住まいじゃありませんか」
「景観がいいのが好きなの。お花見するところにビルなんかあったら興醒めじゃない」
 私がオンボロアパートの四畳半で寝起きしていることを知りながら、平気でこういうことを言うのが実に神様らしい。
「やぁやぁ。二人とも早いですなあ」
 買い物袋を両手にやってきたのは薬の神である少彦名命様だ。見た目の年齢は高校生くらいで、背丈が低い。一見少年のようにも見えるが、大国主命様と二柱で国造りをしたという大変偉大な御柱なのだ。
「ご無沙汰しております。少彦名命様」
「硬いよ、菅原くん。おまけに長い。あのね、僕じつは最近ちょっと就職してね」
「は? 就職、ですか」
「そう。何世紀ぶりかに熱中できることを見つけたんだよ。いや、薬剤師も悪くないんだけどね、いい加減もう飽きたよ。はい、名刺」
 手渡された名刺には株式会社アウトドアーズ 営業『砂川彦介』とあった。砂川彦介というのは住民票に記載されている人間としての名前である。問題は、勤務先の方だ。
「アウトドアの会社のようですが」
「そう! 最近ね、キャンプが熱いんだよ! 都会で疲れた身体を癒す為に、喧騒を離れた大自然の中で自分だけの時間を過ごす。焚き火を眺めながらブランデーを傾けてごらんよ。普段の疲れなんて吹き飛ぶよ。キャンプは浪漫さ」
「ず、随分とこちらに慣れましたね」
「本当よ。常世の国には戻らないのですか?」
「悪いところじゃないんだけどね。変化がないのがつまらないんだよ。こちらへ戻ってきて百年余り。やっぱり人の世は面白い。あちらに渡らない神が多いのも理解できるってものさ」
 常世の国というのは、死後の世界とも少し違う。黄泉の国と、こちらの間にある場所。あるいは神々が住まう黄昏の土地だという。神去る場所と聞くが、人の子が迷い込むこともあると聞く。
「退屈なものですか」
「暇で死にそうになるね。まぁ、時間の流れ方も違うからなあ。でも、僕はこうして君たちと花見をする方が好きだな。世知辛い世の中だと思うけど、やはり楽しいからね。僕はこの国にアウトドアをもっと広めて、ゆくゆくはアウトドアの神も兼任するつもりさ! 御供物にはキャンプギアが欲しいね」
 少彦名命様はそう言って、ビニール袋から缶ビールを三つ取り出した。
「先に始めてしまおうじゃないか。何、他の神々もすぐに来るさ。それに、僕に文句を言える神なんてそういないからね。さぁ、飲もう飲もう」

   ○
 神在月の出雲に八百万の神々が一同に揃う日でさえ、こうも早く集まったことはない。しかし、宴だとなれば話は違う。一刻も早く始めて、一刻でも遅くまで飲み食いするのが神々というものだ。
「えー、ですから昨今の世情を鑑みましても、我が国の」
 乾杯の挨拶をしろというから、恥を忍んで前に立って話をしているのに、誰ひとり私の方など向いてやしない。酒杯を交わしながら、愉快そうに地元で産まれた氏子の話などをしている。
「もういいわよ。菅原くん。座っても誰も気づかないわ」
 そんなことはあるまい、と試しに座ってみたが、誰も私が腰を下ろしたなど気づきもしない。
「よーし。じゃあ、改めて乾杯!」
 かんぱーいと杯を交わす。
 ビールを飲みながら、周囲に目をやると太宰府政庁跡の敷地を囲うように植えられた桜の木々が、今や満開と美しい花を咲かせている。春の息吹に我先にと様々な草花が花を咲かせる様子は、いかにも春らしくて心が和む。こうも美しい光景を肴に酒を飲むなど、なんて贅沢なのだろうか。
 しかし、こうして改めて見ると、花見客の半数は神々である。あの酔っ払って隣の宴会に飛び入り参加しているのも文鎮の神だし、子供たちに混じって、芝生の上でサッカーボールを追いかけて派手に転倒しているのは蚕の神だ。
「良い世の中になりましたね」
 にっこりと微笑みながら、そう漏らしたのは竈門神社の御祭神である玉依媛命様だ。ふんわりほわほわとした、可愛らしい女性だ。恋愛成就の神として名高く、氏子も多い。
「まぁ、色々と大変ではあるようですが」
