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伊豆の混浴温泉に妻も友人も一緒にチャプンしたら、混浴の真理を悟った。

皆さんは混浴温泉とやらに入浴したことはお有りだろうか。
男性ならば一度は夢に見る。僕も20歳を目の前に自分探しのために群馬の混浴温泉に数時間立てこもったことがあった。

その時は、カップルに揶揄われて「あそこ、露天風呂らしいから入ってきなよ」と言う「フリ」に元気よく答え、鯉の泳ぐ池に入浴もした。辛酸を舐めている。 

パッと見て温泉に見えなくもなかろう

そして、存外のところ混浴してくる女性は、どうやら威風堂々としており男性の方が恐縮してしまうのも世の常で、我々は丸腰だと弱いものなのだということもその時に知った。

伊豆の混浴に行ってきた。

さて、なぜ混浴に入ることになったのかということだ。
毎年7月には、南伊豆の現代文明を手放した友人宅へ訪問するのが慣例となっているのだけど、「今年は地元で有名な温泉に入ろう」と知ってか知らずか女友達の1人が言い始めた。

「金谷旅館 千人風呂」といえば、伊豆では有名な混浴温泉である。

メッセージのやり取りをするグループには妻もいる。そんなこともあって、僕はこんな返信をした。

当然の反応だ。続けて僕はこう返した。

嘘だ。一切思っていない。展望温泉には申し訳ないが、心の中では完全に混浴に行きたいと願っている。なんとか提案に便乗したいと身体は震えていた。

すると、どうだろう。

今まで寡黙を貫いてきた、文明を手放した男が入ってきた。電気すら太陽光を集めて暮らしている男が、ここまで長文を送ってくるのは珍しい。完全に心が通じ合ったのを感じた。ナイスアシストである。

完全に流れを掴んだ。さらには同じく現代文明を手放した女友達(先ほどの男とは夫婦である)の後押しもあって、混浴へと乗り込むことになったのである。

これに対して妻は「洗い場が分かれてるなら別にいいけど」という寛大さである。ありがとう、妻。

僕は最後まで、心にもないことを言っていた。

混浴をする日のこと

7月にしては梅雨も長引き、太陽の出ない日が続いていた。伊豆の友人は「今日のために3日間、太陽の光を溜めておいたんだ」と話した。混浴については特に触れなかったと思う。

夜もふけ、そろそろ行こうかと金谷旅館へと向かった。当初「仕事があるから、結構遅めの到着になるかもしれない。」と話していた東京からやってきた男は、仕事が終わるやいなや新幹線に乗り込み、きっちり時間に間に合わせてきた。

妻には申し訳ないが、妻以外の女友達と混浴できるのは凄く楽しみで、楽しみ過ぎて前日に下半身を大方剃毛したくらい楽しみだったのである。

誤解のないように言えば、性的な何かを期待している訳ではなく「女友達と一緒にお風呂に入ったという体験そのもの」が楽しみだった。その証拠に、入浴前から入浴中に至るまで僕の股間は1mmもErectしていない。


さて、会場となる混浴風呂だが、日帰り入浴ができる温泉としても最高レベルであった。歴史ある木造和建築の佇まい。入浴する浴槽は深さ1mほど、奥行きは20mの湯船に源泉が満たされている。泉質は伊豆半島らしく中性か弱アルカリ性だろう。透明なぬる湯だった。透明だ。

洗い場は狭く、湯船のスペースが大半を占める浴場には既に何人かの男性グループがいたが、ほどなくして出ていった。少し静かになった浴場で、男3人が、ただ待っていた。 

下田温泉旅館協同組合他、伊豆下田100景からお借りした写真

平静のようで浮ついているのが明らかだった。男同士で銭湯に行った時とは全く違う質感の空気が流れている。さらに僕以外の2人は僕を共通の友人として初対面である。初見全裸に加えて、まもなく混浴となるのだ。ソワソワもするだろう。

だから、僕は努めて明るく陽気な雰囲気で話を続けた。
「いざドアを開ける時に俺らがいなかったら不安になる」という理由で、女湯を隔てる木枠の通用口を男が3人並んで眺めていた。

こんな時に既婚者は強い。何よりも心と精神の余裕が生まれるからだ。独身男性に比べ「僕はいやらしい気持ちなんてないよ、だって妻がいるからね」という具合に装えるのだ。

実際のところでは、毎日一緒に風呂に入っている妻より、この時ばかりは女友達がどのような姿で現れるのかということばかりを考えていた。

そうして30分が経つ。営業終了まで残り30分ほどである。
まだ来ない。悪い予感がよぎる。直前になって「やっぱやめとこうか」となった可能性はゼロではない。男達は口数が少なくなり、皆どことなく不安な表情である。

そんな矢先、チャプンという音がドアの向こうから聞こえ、木のドアの下の隙間から太ももと白いバスタオルの端が見えた。

遂に来たか。そう思った。僕は妻の名前を呼んでいた。
これは、余裕を見せるための演出だった。「僕は妻の心配をしてるだけで、女友達の方は全然興味ないですよ感」を出しているだけである。すまない、妻よ。

