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日記148:「勉強のおともに迷ったら」

あちらに行ったりこちらに行ったり…。

この日記でもしばしば話題にするが、私は勉強が趣味だ。
勉強が趣味で、その最中ににじさんじのVの配信を作業用BGMとして流すのが大好きだ。
基本的にはなにを流すかは一発で決め、大抵の場合は終了まで変更することなくひたすら聞き、ひたすら勉強する。あと勉強中でない作業中…作業中というか趣味の時間の間、筋トレだったり読書中だったりにも流す。

しかしながら最近、どうにも「これだ!」としっくりくる配信がない。いや、すでに視聴したオキニのアーカイヴを漁っているのだから、しっくりくる配信がないわけがない。私の意識が漫ろなのだ。漫ろであり散漫なのだ。
やや迷ってから、パソコンのアプリケーションでspotifyを開く。適当なリストをクリックし、流す。それでもなんだか違うという思いがある。

私の友人には音楽を愛する人が幾人かいて、その愛はたぶん、音楽がなければ死ぬしかないとするような愛だと傍目から見る私には感じる。
私は音楽が好きだ。音楽が好きだけど、なければ死を選ぶような熱烈かつ狂気的な愛ではない。そこまでアツく打ち込んでいるものではない。私にとってそこに該当するのは勉強と読書くらいなものだろうか。
時折思う。自分がそれほどの愛を持っていないことを。
彼女らがそこまで愛していることが、なんだかうらやましくなる。その感情の根源がなんなのかはわからない。私は欠乏した箇所がほしくないから、空虚ではもう満たされたくはないから、人が持っていて自分が持っていないものを見ると、際限なくほしくなる。
うらやましいわけではないのかもしれない。単なるブラックホールじみた永遠の欲求しかない。

今、これを書いているとき、ましろくんの配信を流している。2年前の秋ごろの配信で、「海外で話題の遺体を解体するゲームがめちゃくちゃ恐い...!! いhttps://www.youtube.com/live/rhvTonF0fts?si=34mIOIVxYygdjoa1」というやつである。
ふらつく感覚も落ち着いたようだ。私にとり、なければ死ぬようなものではないが、少なくともにじさんじは生活には欠かせないものになっているのは確実だった。デビューしてくれてありがとう、の気持ちでいつも彼ら彼女らを見つめている。

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