「生きていくのは大変なことです。しかし、子らが戦禍に巻かれることなく、ああして無邪気に走り回る様子は見ていて涙が出るほど嬉しいのです。親が子を捨てずとも良い世。これほど幸せなことはありません」
 くぴくぴと杯を傾けながら、玉依媛命様は微笑む。
「確かに仰るとおりですね。人が相争うのはもう懲り懲りです。皇后様もそう思いませんか?」
「私? そうねぇ。平和な世だと思うわよ。私みたいに身重で戦の先陣に立ってた身からすれば、平和ってだけで万々歳。推しのライブの翌日に、こうして花見ができるってんだから言うことないわ」
「まぁ! アイドルですね! わたくし、アイドルのコンサートというものが未経験でして。一度、年若く見目凛々しい男の子たちを間近で眺めてみたかったのです!」
 そうそう!と女神が若い男の子の素晴らしさを語り合い始めたので、私は早々に席を立ち、無言で周囲に自身の身の置き所を探したが、如何せん誰も彼もすっかり盛り上がっていて、どうにも間に入り辛い。さらに言えば、コミュニケーション能力の高い神々が、人間の宴会にも顔を出したり、引っ張り込んだりしているので、最早どこからどこまでが自分たちの集まりなのか判断がつかなくなってしまった。
 私はしばらくウロウロと所在なさげに歩き回っていたが、なんだか酷く虚しくなって近場の桜の下に腰を下ろした。麦酒を飲み、咲き誇る桜を眺めると、なんだかここでも別に良いような気がする。遠くで宗像三女神様が両手を振って呼んでいるような気もするが、気のせいということにしておこう。あの方達の酒の呑み方は凄まじく、まさしく鯨飲とも言うべき飲みっぷりで、付き合わされる神は間違いなく今夜ここに屍を晒すことになるだろう。
 さて、生前から私はあまり人々の輪の中に入るのがそれほど得意な方ではなかった。その為、政務を覚えて地位が上がると誰となく話しかけてくれるので、大変有り難かった。そうして太政大臣まで上り詰めたのだが、今度は厄介者扱いされて左遷、無念の内に死を迎えた。ほどほどというのが難しいのだ。
 しかし、死後にこうして神になってみれば若輩も若輩である。私よりも後輩の神々と言えば、珈琲豆の神や、電化製品の神など、少しハイカラな神になる。そして、そうした若い神々はこういう集まりには来たがらない。何かとプライベートを優先して、出雲にも顔を出さないのだ。まぁ、男女の縁を決める宴にやってきても彼らがすることは実際何もないのだが。
 しかし、何か口寂しい。酒の肴が欲しい所だ。
「あの、宜しければこれ如何ですか?」
 声をかけてきてくれたのはスーツ姿の青年で、コンビニ袋を持って木の根の上に腰を下ろしている。差し出してくれたのは焼き鳥だった。
「これはこれは。良いんですか?」
「ええ。どうぞ。ちょっと加減できてなくて。ハハ、一人でこんなに食べられないんです」
 焼き鳥を齧ると、温め直したばかりの豚バラがしょっぱくてビールに合う。
「その格好。もしかしてお仕事の途中ですか」
「はい。サボりです。たまたま立ち寄ったら、すごく綺麗で。思わずコンビニでノンアルコールビールとツマミ買って。営業車そこに置いて桜眺めてました」
 あはは、と力なく笑う青年は酷く衰弱しているように見えた。頬はこけ、目の下には酷いクマがある。これはもはや死相に近い。今のままの生活をしていれば、きっとそう長くはないだろう。
「お仕事、大変そうですね」
「まぁ、はい。きついですね。死にそうです」
 いや、笑い事ではない。このままでは本当に死んでしまう。
「実は小さな頃、この辺りに住んでたんですよ。懐かしいなあ。太宰府天満宮にも小さな頃からよく遊びに行ってました。ほら、奥に小さな山があるじゃないですか。あそこが遊び場で。秘密基地つくったりして。懐かしいなあ。あの頃は本当に楽しかった」
 そう言えば、大きくなって人相が多少変わっているが、この顔には見覚えがある。
「お兄さん。ちょっと待っていて貰えませんか?」
「え?」
「焼き鳥の御礼がしたいんです」
「いや、御礼なんてそんな」
 私は彼にそこから動かないで待っていて欲しいと伝え、小走りで神々の元へ急いだ。
「宇迦之御魂命様はどちらにいらっしゃいますか!」
