僕は「よくない」です

すでに色々な人が言っているように、現代の特にインターネットの中は「いいね」をあらゆるところで貰う被評価社会になっている。
被評価社会といえば2020年頃に中国で「社会信用システム」が実験的に導入されるという話題があり、多くの人が拒否感を示したのも記憶に新しい(新しくはないか)。

少なくとも日本においてはすべてを評価するというのは否定的な見方も多かったように思っていたが、現代日本においてはもうそうも言っていられないなと思ってしまう。
YouTubeのコメント欄を見ていると、動画の内容をいかに上手く褒めるか、いかに他の人が気付いていない部分の素晴らしさを面白く伝えるかという競技になっており、面白いコメントには「いいね」が多くついてしまう。
コメント主も最初からそれを狙っており、伸びた後には
 (追記)こんなに多くのいいねもらえるとは思っていませんでした!嬉しいです!
のようなアピールが行われる。

マンガアプリのコメント欄を見ていると「○○という意見はおかしい、そんなことを言っているのは真のマンガ好きではないのでは?」
というような意見がいいねを集めてしまう。
(そして批判されているような意見はどこにも見当たらない)

一部の人しか意見を発信出来ずに狭苦しい社会になってしまうことに比べて、多くの人が自由に意見を言える現在のインターネットは素晴らしいはずだ。
ただ、本来自由なはずのコメント欄においても、他人から評価されることを目指し、特定の意見を祀り上げることで「このコンテンツを好きな私たちは特別なのだ」のような優越感を味わわないと満足できなくなってしまった人間がするコメントは、果たして自由なコメントなのだろうか?

YouTubeやマンガアプリのコメント欄にいる人間がその分野において非凡なはずはないのに、それでも少しでも非凡な自分を目指して、大衆が喜びそうなコメントを書き続けた先の人生で、コメント主は「自分の感想」を持てることはあるのだろうか?

大衆が気持ちよくなる言葉をコメントするのは簡単だ。
その作品を持ち上げ、ちょっとエモいシチュエーションと絡めて、見ている人の自尊心をくすぐってあげればいい。最後にユーモアトッピングしてもいい。
ex)この曲は本当にすごい。大好きな幼馴染と夏祭りに行って、でも結局告白出来なくてみじめな気持ちになってる帰り道に自転車で爆走しながら聞きたい音楽。この曲を聞いたことのある人とはうまい酒が飲めそう。あ、そんな幼馴染いなかったわ。

でもこれは僕にとっては「よくない」
最初は本当に自分の中に湧いて出た感想を書けていたはずなのに、
少しずつみんなに「いいね」して貰える感想が先に出てくるようになってしまう。
そしてもうじきそれはAIくんがやってくれる。

あなたにはまだ感情が残っているだろうか。
自分が思ったことを自分が思ったことだと自信を持って言えるだろうか。


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