「思春期まるだしっ!」における「ぐりえるも–露出羞恥メソッド」 ––––〈他者〉から遠く離れて、しかし他者に近付いて


零、note投稿に際して


今回のエロ漫画論は、友人らで不定期に開催していた
エロ漫画談義会(通称FANZA会)にて
用意した論(2019年10月27日)に
再編集を加えたものである。

エロ漫画を「読む」ためにこのような
クソ真面目な文章を必要とするか、という問いは、
エロ漫画研究の世界ではたまに問題にされますが、
僕はもちろん「必要」の側です。
クソ真面目に「読む」ことで得られる
「勃起」があること、「エモ」があること、
少なくともそれらを信じることで
僕のエロ漫画研究はなされています。

しかし実のところ、この世界は新参者が入りにくいです。
何故なら、エロ漫画は数が多すぎるからです。
また、それだけ数があっても
「誰もが読むべき名作」というようなものが
定められていないからです。
売り上げなどでの指標も考えられるでしょうが
万人にとっての名作は、
これまでもこれからもないように思います。
だってそれぞれの性癖に何が刺さるかは誰にもわからないから。

仕方ないことです。仕方がないことですが、
僕にとっての名作が誰かにとってそうでない事、
僕の好きなものに対する語りの供給が少ないことが
僕のエロ漫画研究の世界に対する不満でした。

だから、自分にとっての名作を
名作だと言語化するのは自分しかいない。
更には、個々人による個々人のための
エロ漫画研究を盛り上げるためには、
その方法論を考えなければならない、と思い始めました。

その方法を今回は「知」に接続する事で為そうと考えます。
「知」とは広く共有されているものです。
「知」と「エロ」を接続する回路を開くことで、
個々人が個々人の名作を同じ言葉で
話せるようにはならないだろうか、
共有できるようにはならないだろうか、と、
私は勃起人、いえ、発起人になろうと考えました。

さて、まずは下記のFANZAのURLから
ぐりえるも氏の「思春期まるだしっ!」を購入してください。


そしてまずは一回抜いてください。十回でもいいです。
話は全部それからです。

一の一、序論に代えて 〜エロ漫画を読解する事、書籍紹介を兼ねて〜


今回エロ漫画にて論を作ることが決まった時、「エロ漫画を読解するとはそもそもなんぞや」という疑問にまず心を奪われる事となった。文字の読解、「文学」の読解とはどのように違うのか、文学には「文学理論」と呼ばれるある程度の体系があるが「漫画理論」というべきものはあるのか、あるいは「エロ漫画理論」は? と、さまざまな本を調べてみる事から始まった。
結論から言えば、「エロ漫画理論」なるものは存在しない(予想通りである)。更には「漫画理論」も存在しない。そのような名付けは恐らくされていない。今回、漫画を読解するにあたってある程度さまざまな観点の漫画研究本、漫画批評本に触れてきたが、体系的な読解はほとんどなされていないと感じる。
例えば、漫画研究本に多い論点は、まず漫画史的な研究が一点。次に手塚治虫以来の旧時代の漫画研究。あるいは、研究と呼ぶには足らないような読解本もよく見受けられる(例えば、ビジネス書化された漫画読解本など)。
あるいは、サブカルチャー研究、オタク研究の一環として漫画が取り上げられる事もある。「斎藤環」「東浩紀」などはそれを行う最たる存在であるかもしれない。彼らにおいては、ジャック・ラカンジャック・デリダなどの思想体系を背景にしてサブカルチャーを思考しているが、思想を背景とした読解の仕方であれば、開かれた読みが展開し得るかもしれない。
キャラクターという概念については『ゼロ年代の想像力』の「宇野常寛」『「キャラ」の思考法』「さやわか」の著作も面白く、これも漫画研究の一助となるだろう。
現役漫画家である「ヒロユキ」(代表作『ドージンワーク』『アホガール』など)は漫画において最も重要なものを「キャラクター」であると断言しており、また「荒木飛呂彦」(代表作『ジョジョの奇妙な冒険』)も著作で漫画において重要なものは「世界観」「キャラクター」「ストーリー」「テーマ」であると言う。ただし、現役漫画家である彼らの視点はヒット作を作る為に重要なものである。
「世界観」から漫画(やサブカルチャー)を読解する書物としては「都留泰作」『〈面白さ〉の研究 世界観エンタメはなぜブームを生むのか』も興味深い。「世界観」という言葉は元は文化人類学の用語であるが、文化人類学が異文化をフィールドワークするように、漫画という異世界をフィールドワークする試みである。
また、映画を始めとする「視覚文化」(石岡良治)という観点から、漫画を研究するという方向も考えられるが、こちらについてはほとんどされていない。視覚上の特徴から漫画の内容を深読みする試みだと要約してみるが、素人が手を出すには少し難しいと感じる。言葉や文字文化に比べて、視覚に対する言葉はいまだに少ないように思う為である。しかし「漫画」を「漫画」として読解する以上は、「漫画」内の言葉や物語のみを読解する読み方は不十分である為、この「視覚文化」としての「漫画」という観点は欠かす事は出来ない(今回の論では最後に「もっと見ていて」でその視覚的な側面からの読解を試みている)。
そのような入り組んだ漫画研究状況の中で、エロ漫画に特化した研究家として挙げられるのは、『エロマンガスタディーズ』で知られる「永山薫」、『エロマンガノゲンバ』『エロマンガ表現史』「稀見理都」がいる。エロ漫画研究の第一人者とも言っていい「永山薫」は著作のあとがきにて、今後のエロ漫画研究の発展を願っているが、それはまだまだ途上であると言えるし、「永山薫」の次に現われたエロ漫画研究の新星たる「稀見理都」においても「エロマンガ表現史」のあとがきにて、現在のエロ漫画研究状況には「ライバルがいない」状態であると言っている。ちなみに、両氏の関係性について触れておくと「永山薫」が「稀見理都」に対し「君が二代目・永山薫を襲名しないか」と訊いた際に「ありがとうございます。だが、断る!」と断られたというエピソードがある。両氏の歩む方向性は違っているし、私も彼らの流れを汲むわけではない。
両氏に共通しているのは、エロ漫画は研究に値するものだという一貫した考えである。彼らの著作においてはエロ漫画の「ジャンル」に関する問い(『エロマンガスタディーズ』)エロ漫画家の作家性についての問い(『エロマンガノゲンバ』)「表現」に関する問い(『エロマンガ表現史』)などが語られている。これらは、エロ漫画にまとわりつく「エロの壁」(『エロマンガスタディーズ』)すなわち、エロ漫画など語られる価値がないものだ、というステレオタイプな考えを変えるきっかけになるだろう。彼らは自ら存分に語ることで「エロの壁」を突破しており、私の動機の一つもまた、この「エロの壁」を突破する事である。しかし、両氏の著作においては、現代の作家の事がほとんど触れられず、また方法論的な話でもないため、今回のように現代のエロ漫画を語るためには別の回路を経由する必要があるかもしれない。
エロ漫画研究においては漫画研究本の状況と同様に問題点がいくつかあり、第一に扱っている作品が現代に追いついていない事、第二に、研究内容が概ねエロ漫画の歴史探求に留まり、個別の作品に対する強い読解がなされていない事である。また––これは私自身の考えに過ぎないが––読解方法を体系化せずして、エロ漫画読解を広める事は出来ないのではないか、とも考える。この点については今後の研究が望まれるという意味であるが、困難な点としては、漫画もエロ漫画も大抵の作品の作者が今以て生きており、研究対象化していない。大学的な知に接続されていない事だろう。
続いて、「永山薫」「稀見理都」両氏に共通して語られる点として、エロ漫画最盛期から現代にかけての「性表現規制」との関わり方についても興味深い。「性表現規制」の考え方については『性表現規制の文化史』(白田秀彰)を読むのも面白いだろう。この著作の中で「えっちなものはいけないと思います!」の「えっちなもの」は誰が決めて、何故「いけない」のか、という事が書かれている。しかし、あくまで法学的な観点からの「えっちなものはいけない」言説の生成過程である為、より具体的に個別なポルノについて思考したい場合は、距離を保つ必要があるだろう。
以上、エロ漫画論に関わりうると思われる著作を挙げ連ねたが、今回はこれらの著作を念頭に置きつつ、参照する事はほとんど無いだろう。漫画を愛好するものとして、あるいはエロ漫画を愛好するものとして、興味と熱意があれば是非読んでいただきたい。また、自分とは異なる視点で何かが生み出される事を期待しての読書報告である。

一の二、そもそも何故エロ漫画を読むのか?

