THE BOOM クロニクル 1989-1998

1999年にTHE BOOMのファンクラブ季刊誌「エセコミ」に掲載した、編集長杉山敦による原稿を初めてこの note にアップします。1989年、THE BOOMとのホコ天での出会いから1998年『AFROSICK』まで、1年につき約2,000字の文字量で彼らとの日々を綴っています。総文字数22,224字。
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1989年 ホコ天からのデビュー


もう何度も書いたこと。1987年、秋の日の午後のことだった。当時の僕は、神田にある広告会社でバイトをしていた。なんてことはどうでもいい。とにかく出会ったのだ。原宿から渋谷への、あるいは渋谷から原宿への、天気のいい秋の日の散歩コースだったと思う。ピンクのドラムセットの前で演奏する4人組に。彼らはポリスの、U2のカバーを演っていた。

「次は僕らのオリジナル曲です」と、長袖のTシャツの胸に大きな赤いハートを縫い付けたボーカルが言った。一定の距離を保って彼らを囲んでいた観客の輪が少し乱れた。観客といったって通りすがりの人たちが集まったに過ぎない。アマチュアバンドのオリジナルを聴いたってしょうがないじゃないか。でも、彼が歌い出すと僕の足も完全に止まってしまい、それまで以上に熱心に彼らの演奏に心を奪われることになった。不思議な気分だった。その日の午後の予定が、頭の中で消え去り(どうせ大した用じゃなかったんだ)、僕はその日から彼らのファンになった。

彼らの歌に耳を傾けたのは確かに僕の方が先だった。でも、次の日曜から僕のガールフレンドは僕の7倍くらい彼らに夢中になり、僕らは毎週連れ立って原宿に出かけるようになった。僕は彼らの歌が好きだったし、彼女と過ごすそんな日曜の午後が好きだった。お金はなかったけど時間だけはたくさんあったのだ。そしてホコ天はそんな僕らをいつも優しく迎えてくれた。彼らは休むことなく毎週の演奏を続けていた。

歩行者天国が始まるのは正午。そこから30分ほどのステージが、休憩を挟みながら夕方まで5、6回開かれる。秋が過ぎ、冬を越え、次第に彼らはホコ天の人気者になっていった。跳ね回るファンの女の子たちでメンバーの姿が見えなくなっても、ガードレールに腰掛けて「ピース」と口ずさんだり、夕暮れで遠くの木々の輪郭が霞む時間になると彼女の手を引っ張って踊りの輪に加わったりした。一週間の他の6日間が色褪せてしまうほどの楽しい日々だった。

「彼らがデビューしたら、竹下登が首相になった時の島根県民よりも僕は鼻が高い。献金してくれたらTHE BOOMの初期デモテープをあげよう」
1989年2月、僕は自分が作っているミニコミにこんな文章で絞められたラブレポートを書いた。彼らはホコ天での活動以外にも、ライブハウスでの演奏を始めていて、デビューも噂されていた。噂じゃない。本人がステージでそう言ってるのに僕が信じてなかっただけだ。それにしてもここの時の記事を読み返して、さすがに時の流れを感じてしまう。竹下登が首相だったことを覚えてる人は、今どのぐらいいるんだろう。500円で買った自主制作テープは引越しの際にどこかにいってしまった。

1989年の春、僕の自宅に突然、MIYAから電話がかかってきた。僕は自分が作っているミニコミでのインタビューを申し込んでいたのだ。僕のミニコミは公称発行部数50部だったが、ほんとは30部くらいしかなかった。僕が好きな時に好きなことを書き好きな人に配る。製本どころかホチキスでとめる必要もないA4の紙切れ両面コピーの代物だ。THE BOOMのメンバーには休憩時間を狙っていつも手渡していた。彼らのライブの記事を毎回書いていたからだ。MIYAはそんなミニコミのインタビューに答えてくれた。
「おちぶれた時、『やっぱりブームで終わりやがって』と云われるのが悔しいので、最初にプレッシャーを自らにかけようと。孫悟空の頭輪のようなものかな」
バンド名の由来についての質問には、こんな風に答えてくれた。真面目くさった僕の質問は27問。キリの悪い数字だけで仕方がない。僕にはミュージシャンへのインタビューだって初めての経験だったのだ。