返事はないが、躊躇している様子であった。
そして、ドアがゆっくりとあいた。

そこにいたのは、母。母という概念が適当であろう、妙齢の女性であった。あっ...と言ったか言わぬかドアからスーッと離れて、男3人は湯船に身体を沈めた。騒いだことを反省して、大人しく待ち続けた。

複数人で入る混浴の素材はアダルトビデオくらいしかなかった。

10分ほど経っただろうか。
その時は突然やってきた。すっとドアから顔を出して、こちらの様子を伺っている女の顔だ。彼女らは長いバスタオルで身体を隠しながら、いそいそと入ってきた。

混浴をして何が起きたのか

さて、彼女らがキョロキョロと周囲を気にするので、僕らは誰もいない露天風呂の方へと移動していた。伊豆で、友人と妻と女友達に囲まれて混浴をして、何が起こったのかを最後に話したいと思う。

その結末は意外なものだった。あれほど楽しみにしていた女友達の裸体だったが、全く性的な衝動は起きなかった。「意識しすぎてると、さすがにキモイ」ということと「単純に友人に対して失礼」という感情が圧倒的に優先されたのだ。

そして何よりも驚いたのは、「バスタオルを巻いた妻の姿にドキドキした」ということである。

妻であるので、それまでの過程で、女として好意を持ち、性的な対象としても見てきたという流れの先端に今がある訳だ。そして、長く一緒の時間を過ごしていれば、そういった感覚は薄れて家族になっていくものだろう。

しかし、混浴に入ってきた妻を見た時に、バスタオル1枚の女友達の姿なぞ目に入らないくらい(鎖骨はよかった)、僕は妻の姿から目が離せなくなっていた。

その理由は「恥じらい」なのではないかと思う。現在、我々は互いに陰毛を剃り合っても、恥ずかしさのカケラもない間柄であり、心を許し合えている関係なのだが、どうやら別の視線があることによって当然ながら妻の中に「恥じらう」という感情が発生するようなのだ。
  
その恥じらいは矛盾を生み出す。本来、妻は日常生活の中にいる訳だが、友人達と一緒にいることで妻は社会的な存在感を持ったままで、僕らが日常生活で営む入浴をすることになるのだ。その状況と普段見せない恥じらいによって生み出された光景が脳内では新鮮な刺激となっているということに気づいた。またさらに、入浴時には全裸であるという刷り込みがあるがゆえに、バスタオル1枚で入ってくる妻の姿が新鮮かつ魅力的になるのである。

凄まじい気づきによる電気信号が脳天を駆け巡っていた。
そんな僕をよそに、緊張で波立っていた空気は、いつの間にか囲炉裏を囲んでいる時のように凪いでいた。

さて、女友達に対する感情にも変化があった。無論、親愛の方向にである。初対面の男女が一夜を共にした時ほどではないが、友人という社会的な関係だったものが日常的な行為(つまりは妻レベル・男友達レベルの関係値でなくては行われない行為)を共にすることによって、親近感が大きく増したのである。先ほどと逆の現象である。
  
こう考えると、一昔前の混浴文化というものは村社会では当然に行われていたという事実もうなづける。村コミュニティの男女は生計に深く関わる家族のようなものだった訳だ。仕事先の人間関係とプライベートな人間関係とが分類されるでもなく、人と人という繋がりの中で生活と生業があったのである。

これは地方での暮らし方、働き方にも通じている。
人との繋がりを持てない仕事には多くのものは残らないという価値観と混浴がもたらした曖昧さとが何故か重なったのである。
 
そんな意味の分からない思索を巡らせていたら、いつの間にか時間も経っていた。そろそろ上がろうかと、彼女らはいそいそと女湯に戻っていく。
 
先ほどは高尚なことを散々に話したが、お湯を吸ったバスタオルが身体にぴったりと張りついた姿は目に焼きつけはした。すまない。

一方で、新幹線でやってきた友人は、やけに静かだった。
 
その理由を聞いてみると、同僚(女友達)と仕事関係の人(僕)とその妻と入浴しているという感覚が気まずいということだ。(実は友人達とは仕事関係の繋がりもある。)

これは、自分と相手との関係に対して仕事と生活という分けられた意識が強くあるからなのかもしれない。僕は仕事と生活は曖昧だと話したが、線引きはする。友達に見積書を出す。ダメ出しがあれば真摯に受ける。それはそれ。これはこれ。同じことである。
 
これもまた面白い。
でもきっと、この体験を経て、僕らは友人にもなれただろう。
 
長らく一緒にいる伴侶がいて、どことなくマンネリを感じているのならば、友人達と混浴に入ってみるのが良い。どんなに長い時間を過ごしていても、違う一面を見ることが出来るはずだ。僕の性癖では断じてない。

死ぬまでにしたい100のことに「妻と混浴に行く」を入れるべきである。
 
そんな訳で、伝えたいことは混浴は素晴らしいということだ。ありがとう。

Twitter https://twitter.com/tukamako

南伊豆の文明を手放していってる友人の話はこれ

https://note.mu/tukamako/n/nf58fd478188a

地域PRをしている会社を経営しながら、個人でライターやファシリテーターもしています。日本文学が好き。