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親父の人間関係が人生に食い込んでくる話

人間関係という言葉に、どんな印象をお持ちか。心に影を差してしまったら申し訳ない。若干でも暗い気持ちになったなら、電車に飛び乗って旅にでも出た方が良い。
 
今日はそんな話をしたい。
 
那須さんと出会ったのは2年ほど前のことだった。

名古屋の那須と申します。


名古屋の那須とは誰なのかしらん。突如として現れた男性だった。レペゼン名古屋とはいえ、人間関係の距離感に違和感がある。
 
前世では友人だったのかもしれないし、主観と客観が少しばかりズレてしまったのかもしれない。よくあることだ。
 
ふと、親父のことを思い出した。
中学生の頃である。僕はソフトテニス部だった。ある日のこと、単身赴任していた父が一度だけ練習を見にきていたらしい。「らしい」というのは、当時、反抗期だった僕に見つからぬよう、フェンスの外に植えられた拓殖(ツゲ)の隙間から息子の練習風景を見守っていたのだ。

親父は身長が186cmもある大男である。瓶底のような分厚い眼鏡、チリチリに縮れ巻いた角刈り風の髪。形容し難いが、色褪せたデニムに白いTシャツの裾をいれ、腕を組んで息子を見据えていた。

当然のことながら、通報された。

その日は男女が合同で練習をする日だったのだ。

練習終わりに顧問が「生垣(いけがき)の隙間から怪しい大男が覗いていたらしい。帰り道は気をつけるように」と注意喚起をしていたが、数十分後、自宅で親父のことだと知る。

父の主観では、こっそり息子の練習を見にきている訳だが、客観的には女子部員のスコートのひるがえる様子、腰を捻る時にうっすらと現れるパンティラインをこっそりと(ある意味、大胆に)覗く変態に見えたのだろう。
 
主観と客観の認知にズレが生じる例である。そのような父のもとで育っていることもあり、誰か分からぬが僕はこう返した。

基本的にオープンマインドを貫くスタンスである。

結果的に、那須さん(61)は父の銀行入行当時の3つ上の先輩であった。

春先に訪ねてきた那須さんは、僕と僕の妻(当時は彼女)、シェアハウスの人々の中に加わって、一緒に花見なぞを楽しんで帰っていった。

「Facebookを使ったら、色んな人と繋がれたんですよ。高校・大学の同級生や昔の同僚にも繋がることが出来てましてね。乗り鉄なので、休みの日には会いながら電車に乗ってるんですよ。」

と言っていた。SNSが那須さんの人間関係を広げ、QOLに繋がっているのは喜ばしいことだ。その中で、僕は元同僚の息子ポジションを得たのである。その後、定期的に自分の現在地を教えてくれるようになった。メリーさんかな?

乗り鉄ノートを見せてくれた。

限界集落の築120年の古民家で10数人でシェアハウス生活をしている人々から見ても「那須さんって、変わった人だねぇ」と話した。

那須さん、二度目の来訪。

2年ほど経ち再びランデブーコールがきた。

ランチの誘いは社交辞令だった。前回のランデブーでは特段、関係を深める話をした訳でもなかった。会う目的もわからない。人間関係の距離感に若干、戸惑いながらも、当日を迎えたのである。

那須さんである。

「お久しぶりです〜」と挨拶をして、他愛もない話を聴きながら、JR側の出口である東口から地下通路を通り、西口にある電車の缶バッチが出てくるガチャガチャを勧めた。はくたか号という今は走っていない車両が出てきて、幾分か、にこやかになっていた。
 
10分ほど世間話をして、「それじゃ、仕事あるので!」と別れを告げた。
 
車で帰りながら、頭は既に次の打ち合わせのことを考えていたが、ふと気になって時計を見た。

そういえば出発まで、だいぶ時間があるか。
少し考えてから、来た道を戻った。 
 
次の打ち合わせの時間をズラして、再び駅へと向かった。

那須さんと人間的に向き合ってみようと思った。

那須さんとは、父の元同僚として表面的な距離感で接していた。あくまで「昔、父がお世話になったであろう人」だ。親父と3人で会ったこともないのだ。他人である。前回も一度きりの関係の気分でいた。

予想外の機会が訪れ、適当にやり過ごすのではなく、対話を試みたのである。最初で最後かもしれない。

(一呼吸、間をあける)