5月21日、彼らはデビューした。新宿パワーステーションで午後3時から行われたデビューライブが終わると、僕は日比谷野音に向かいボガンボスのライブを観た。THE BOOMのデビューに特別な感慨はなかった。僕はこの「デビュー」までに彼らのステージを100回以上観てるのだ。

彼らは急速に全国的な人気者になった。今まで見たことなかったような音楽雑誌のグラビアを飾るようになった。グラビアだよ! パジャマ姿で道端で歌っていた彼らが。ホコ天で彼らをずっと撮り続けていたカメラマンもついにプロとして音楽誌に写真が掲載されるようになった。

そんな僕の生活が再びTHE BOOMを中心に回るようになったのは、夏が過ぎてから。彼らのファンクラブ季刊誌「エセコミ」の創刊号打ち合わせが、プロになった彼らとの久しぶりの再会だった。ファンクラブでは、毎月の情報紙とは別に、THE BOOMの世界を表現する季刊誌を作るという。僕はなぜかその編集長に選ばれたのだ。

1989年秋、出版社でのアルバイトを続けたまま、夜の時間を使ってエセコミの原稿をやっとこさで入稿すると、バイトを辞めてすぐに日本を出た。ペルーでの旅を終え、2ヶ月ぶりに日本に帰国した僕は、成田空港から彼らの事務所に電話した。確かその日、渋谷のライブハウスでTHE BOOMが出演するイベントがあったはずだ。次のバイトは決まってなく、相変わらず時間だけはたっぷりあった。

電話に出たのはなぜか事務所の社長にしてプロデューサーの佐藤剛さんだった。そして僕が観に行こうとしていたイベントは数日前にすでに終わっていたことを知った。北半球と南半球の違いだとか、時差だとかそんなことではない。ただ、僕が間違って日にちを覚えていただけだ。
「これからの予定はあるの?」
「いえ、特に」
「じゃあ、うちの会社に来ない?」
運命とはそんなふうにあっさり決まる。僕の入社は成田空港の公衆電話で決まった。


1990年 中央線

ファーストアルバム『A Peacetime Boom』の収録曲が全てアマチュア時代のライブレパートリーだったのに対して、1989年年末に発表されたセカンドアルバム『サイレンのおひさま』は、僕にとっても初めて知る、新しいTHE BOOMが詰まっていた。幼女連続殺人事件、女子高生リンチ殺人、それに天安門事件が起こった年だ。いやな感じばかりの社会への警告。浮かれているように見えたバンドブームの中で、耳を塞ぎたくなるようなことを彼らは歌おうとしていた。圧巻は大晦日に出演したロックイベントでの「気球に乗って」であり「晩年ーサヨナラの歌ー」だった。普通、お祭り騒ぎの場所であんな重い歌、歌うか? 最高のロックバンドだと思った。

1990年は『JAPANESKA』の年だった。僕がいちばん好きな曲は「中央線」。この曲は、MIYAのラジオ番組『サカナラジオ』の企画から生まれたものだった。フラワーズのギター、長田幸二とのユニット「あまから」が中央線沿線、RCサクセションゆかりの地で歌うというプロジェクト。初期のRCには国立や八王子を歌った歌がたくさんある。山梨出身のMIYAは故郷の甲府と新宿を結ぶこの中央線に親しみを感じていたという。

ビデオクリップ集『Clips+』の中で僕がいちばん思い出深いのは「中央線」だ。収録されたMVの中でたぶん制作費は最も少ないだろう。監督兼カメラマンの郡司大地くんがほぼひとりでロケした作品だ。この作品には数日間一緒に付き合った。最初の夜は午後10時過ぎ、郡司くんの運転する車で国立へ向かった。カーステレオにはRCサクセションの「多摩蘭坂」。国立にはたまらん坂があるから当然の選曲だ。撮影に入る前にそのたまらん坂に寄ってもらった。「坂の途中の家を借りて住んでた」と忌野清志郎は歌っている。坂の下に車を停め、一歩一歩、清志郎が歩いただろうその坂を上っていくと不意に涙が出た。僕らと同じようなことを考えたファンがたくさんいるのだろう。ガードレールにはマジックで描かれた清志郎へのメッセージでいっぱいだった。