先に、素人目線ながら様々な視点からの漫画読解の手がかりを紹介しておいた。
では、私自身はどのようにエロ漫画を読み得るのか。あるいは、何故そもそもエロ漫画を読むのか?という問いについて深めていきたい。

まず、どのように読み得るのかについて。
前章にて、ラカンの精神分析理論の研究者であり、ラカン理論を用いたサブカル評論の論者である「斎藤環」の名前を挙げておいた。今回はその流れを汲んで、ラカン理論を用いた形でのエロ漫画読解を行っていこう(恐らく、このような形でラカンを用いるのは私だけである)。
何故ラカンでなければならないのか。理由の一つは、今回扱うエロ漫画が全編通して「露出」をテーマにしており、ある種の「倒錯」についての話であるからである。「倒錯」は精神分析の領野であるという素朴な理由において、読解の手がかりを今回はラカンに求めていく。また、ラカンの理論はとりわけ「斎藤環」によってサブカルチャーの研究に用いられており、そのサブカルチャーとの親和性の高さに私も賭けていく。
理由の二つ目は、何故そもそもこのエロ漫画を読むのか?という問いにも関わるが、本論はどこまで行っても私の性癖告白にしかならないという点から語らねばなるまい。今回の論で、エロ漫画の歴史的に見てこの漫画は読まれなければならない、などと言った価値づけは行わないし、読む動機の根幹は読者としての「私」に求めていくという意味で、エロ漫画を読む「私」という主体の在り処を探る論なのだ。ラカンにおける有名なテーゼの一つとして、「人は他者の欲望を欲望する」という言葉があるが、私はエロ漫画を一つの他者として捉え、他者の欲望を語る形で自分の欲望を語るのである。この他者と自分の関係性のあり方を示すためにも、ラカン理論は用いられるのである。

さて、本論の構成について触れていこう。今回は二部構成にて展開するが、第一部においては、主人公達と〈他者〉との関わりについて。第二部においては、〈他者〉なき主体と露出症についてが主なテーマになると予告しておこう。
第一に、〈他者〉とは、ラカンにおける大文字の〈他者〉概念(山かっこに括る形で「小文字の他者」と区別される事が多い)を参照するが、鏡像段階的な二者関係の閉域(想像界)を統御する役割を持つある種の〈法〉〈言語〉〈父の名〉としての〈他者〉である。本作においては〈しきたり〉(『こんな村いやだっ!』)〈伝統〉(『後夜祭でイこう!』)〈部則〉(『バツを覚悟の真剣恋愛!』)であったり、それを秩序維持の為に遵守する〈大人〉であるとして、整理していく。今回、大文字の〈他者〉としての機能を持つものを便宜上〈〉で括っていく。
第二に、〈他者〉なき主体として立ち現れてくる大人達(『ようこそパイセン〜AV女優の課外授業〜』の「宇田川カレン」、『今日イク!?実習生』における「知里」)から「露出」の原理を探っていく。キャラが露出するのは何故か?何のためか?また、露出漫画が成立するのはどのような場合においてか?その問いに対して、暫定的な答えを提出していく。

二、作品紹介


「思春期まるだしっ!」は2017年7月10日にて初版発行された「ぐりえるも」氏の初単行本である。

三、作者紹介


作者あとがきにて「思春期少女の恥じらう姿が好きなので、露出や羞恥のシチュエーションを中心に描いてきました」とコメントしているように、全編通して「露出」「羞恥」が描かれている。
ただし「今日イク!?実習生」では「少女」ではなく、「教育実習生」である「知里」の「全裸校内露出」が描かれるなど、必ずしも「少女」に焦点を当てた構成にはなっていない。
pixivのプロフィール(2019年10月23日時点確認)では「主に思春期男女のエッチな絵を描きます」とコメントしており、「少女」の相手役を同級生の男子とする構成も多い。また、pixiv上では少年の「露出」「羞恥」を描く絵もあり、兎にも角にも「露出」「羞恥」を描きたい作家のようである。私はそれらが大好物だ。
「思春期まるだしっ!」における短編の主な掲載雑誌であった「COMICTENMA」は2016年5月号(2016年4月13日発売)にて休刊しており、以降は「COMIC高」に掲載雑誌を移している。また、「思春期まるだしっ!」はロリコン雑誌「COMICLO」でお馴染みの「茜新社」から出版されている。
ぐりえるも氏は「思春期まるだしっ!」の発売後は「ワニマガジン社」の「COMIC はぴにんぐ」「コミックゼロス」などで掲載をしている。
そして2020年1月5日にワニマガジン社より第二単行本「私が全裸になった理由」が発売される。どうでもいい事だが私の誕生日であった。勿論すぐに買った。
また商業誌上の活動と並行して同人活動も行なっており、(確認できた限り)2012年12月のコミックマーケット(C83)以降は常に新刊を出し(こちらはやや過激な、ハラハラする「露出」が多い印象)精力的な活動が見て取れる。何度も言うが、この手のエロが私は大好物だ。

四、〈他者〉概念とエロ漫画


ここにおいては、一つ一つの短編を個別に読解しながら、〈他者〉が主人公にどのように機能するかについて確認していく。〈他者〉概念については、「疾風怒濤精神分析入門」(片岡一竹)より下記を引用してみる。

二種類の「他者」を区別しなければなりません。それは他者と〈他者〉です。
違いが分からないかもしれませんが、前者は《autre》の訳で、後者は《Autre》の訳です。つまり原語に おいて大文字で書かれている方を「〈他者〉」と、ヤマ括弧に入れて表わしています。口頭だと区別がつかないので、前者を「小文字の他者」、後者を「大文字の〈他者〉」と言う場合もあります。
小文字の他者は自分と同じレベルにある他者で、先述した自我のイメージや、友人、兄弟、同僚などを指します。他方大文字の〈他者〉は、小文字の他者を超越した絶対的な他者を指します。それは子供にとって 、の親や先生、大人であり、大人にとっては王様や神様といった「お上」が〈他者〉にあたるでしょう。
そして他者と〈他者〉の一番の違いは、〈他者〉が〈法〉をもたらす存在であるということです。

ひとまずはこの理解で良いだろう。注目すべき点としては、超越的な存在を〈他者〉としている事、また、〈他者〉とは〈法〉をもたらす存在である事である。あるいはこの〈他者〉の場には「言語」や「無意識」というものも関わってくるが、後々必要であれば確認していこう。

四の一、〈他者〉の近さと居心地の悪さ〜「こんな村いやだっ!」の読解〜


まずは「こんな村いやだっ!」に焦点を当てて読解を行なっていこうと思う。ここにおいて「真名」は大人達の仕組んだ「裸女人参り」という「祭り」によって「裸」になり「性交」(のフリ)をすることを要請されるが、「真名」自身は「こんな村いやだ」と、人前で「裸」になる事のおかしさを嘆いている。
しかし「村の長」はそのような「真名」の拒絶を大文字で「しきたり」であるからと押さえ込み、「この村の者であるなら守らねばならぬ」と抑圧している。つまりここにおいて〈他者〉として機能しているのは〈村の長〉であり〈しきたり〉と読む事も出来る。
〈他者〉論においては〈他者〉とはある種の象徴的秩序をもたらすものであり、ここにおいても日照りが続く村に雨を降らせる雨乞いの儀式として「裸女人参り」が行われる。
「真名」はこの儀式を行いたくないと言うが、それは何故か。「真名」と「村」との価値観の違いは下記の点に如実に現れている。

真名「はー!スマホもねえ!スタバもねえ!デリカシーもねえ…」学「まあ田舎だしな…」真名「田舎ってやだなあ…虫は多いし牛はくさいし…」

この場面において明らかなのは、「真名」は村の内部にあって、村の〈しきたり〉とは異なる考え方を有している事だ。すなわち「スマホ」や「スタバ」(そして「デリカシー」)があるような都市的な価値観である。つまり、ここに都市/村の二項対立を読み込む事が出来る。
都市的な価値観を持ちながら「裸女人参り」を行なうことには、まるで公然と露出徘徊を行なっているかのようなエロスを読者に生じさせているが、村の秩序を守る(=雨を降らせる)という物語においてそれはエロスとしては扱われず、ある種当然のものとして受容される。「真名」の持つ都市的な価値観は、村の雨乞い物語においては抑圧されるものなのだ。
また、抑圧されているのは「真名」の都市的な価値観だけではないかもしれない。村の雨乞い物語が進行する一方で、「こんな村いやだっ!」においては別の物語が展開していることに注目してみよう。すなわち、「真名」と「学」の恋愛の物語についてである。
一度恋愛の物語の流れを確認しよう。二人は幼馴染であり、かつてはお互い裸になって遊んだ仲でもある。二人は密かにお互いを思い合っているが、男女の付き合い等の関係の発展には至っていなかった。しかし、〈村の長〉によって、「神様役」に抜擢された「学」と巫女たる「真名」が服を脱いで接していく中で次第にお互いの気持ちに気づいていく。

