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幽黄昏迷

 私の家は経済的に裕福な方ではなく、大学は奨学金を利用してなんとか入ることが出来たが、生活費はすべてアルバイトで稼ぐしかなかった。
 バイトの掛け持ちは当たり前、大学にいない時間の殆どがバイトで費やされた。大学生というと遊んでばかりというイメージがあるだろうが、私はその例に漏れるという苦学生だった。
 アルバイトの中でも特に時給がよかったのが居酒屋のバイトで、厨房で準社員なみの働きをしていたのでそれなりの給金をもらっていた。ただ、そのぶん帰るのは閉店後、レジを閉めたりした後なのでいつも最終電車に乗って帰っていた。
 繁忙期の頃になると終電を逃して店の中で一晩過ごすというのも珍しくなかった。居酒屋のバイトというのは過酷なものだ。

   ◯
 その日、いつもどおり私は居酒屋のバイトを終えて、最終電車の最後尾の車両へと乗り込んだ。地方都市の最終電車となると、乗っている人間は数えるほどもいない。私はゆうゆうと座席に座ると、目を瞑ってしばらく眠ることにした。

 タタン、タタン、タタン。規則的な線路を走る音に微睡み、沈むようにして眠った。
 
 どれほど寝ていただろう。
 がたん、と大きく揺れた音に目を覚まして、慌てて時計を見ると、いつの間にか三十分以上の時間が経っていた。
 乗り過ごした、そう思って窓の外へ目をやり、私はようやく異変に気がついた。
 真夜中だった筈なのに、どういうわけか窓の外の景色は夕暮れに染まり、どこまでも田園風景が広がっていた。
 一瞬、私は夢でも見ているのか、と思ったが、腕時計の時刻は既に日をまたいでしまっている。携帯電話を開くと、当然のように圏外になっていた。
「どうなっているんだ。これは」
 私は混乱し、とにもかくにも席を立ったが、私の他には誰も乗っていなかった。私は不安に背筋が震えながら先頭車両まで歩き続け、結局、一人の乗客も見つけられなかった。
 窓の外に目をやると、相変わらずの田園風景が延々と続いている。地平線の彼方に山岳が見え、景色はどんどん背後へと流れていった。
 私は車掌に話を聞こうと運転席を覗き込んだが、そこには車掌服を着た何かが立っているだけで、微動だにしない。私はそら恐ろしくなり、先頭車両から逃げ出すように、後部車両へと走った。
 私は車内の掲示板を探しまわり、ようやく路線図を見つけた。いったいここが何処なのか、それを確かめるにはこれが一番だと思ったのだ。
 だが、そこには私の知っている駅名は一つも載っていなかった。
 駅名は一番右手から『暁』『尼ノ原』『如月』『東雲』『沼の淵』『西野宮』『百日紅』『山王』『牡馬ヶ崎前』とある。いったいどこを走っているのか、まったく検討もつかない。ただ、この路線図が正しければ、『牝馬ヶ崎前』というのが終着駅なのだろう。
 とにもかくにも、どこかの駅で降りて事情を聞いてみるしかない。ここが何処か聞いてみればいいのだ。
 しばらくすると、電車が徐行を始めた。アナウンスが入りはしないかと期待したが、なんのアナウンスもなく、ついに電車は駅に停車した。
 開いたドアから私を顔を出し、ホームの様子を観察した。古びた駅舎のホームには『牡馬ヶ崎前』とあり、私はここが終着駅であることを知った。仕方なく電車を降りると、遠くから何か音が聞こえてくる。
「太鼓の音か」
 夕暮れに染まる駅舎は木造で古めかしく、相当に古いもののように感じられた。電灯もどこか古めかしくて、よくみるとどうやらガス灯のようだった。
「まるで明治か大正時代みたいだな」