次の日は夕方のラッシュ前に中央線に乗って出かけた。郡司くんは8ミリカメラを廻す監督、僕は三脚を運ぶ助手。その二日間で僕らは百本以上の中央線電車を見た。駅のホームや、陸橋の上からや、線路沿いの小径から、いろんな角度からフィルムを廻した。午前1時過ぎに高尾行きの最終便が国立駅を発車すると、駅のホームには何人かの酔っぱらい(ベンチに横たわったまま動かない)と僕らだけになってしまった。もう乗って帰る上り電車はないのだ。車で帰る、ということがわかっていても、闇の中に消えていく最終電車のテールランプを眺めていると、不思議にもの悲しくなってしまった。

同じ月に、久しぶりのホコ天ライブを観た。初めての武道館を10日後に控えて昔と同じスタイルでのフリーライブ。会報の片隅に記した思わせぶりな暗号だけでの告知。それでも当日、ホコ天には二百人以上のファンが集まった。最高の天気だった。一回目のステージの後、20分の休憩が終わり、2回目のステージ、最初の曲が「中央線」だった。この歌はとても美しく、そして悲しい。この歌の中で彼女は"僕"のもとを去ってしまって帰ってこない。"僕"は彼女の住む町を知らない。歯を磨くたびに彼女のことを思い出すのは、彼女の歯ブラシがまだ残っているからかもしれない。逃げ出した"猫"が違う相手だとしたら相当にやりきれない。「多摩蘭坂」の主人公のように、無口になってふさわしく暮らすしかない。中央線は決して"僕"を乗せて走らないーーー。

この頃からMIYAは中央線のかなり甲府寄りの山奥に農家を借り、住むようになった。もちろん東京にも「仮の宿」は残しての生活だが。雑誌の取材にかこつけてその生活を訊いたことがある。
「山に住む魅力っていうのは、人に合わせなくていいというか……。何時以降は音楽を聴けないとか、窓を開けると人に見られるとか、聞きたくない隣りの音楽を聴かなくてもいいとか。山の家の周りに音はほとんどないし、夜中まで音楽を聴けるし。別に今、忙しいから反動としてこういう生活をしてるんじゃなくて、子どもの頃からの夢だったんだよ。前の日が夜遅くまで仕事があって、最終電車で帰ると家に着くのが午前2時。そこですぐ寝ればいいんだけど、音楽聴いたり、掃除してたりすると朝になってしまう。だから理想的なオフの一日というのは、朝早く起きること。朝飯のパンと卵は川の向こうによろず屋があって買いに行ける。朝飯を食べたら川まで降りて散歩。林道があるから川の源流まで歩いていける。近所で遊漁証を年間で買ってる。近所付き合いは大家さんが隣りにいて、その大家さんの親戚に金魚の水を替えてもらったり、寒い日は水道を止めてもらったり、汲み取りやLPガスを手配してもらったり。カレーを多く作ったりすると持って行ったり。ツアーに出るとちょくちょくお土産を買って帰ったりする」

「SUPER STRONG GIRL」で"ゆがんで"見える"メトロポリス"への違和感を表明し、後にミニアルバム『D.E.M.O.』ではジャケットにこの山奥の農家を描き、"誰も知らない僕の生活"と、毅然とした孤立感を歌ったMIYA。インタビューでは埋もれてしまうことへの嫌悪と、匿名でいたいという願望の同居を見せる。武道館を満杯にする人気者のこんなメンタリティーに僕は惹かれた。


1991年 沖縄とタイへの旅

「ひめゆりの塔から国道331号線沿いに少し歩くとサトウキビ畑があった。沖縄ならどこにもである、何の変哲もないサトウキビ畑だ。僕たちは日が暮れるまでのわずかな時間、その畑の中にぽっかり開いた壕(ガマ)に入って過ごした。生と死。それは太陽の国、リゾート地沖縄などとのイメージを植え付けられてきた僕たちには重すぎるキーワードだった」

THE BOOMと自分との関係の中で重要な旅が3つある。ひとつはMIYAとカメラマンの郡司大地くんと一緒に行った1991年、沖縄への旅。もうひとつは同じ年に『思春期』の準備に出かけたバンコク。そしてこれはずっと後のことになるが1996年のブラジルだ。話を1991年の沖縄に戻す。