学「でももし巫女に伝えたら…」
学「この役は俺以外の人にするって言われて」
学「なんというか…その…それは…嫌だったから…」

真名「私…学とずっとこうしたかったから…だから…」
真名「フリじゃなくて…いいかも…‼︎」

二人はお互いの気持ちに気付き、儀式としての性行為のフリではなく、実際の性行為に及んでいく事となる。そして、不意の強風によって二人を隠す「傘」は飛ばされ、「真名」と「学」の性行為が露出する。その行為を見て、儀式の配役を行った「村の長」が「ナイスキャスティングじゃったな」とコメントしている点を読む限りにおいては、二人の関係はある程度織り込み済みであったかのようである(注1)。また、村は笑いに包まれ「活況のうちに幕を閉じる」が、真名は「やっぱりこんな村いやだ」と再度嘆く形となる。ここまでが彼らの恋愛物語の発展である。
ここにおける「いやだ」については、単に都市的な感覚としての恥ずかしさだけではないだろう。儀式上必要な性行為のフリを超えて、実際に性行為をしてしまった事の恥ずかしさである。強く読解するとしたら、彼らの恋愛関係すらも、儀式を十全に行う為の道具とされた事の恥ずかしさと見ることができるかもしれない。
「真名」の言葉を借りれば「デリカシー」のない村の在り方までもが、不意の強風によって露出すること。また、どこまでも村の〈しきたり〉に取り込まれ、逃げ出す事の出来ない田舎の居心地の悪さをも、「風」は露わにしたのではないか。
このように、村の秩序を保つ為の「雨乞い」の物語が、「真名」の都市的な感覚を抑圧し、「真名」と「学」の恋愛物語を侵しているとも見れるのがこの短編である。後者について硬い言い方をするのであれば、小文字の他者の二者関係に、不当に介入するものとして大文字の〈他者〉が立ち現れている。(注2)
これがこの漫画を貫く大筋の物語であり、この抑圧的な仕組みに多くのページが割かれている。しかし、重要な点は実のところ大筋にはないという逆説を読み込むことで、ここでの論は閉めることとする。
注目すべきは、物語の最後に降り出す雨の中、相合傘のもとに行われる秘密のキスである。また、儀式の最中に行われたファーストキスも傘によって隠されており、傘で隠されない性行為/傘で隠されるキスの対比がここでは行われている。つまり、エロスをもたらす構造としての抑圧がある一方で、少女達の純な恋愛は神の降らせる雨によってギリギリで守られていたことこそが真の帰結なのだ。つまり、元来「裸女人参り」は神への捧げ物であったが、それに対する神の応答は恋愛関係の成就であった。彼らのその時の表情は読者にすら見えることはない。

(注1)ここにおける「村の長」は、物語内論理に従うとすれば「裸女人参り」の「キャスティング」を行うものとしての〈大人〉、しかしパフォーマティブな読解を行うとすれば、物語そのものの「キャスティング」を行う〈他者〉として読む事も出来るかもしれない。
(注2)ここにおいて、〈しきたり〉が恋愛関係にまで介入してくる「デリカシー」のなさを読解した。ここで〈しきたり〉や〈大人〉を〈他者〉として読み替えてみると、〈他者〉の介入がエディプス・コンプレックスの生成過程に似ている事に気付けるだろう。すなわち、母と子の二者関係に割り込んでくる〈父〉という存在。あるいは、言語の獲得物語としては、母と子の一体状態における〈言語〉の参入である。すなわち、二者関係などあり得ないという〈不可能性〉の受容過程としての去勢物語である。本作においては、村の中にいて秘密などがあり得ないという意味での〈不可能性〉の現前と否認(「やっぱりこんな村いやだ」)なのであり、その〈不可能性〉の中で行われるキスとは、〈他者〉から逃れる為の逃走線であったのだ。

四の二、〈他者〉の居心地の悪さから逃れて〜「後夜祭でイこう!」の読解〜


「こんな村いやだっ!」においては〈しきたり〉ないしは〈他者〉は、都市的な価値観を抑圧し、村の閉鎖性を示す機能と立ち現れていると確認した。その中で、秘される事のない性行為/秘密裏に行われるキスという線引きによって〈他者〉から逃れる主体が見られた。
このような〈他者〉の介入、あるいは〈他者〉と線を引く主体は「後夜祭でイこう!」においても用いられている構図であり、ここで〈他者〉の介入は居心地の悪さのみを示すのではなく、むしろ「青春ってかんじ…❤︎」とポジティブに受け入れられてもいる。それはどのような受容であるのか、〈他者〉はどのように扱われたのかを再度確認してみよう。まずは舞台とあらすじについて。ここにおいても「祭り」が舞台となっている。

「後夜祭」
「それは文化祭を締めくくる最後のイベント」
「終わりゆく文化祭を惜しむように」「生徒達はこのイベントを楽しむ––––」
「そして……非日常空間の中で毎年のように行われるサプライズ」

「後夜祭」という「非日常空間」の中で行われるのは、第一に公開告白である。またここで成立したカップルは「誓いのキス」と公開セックスを行う「伝統」であると「司会者」は言う。この点については「校長」すらも「いいんじゃないの 若くて」と承認している。この「伝統」に対して「拓洋」は「誓いのキス」をすることは断固として拒むが、「今しかこういうことできない」と考える「咲」に後押しされて、公開セックスを実行に移す。そして、野次と熱狂の中で彼らは絶頂を迎え、「後夜祭」は「花火」によって「フィナーレ」を迎える事となるが、「司会者」に促され「花火」に視線を向けられた観客をよそに二人は初めてのキスをするのである。以上があらすじである。
ここで焦点を当てたいのは、第一に〈校長〉という権威の承認のもと、〈司会者〉に突き動かされて二人の恋愛が進行していく事についてである。すなわち、「咲」と「拓洋」の恋愛物語の〈外部〉としての〈大人〉の介入が見られる。「後夜祭」の〈伝統〉には村の〈しきたり〉と同様にある種の強制力があり、祭りを盛り上げる演出として、二人の恋愛物語の進展が利用されていたものと考えることが出来る。ここまでは「こんな村いやだっ!」の持つ構造と同じである。
ここで視点を加えたいのは、この〈他者〉というものが常に〈外部〉として存在する事について。またその〈外部〉とはどのようにあり得るか、という点についてである。
ここで「司会者」の奇妙な振る舞いは注目に値する。フィナーレにおける最後のページの最後のコマに注目してみよう。

(著作権の問題上、画像を上げていいのか分からないので各自見て)

ここにおいて「司会者」は正面を向いて手を振り、口の前で指を立てる仕草をしている、この時「司会者」の目線は観客にも、「咲」達にも向いていない。では、どこに向いているのかと言えば、おそらくは読者に向けたものである。物語はこれでお終い、祭りもお終い、そして「咲」と「拓洋」のキスは内緒だよ、とでも言うようなパフォーマンスと見ることが出来るが、重要な点はこの仕草の解釈ではなく、メタキャラクターとして「司会者」がいる事だ。つまり、「司会者」は二人の恋愛の〈外部〉であるだけでなく、パフォーマティブな次元においては、作品内論理の〈外部〉でもあるという事である。
「こんな村いやだっ!」における〈村の長〉は「儀式」が「ナイスキャスティング」だった事を言うが、パフォーマティブな次元においては「こんな村いやだっ!」の作品自体の「ナイスキャスティング」であったように、パフォーマティブな次元において〈司会者〉は「後夜祭でイこう!」の進行役としての〈司会者〉でもあったのではないか、と見ることも出来る。
加えて問いたい点は、この抑圧的な構造の中で、嫌々露出を行なっているのか、どうかという点である。「こんな村いやだっ!」の「真名」においては、それは最後まである種の居心地の悪さを示すものだった。では、「咲」においてはどうか。「非日常空間」の熱狂の中で大胆になった「咲」が「ちょっと……たのしいかも♡」「青春ってかんじ…❤︎」という言っているように、ここには〈他者〉の抑圧を超えた何かがあると読まなければならない。この点はどのように読解出来るのか。焦点を当てたいのは下記の点である。

モブ「やばい!ちょうHじゃね!?」
モブ「エロすぎ!」
モブ「ほんとにはいってる!」
モブ「これシェアしていい〜?」
咲「いっ いいよ…♡」

ここにおいて、モブ観客が「咲」と「拓洋」の結合部をスマホで撮影している。さらにはそれを「シェア」すると言うのだ。「咲」も戸惑いつつも承認しているように、ここにおいてはセックスの「シェア」は許されているものとして見なければならない。何故このような承認ができるのか。この点には強制力を超えた露出行為についての一つの示唆がある。
立木康介は「露出せよ、と現代文明は言う」において、メディア環境が「公共空間の私有化」を行なうようになったこと、あるいは、「私的領域は秘されるべきものから露出すべきものへ変質した」ことのテーマを語っていた。立木が指摘しているように、日々SNSにおいて私的領域があまりにも安易にシェアされてしまう(「自分語り」の大衆化)。立木によれば、「科学テクノロジーが推進するメディア環境の拡大」によって〈他者〉があまりにも近くなってしまい、無化している事が原因だという。立木の言葉で言えば〈無意識〉の消滅である。下記を引用する。

インターネットの世界では(中略)ブログやSNSの日記上で自らの犯罪行為を告白する若者が目立つようになってきた。そのような告白が、サイト上の「祭り」や「炎上」にとどまらず、本人の解雇や退学といった現実的な聞けるをもたらす例も後を絶たない。

つまり、「咲」においては、私的領域の共有、セックスシーンの「シェア」は「祭り」を盛り上げる要素でしかなく、かつて秘される事で成立していた〈無意識〉など存在しない。むしろ、私的領域を秘密にされない事が、自己の拡大なのである。「咲」には「シェア」を止めるような〈規範〉はなく、この〈規範〉なき子供のアナーキズムこそが、「青春」であり「たのしい」という感覚なのだ。「真名」と比較してみよう。「真名」における村の居心地の悪さとは、私的領域に〈他者〉が介入し、あまりにも近づいてしまう事に対する居心地の悪さであった。しかし、スマホに象徴されるような〈他者〉との距離の死滅を生きる「咲」においては、〈他者〉は常に既に近いものでしかないため、公開セックスすらも「青春」の過ちとして「祭り」をドライブする事ができるのだ。

