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位置につく。

きのう、夫とともにゴッホ展を観てきた。

美術館に行こう、というのはいつも私なのだが、
珍しく夫のほうから、行く気になった。

ゴッホ展はかなり以前にも観たことがあったが、
(たぶん「孤高の画家の原風景」)
 今回はより、他者からの影響がクローズアップされていた気がした。
そして、弟テオに書かれた手紙からの文章がかなりポイントに。
(それにしても、弟テオの献身的な支援はすごい。
ゴッホに毎月給料の半分を仕送りしていたのだから。)

そのときも、湯あたりならぬ、絵あたりになったのだが
(亡くなる直前に描かれた烏と木だけの絵の
殺気と狂気が凄まじかったから具合が悪くなった)
今回もまた…
あの、例の、「糸杉」の絵には、思った以上にあたってしまったらしい。
観てる最中はそうでもなく、
そのゴッホスタイルの完成形をかなり喜んで見入っていたのだが、
ゆうべは神経の興奮が落ち着かず、黄色い河にのまれるイメージで、
あまり寝付けなかった。


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「ハーグ派」や「印象派」のさまざまな画家たちの洗礼を受け、
その中から自分のスタイルを確立したときには、
精神病院で創作に励んでいたゴッホ。

精神のバランスを崩しながら、たどり着いた、
もう誰にも似ていない表現。

ああ、ゴッホはいったいいつ、「位置についた」のだろう。
少なくとも、あのような表現が絵画として現れたのよりは
ずっと前のことだろう。

私が最近感じていること、
それは「位置についたな」ということ。

まだ何も始まっていないし、
現実には現れてはいない。

試行錯誤はたくさんしなくちゃならないだろうし、
ルート変更を余儀なくされることもあるかもしれない。

それでも、
もう「どっちに向かったらいいか」、
それだけは自分の中で確かなんだ。

そのことがどれだけ、
気持ちを前に向かせてくれることか。

苦難が待っていようとも、
どこに向かって走っているのか、
自分が分からなくなるよりかは、ずっといい。


だから、前回観たときのように、
陰鬱さ暗さを特に大きくは、感じはしなかった。

幸薄く孤独な大画家、
というイメージは単純化しすぎた一面かもしれない。

もう進む道がわかっていたから、
太陽の中に、迷わず飛び込んで行ったのではなかろうかと。

その迷いのなさを、守りに入ると人は狂気と感じるのかもしれないと。

自らを捧げきって、すっきりとやりきった、
そんなゴッホの清々しさを、今受け取ってる。


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おやつは安定のみはしで。
栗入りも惹かれつつ小倉あんみつの白玉トッピング。





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