エセコミで沖縄を特集したい、と手を上げたのはMIYAだった。前年に行われた『JAPANESKA』のジャケット撮影をきっかけに、MIYAは沖縄にのめり込んで行った。知りたいのは学校で習わなかった沖縄の歴史。でもエセコミでどうやって沖縄を取り上げよう。僕らは歴史学者ではないのだ。MIYAが明快な答を持っていた。「それなら、僕らが勉強していく様を見てもらって、読んだ人たちがそれぞれ何かを感じ、意見を持ってもらえたらいいんじゃないか」。その通りだ。それしかできない。MIYAの過密スケジュールの中にぽっと空いた3日間の休暇を利用して、僕らは沖縄に向かった。那覇空港に着くと、まず空港の観光案内所で「いちばん安い宿」を尋ね、一泊一人2,000円という照美荘に決めた。照美荘はその後、ファンの間で有名になる。ある夏、THE BOOMが沖縄でコンサートを開いたときは、本土から駆けつけたファンですべての部屋が埋まり、部屋にありつけなかった人は廊下に布団を敷いて寝たそうだ。

この沖縄の旅で最初に訪れたのが前述のひめゆり平和祈念資料館とその近くにある壕だった。この場所は旅のガイドブックにしていた『観光コースでない沖縄』(高文研)という本で知った。僕らはこの伊原第一外科壕で完全に打ちのめされてしまった。涙が止まらなかった。お互いに目を合わせられなかった。何があったというわけではない。ただ、戦争の恐怖、悲しみが澱のようなものになってその壕を満たしているようだった。そういうのは見えなくても感じるのだ。

那覇に戻り、僕らは国際通りのレゲエバーで遅くまで飲んだ。リズムの裏でポツポツ言葉を交わすスタートだったけど、店が閉まると、今度は路上に座り、持参したラジカセで「ひゃくまんつぶの涙」を何十回もリピートしながら話を続けた。何を話したかは今となっては覚えていない(MIYAが書いた文章で、話の終わりには「来てよかった」と繰り返していたことが確認される)。

この年にはバンコクにも行った。次のアルバム準備のため、という名目で全員楽器を持参した。うまく行けば何曲かデモテープでも、という算段だった。でも、バンコクで僕らが借りたスタジオはあまり良くなかった。雨季のバンコクでは夕方にはスコールがある。遠くで落雷が聞こえるなと思っていたら、突然スタジオの電源がすべて落ちた、ということもあった。スタジオから出ると僕らは雨宿りをしながら電気が回復するのをじっと待った。激しく落ちる雨をみんな無言で見つめながら、こんな時間って東京ではなかったなと少しだけいい気分になった。

スタジオがそんな具合だったので僕らは早々にレコーディングを諦めることになった。MIYAとYAMAさんを誘ってサムイ島まで一泊旅行もした。バンコク滞在組は何をしてたんだろう? わからない。『BOOM BOOK 2』用にインタビューもした。僕だって遊んでいただけではないのだ。しかし、サムイ島でのYAMAさんへのインタビューは、写真共々あまりに弛緩していたのでバンコクでやり直すハメになった。強烈な太陽の下、ビーチでビールを飲みながらの話がまともなものになるわけがない。でもたぶん今のTHE BOOMにあんな時間を持つことはできないだろう。バンコクの喧騒とエネルギーを僕らはゆっくりと肌に染み込ませていった。

「沖縄に興味を持って以来、目はアジアに向いていった。アジアについては何も知識がなかったので、アジアの玄関と言われるバンコクがいいだろうと考えた」。
これは帰国後のMIYAの発言だ。この時期、MIYAは「SPIRITUAL」という言葉を何度も口にしていた。「例えば、ジミー・クリフやジャニス・ジョップリンのような。肉体と精神が分離しないで真に直結している状態、歌」。レゲエと沖縄音楽が重要な要素となった。「おりこうさん」の間奏に、ボブ・マーリィの「ONE LOVE」や「GET UP, STAND UP」が挿入され、"引き裂かれたシャツ/破れた心/気が狂った子供"などといった重量級のフレーズが挟み込まれた。開演前のBGMが沖縄民謡の重鎮、嘉手苅林昌だった。

今ではアルバムを出すごとに言われる「THE BOOMは変わった」という言葉がはじめて聞かれたのもこの時期だった。ロックバンドなんて来たこともない町を周るというコンセプトでこの年行われた「出前ツアー」を経て、THE BOOMは『思春期』へと進んで行った。喜納昌吉との出会い、ジャマイカでの新曲ミックスもあった。「島唄」がこの年の沖縄への旅で生まれた、ということを聞いたのは後のことだった。


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