四の三、「剣道」が「真剣」に至る〜「バツを覚悟の真剣恋愛!」の読解〜


ここまでの論においてはエロ漫画における、大文字の〈他者〉に介入される主体とその物語について確認してきた。またこの大筋の物語に対して、主人公らは秘密裏に行われるキスの形で純な恋愛物語を維持している事も確認した。主体とは、このように上部構造に支配されるばかりの存在であるが、主体が構造そのものを変える事はないのだろうか?ここで確認したいのが「バツを覚悟の真剣恋愛!」である。「バツ」を「覚悟」した「真剣恋愛」は〈他者〉の抑圧にどのような変化を与えるのかを確認していく。あらすじから見ていこう。
この物語は、剣道部の女子部副部長である「愛川千恵」と男子部一年生の「小森」の「部内恋愛」が発覚した事から始まる。この剣道部にはとある「部則」が存在していた。

「我が校の剣道部の女子部は全国有数の強豪と言われている!」
「練習は過酷で日常生活にも部則によって厳しい取り決めがある!」
「そのうちの一つが「部内恋愛の禁止」である」
「これを破るものには重大な罰が課せられる」
「それは…みせしめとして部員の前で公開性交を行わなければならない!」
「しかしこの屈辱的な罰を恐れいまだかつて
部内での交際は発覚したことはなかった…」
「練習後の部室でお前達を見つけるまでは!」

この「公開性交」の「罰」があるおかげで「部内恋愛」は「発覚したことはなかった」。しかし、女子部の部長である「尾形」が「愛川千恵」と「小森」の逢い引きを発見したことで、初めてこの「罰」は適用される。
ここにおいては、やはり〈他者〉のもたらす〈法〉の抑圧がある。それはこれまで〈伝統〉や〈しきたり〉という形で現れてきたが、ここでは〈部則〉あるいは〈部則〉を持ち出す〈部長〉の「尾形」として現れる。つまり、またしても「公開性交」を行なうことの(本質的には無根拠な)根拠としての〈法〉が現れている。順に確認していこう。
この「公開性交」について、男子部部長の「飯田」は二人が「かわいそう」だとして止めるが、「尾形」は「これだから男子部はダメ」だと糾弾し、低調気味の部の実力を保つべく罰を強行することとした。「愛川千恵」はこの「公開性交」の罰を受け入れる覚悟があるが「間違ったことをしたとは思っていない」と言う。確認してみよう。

愛川千恵「もちろんだ…あくまでも規則は規則」
愛川千恵「部員である以上」「罰は受けなければなるまい…」
愛川千恵「ただし一つだけ…」「言っておきたい!」
愛川千恵「わたしは…」「間違ったことをしたとは思っていない…!」

愛川千恵「自分の気持ちに嘘はつきたくなかったし」
愛川千恵「小森の気持ちも裏切れなかった…」

ここにおいて主体は「副部長」としての「愛川千恵」/「小森の気持ちも裏切れな」い「愛川千恵」の二つに分裂している。この時「公開性交」は「副部長」として「罰」を背負う「愛川千恵」の在り方が示され(つまりこの罰によって「小森」との恋愛は抑圧され)部内の秩序は強化されると「尾形」によって想定されていた。しかし、「小森の気持ちを裏切れない」側の「愛川千恵」は抑圧されるどころか「副部長」としての「愛川千恵」よりも前面に現れる事になる。どのようにか。下記の場面が象徴的である。


愛川千恵「なぁ…小森…!」
愛川千恵「その…なんだ…もしよかったら
もう一度どうだ…もちろんこれは」
愛川千恵「罰なんかじゃない!」

このシーンは〈部則〉の「罰」を超えた形での「性交」の象徴的なシーンとなっている。つまり「愛川千恵」は言葉の上では「罰」として仕方なく「公開性交」を行ったかのように見えたが、快楽に身を任せ「人目も気にせず」「ヨガり狂」う「姿」において、むしろ進んで行っているようなのだ。それは「公開性交」が始まる直前に部員達の前で見せた「規律を乱してしまった情けない姿」=濡らした「まんこ」=「本当のわたし」の等式に示されるような、小森との「性交」に対しての発情の痕跡としても現れている。この積極的な姿を見るに「副部長」としての、あるいは「罰」としての「公開性交」はおそらく始めからなかった。緊張して立たない「小森」を「フェラ」で立たせ、発情したように吐息を漏らしている様からもそれは伺える。
つまり、先にあげた「副部長」としての「愛川千恵」/「小森の気持ちを裏切れな」い「愛川千恵」の主体の分断については、後者こそが上部に浮き出ていると言えるのだ。「愛川千恵」の「本当」が「副部長」の側でなく「恋愛」の側にあると示された時、「尾形」に想定されていた〈部則〉/部内恋愛の抑圧関係がどのように変化するかを確認し、この論を締めよう。流れを再度確認する。
この「愛川千恵」の「本当のわたし」の姿を見て、部員達の意見は変わっていく。そして男子部部長の「飯田」によって「二人のしたことはそんなに悪いことだと思えない!」「愛川副部長の気持ちが今ならわかる気がするんだ…!」と主張され、部内恋愛が実はもっと存在している事が明かされる。ここにおいての「飯田」の主張とは「愛川副部長の気持ち」=恋愛感情が〈部則〉よりも優先されるべきという、〈部則〉/部内恋愛の抑圧構造そのものに対する抗議である。
この抗議を受けて、更には「飯田」とのセックスの快楽を知ることよって「尾形」はとうとう「部内恋愛の禁止」を「破棄」する事となる。下記のシーンを確認しよう。

尾形「わかった!部則変えるっ!変えるるぅうぅうぅう❤︎」
尾形「たった今よりぃっ…!」
尾形「部内恋愛の禁止およびっ…!」
尾形「その違反者に与える部則を…」
尾形「破棄するっ…!」「そしてっ…」
「我らが剣道部における恋愛はっ…‼︎真剣ならばッ!よしとするッ!」

「愛川千恵」のキスによって力が抜けて「小森」によって脱がされた「尾形」が「このふたりに負けたっ…!?」と言っていた事は、〈部則〉が「ふたり」の力によって変質することの象徴的なシーンであっただろう。かくして部員の「日常生活」を不当に切り分けていた部則/部内恋愛の抑圧構造は身体的な快楽によって脱コード化され、新たに真剣な恋愛/部則として秩序は更新される。
無論、ここにおける「真剣」というワードは、「剣道」における真剣/竹刀の二項が、真剣な恋愛/部則という二項に重ねられ、より「真剣」な恋愛とともに「真剣」に部活に取り組む帰結への言葉遊びになっている。以上のように、「覚悟」を持って〈他者〉に相対する二者関係(=恋愛関係)は抑圧構造に対する逃走ではなく、秩序の更新に寄与しているのだ。

「かくして剣道部は部内恋愛が認められ」
「女子部と男子部は以前よりもずっと」「良好な関係を築けたようで」
「これによって自信をつけた男子部は飛躍的な成長を遂げたのであった」
「ただし…女子部はそれ以上に強くなったのだが…」

以上が「バツを覚悟の真剣恋愛‼︎」の読解である。

(補足)
軽くここまでの議論を硬質な言葉でまとめよう。前の二編において〈他者〉に介入されるばかりであった恋愛物語は、ここにおいては〈他者〉の無根拠性を暴き、変質させるものとして現れた。
〈他者〉の無根拠性について、先に引用した片岡は「〈他者〉の不穏さ」と表現し、人間は「何を考えているか分からない異質な存在(=〈他者〉)に生殺与奪の権をにぎられている」のだと言っている。本作に沿って言うのであれば「こんな村いやだっ!」「後夜祭でイこう!」において、「何を考えているか分からない異質な」法によって、主体が抑圧されてきたように、他者とはそのようなある種の不気味さなのだ。
あるいは、立木は「狂気の愛、狂女への愛、狂気の中の愛」において下記のように言っている。

主体のパロールの真理を保証する〈他者〉には、しかしそれ自身の真理を保証する「他者」はない。なぜなら、そのような役目を果たすシニフィアンは、「父の名」の場合とまさに同じ理由で、〈他者〉の外部にはありえない(シニフィアンである以上、それは〈他者〉の一要素でなければならない)が、だからといって〈他者〉の内部に見出されるわけでもない(そのときには、このシニフィアンは〈他者〉に回収されてしまうので、〈他者〉の真理を請け合うさらに別のシニフィアンが必要になる)からだ。したがって、〈他者〉にはひとつの「欠如」(それ自身の真理を保証するシニフィアンの欠如)が刻まれる。

ここで言っている事は入り組んでいるが、〈他者〉とは理由を「欠如」している事によってひとつの特権的な位置を保持しているという事さえわかればよい。それは、第一部で扱った〈しきたり〉や〈伝統〉、〈部則〉が、根拠不明のまま主体を「露出」に追い込んだ事のように、〈他者〉は人間を(秩序的な)人間たらしめる条件であると同時に、無根拠に動物的な側面(性的な欲望)を破断していた。

