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The Catcher in the Rye, 鮮明で尊い、"ときめき"に溢れているとき。

「ライ麦畑の反逆児」というタイトルの映画をみた。ご存知の方もあるかもしれない。それは、とても有名な小説。でも、わたしは読み終えることなく挫折したまま、もうかれこれ10年くらいになるだろうか、本棚の奥へとしまい込んでしまった物語。

発表から68年。世界中での発行部数は6500万部を超え、30カ国語に翻訳され、現在も毎年25万部ずつ売れ続けている。20世紀を代表する青春小説「ライ麦畑でつかまえて (The Catcher in the Rye)」。

そんな伝説的な一冊の物語を紡ぎ出した、ひとりの人間の半生を描いた映像作品。

予告編

映画自体の感想とはいえない。ただ、"日常"という大きなうねりにのみ込まれ平板化される前に、わたし自身の心の動きを、この揺らぎを、残しておこうと思う。

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ひとは大人になると、無垢ではいられなくなる--。

映画を観終わって帰りの電車に揺られながら、滔々と考え続けていた。それはどうしてか。無垢であるとはどういうことか。無垢とは、汚れていないということ?穢れを知らず、世界を知らない。まだまだ成熟には至らず、幼いということ?知らないというよりも、まだそれらの感覚を語る言葉には育っていない。あるいは、感覚と出来事があまりに密接であるゆえに、引き離してとらえるには、ピントがぼやけて定まらない時期。日々、目の前で繰り広げられる物事の何れもが、鮮明で尊い、"ときめき"に溢れているとき。

たとえばそんな状態であることを、「無垢」と名づけてみようと思う。無垢である「ぼく」や「わたし」は、直接「世界」と結びつき、誰にもその関係を脅かされることはない。

いつだって「世界」はわたしにひらかれ、深く、結ばれている。

一方で、人間の愚かさ、虚しさ、生きていくことの辛さを徹底的に直視し、心の深くまでトラウマを刻み込まれてしまった物語の作者であり、主人公でもあるJ.D.サリンジャーは、そうした無垢な存在へと想いを馳せる。

無垢であるとは幸いなことか。そうともいえない。無垢であることは、傷つきやすい。密接ということは、ときめきだけでなく、負荷や痛みもダイレクトに感じてしまう。それはたとえば、「世界」という母胎と臍の緒でつながり続けているような状態だろうか。自分自身から切り離せない。

サリンジャーは、彼の経験した熾烈な人生によって、すり減り続け無垢でなくなったというよりも、どんな状況においても無垢でありすぎた。そんな風にもいえるのかもしれない。無垢でありすぎるがゆえに、求めつづけ向き合い続け、傷つき続けた結果、物語の声となりえた。

彼にとって文章を書くことは、大海原のうねりや波に飲み込まれそうになりながら、必死で息継ぎをするような生き延びるための懸命ななす術だった。

少し極端かもしれない。でも、ある種の物語は極端すぎるほど極端で、なにかが歪んで損なわれていて、あるいは過剰すぎるほど過剰であるからこそ生まれ出てくるものでもあるのだろう。

これらはいずれも、映画のなかに生きるサリンジャーへと想いを馳せて浮かんできた呟きにすぎない。

そしていま一度、このタイミングで彼が人生をかけて取り組んだ物語の声へと耳をかたむけてみたい。

声がするほうへ。
そこに吹き込まれた生き生きとした息吹を、彼が存在を通して語り綴った、魂そのもののような、物語を感じてみよう。


#ライ麦畑の反逆児 #ライ麦畑でつかまえて #J_D_Salinger #The_Catcher_in_the_Rye

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