 私はホームの連絡橋を渡り、駅舎の中へと入っていった。構内は夕暮れに染まって眩しいのに、どこかもの寂しい空気が漂っていた。あちこちに彼岸花が咲き、骨董品のようなスピーカーからはひび割れた「ふるさと」のメロディが流れてくる。
 そういえば、私は切符を持っていなかった。もともと駅で買った筈の切符はある筈なのだが、どれだけ探しても切符は出てこなかった。
 私は駅員に事情を説明しよう、と思い、改札口へ急いだが、そこには駅員はおろか誰の姿もなかった。
 私は駅員室のドアを叩き、返事を待ったが、いくら返事を待っても応答がない。思い切ってドアを開けると、事務室然とした部屋には誰もいなかった。ただ、まるでついさっきまで仕事をしていたかのように、灰皿の煙草は煙を上げ、換気扇はくるくると回っている。ラジオからは濁ったような音が漏れ、帰り支度をしている誰かの鞄が机の上に出ていた。
「あの! 誰かいらっしゃいませんか!」
 大声をあげてみたけれど、返事はない。私は電話を借りようと電話を探した。それぞれの机の上には一様に同じ黒電話があり、私は一番手近な場所にある黒電話の受話器を取り、とにかく自宅へと電話をかけることにした。友人の携帯の番号も携帯電話には登録されているのだが、なぜか親に電話をしたくなったのだ。
 コール音がしばらく続き、ようやく電話が繋がった。
「あ、もしもし」
『はい。どちら様でしょうか』
 母の声だった。私は本当に繋がった、と思い、すっかり安心してその場に膝をついた。
「もしもし。母さん? 俺だよ ◯◯」
 一瞬、母が受話器の向こうで息を呑むのが聞こえた。
『……もしかして、◯◯?』
「ああ。なんか訳わかんない所に来ちゃっててさ」
『お父さん! お父さん! ◯◯よ! ◯◯から電話がかかってきたの! 急いで! ほら、早く!』
 気が動転したような母の口調に驚いた。私の記憶の中の母は厳しい人で、あまり感情を表に出すような人じゃなかった筈だ。
『◯◯! お願い! 電話を切らないで! すぐお父さんに替わるから! 切らないでね!』
 代われ、と父の怒声が近づいてくる。
『もしもし! ◯◯か!』
「う、うん。そうだけど、なに、どうしたの」
『お前こそどこで何をしてる! どれだけの人に迷惑をかけたか分かっているのか!』
 意味が分からない。話が見えない。いったい何を言っているのか。
「いや、なんか気がついたら違う電車に乗っててさ。今、終点の駅に着いたところなんだけど、わけわかんなくって」
『いいから、とにかく帰って来い。みんな、お前のことを』
 ぶつり、と音声が途切れる。
「親父? おい、親父!」
 ぶつっ、ぶつっ、ぶつっ、と途切れる音が続く。そして、にわかに『ふるさと』のメロディが受話器から響き始めた。
「うわっ」
 あまりの音量に顔を背ける。受話器のスピーカーが割れそうなほど響く『ふるさと』のメロディに恐ろしいものを感じ、叩き付けるようにして受話器を戻した。
「なんなんだ、いったい」
 私はもう一度、電話をかけようかと思ったが、そら恐ろしくなって辞めた。なんとなく、もう繋がらないのではないか、という予感があった。それに、もしもまったく知らない場所に繋がってしまったらと思うと恐ろしかった。
 駅員室を出て、無人の改札を通り過ぎる。無賃乗車をするというのも気まずいので、料金表を見上げると、なんだかよく分からない。円ではなく、単位が銭で表示してあるのだ。例えば『暁』から『西ノ宮』までが七十銭とある。
 いったいここは何処なのだろう。
 私は混乱する頭を必死に落ち着かせながら、ふらふらと頼りない足取りで駅舎を後にした。