四の四、新たな問いに向けて〜第一部のまとめを兼ねて〜


第一部において確認した事は一貫して主体に対する〈他者〉の抑圧構造の物語とその〈他者〉の抑圧とは別の形で線引きを行ない、恋愛を維持する物語である。
しかし、この理解では作品考察としてまだ浅いと言えるだろう。 すなわち第一部においては〈他者〉が(よりにもよって)「露出」を要請するのは何故か、という問いを避けていた。何故本作における〈他者〉は〈露出を肯定するもの〉として現れなければならなかったのか。
もう一度確認しておこう。〈他者〉の〈法〉とは、先にあげた三編の中で「村」〈儀式〉、後夜祭の〈伝統〉、また「剣道部」の〈罰〉の形式として現れた。つまり「露出」させる事それ自体が目的ではなく、特に理由はないがそういうものだからと「露出」を要求したに過ぎない。儀式だから、伝統だから、罰だから仕方ない、というように必然性がまるっきり欠如しているが故に、行為の理由として機能していた。しかし、必然性がないのであれば、それは「露出」でなくともよかったはずではないか。何故よりにもよって「露出」なのか、この「露出」の必然性について次章より問うていこうと考える。
第一部の〈他者〉論を超えて、第二部の「露出」論へ。

五、第二部 〈他者〉なき〈女性〉のアナーキズム、あるいは窃視症


第一部において、ある種の〈法〉をもたらす〈他者〉の存在への読解を行ってみた。その中で今回注目したいのが、「校長」や「村の長」のような大人の存在が権威の象徴として〈他者〉の機能を果たし、少年少女を抑圧し、露出を強制する装置にもなっていた点である。大人による子供の抑圧関係という、ありがちな構図がさりげなくではあるが示されていた。では、次は本作に現れる大人達に焦点を当てて検討するのも良いだろう。
そこで、本作において「大人」が前景化している短編を挙げると「ようこそパイセン〜AV女優の課外授業〜」、「今日イク!?実習生」、「もっと見ていて」の三編がある。「ようこそパイセン」「今日イク!?実習生」の読解においては「大人」がよりにもよって〈露出を肯定する〉事の是非について改めて問いかけ、「もっと見ていて」においては〈露出を肯定するもの〉ではなく、〈露出させるもの〉としての「窃視症者」的大人について論じていく事になるだろう。

五の一、〈AV女優〉と「本当の自分」〜「ようこそパイセン〜AV女優の課外授業〜」の解説〜


まずは、「ようこそパイセン〜AV女優の課外授業〜」から確認してみよう。この物語は、あるクラスの課外授業の特別講師として「AV女優」である「宇田川カレン」が、「本当の自分を知ろう」というテーマの元、クラス全員で服を脱ぎ、クラスメイト同士で性行為を行うというものだ。ここにおいては、特定の二者の恋愛物語が前景化することはなく、「露出」することそのものがテーマとなっている。順に確認していこう。まずは本作における「大人」という存在について、下記の点に注目してみる。

宇田川カレン「大人の女を演じたかっただけだもんね?」
宇田川カレン「このように!人は嘘をついたり 見栄を張ったり…
自分を誤魔化したり そういうふうに生きてるの」
宇田川カレン「だから今日はそんなもの脱ぎ捨てて 気持ち良くなりましょう?」

この場面は、クラスメイトの前で裸になることを要請する「宇田川カレン」に異義を唱えた「水嶋真希」が、強制的に全裸に剥かれ、膣内(と処女膜)を晒された際のコメントである。ここに描かれる「大人」とは、第一に演じられる大人像であるだろう。すなわち「嘘をついたり」「見栄を張ったり」「自分を誤魔化し」て生きている「人」である。
では、生徒を教える立場としての「宇田川カレン」は何を要請しているかと言えば、「そんなもの脱ぎ捨てて気持ちよく」なることである。
ここにはやはり〈露出を肯定するもの〉としての〈大人〉が現れてくる。また、「露出」行為が「本当の自分」を知ることに接続され、目的化されている。すなわち、「宇田川カレン」は何らかの〈法〉に従っているわけではなく、ただただ彼女が〈他者〉として機能し「露出」を強行しているのだ。ここにおいて、〈露出を肯定する大人〉/演じられる大人という二つの「大人」があるといえるが、この対比は何を示し得るか。ここではまず、「宇田川カレン」のテーマである「本当の自分」が生徒達にどのように現れたかを確認してみる。

宇田川カレン「大人しそうな子かと思ったけど…
あらあら意外と積極的なのね❤︎」
宇田川カレン「こっちの子は経験豊富なカンジだったけど
顔を真っ赤にしちゃって…ひょっとして純情系かしら❤︎」
宇田川カレン「男子みたいな娘だなぁって思ったけど
––––やっぱり女の子ね!」
宇田川カレン「うわすっごい顔❤︎
プロでもこんなアヘ顔なかなかできないわ…」

上記の通り、裸に剥かれ、男子と性行為を行う中で、女生徒達にそれまで見えてこなかった顔が露出する。それこそが「宇田川カレン」が想定した「本当の自分」であるだろう。ここにおいて「露出」と「本当の自分」が接続され得る事が生徒達に示され、どうやら「露出」行為、あるいは性行為には、「本当の自分」を知る契機があるらしいとわかる。しかし、何故「露出」行為が「本当の自分」を知る事に繋がりうるのか。
ここにおいて、改めて〈他者〉の無根拠性について思い出すといいだろう。すなわち、〈他者〉の他者は存在しないというテーゼ、「主体のパロールの真理を保証する〈他者〉には、しかしそれ自身の真理を保証する「他者」はない」という事である。本論に沿って確認すると、〈しきたり〉や〈伝統〉や〈部則〉が無根拠であるが故に露出行為の根拠として機能した事を思い出してみる。そして、ここにおいては〈他者〉の無根拠性に別の名前が与えられている。つまり、「大人」という言葉そのものだ。
本作においては、「大人」とは演じられるものでしかなく、「大人」の〈大人〉性とは「嘘」と「見栄」と「誤魔化し」であったという事こそが、〈他者〉の無根拠性の謂いであるという事だ。つまり、「宇田川カレン」が言う「本当の自分」とは、まさしく〈他者〉が保証しない無根拠な生であり、〈他者〉性(ここでは〈大人〉性)を脱ぎ捨てた無根拠な身体であるのではないか。
ここにおける身体とは、身体的〈他者〉と言っても良い。上尾真道は「ラカン 心理のパトス 一九六〇年代フランス思想と精神分析」にて「言語的〈他者〉」に対置する形で、この「身体的〈他者〉」という言葉を使っていた。この身体的〈他者〉において重要である事は、まさしく〈他者〉の欺瞞、無根拠性のテーマである。すなわち、言語的〈他者〉において、理由の「欠如」という形で「ひとつ」の特権的地位を占めた事の「ひとつ」から逃れる事。別のあり方になること。寸断されたバラバラの身体に回帰することである。今作の生徒達もまた、「露出」行為によって、あるいは露出されたその身体によって「嘘」や「見栄」や「誤魔化し」を排した自分を見出している。では「宇田川カレン」自身は服を脱ぐ事によってどのような姿になったか、物語の結末を確認して締めることとしよう。まずは流れを確認する。
生徒達は課外授業の終了後、「宇田川カレン」に「どうしてAV女優になったか」を問う。宇田川カレンは「きっとその答えは 今の君達にならわかる」と回答をぼかし、答えをそれぞれに委ねて去っている。また「宇田川カレン」自身も改めて「どうしてAV女優になったか」を振り返り、「それはね…」と彼女自身の答えが提示されかけるが、廊下ですれ違った野球部員に発情してしまい(おちんぽ大好き❤︎)に回答が覆われる事で答えが明示される事はない。
この「どうしてAV女優になったか」に対する答えは、第一に「おちんぽ大好き」が理由であると素朴に読解する事が出来るだろう。しかし、直前の「それはね…」と(おちんぽ大好き❤︎)が吹き出しの内外で区別された事から、読者には誤読可能性が残されている。「きっとその答えは今の君達にならわかる」という言葉に対し、読者として応答してみよう。
我々は「宇田川カレン」が「AV女優」になった理由として下記のように誤読してみる。すなわち、「AV女優」になる事とは「本当の自分」の「露出」としての生、(言語的)〈他者〉性を脱ぎ捨てた無根拠な生である、と。簡易な表現で言うのであれば、「見栄」や「嘘」や「誤魔化し」なく正直になる事。それを目指した結果が、言語的〈他者〉なき身体的〈他者〉=〈AV女優〉である。

また、この読解は「宇田川カレン」の「本当の自分」が(おちんぽ大好き❤︎)に象徴されるような「おちんぽ」狂いの変態だとするならば、素朴な読解と矛盾する事もない。これを〈他者〉なき〈AV女優〉(二つの〈他者〉の区別)のおちんぽアナーキズムと言ってみる。それは「後夜祭でイこう!」における「咲」のあり方を〈規範〉なき子供のアナーキズムと表現した事とは区別する。〈規範〉なき子供はただ露出する事に慣れているだけだが、〈他者〉なき〈AV女優〉は露出を積極的に肯定しているのである。言語的〈他者〉を超えて、複数の在り方になること。それが〈露出を肯定する事〉の第一のテーマである。