 あちこちで声をかけると、東の方で美女二人を侍らせて天津甘栗を食べているというけしからん話を聞いた。慌ててそちらへ駆けていくと、胡座をかいた厳つい顔の老人が眼光鋭く私を捕らえた。左右にいらっしゃる美女は宇迦之御魂命様の神使だ。
「菅原。挨拶周りに来るには、ちと早いのう。何用か」
「宇迦之御魂命様におかれましては、」
「ええい。前口上などいらん。芝生の上で跪くな。周りから何事かを思われるわ。全く面倒な奴だ」
「す、すいません。つい」
「して、何用じゃ。息を切らしおって」
「実は、会って頂きたい人がおります」
「誰じゃ。このワシを人間風情が呼びつけるとはけしからん」
「恐らく、会って頂ければお分かりになるかと」
 ぬ、と眉間に深い皺を寄せていたが、やがて億劫そうに立ち上がった。
「菅原。神酒と酒器を持て。早う案内せいよ」
「はい!」
 しかし、早う案内せいと言った割には御高齢の為に宇迦之御魂命様の歩く速度は蝸牛のように遅いので、途中から私が半ば無理やり背負って行くことになった。年寄扱いするな、と何度も後頭部を叩かれたが、あのままでは日が暮れてしまう。
 先程の場所に戻ると、律儀に彼は私のことを待っていてくれた。しかし、まさか厳つい顔の老人を背負って戻ってくるとは想像していなかったのだろう。マルチ商法に引っかかったような顔をしていた。
「なんじゃ。お主か。図体ばかり大きゅうなったのう」
「え? あの、僕のことをご存知なんですか?」
「覚えておるわい。賽銭もくれたろう。まぁ、お主がワシのことを覚えておらずとも無理はない。まだ小さかったからのう。なんじゃ、ワシの氏子ではないか。菅原、お主も早う言わんか」
「申し訳ありません。確証がなかったもので」
 ボケてて忘れているんじゃあるまいか、と疑ったことは口が避けても言えない。
 宇迦之御魂命様は我が太宰府天満宮の社領の一角にある、開闢稲荷社の御祭神にして、京都伏見稲荷の御分霊であらせられる。その神格は私などとは比べものにならぬ、食物の神という極めて重要な役割を担っていらっしゃる。
「あの、話がよく見えないんですけど」
「お主の小さい頃をよく知った爺よ。ん? なんじゃ、お主。死相が出ておるな。働きすぎじゃろう」
「ええ、まぁ」
「よし。仕事を変えよ。ワシが見繕ってやろう」
「へ?」
「今の会社は遅かれ早かれ潰れるわい。何も泥舟に付き合う必要もあるまい」
「し、しかし、そのいきなり」
「そうさな。地場の食品メーカーがよかろう。なぁ、菅原。最近、景気が良いのは何処じゃ。奉納で散々見とるじゃろう。器のない男が仕切る会社はいかんぞ。小物はすぐ人を切るからな」
「そうですね。あそこはどうでしょうか。ほら、毎年うちとそちらと律儀に参りに来るでしょう」
「おうおう。あやつがおったわ。よし、電話を貸せ」
 手渡した携帯がキーも叩かずに通話に繋がる。
「おう。ワシじゃ。うむ。息災であるか? そうか。よしよし。実は、ちとお主に頼み事があってな。ワシの氏子を一人、そちらで雇ってくれ。心根はワシが保証しよう」
 二、三言何事かを話した後、電話を切る。
「縁は結んでやった。あとは己で掴みとれい」
「見事な手腕、お見それ致しました」
「造作もないわい。ほれ、呑め」
「え、いや、あの、僕、その」
 戸惑うのも無理はない。突然、現れた老人が次の仕事先をわずか数分で見つけてしまったのだ。何が何やら分からないだろう。そして、かの神はそれを逐一説明するような方ではない。
「目蓋を開け。そちらではないぞ。他人に人生を預けてはならん。自らの足で立ち、歩むべき方へ進め」
 そう言うと、彼は抱えていたものが決壊したのか、ポロポロと泣き出してしまった。
「呑め。ほうら」
 酒器に注がれる酒は萌葱色をしていて、うっすらと輝いている。
「こっ、これは飲ませたらマズいのではありませんか!?」
「やかましい。大人しく座っておれ。ワシが手ずから下賜しておる。横から口を挟むでない」