   ◯
 私は何処に迷い込んだのか。
 私は駅舎を離れてそこらを散策するしかなく、なにか手がかりになるものはないかと注意深く観察した。
 ここは私がいた世界とは何かが傾いでいるように思えてならなかった。特に時間は明らかに異常で、どれだけ時間が経っても夕暮れ時が終わらない。おかしいな、と思って太陽の位置を見ていたら、太陽はおろか雲ひとつ動いてはいなかった。
 そして、どういうわけか時計の針が前触れもなく止まってしまった。電池が切れたというよりは、動かなくなったとでもいうべき止まり方だった。
 道はまったく舗装されておらず、街灯の類も見当たらない。民家はおろか、駅舎の他には建物らしい建物はなになかった。見渡す限りの畑、そして深い森が遠くに見えるばかりだ。
 私はあぜ道を彷徨いながら、一向に沈む気配のない夕焼けを眺めた。ふ、と気がついて空を見上げると、ひときわ大きな夕月が出ている。遠くから響き続ける『ふるさと』のメロディに私は気がおかしくなりそうだった。
 あてもなく彷徨う、というのがどれだけ苦痛か、私は思い知らされた。
 やがて、私はとうとう歩けなくなり、畑の畦に腰を下ろして動けなくなった。時計も動かず、太陽も沈まない。ここにやってきてからいったいどれほどの時間が経ったのか、まるで想像もつかなかった。
 不思議と空腹は感じない。喉も乾きを覚えていない。ただ、まとわりつくような疲労感だけがあった。
 このまま目を閉じて、眠ってしまえばこの悪夢から覚めるのではないか。私はあの最終電車に乗っていて、自宅へ帰る途中ではないのか。これは悪い夢だ、そう思おうとしたが、目の前の光景は現実としか思えなかった。
「何処なんだよ、ここは」
 ふ、と背後でなにか気配を感じた。振り返った私は、思わず悲鳴をあげそうになった。そこには、いつの間にか二人の小さな子供が立っていた。麻の着物をいた女の子らしき二人の子供は、なぜか顔に狐のお面をつけていた。祭りの縁日で見かける、あの不気味な紙の面だ。おかっぱ頭に狐の面という異様な格好に思わず眉をひそめた。
「な、なんだ?」
 二人の子供は何も言わず、ただ私の顔を凝視している。近所の子供だろうか。
「ええと、君たちはこのへんの子かな?」
 二人は答えない。狐の面の内側でいったいどんな表情をしているのか、まるで分からなかった。
「教えて欲しいんだけど、ここはなんという土地なのかな。なんだか迷い込んでしまったみたいなんだ」
 すると、二人の少女は私の手を引いた。
 私は驚いたが、どうやら何処かへ案内してくれるようなので、このままここにいても仕方ないと思った私は、彼女たちに手を引かれるまま歩いた。
 彼女たちは私を森の方へと手を引いていく。そのうち、遠くで聞こえていた太鼓の音が次第に近づいて来た。おまけに笛の音や誰かの歌声まで聞こえる。
「祭りでもあっているの?」
 私がそう尋ねると、二人は頷いて、私をぐいぐいと音の聞こえる方向へと連れて行く。
 山の麓までやってきた私の目の前に、奇妙な鳥居が現れた。普通、鳥居というのは柱が横に二本、そして縦に二本という形の筈なのだが、この鳥居はなんだかおかしい。縦に二本の柱が建ち、その二本の柱を繋ぐようにして麻縄でがんじがらめに縛られているのだ。まるで蜘蛛の巣のような有様は、なんだか気味が悪かった。
 鳥居をくぐると、今度は延々と急勾配の石段が続いた。私は二人に手を引かれながら、ふぅふぅ、と息をつきながら登り続けた。これでも体力には自信があるほうだったが、あまりの急勾配に息が続かない。子供たちはそんな私を急かすでもなく、無言で私を視ていた。
「ごめん。少し休憩させてくれ」
 私はそういって石段に腰を下ろした。頂上付近から祭り囃子が聞こえてくる。
 石段からの光景はとても美しかった。相変わらずの夕焼けの景色の中に、田んぼがどこまでも続いている。水を張った田んぼは鏡のように夕焼け空を映して美しかった。木立からは西日が漏れ、ひぐらしが鳴いている。
 とんとん、と肩を叩かれたので振り向くと、少女の一人が私にお面を差し出していた。紙で作られた犬のお面で、被ってから紐で括るというものらしい。
「これをつけろっていうのか?」
 少女たちは頷き、それから私の顔に犬のお面をつけてくれた。私はお面というものを初めてつけてみたけれど、これはかなり視野が狭い。ほとんど正面しか見えず、自分の吐く息が顔にかかって気持ちが悪かった。
「ありがとう。でも、外させてもらうよ」
 そういって取り外そうとした私の手を、少女が掴んで止めた。
 だめ、と短く言う。
「どうして?」
 ここではお面をつけていないとダメだから、ともう一人が言う。私は奇妙に思ったが、ここは彼女たちの言う通りにしておくべきだと考え直した。
 私は再び立ち上がり、彼女たちに手を引かれて歩き出した。
 案内しているのか。迷わせようとしているのか。
 しかし、不思議と怖いとは思わなかった。それどころか、ここの景色はどこか懐かしいとさえ感じさせるのだった。
 やがて、長い石段が終わり、急に開けた場所に出た。そこには大勢の人間が集まっていて、中央の櫓を囲むようにして踊っている。櫓では太鼓が叩かれ、にぎやかに笛が奏でられる。これは夏祭りの光景だった。
 そして、この場にいる誰もが面を被っていた。男も女も、老いも若いも、誰もがなんらかの動物の面を被っていて、素顔を見せていない。
 私をここまで連れて来た二人が急に手を離し、祭りの喧噪のただ中へと駆けていって消えた。
 私はぼんやりとしながら、祭りの様子を遠巻きに眺めた。
 アンタ、どこから来たんかい、と急に背後から声をかけられた。振り返ると、着物をきた老齢の女性が私を見ていた。鳥のお面をかぶっている。
「電車に乗っていたら、いつのまにかこの町についていました。ここは何処なのですか」
 すると、女性はからからと笑った。そして、ここは何処でもありゃしない、と奇妙なことを言った。
「何処でもない、という場所なのですか」
 そうじゃない。ここは、何処でもないんだ、という。
「わかりません。ここは、何処なんです。日本の何県ですか?」
 頭の固い人だね、と笑う。
「……私は、死んだのでしょうか」
 私はずっと気がかりだったことを口にした。もしかすると、私はあの電車に乗っている間に事故に遭い、死んでしまったのではないか。ここは天国とかそういう場所じゃないのか。そういう考えがあったのだ。
「ここは、死後の世界なのでしょうか」
 老女はお面の奥で目を細めた。
 知らない方がええこともあるさね、と言って立ち上がり、彼女もまた祭りの喧噪の中へと消えて見えなくなってしまった。