※この〈他者〉性の脱却というテーマについて、より素朴にキャラクター/脱キャラクターのテーマとして読み込む事も可能であろう。本作においては、狭義においてのキャラ崩壊がある。具体的には「真希ちゃん大人だもんねー」と言われる「真希ちゃん」のキャラ性=「嘘」が暴かれるシーンである。つまり、服を脱ぐ=全裸になることとは、ここにおいてはまさしくキャラクターを脱する行為なのだ。詳細は省くが、この点は全ての短編において統一的な意味を持つ。クラスTシャツを、制服を、部活動服を脱いだ先に意外な一面を垣間見る、そんなシーンがどの短編においても共通している。
すなわち、衣服を脱ぐ行為とはまさしく、アイデンティティを脱ぐ事であるという視点だ。衣服とは文化人類学的な視点においては、「社会的アイデンティティ」を示すものであるが、漫画においてそれは、より単純化され衣服とは「キャラクター」的アイデンティティを示すものではないか。すなわち、「司会者」の司会者性が「司会者!」というたすきによって安易に象徴されていたように。あるいは、「校長」のたすき、「風紀委員」(「没収します!」)の腕章などもそれにあたる。「風紀委員」の腕章を明確に脱いでいる頁が脱衣シーンの2ページ以外になかった事も、「風紀委員」の陵辱物語において、腕章が欠かせない衣服であった事が伺える(全裸に剥かれた後は首輪として腕章を身につけている)。


五の二、 「全裸校内露出」による〈他者〉の現前〜「今日イク!?実習生」の解説〜


「ようこそパイセン〜AV女優の課外授業」の読解においては、「露出」行為と同時に演じられる大人像を脱ぎ捨て「本当の自分」をも「露出」させるというテーマを導き出し、生徒達はそれぞれ新しい顔を見出すという場面があった。しかし、未だ「露出」の検討は済んでいないと言えるだろう。
すなわちそれは「本当の自分」とは何か?の問いでもあるが、「露出」行為は「本当の自分」を曝け出す物として真に機能したのだろうか。
 「宇田川カレン」は裸になる事で「本当の自分」を曝け出す事を言っておきながら、「本当の自分」というものを生徒に啓蒙する〈講師〉性を脱ぎ捨てていなかった事、あるいは野球部員の複数のおちんぽにしゃぶりつくその姿も〈AV女優〉的なある種の演技ではないか、という事。ここではその「本当」について重く検討したい。

その中で注目したいのは「今日イク!?実習生」である。ここにおいて「露出」行為は、どのような目的において行われるのかを確認してみよう。とある中学校に「教育実習生」として赴任している「知里」は、実習最後の日に夜の学校で一人になるシチュエーションを作り出した。「知里」にはある秘密があった。

「私が教育実習生になったのは」
「大きな目的があった…」
「もちろん…教師になりたいなんて話じゃない」
「実は教師なんてあまり興味ない」
「学校に侵入できる正当な理由が欲しかっただけ」
「わたしが本当にしたいこと…」
「それは…!」「全裸校内露出‼︎」
「実は私は露出狂の変態なのだ」

このように「教育実習生」たる「知里」の真の目的は「教師」になる事ではなく、「教育実習生という立場でありながら」「学生達の学び舎で全裸歩行」するという何にも勝る「スリリングな露出」行為にあった。
何度も整理してきたように〈露出を肯定するもの〉としての大人が登場するが、「知里」には「宇田川カレン」のような「本当の自分」を知るという大義名分はない。
つまり、「宇田川カレン」においては〈講師〉性と〈AV女優〉性の複数の〈他者〉性を備えていたが、「知里」が〈教師〉性を脱ぎ捨てた時には、ただ単に露出するもの=「露出狂の変態」しか残らない事について。
ここにおいて「知里」は「露出」行為そのものの目的化(=「本当にしたいこと」)をしている。その「露出」の目的化、あるいは「露出狂の変態」である事とは何か。

ラカンによれば、「露出症者は〈他者〉の享楽に気をつかって」おり、「〈他者〉の領野こそが、露出的行為が眼差しを出現させようとしている場所」なのだという。あるいは、松本卓也「享楽社会論 現代ラカン派の展開」において「露出症者」とは「自分の性器を露出させることによって」「〈他者〉の側に眼差しを生じさせることが目指されている」と説明している。どういう事か。

第一に「露出」という行為は〈他者〉に自分の性器を見られる事を目的としていること、という単純な意味において理解できる。
第二に、「露出」という行為が〈他者〉が眼差している事を自覚するという意味において了解できる。また、ここにおける〈他者〉とは非人間的なものでもあり得ることに注意しておこう。すなわち、露出行為の成立は、そこに〈他者〉に見られているという自覚、内面化された「眼差し」によって成り立ちうる。実際に、「知里」がこれまで行っていたと思われる街中でのノーパン徘徊や、夜中の電灯の下でコートの中の全裸を晒す行為においても、〈他者〉に見られることではなく、〈他者〉に見られる“かもしれない”という「眼差し」が露出行為のファクターとなっている。
では、「知里」における〈他者〉とはどのように立ち現われてきたか確認してみる。それは第一に街中を歩く他人、第二に深夜の路上を歩く他人、そして「学生達の学び舎」における「学生達」…つまるところ、それは服を着ている人、更には服を着るという〈規範〉を生きている人ではないのか。〈規範〉そのものを脱ぐ事。
この脱〈規範〉のテーマについては、「教育実習生」としてある程度〈他者〉=〈規範〉的に振舞っているにも関わらず、自らはその〈規範〉を脱ぎ捨ててしまう事に最大の興奮を覚えていた事からも伺える。すなわち、「知里」は服を着る〈規範〉と教師の立場という〈規範〉を二重に脱ぎ捨てているからこそ、今までの「露出」と差別化されているのだ。
つまり、「露出狂の変態」とはここでは〈軌範〉を脱ぎ捨てるものだと言っていい。

※※※ここからしばらくは読まなくてもいいです※※※
この事について先に上げた、〈他者〉なき〈AV女優〉のおちんぽアナーキズムとある程度の一致を見つつ区別して、〈普遍〉なき〈女性〉のアナーキズムとして定式化したい。
これまではあくまで固有の読解としてのアナーキズムを論じてきたが、ここで「露出」行為そのものを〈普遍〉なき〈女性〉のアナーキズムとして一般化してみたいのだ。そんな事は可能か。また、このテーマを昨今あらゆる角度から意味を持ち過ぎてしまう「女性」という用語を用いる危険性について直ちに注釈するが「女性」とは単に〈他なる性〉を言っているに過ぎないことに注意したい。

立木によれば「享楽と共にある〈他者〉が「女」をして現れる場合、すなわち〈他なる性〉(Autre sexe)としての〈他者〉の享楽が問われる場合」について下記のように言っている。

およそ「ファルス関数」に書き込まれる一なる享楽の限界に甘んじているいかなる主体にとっても、したがってその主体が生物学的な女性であっても、この「ファルス関数」が認可する享楽とは異なる享楽、あるいは「追補享楽(上乗せ享楽)」というラカンの言葉のミュアンスを汲むなら––––「ファルス関数」が認可する以上の享楽とともにある他者は、〈他なる〉性の側に立つだろう。

噛み砕いて説明しよう。ここにおける「ファルス関数」とは我々の整理においては、言語的〈他者〉の単一性の議論である(「一なる享楽」)。また、ここで「一なる享楽の限界」と言うのは、この言語的〈他者〉が無根拠である事、また無根拠であるが故に単一である事(ペニスの幻想としての「ファルス」)の説明である。そして、この限界がある言語的〈他者〉が保証する以上の享楽として想定されるものこそ〈他なる〉性の〈他者〉、つまりは、〈女性〉としての他者である。この議論は、先に言語的〈他者〉と身体的〈他者〉を区別した事と同様に、プラスαであること(「追補享楽(上乗せ享楽)」)、つまり単数ではなく複数である事である。
簡易に言い直そう。「女性」という用語の使用において付加したい意味とは第一に「複数化」のテーマである。

そして、この「女性」という用語で否定されるのは単数である事ばかりではない。ここで、松本卓也の「人はみな妄想する––––ジャック・ラカンの鑑別診断の思想」より下記を引用してみる。

男性の論理式と女性の論理式は、それぞれ別のものを否定している。一方の女性の論理式は「すべての女性」ないし「女性なるもの」が存在しないことを示しているという点で、普遍を否定していると言える。他方、男性の論理式では、ある存在が去勢されているかどうかが問題であり、去勢されていない例外的な存在である原父はファルス関数に対して「否を言う dire que non」存在であるとされる。(中略)女性の論理式が普遍を否定しているのに対して、男性の論理式は存在 existence を否定している。

ここで言っていることは、男性的〈他者〉(去勢されていない例外的な原父)においては、無根拠であること(父の存在の否定=父殺し)が男性的〈他者〉を特権的な立場(「例外」)たり得ているという事だ。松本は、この点を「例外として「すべて」を包括し、普遍を構築する原父」と言っているように、女性的〈他者〉とは、そのような「すべて」である事の否定である。つまり、女性的〈他者〉とは「すべて」の否定、「すべてではない pas-tout」事である。「すべてではない」を第二のテーマとする。