父と那須さんは拓殖銀行という都市銀行に勤めていた。いわゆる「たくぎん」である。ピンと来る人には分かるだろうか。

都市銀行としては戦後初、かつ現在、唯一の破綻銀行である。最近、書籍も発行された。

知らない人のために説明をすると、主に都市銀行というのは13社あった。平成になって、統合や合併が起こり、現在のメガバンクを形成していった。

富士・第一・日本勧業銀行は、みずほ銀行に。
協和・埼玉・大和銀行は、りそな銀行に。
三菱・三和・東京・東海銀行は、三菱東京UFJ銀行に。
三井・住友銀行は、三井住友銀行に。

そして、これら都市銀行の13社目が拓殖銀行である。父をはじめ拓殖銀行の同僚や同期たちは1997年(平成9年)11月17日の経営破綻、翌年3月末の雇用期間終了を機に散り散りになった。

那須さんは、奈良への乗り鉄旅の際、宿泊先のテレビから流れるニュース番組を見て知ったらしい。出向となり、時間が出来た直後の旅だった。旅の思い出としては、幾分か刺激が強い。
 
父はその後、三井住友信託銀行へ再就職したが、那須さんは取引先の一つであったCD・DVDを製造する世界有数のプラスチックメーカーへ再就職した。

その後はみんな、自分の事で精一杯で十数年の間、交友は途絶えていたがSNSによって再び繋がることが出来たらしい。

そんな当時の話や父との思い出話、鉄道の話まで、自由詩のような話を聞いていた。

最後にオーストラリアに行ってきたんだ。

印象に残った旅の話を聞くと、今年のGWにオーストラリアのエアーズロックに行ってきたと話した。
 
学生時代、休憩と勘違いしてバスを降りてしまったら、運転手が気づいて戻ってきてくれて、オーストラリアを好きになって、念願叶って行くことが出来たようだ。
 
「今年の秋に行く予定だったのだけど、医者に秋にはもう行けないだろうって言われましてね!急いで行ったんですよ!」

その時に、那須さんは、腎臓を悪くしていたことを知った。
もう、いつ医者に透析治療を宣告をされてもおかしくないらしい。

透析治療は週に3日、4時間ほど血を抜く作業をしなくてはならず、怠れば1週間ほどで亡くなることもある。那須さんは、いつでも透析治療が出来るように、既に手首にパイプを入れていた。

最後に行けて良かったと話していた。
透析治療が始まれば、もう長期の旅行は出来なくなる。

「銀行員として働いていた時は、今みたいに旅なんて出来なかったですよ!透析までの執行猶予をもらえたようなものです!」

那須さんは明るかった。死ぬという訳ではないが、いつまで気軽に電車に飛び乗れるのだろう。出発時間の直前まで、色々な話をした。子供がいないから妻を一人にする訳にも行かないので、そう簡単には死なないがFacebookの更新が途絶えたら、「ああ、那須は寝たきりになったのだな」と思ってください。と笑いながら話していたので、僕も笑った。あと、結婚してたんだ。

今を生きることについて

銀行の話に触れたが、メガバンク各社も人員削減が進んでいる。那須さんが務めていた世界有数の企業だったプラスチックメーカーも、時代の流れで30%以上がリストラになった。再就職し、総務部長となった那須さんも、社員のリストラを進めていき、最後の1人として自分自身が辞表を出した。そんな話も聞いた。

さて、そういうこともあって、この話は変化の激しい時代と人生の中で「みんな、後悔しないように好きに今を生きよう」という結びで筆を置く予定なのだけど、その前に、少し話したい。

夜行急行列車の扉は、今も昔も、いつだって開いている。それでも人も父も満員電車に乗って会社へ向かっていくのだ。そんな人生も、また一つの人間賛歌なのである。

「あの時、親だった人達は子供と家庭をどうするかだけ考えてたと思うよ。だから、若い時に好きなことが出来るのは羨ましいな。」

那須さんは言っていた。同じようなことをピンク色の髪の毛をした梵天丸ナスの農家も言っていた気がする。
 
では、結びである。
考えたいのは「好き勝手に生きようよ」ということではない。「自分がどう生きたいか。」である。そして、生きているのは今である。それだけだ。

みんな、後悔しないように好きに今を生きよう。
那須さんもお元気で。

那須さん@十日町

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地域PRをしている会社を経営しながら、個人でライターやファシリテーターもしています。日本文学が好き。