 こうなると最早、なにも言えない。神様の宴でしか飲むことを許されない、酒造の神が醸した特別な神酒を人に飲ませるのは禁止されているのだが、これ以上口を挟むと怒りを買ってしまう。私は神としての責務と、怒りを買ってから被るであろう実害を秤にかけ、沈黙を決めた。古い神には若い神は口答えできない。神ハラスメントである。
「ありがとうございます。いただきます」
 クイッ、と仰ぐように酒を傾ける。一口で夢見心地、全身の邪気は祓われ、病魔は去り、活力が湧いてくる。
「もっといけ」
 二口飲めば前後の感覚もなくなり、浮世の憂さも消え果てる。
「あの、それ以上は」
「お前は黙っておれ。ワシの氏子ぞ」
 三口飲めば浮き足だった体が地面を離れる。
 私は慌てて彼の足にしがみ付き、飛んでいこうとする彼を止めようと必死になった。
「すごーい。お兄ちゃんがとんでるー」
 いつの間にかやってきたちびっ子たちがキャイキャイと楽しげに笑う姿を横目に、宇迦之御魂命様は上機嫌に酒器に口をつけている。
「毎朝、陽が登るたびに今生まれたのだと思って生きてみよ。眠る前に、今日の自分は死んだのだと思え。無為に日々を浪費してはならん。ワシの氏子は総じて幸せであらねばならぬ」
 もう青年は春の空に浮かぶ雲のように、ぷかぷかと浮かんで桜の木に引っかかっていたが、とても幸せそうであった。私は手の中に残った片方の革靴を手に、途方にくれた。
「少し春空でも散歩して参れ。来年は必ず天津甘栗を持参せい。良いな?」
 逆さまに浮かぶ彼は嬉しそうに何度も頷いていた。
 小さな風が吹くと、青年は枝からふわりと離れ、糸の切れた風船のように春の空に舞い上がった。
 最早こうなると手の出しようがない。他の花見中の神々も空を飛んでいく青年を眺め、「見事見事!」と囃し立てるのだから始末に負えない。隣の老夫婦が空を眺めながら「どろーんじゃ。どろーん」を指さしていた。
「部長、一身上の理由で辞めさせていただきまぁす!」
 遥か空の彼方から声が響き渡り、やがて宝満山の向こうへと消えて見えなくなってしまった。
 空を飛んでいくサラリーマンを、子供たちが無邪気に最後まで手を振っていたのが、なんだか妙に印象的だった。

   ◯
 数時間後、英彦山を住処にする大天狗の豊前坊が杉の木に引っかかって眠っていた彼を見つけ、愛車のランボルギーニで連れ帰ってきてくれた。春風に吹かれ、遠く筑豊まで飛んで行っていたとは驚きだ。
 とうの昔に宇迦之御魂命様は帰宅してしまった。なんでも整骨院の時間だとかなんとか。最も、他の神々は深夜まで飲み続けるので、途中から再度合流するつもりなのかもしれないが。
「いやあ、すいませんね。菅原様」
 そう頭を下げたのは宇迦之御魂命様の神使で、普段は狛狐をしている仙狐である。今は作務衣姿にオレンジの髪というチグハグな姿をしているが、彼が言うにはこれがお洒落なのだと言う。
「本当にどうなることかと思いましたよ」
「無茶苦茶しますからねー。まぁ、でも悪いようにはなさいませんよ。少ない氏子ですからね。大切になさいます」
 確かに眠っている青年の顔は晴れやかで、死相も綺麗になくなっている。
「この子は僕がきちんと介抱しますよ。地元もこちらですし、上手くいけば近くに越してきて、いつかは氏子総代になってくれるかもしれませんからね。なかなかの逸材ですよ、この子」
「お手柔らかにお願いします。しかし、これだけ酔っていたら今日のことなど何も覚えてやしないでしょうね」
「そうですね。でも、縁は結ばれていますから。この子が前に進みさえすれば、きっと良いようになるでしょう。そうでないと守護する僕たちも甲斐がないですから」
 優しく背負いあげると、彼はにっこりと微笑み、ドロン、と煙と共に姿を消した。
 陽が傾き、夕暮れの空に桜の花弁が舞い散る。
 提灯の明かりに火が灯る。
 神々がこちらへ手を振っている。
 こうして我等の花見は夜更まで続く。
 平和な御代が続くことを祈って。

 苛酷な日々を越えられるよう、加護を与え。

 健やかであれと、その背を見守り続ける。

 神々は、人を愛しているのだ。

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