では、ここにおいて、〈普遍〉なき〈女性〉のアナーキズムはどのように定式化できるか。「知里」においては〈教師〉というものへのどうでもよさ、〈教師〉が「すべてではない」から、「本当にしたいこと」としての「露出」があると考える事ができる。
思えば、「尾形」(「バツを覚悟の真剣恋愛!」)において「罰」の執行が躊躇われていたのは、「愛川千恵」があまりにも「女性」的な〈他〉を享楽していたからであった。還元するのであれば、「あの愛川」が「部内恋愛」を行った事、「ヨガり狂う」という形で別の在り方に変身した事の嫉妬である。ここにおいても、我々は〈普遍〉なき〈女性〉のアナーキズムを見ることが出来るのではないか。
※※※ここまで読まなくてもいいです※※※

さて、服を脱ぎ捨てることが〈軌範〉を脱ぎ捨てる事であり、何者でもない存在になることだとした時、「知里」の物語の帰結はどのようなものであったか見てみよう。「知里」は秘密の「露出」校内徘徊行為が生徒達にバレ、その生徒達におしゃぶりと性交を要請される。つまり〈教師〉としての在り方から、生徒達に従属される別の在り方に変身する。
 改めて〈教師〉としての「知里」の言説を確認すると「コソコソ隠れてエロ本でも読んでるんか〜」「ガキはさっさと帰ってシコって寝なさい!」などと言い、あまりにもデリカシーなく男性の〈普遍〉––つまり、ペニスが「すべて」である男性––を語っていた。そのデリカシーのなさに、生徒達は「それが教師の言うことかよ」と言うが、その居心地の悪さは、男性である事が女性に見破られていると感じるからである。無論、ここにおける男性とは、ペニスが一(本)であり、全てであるという鍵かっこ付きの「男性」である。
はじめのうちは〈教師〉と生徒の関係において「知里」も〈他者〉として機能していた。つまり、生徒を単数のペニスに抑圧する側の人間であった。しかし、それが〈ちんこ〉と変態の従属関係(「しゃぶれよ…!」)に変化する事で、生徒は男性である事を享楽(「なんでもするっつったようなぁ…?」)し、「知里」は〈教師〉でなくなる事を享楽する。ここにはある種の共犯関係が生まれており、つまり、「ちょっとこういうのイイかも!」である。

また、この物語の帰結が「色紙」として到来する事も興味深い。「知里」は性交を終えた後に、生徒達がコソコソと書いていた「色紙」を発見する。すなわち、「露出」としての達成(〈教師〉でなくなる事)に遅れる形で「教師」としての達成(〈教師〉である事)が重ねられること。それによって「知里」は「露出狂の変態」である事すらも知里の「すべてではない」と気付くのだ。「知里」は「露出狂の変態」であるかもしれないが、同時に良い「教師」であったかもしれないという、可能性の次元における「知里」の複数化である。「やっぱ教師も悪くないかも…❤︎」の「も」とはそのように読解されなくてはならない。


五の三、「カメラ」と「眼鏡」から遠く離れて〜「もっと見ていて」の読解〜


我々はここにおいて、「露出」と〈他者〉の関係について確認した。「露出」行為とは〈普遍〉なき〈女性〉のアナーキズムであり、「すべてではない」事、別の姿に変身する事である。そこで、最後に確認したいのは「もっと見ていて」である。
この物語は、「盗撮まがいの撮影」をしていた「撮影係」の新任教師「市川」こと語り部の「僕」(以後、「僕」とする)が「森山瑞希」と恋愛関係を結び、「セックス」を終えるまでの物語である。この物語においては通して「僕」による一人称視点の語りが作品を貫いている事、あるいはこれまで論じてきたように、男性的〈他者〉として「僕」が機能している事を確認していくと、物語最後の「眼鏡」が外れていることを示すシーンに重い意味が生まれてくる。順に確認していこう。
まずは、下の場面において、「僕」の視点が極めて露骨に我々の視点と一致している事を確認していく。

(231ページ参照。眼鏡に汗が滴る様を、コマ上に水滴を落とす構図で表現している)

ここにおいては最も露骨な一人称視点の提示であるが、我々は「僕」が「語り」において一人称的であると同時に、カメラを通して見ている視界=「森山瑞希」の肢体をも一人称的に眺めている事に気を配る事ができる。すなわち、「僕」の「語り」と「眼差し」は読者と重ねられる事を目指している。

(224ページおよび225ページにおいて、主観的な構図において全裸で踊る「森山瑞希」を語る「僕」を確認。)


この漫画的な仕掛けは我々に何を示唆するのか。それは、「僕」が「盗撮まがいの撮影」を行う事と同様に、我々も「森山瑞希」を窃視的に〈外部〉から眺めている事である。この時、先に引用した「露出症者」の議論の際に参照した松本が対置する形で「窃視症者」についても言っていた事を確認してみてもいい。ここにおいて〈他者〉と「窃視症者」の関係について語られる。

窃視症者は、何かを見たいと思っている。彼が見たいのは、他者における欠如、つまり穴である。身もふたもない言い方をすれば、女性の陰部に「男性器がないこと」、つまり裂開部があること、を窃視症者は見たがっているのである。(中略)
ラカンによれば、窃視症者は、女性における去勢、つまり女性の裂開部(穴)を見るだけでなく、その裂開部をふさごうとするのである。それは、〈他者〉にあいた穴の部分に、自らの眼差し(対象の)をもちこむことによって穴をふさぐ、という方法によってなされる。そうすることによって、穴のあいた〈他者〉を完全な状態にすることが窃視症者の目的だ、とラカンは言う。窃視症者は、穴のあいた不完全な〈他者〉を完全なものにしようとして覗きを行っているのであって、それは〈他者〉に対する奉仕にほかならないのだ、と。ラカンはそのことを、「倒錯者は〈他者〉の享楽の道具になることを目的とする」と考えた。窃視症者は、ふつう倒錯者自身が享楽している(性的に楽しんでいる)と考えられているが、実はそうではなく、自分でも知らないうちに、〈他者〉が享楽することに奉仕しているのである。
しかし、窃視症者は、自分が見ようとしている〈他者〉の穴、というものを誤認している。〈他者〉を完全な状態にするためには、眼差しを〈他者〉の穴の場所に置く必要がある。すると、窃視症者が見ている先には、自分自身の眼差しがあることになる。(後略)

本作に沿って解釈してみよう。つまり、本作における〈他者〉とは女性的〈他者〉としての「森山瑞希」(=「あんなに遠くで見ていた女の子」)であり、「窃視症者」たる「僕」が眼差したいものとは、〈女性〉の裂開部=女性器であると同時に、あの「森山瑞希」が「どうして」「僕を選んでくれた」のかという物語を貫く謎である。
「僕」は「森山瑞希」を眼差し、語りながら「森山瑞希」を語り損ね続けていく。それは、「窃視症者が見ている先には自分自身の眼差しがあること」を考慮すれば解釈が容易い。すなわち、「僕」は「森山瑞希」を見ているようでいて、自分自身の「森山瑞希」像、「格好いい衣装や可愛い衣装」あるいは「いつも完璧だった彼女」を見ていたのではないか。他にも「下はチューブトップなのか」「最近買った下着だろうか」「すごい可愛い靴下だね」という服装に関する記述が多い事、「本当にみんなから注目される娘」などの他者評価としての彼女に関する記述が多い事からも、「僕」が見ているものとは、彼女を表す記号的要素に過ぎない。
あるいは「自分自身が享楽しているように思えるが〈他者〉が享楽することに奉仕していること」を見るのであれば、「僕」は〈他者〉たる「森山瑞希」が「いつも完璧だった彼女」でなくなる事=別の在り方に変身する事に奉仕している。すなわち「もっと見ていて」欲しかった「森山瑞希」の見ていて欲しい自分とは、完璧ではない彼女であると言える。

それを確認した時に「カメラ」と「眼鏡」の二つのモチーフが重く響いてくるかもしれない。この二つは、漫画内においてはさりげなく変化する「僕」の視界であるが、「窃視症者」として「僕」の在り方に注意するのであれば、「僕」の語りとともに変化する「森山瑞希」像として現れてくる。
先に、引用した裸でダンスを踊る場面を再度確認してみよう。この場面は「森山瑞希」に「写真は撮らずに」「きちんと見ててください」と言われ、僕が「カメラ」を手放した場面でもあった。その中で、僕の語りとはどのようなものであったか。下記に記してみる。

「目の前で跳ねる真っ白な肉体」
「いつも見ていた格好いい衣装や可愛い衣装のさらにその内側」
「絶対に見せないところもすべて表にさらけ出して……」
「顔を真っ赤にしながら一生懸命に……」
「僕のためにダンスを踊って––––」
「いつも完璧だった彼女がこんなにも」

カメラを通していない「僕」の語りおいて「僕」の「森山瑞希」像はここに初めて更新する。すなわち、今まではある種の淡白さがあった「いつも完璧だった彼女」としての「木村瑞希」が壊れ、「僕のためにダンスを踊って」いる彼女、「絶対に見せないところもすべて表にさらけ出」す彼女が現れてくる。これが、「カメラ」なしの視界であり、「もっと見ててください」と言う「森山瑞希」に応答となっている。
また、最後の場面において僕の眼鏡が外れている事が象徴的に示されている。ここにおいては何故、「僕」の「眼鏡」なしの視界を強調する必要があったのか。この問いに答えて、本論は締めたいと思う。
最後の場面について状況を整理すると、性行為の最中に既に「眼鏡」は外れていた。それは、「森山瑞希」に「もっと…見つめてほしいです…!」と言われた時の事だった。


