五周忌にあたって、wowakaのこと(再掲 2023/02/14 18:50)


それを知ったのは去年の秋冬のことだった。2019年に彼が亡くなり、私のあらゆる記憶、視界、物事や意識の中に彼のことが結び付くようになり早数年、普段のようになんら変わらない、こうして思い出そうとしてもまったく思い出せないほどの平凡な生活の中で彼の死を思い出して悲しみ、wowakaが亡くなってもう3年だね、来年で四周忌だねと母に言うと、「いや違うよ」と言った。「その人が亡くなった年で一周忌だから、wowakaは来年で五周忌だよ」。それが間違っているのか正しいのか、恐らく正しいのであろうがそんなことを調べたりして確かめる必要は特にないと思った。人の死をそうまで重要視するのは、悼むのは彼のことだけでいいと常々思うからだ。人の死は必ずやってくるものだから特に気にするものでもない。とりわけぞんざいに扱う必要もないが大切に大切に、大切にするものでもない。それが私の死に対する思いだった。それが壊れたのが2019年4月5日だった。悲しかった。自分にそんな能力があったことをいまいち受け止められないと思いながら泣き、泣き、泣いた。初めてDVDを買った、CDを買った、ずっとずっとライブ映像や収録された音楽の中、youtubeの中、あらゆるところにしか残らなくなった彼の姿を見て泣いた。どうして人が死ぬ程度のことがこんなにも悲しいのかがわからず、今、私の中では彼の死だから泣くのだという認識が強くある。彼の死だから悲しい、彼の死だから泣く、彼の死だから受け入れられない。だから他の誰かやなにかが死んでも私は悲しまないし泣かないし受け入れる。彼が特別なのだと、そうして私はwowakaを特別に思うことでその死をどうにか喉まで持ってきた。部屋の本棚の上に、wowakaのアクリルスタンドがある。横には去年誕生日プレゼントにもらった毬藻の入った瓶を置いていた。毬藻はとんでもなく長生きするとかで、じゃあこれを隣に置いておいたらwowakaの死も中和されるんじゃないかと思ったからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?