   ◯
 どれほどそうしていただろう。
 私は座り込んだまま、祭りの光景を呆然と眺め続けていた。
 楽しげに踊るお面をつけた人々。提灯の明かり。揺らめく松明の炎。腹のそこに響くような太鼓の音。
 そうだ。これは夏祭り、盆踊りだ。
 そういえば、こんな話を聞いたことがある。本来、盆踊りというのはあの世から帰ってきた故人たちと踊るもので、生者か死者か区別がつかないように、お面をつけて踊るのだと。
 そうか。ここはそういう場所なのだ。
 やがて、お囃子のリズムに乗って踊るその様子に、私はなんだか誘われるようにして立ち上がり、その輪の中に加わった。
 輪の中に入った私を誰もが歓迎してくれた。手取り足取り、踊り方を丁寧に教えてくれ、私はなんだか楽しくなって踊り続けた。
 お面をつけた人々の輪。お面の形もそれぞれ、誰も彼もが人の顔をしていない。そして、それは私も同じだ。
 踊っているうちに、私は幾つかの発見をした。
 踊っている人々の格好はよく見ればまちまちで、殆どの人が古い着物のようなものを着ているのに、少数ではあるけれど洋服を着ている人もいるのだ。おまけに、踊っている人の中には明らかに人の形をしていない者も混じっていて、驚いたけれど、とりわけ何をするでもなく踊りに加わっているので気にしないことにした。
 しばらくそうして踊っていたけれど、疲れてしまったので踊りの輪から外れて荷物のところへ戻ったが、どういうわけか荷物が見当たらない。
「困ったことになったなあ」
 そう口にしてはみたものの、それほど困ったとは思っていなかった。なんだか酷く現実感がないのだ。
 もうどれだけここにいるのか判然としない。時間の流れ方がおかしい。
 荷物の中には財布や携帯電話が入ってある。しかし、この場所でそんなものが役に立つのか。ここには何もないじゃないか。
 私は鳥居から、山から見える光景を眺めた。
 水の張られた田んぼに反射して、世界は夕暮れに染まっている。それは言葉を呑むほど美しい光景だった。
 ここでは永遠に逢魔が時なのだ。黄昏。誰そ彼というわけである。
 私はあちらの世界のことを思い出そうとして、結局もうなにひとつ思い出せなかった。なんだかとても忙しくて、時間に追われていたような気がする。何もかもが雑多で騒々しく、美しさなんてこれっぽっちもありはしなかった。
 私はふいに、お面を外したくなり、顔の後ろの紐に手をかけた。
 ダメだよ。解いたら。
 そんな声が聞こえた瞬間、お面の紐が溶けるようにしてほどけた。犬の面が顔から落ちる。その瞬間、私の目の前は真っ暗になり、そうして意識が遠のいていった。