(232ページ、および236ページ参照。「もっと見て」と繰り返し言う「森山瑞希」と、それに対応するように眼鏡が外れている事を確認)


しかし、232ページにおいては「眼鏡」がページを占める割合はきわめて小さく(一割にも満たない)、この時点で「眼鏡」が外れた事が重視されていない事が伺える。一方で、最後のページにおいて「眼鏡」が現れるコマは五割以上も占めており、最も重要なモチーフとなっている。
その象徴的な場面において、「森山瑞希」が何故「僕」を選んだのか、という謎が氷解する。「森山瑞希」は「僕」が前々からこそこそとカメラ越しに撮影していた事を知っていたのだ。そして更に「もっと見ていてほしかった」という。それは「窃視者」としての「僕」(「カメラ」を持つ「僕」)ではなく、「森山瑞希」について語る「僕」(色眼鏡で見る僕)でもなく、ただ等身大の「僕」に等身大の自分を見ていて欲しかった事を言っているのではないか。
「僕」がありのままの「森山瑞希」を沈黙(語らない事)でもって迎えている事はそのように読みうるし、であるならば、「僕」に視点を重ねられた読者としての僕も、ただ、ありのままに、エロ漫画を見る、ただの読者に戻るとしよう。

六、結論「露出すること、窃視すること」〜存在しないエロ漫画理論の初めとして〜


ここにおいて、議論すべき事は概ね整理したが、第一部と第二部で様々な概念を引用した事によって、作品を不当に分断していた。そのため、改めて「露出」と「窃視」、あるいはアナーキズムというキーワードとともに接続し直す作業を行おう。

第一に、「こんな村いやだっ!」について、この村が「露出」を要請するのは何故なのか。これまで確認してきた通り、「露出」とは〈他者〉に「眼差し」を生じさせる事を目指されており、ここにおいては〈他者〉側からの強制露出ではあったものの、処女膜を開示させる行為や舞にみられるように、「神様へのささげもの」である事を示す行為として行われていた。つまり、我々は第一部においては〈他者〉として機能する存在を「村の長」や「しきたり」において示したが、その根本は雨乞いの神頼みにある。すなわち真に〈他者〉足り得るのはその〈神様〉に他ならない。第一のテーゼは、「露出」行為は〈神様〉にすら接続しうるという事である

第二に、「後夜祭でイこう!」について。「露出」行為は〈規範〉なき子供のアナーキズムであるとして読み込んでいた。この〈規範〉なき子供のアナーキズムは、スマホに象徴されるような〈他者〉の異様な近さ、すなわち〈外部〉の消滅、〈他者〉の消滅のテーマより導き出される。一方で、より細かく検討してみると、新たに語るべき点も存在する。それは、実際に「咲」らを見ているのは誰であったかという事である。それは、第一にステージの〈外部〉としての「観客」であるが、そのさらに深淵として、あの「司会者」に目を向けられていた「観客」として読者の存在がいたのではないか、と想定してみること。エロ漫画を読む行為において、読者はキャラクターに気付かれる事なく、キャラクターを「窃視」する事が出来る。しかし、「司会者」に目を向けられるや否や、我々は彼らを見ていた事を気づかされた。第二のテーゼとして、「露出」漫画において究極の〈他者〉とは〈読者〉であるのではないかという事である。それはある種の神の視点だ。処女膜は常に我々に向いている。

第三に、「バツを覚悟の真剣恋愛!」について。ここにおける〈他者〉のもたらす〈法〉とは〈部則〉であった。この〈部則〉に従い、彼女らは部員達に向けて「露出」行為を行うわけだが、そもそも何故部員達の前で「露出」を行わなければならないのか。それは、第一部では単に無根拠な形式であるとして問わなかったが、しかし「露出」行為によって露わになるのが〈他者〉の裂け目である事を考慮すれば、理解が可能かもしれない。すなわち「まんこ」としての裂開部が、破られた〈規範〉の象徴であるからではないかとみる事ができる。第一部において私は、部則/部内恋愛、真剣恋愛/部則、真剣/竹刀と、様々な線引きを行なったが、この線が多数引き得る理由とは、〈他者〉が「まんこ」のように裂開しているからと言ってみてもよい。第三に「まんこ」は〈他者〉の裂開を象徴しうる、というテーゼを導いてみる。エロ漫画においては、しきりに「まんこ」が晒されなくてはならない事の意味とは、エロ漫画という空間が〈他者〉の〈規範〉などが通用しない事の表現であるのではないのか。

第四に、「ようこそパイセン〜AV女優の課外授業〜」について。この作品において、「露出」行為とは〈他者〉なき〈AV女優〉のおちんぽアナーキズムであるとして名付けを行なってみた。ここにおいては男性的〈他者〉はおらず、「すべてではない」という意味での女性的〈他者〉がいる。あるいは、この「すべてではない」という定式を言語的〈他者〉と身体的〈他者〉という言葉で区別してもいる。言語=ロゴス的な単一の〈他者〉と寸断された身体としての複数の〈他者〉である。ここにおいて、〈他者〉なき〈AV女優〉のおちんぽアナーキズムは複数の「おちんぽ」において表象されなくてはならない。これは「今日イク!?実習生」の知里においても同様である。一つではない複数のおちんぽと接点を持つこと、これが第四のテーゼである。

この定式を元にエロ漫画理論を考えていきたいのだが、どうだろう?

七、補論 扱いきれなかったテーマについて


もうお腹いっぱいであるが、ここで語りそびれた作品についてざっくばらんに触れつつ、時間の許す限り語りを続けていこう。
「思春期まるだしっ!」は全てで九編で構成されているが、その内の六篇の検討を終えた。その中で明らかになった事とは、この作品群が非常に〈他者〉に配慮し構成されているという事だ。

その中で「ガマンできないッ!」の「おしっこ」とは何であったか。「おしっこ」すなわち、「排泄」は人間を人間たらしめている一つの要素であるという議論がある。すなわち、「排泄」に極めて大きな配慮が必要なのは人間だけなのだ。動物と人間を線引きする要素としての「排泄」=「おしっこ」である。この中で「ガマンできないッ!」の帰結において「もうガマンしなくていい」と言っている事に注目してみる。これは「おしっこ」を「ガマンしなくていい」という事ではもちろんないだろう。抽象的な言い方をすれば、人間としての線引きを行なうことを我慢しなくていい、と言っているのではないか。
これまで確認してきたように「露出」行為には、〈他者〉の無根拠性を暴く性質が見られた。つまり、〈部則〉における「真剣恋愛」の例外化であったり、演じられる大人ではない「本当の自分」の「露出」というようなテーマである。
このテーマは「ガマンできないッ!」においては、思い人に何度も「おしっこ」の過程を見られる事で、人間(おしっこを隠すもの)/動物(おしっこを隠さないもの)の分断すらも無化した。すなわち、ここにおける恋愛物語とは、人間の持つ動物性すらも含めた他者の肯定なのである、と乱暴に結論づけてみる。

あるいは、このような〈他者〉の無根拠性について視点を加えるとするならば、〈他者〉の原初的な現れ方が〈言語〉であった事、〈無意識〉が〈言語〉のように構造化されているというテーマを思い出す事で、言葉(ロゴス)/(喘ぎ)声のテーマとしても見ることが出来るかもしれない。この二項対立については、「田中雅一」の「癒しとイヤラシ エロスの文化人類学」からの引用であるが、セックスの最中のあの野太い声、〈しきたり〉や〈伝統〉、〈部則〉の論理=〈ロゴス〉を超えたエロスの声である。この論点については「こんな村いやだっ!」が象徴的であり、セックスのフリとしての「あっ…あんっ…」が、濁点付きの喘ぎ声と差別化されている可能性についてである。
また、〈他者〉性の脱却というテーマについて、漫画論的、キャラクター論的に捕らえてみるとするならば、
記号の集合体である漫画キャラクターの脱衣は、キャラクターの脱キャラクター化、アイデンティティの喪失として機能する可能性。個別の解釈については注も参照していただきたいが、キャラクターのキャラクター性を示し続ける為に、脱ぐ事が許されない「風紀委員」の腕章を最も顕著な例として。「あの本城さん」「あの咲」「あの真面目な愛川先輩」における「あの」人が、露出行為によって、あられもない別の姿になる事。
キャラクター存在の分析については、「斎藤環」の「キャラクター精神分析:マンガ・文学・日本人」の議論を、脱キャラクター化のテーマについては「宇野常寛」の「ゼロ年代の想像力」の議論を念頭に置いている。

八、あとがき「性癖まるだしっ!」


いずれ追記します。

九、参考文献および参照文献一覧


いずれ追記します。

十、本論の作業中BGM一覧


it's my life
All I want
Amazing Grace
Forever we can make it
LOOP the LOOP
the times they are A chang’n
that's life
月の大きさ
ラムのラブソング
さくら(独唱)
attck音D
YouSeeBIGGIRL/T:T

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