見出し画像

過程と結果

「結果が全て」

「努力した過程に意味がある」

過程と結果はイコールではない。

だがしかし、みな出来るだけ良い結果を、最高のエンディングを夢見てひたすらに日々を積み重ねていく。

もし思い描いた結果にならずともそれまでの過程が一瞬にして無かったことになるはずもなく、積み上げた努力の分だけ次はもっと「結果」に手が届きやすくなるだろう。

反面、その「結果」に固執しすぎた故に自ら積み上げた階段の上から降りて行く者もいる。

「次頑張ればいいさ」
「ここまでよく頑張った」

そんな声を背に

「結局その程度だったんだな」
「甘えているだけ」

そんな言葉が聞こえてくるまで降りていく...。

昔こんな経験があった。

4才から水泳を始めて約10年、スイミングクラブに通っていた。

そのクラブでは年に一度、その年に1番活躍した人に与えられるカッコいいトロフィーがあったのだ。

当時小学生だった私にはどうしてもそれを手に入れたかった。

そこから週6日ある水泳の練習を毎日必死でこなし、そこそこの大会で100m平泳ぎで1:18というタイムで優勝した。

全国的にみたらそうでもないが、ちょっと遅い高校生くらいのタイムでは泳げていた。

そこでだ、その年にそれ以上の成果をだしたものはおらず自分でも絶対に念願のトロフィーが手に入ると確信していた。

だが世間はそう甘くはなかった。

結論からいうとトロフィーを貰ったのは弟だった。

わけがわからなかった、なぜ?どうして?

そればかり考えていたら授与式後、いつの間のかコーチの元に駆け寄り問いただしていた。

そこでこう言われた。

「弟君が最近辞めようとしてたみたいだし、この前の大会で初めて入賞したからトロフィーをあげて、やる気を出して欲しかった」

その後はもう前述の通りで、自ら積み上げてきた階段の上から全力で降りて、中学2年でちょうど10年目の時に泳ぐのを辞めた。

辞めたこと自体はちょっともったいない気もするけれど、意外とあまり後悔はしていない。

というのもその事があった瞬間、自分の中で水泳というものに対して全く興味がなくなったからだ。

結果だけを得るためにする努力は夢みたいなもので、一時過ぎて覚めるとまるで現実とは違う自分の話を見ていたかのように思える。

1つの大きな目標は大事だが、それだけしか見ていないとそれが突然無くなった時、なぜそれをやっていたのかすら見失う事もあるだろう。

そうならないためにも
あくまでも結果は方向性や数ある目標の1つに、
頑張った過程は経験値に出来るように、
自分をたまには見返す必要があるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?