   ◯
「…………」
 気がつくと、私は駅のホームに一人で立ち尽くしていた。辺りはすっかり暗く、遠くから繁華街の喧噪が聞こえてくる。電灯が明滅し、掲示板にはどこかで見たような駅名が表示されていた。
 私は少し考えて、そこが私が出発した駅の名前であることを思い出した。
 どうやら戻って来てしまったらしい。
 どうして、と考えていると、不意に誰かが私を見つけて駆け寄ってきた。なんだか若い男だった。
「ちょっとお客さん! どこから入ったんですか! もうとっくに閉まっているんですよ!」
 どうやら駅員らしいので、私は事情を説明しようとしたが、口からこぼれたのは言葉とはほど遠い呻き声のようなものだった。私は言葉を忘れてしまったらしかった。
「困るなあ。早く出て行ってください。ほら、こっちですよ」
 駅員に連れられながら私は違和感に気がついた。なんだか私の知っている駅と少し違うような気がしたのだ。なんだか少し大きくなっているような気がした。
「どうした? なんかあったのか」
 そう聞いて来たのは年配の駅員で、若い駅員は、私がどこからか忍び込んだらしい、と説明した。しかし、年配の駅員が私の顔を見た瞬間、顔色が一変した。
「嘘だろう。そんな、まさか」
 飛び込むように駅員室へ飛び込むや、一枚の古めかしいポスターも持って駆け戻って来た。そこには私の顔写真が映っていた。
「やっぱり。間違いない。本人だ。いや、でもまさか、どうして歳をとっていないんだ?」
「坂崎さん。なんなんですか、それ」
「この人は、十二年前に神隠しに遭ったって噂になった人だよ。大城、急いで警察に電話しろ。大ごとだぞ、これは」
 私はなんだか事態が把握できず、この坂崎という人に案内されるがまま応接室に通された。お茶を出してもらったのだが、口にすると思わず吐き出しそうになった。お茶の味も思い出せない。酷く気分が悪かった。
「あなたは十二年前に電車のなかでいなくなったんです。映像が残っていました。現代の神隠しだのなんだのと随分と騒ぎになったんですよ。私も信じてはいませんでしたが、実際あなたは十二年前の写真とまったく変わっていない」
 私は驚いて、応接室の壁にかけられてあるカレンダーに目をやると、確かに十二年の年月が過ぎているらしかった。しかし、酷く現実感がない。
「警察がまもなく到着するでしょうが、お聞きしてもいいでしょうか。あなたはいったい何処にいたんですか?」
 私は答えようとして、言葉を忘れてしまったことを思い出した。どちらかというと、口が話すということを忘れてしまったようだった。私は筆談にしようとペンを借り、紙に文字を書こうとして途方にくれた。
「なんですか。それは?」
 私は日本語を書いたつもりなのだが、紙の上にはなんだかよくわからない模様の羅列が並んでいた。私は首を傾げ、再び書き始めたが、いっこうに文字にならない。
 そんな私の様子を見て、坂崎さんは顔を青くした。
「もう結構です。無理をいってしまって申し訳ない」
 それきり貝のように押し黙って俯いてしまった。時折、顔をあげて私を伺うようにして見て来たが、それは恐ろしいものでも見るような酷い目つきだった。

