セカイ系はどのように再起動するだろうか

「non-reflection」を100回聞きながら考えていたんだけど、この音楽、MVはどう考えても「セカイ系」が好きな人に相性がいいんだよな。
Aiobahnの作る音楽やビデオは、平成アニメ的とか、エロゲ的って感じる人もいるようだが、
今回このMVに関して、個人的な「感じ」としては
「セカイ系」って言葉がヒットした。

ストーリーをなんとなくで察すると、
親子のように暮らしていた子育てアンドロイドと少女が、
本当の親によって関係を引き裂かれ、
子育てアンドロイドはもう一度少女に会いに行くのだが、
少女に会いに行くためには”セカイそのもの”と
対峙しなければならず・・・という「感じ」だ。

このストーリーを”察し”た時に、
「セカイ系」という言葉を充てて接するようになった。
そして、この世界観に沈殿する時間に癒しを感じた。
俺は多分まだセカイ系的なものが好きなのだと思った。

セカイ系は流行から外れつつあるようだが、
そんな現在でもセカイ系っぽい想像力には
「力」があるんじゃないかと思う。

セカイのために戦いたいという心は間違っていると、
セカイ系(批判)に触れてきた人間はもう分かっているわけだが、
それでもやはりセカイのために戦いたいという心がある。
家族という単位でも、社会という単位でもなく、セカイという単位で。
それを今一度優しく再肯定しうるんじゃないかと、そう思った。

攻殻機動隊ほどではないにしろ、ネット環境が高度に発達してきて、
”ヴァーチャルな世界”=セカイと日々接するようになった。
この現代において、セカイ系の意義はかつてと違うだろう。
かつてセカイ系が流行したのは、セカイと対峙するという事について、
あるいはセカイを救うことについて、夢を見られた時代だったからだ。
救うべきセカイが”ある”と信じられた時代性と言ってもいい。

しかしインターネットが高度に発達した現在は違う。
セカイと接するという事はロクでもないことばかりで、
疲れるし、キツイし、見たくもない。しかし目に入ってくる。
家族や社会のしんどさから逃れても、セカイのしんどさが逃してくれない、
強く新しい閉塞感を与えるものがセカイの正体だった。
可視化されるのは救えない人間ばかりで、救うべき実体も見えない。
それが今の我々が所有している世界だ。

セカイ系にはそのような落とし穴もあった(かもしれない)。
それゆえ、ゼロ年代から既に言われていたように、
セカイなんかよりも、自らが所属する小さなコミュニティを
大切にするお話が増えていった(「ゆるやかな共同体」)。
だが、その癒しにも欠点、不足があった。
満たされない心があったように思う。
小さなコミュニティに所属することすら難しい人間、
どこに所属していても孤独感を感じる人間、
メンヘラがやめられない人間の心を救うのは、
セカイしかない。インターネットしかない。
無邪気に楽しい場所だと信じられなくなったからこそ、
失った故郷の風景を思い出す場所のように
セカイ系は再起動しうるのではないかと、そう思った。

流行の中心に来る必要はないが
この世界の片隅に、
セカイ系と俺たちの居場所が
残りますようにという祈り。

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