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「結婚すること」に意味があるのか。後編

人生を歩いていたら、目の前に現れた「結婚」というポイント。
実際に手の中にあると、今まで以上に「なぜ結婚する必要があるのか」を考えてしまいます。

タイトルでは偉そうに問いかけてるようで「結婚に必要性も意味もない」と言ってるわけですが、同じことを考えてる人は体感上、少なくないのではと思っております。

結婚ってなんだと思いますか。

「俺、結婚する気も彼女つくる気もないからさ。でも、一緒にいるのは自由だし気楽な関係でいいよね」なんて放蕩野郎の常套句みたいなことを言いたい訳ではないですよ。

現実的に考えれば、結婚したら無条件に幸せが訪れるみたいな、男女のストーリーがハッピーエンドに完結するみたいなドラマティックなことでもないじゃないですか。

口だけで「結婚したい」って言ってる人に対しても、「転職したい」と言いながら現状を変える努力もせずに会社にダラダラ居続ける人と同じような性質すら感じるじゃないですか。

僕が結婚する前、「結婚とは」というトピックを妻と話をしたことがあるのですが、その中で結婚は「したい」という願望ではなくて「する」という意志なのではないか。という場所に辿り着いたのです。

「夫婦生活は互いの意志である」

どこかの文豪も言ってた気がしますが、それが腑に落ちて「夫婦生活において、どんなところで意志の力が働くのか」についても考えました。

 

①「続けていくこと」を前提として互いに向き合う意志

別れるなら死ぬ!というメンヘラティックな極論と同様に「嫌なら別れよう」というカードを切る時点でパートナーシップを持つのは難しい。

何か問題が発生した時に「続けていくこと」を前提に「どんな対処をするか」の話が出来ないと言いたいことも言えずにストレスが溜まっていくだけなのではないか。
 
それでも話が平行線になって喧嘩になったら、お互いに「続けていく」という前提と信頼関係の上で、ガス抜きのために相手に殴られたっていい。僕は殴られるのは嫌じゃないし。

 

②「個」を持ち続ける意志

「私を好きなあなたが好き」「夫婦で一心同体」この類も本質ではない。

「個」として成立してる2つの魂が共にあるだけ。という共通の認識を持ち続けられるか。

相手の中に自分を投影したり、アイデンティティや自己承認欲求を夫もしくは妻に委ねてしまう。「夫」「妻」というポジションやステータスが欲しいという願望を恋愛感情と混同して錯覚している場合もあるのではないか。

パートナーは依存先ではない。依存先になれば、相手に対する要求が増えていく。自分の居場所は自分で作っていくことが前提の上で一緒にいるという共通の認識を持てるかどうかも「個を持ち続ける意志」の力が必要。


③自分を変えていくという意志

「個」を持ち続ける話と矛盾が生まれるように感じるかもしれませんが、男女である前にお互いは人間同士なんです。

ルールのないシェアハウスに住むと、このあたりの感覚が分かるかもしれません。夫婦の生活は少し似ています。

相手の価値観、考え方、環境は全く違うので、結婚すると「ぶつかる」のは必然です。我々はどちらも自分が強いので、価値観で殴り合います。この時に「自分を変える意志」を互いに持てるか。

「個」を無理に変える必要なないと思います。①の前提を持った上で散々にぶつかり合って、どうしても平行線なら方法論を議論して着地点を決める。

少し背筋を伸ばせば出来ることはやる。やってあげる。
「自分」の都合を通すために「相手」の都合を尊重する。

人間関係を築く上で本来やっていることを家族になったからという理由で相手のことを変えようとしないこと、自分が変わる意志を持つこと。


こういうことの繰り返しによって一時的な感情に流されず、相手の中の考え方の癖とか思想とかを何となく理解できれば、自然と相手への配慮の仕方も分かってくる。

「意志」というキーワードに出会ったことによって、自分が結婚について考えすぎて、逆に期待とロマンを自分は持っていたのかもしれないなと気づきました。

結婚したくらいでは何かが変わることはないので「どっちでもいいんだよな」と思っています。どっちかの名字が変わって手続きが面倒だなってくらい。

結婚しようが、結婚しまいがお互いの関係に変化はないのだから「どっちでも良いねん」

「でも子供とか出来たら、また変わるのかもしれないよな...」とは思っています。考え方も変わるかもしれないですが、今の自分が思っていることはこういうこと。

結局は人間関係の一つの形でしかない。

最後に極端な暴力で筆を置きたいと思います。

地域PRをしている会社を経営しながら、個人でライターやファシリテーターもしています。日本文学が好き。