   ◯
 私がこちら側に戻って来てしまったことで、世間は大騒ぎになってしまったらしい。マスコミが騒ぎ立て、連日ニュースに私のことが報道され、自称霊能力者だのなんだのが好き勝手に仮説を唱えていたが、私のことを理解している人間は誰もいなかった。
 あの後、私自身はすぐに警察に保護され、精神状態が不安定だと一方的に決めつけられて大きな病院に入院させられた。私は自分が正常であることを証明する為に幾つかのテストに参加したが、どんなに注意しても文字が書けず、私は異常者のレッテルを貼り付けられてしまった。
 入院した私の元に最初にやってきたのは警察官だった。刑事だという二人の男から事情を聞かれたが、私は頷くか首を振るかしか出来ず、しばらくすると全く来なくなった。
 次にやってきたのは私の両親だったが、これにはさすがにショックを受けた。とうに祖母は亡くなり、父も母もめっきり老け込んでいた。十二年という年月がどれだけ重いものか、ようやく私は理解したのだった。
 私はもうここの人間ではなくなっていた。私はここにいるだけで異質なのだ。
 両親は私のことをずっと探していたといい、それから私に幾つかの質問をしたが、私はどれも答えられなかった。
 最期に、父が私を恨めしそうに見ながら告げた。
「なんで、お前は歳をとっとらんとや」
 その一言が、帰って来てしまった私への本音を物語っていた。
 以来、私は両親との面会を拒絶するようにした。
 友人たちの反応も似たようなものだった。

 病院の医師やカウンセラーたちも私の診断や、カウンセリングを行いながら怯えていた。もちろん私は暴れたりしない。いつもぼんやりとしているだけだ。それだけなのに、彼らは私を遠巻きにする。精神病と診断された人々でさえ、私が来ると怖がって遠ざかっていった。
 浦島太郎はこんな気持ちだったのだろうな、と思うとなんだか親近感が湧いた。あちらは玉手箱を開いて老人になったというが、一説には鶴になって飛び去ったともいう。私は鶴になった浦島太郎は、またあちらに帰っていったのではないかと思う。
 私も彼のように、あちらに帰りたかった。こちらはあまりにも騒がしくて落ち着かない。刺々しく、攻撃的で、拒絶的なのだ。
 若い医師の一人が、私に絵を書いてみたらどうか、と勧めて来たので、試しに挑戦してみたらイメージしていた通りに絵が描けた。これには私も驚いたが、なにより興味を示したのは医師たちだった。唯一のコミュニケーション手段といってもよかった。
 私は医師たちに尋ねられる内容について、絵を使って答えた。あまり絵が上手ではない私も、あの美しい光景だけは心に焼き付いていたので、私は毎日飽きる事なく、あちらの風景を描いた。
 私はキャンバスに想いを塗り籠めるようにしながら、あちら側へ戻ることを切望した。既に私はこちら側では異質でしかなく、帰る場所などないのだと痛感していたからだ。
 郷愁にも似た感情に私は苦しんだ。
 あちらに帰りたい。さもなくば、私にはもう居場所がないのだ。
 医師たちは私に社会復帰をしろ、というが、私はすでにこちら側の人間ではなかった。家族も友人も社会も、何もかもが私を奇異の目で見る。
 まるで、世界中で私ひとりだけが違う色をしているような、そんな感覚に襲われる。
 私はもうこちらの住人ではない。
 帰りたい。
 でも、どうやって?

   ◯
 マスコミは連日、現代の神隠しだと煽り続けた。飽きもせずに私の経歴からなにからを調べあげ、嘘も真も入り混ぜて、私という人間をおもしろおかしく演出した。
 当初、医師たちは私にテレビを見せるのを嫌がったが、私が治療に協力する条件としてテレビの視聴を提示すると、なんなく視聴が可能になった。
 マスコミの取材は当然ながら家族にも及び、しつこい取材に口が緩んだ両親は、私のことを「あちらで取り替えられた」と吐き捨てるように証言した。これには流石に涙が出た。真実そうであったなら、どれだけよかったか。
 そんなある日、マスコミが私に取材の依頼をしてきた。医師たちは反対したが、私は自分の意志でそれに応じることにした。ほんの少しでもいいから、マスコミの注意を私に向けたかった。
 病院にやってきたマスコミたちは私をまるで動物園の人気者のように扱った。許可も出していないのに容赦なく写真を撮られ、流行りのタレントだの芸人だのが私のことを面白おかしく馬鹿にした。彼らの目にあるのは怯えではなく、好奇心だった。
「十二年もどこにいたんですか」
「暇でしたよねー? なにしてたんですか?」
「記憶喪失ってホント? あ、話せないんだっけ」
「でも、歳をとらないのはラッキーじゃないっすかー」
 私には彼らが、まるで違う星の生き物のように思えた。
 私は取材の一環で誰もいない部屋に入り、そこをただ撮影するという実験につき合わされた。まったくの茶番だ。プロデューサーだという男の話によれば、後からそれらしい心霊映像を重ねて面白くするという。私は勝手にしてくれ、と思って部屋の中へ入った。
 そこは六畳程の小さな和室で、ロッカーと鏡くらいしか物がない殺風景な場所だった。私はここでぼんやりしていればいいらしい。カメラが私を撮っているので、なんとも落ち着かなかった。
 私はどうしてこんなことになったのか、ぼんやりと考えた。そして、どうすればあちらに戻れるのか考えたが、やはり答えは出なかった。
 もうこの世界に、私の居場所などないのだ。
「帰りたい」
 呟いた私自身が驚いた。言葉は自然と口をついて出たのだ。
 ふいに、畳の上になにかが落ちて来た。振り返ると、そこにはあの犬の面が転がっていた。
 どうして。こんな所に。
 私は震える手で面を取り、うやうやしく顔につけた。遠くであの太鼓の音が聞こえたような気がした。
 紐をしめ、私はふらふらと立ち上がる。なんだか懐かしい匂いがした。
 音はロッカーの方から聞こえてくる。次第に太鼓の音が大きくなる。ひぐらしの鳴き声が聞こえてきた。山の匂いがする。誰かが私を呼んでいる。
 私はロッカーを開けた。そこには闇を固めたような濃い夜が充ち満ちていた。微かに『ふるさと』のメロディが聞こえる。

 おかえり。

 ああ、聞き慣れた声だ。闇の奥から、浮かぶようにして小さな白い手が二つ、こちらへと伸びている。これはきっとあの二人の少女のものだろう。
 私は安堵の声を漏らした。遠くで部屋のドアを激しく叩く音が聞こえたが、私は振り向かなかった。
「ああ。もう帰るよ」
 最期に、私はカメラを見た。

 二人の手に引かれ、闇の中へと歩みを進める。
 
 背後で、ロッカーがひとりでに閉まる音を聞いた。

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