コンセプト・ブックシェルフ 3話『天の川われても末に逢はむとぞ』(7月)
台所の流し台に、空のコップが置かれていた。
コップの底に、麦茶の雫がたまっていた。
それ以外は、流し台には何もなかった。ほかの食器は水切りカゴと収納棚に並べられていた。
母さんと姉ちゃんはまだ寝ている。今は朝5時なので間違いなかった。もしふたりのどちらかが出したコップなら、飲み終わったら洗って、水切りカゴに置くはずだった。
俺も、喉が渇いたから、起きて台所に寄っただけだった。一杯の麦茶でも飲んだら部屋に戻って寝るつもりだった。
でも冷蔵庫を開く前に、台所から引き返した。父さんの部屋に入った。
本棚とたんすとスーツかけとパソコン机だけ。殺風景な部屋。たんすを開けた。衣服がごっそりと抜けたスペースがあった。
父さんはまた……家に帰っても顔を見せずに、すぐ職場へ向かったのだった。
◇
『お風呂のお湯になれますように』と、短冊には書かれてある。
造花の笹が2本、リビングの壁端に飾られていた。今年も七夕の一週間前から用意されていた。そこに赤い短冊が吊るされている。
古ぼけた短冊を指で引き寄せた。笹の葉が揺れてかさりと鳴った。
たしかに俺の字だった。幼稚園のころに書いたものだから、平たい癖字だった。意味は、書いた当人の俺ですらあまりわかっていない。
毎年律儀に飾ることはないだろうに。笹の飾りつけは、年々質素になっていた。今までは折り紙でつくったカラフルな輪っかだとか、提灯だとか、家族それぞれの短冊を飾って、派手にやっていた。
今年は裸の笹に短冊一丁だった。それなのに、この赤い短冊だけは忘れずに飾られる。
「出た。へんてこ短冊」
ミントの香りがした。振り返ると、歯磨きをしながら家じゅうをフラフラしている姉ちゃんがいた。パジャマ姿だ。
うまいこと口に隙間を空けて喋っている。
「姉ちゃんそれ汚えって。歯磨きしながらうろちょろする癖やめろよ?」
「何よぉ~」
「いつか床に歯磨き粉垂らすぞ?」
「あたひそんなへましないふぉ~」
最後は何を言っているのか聞き取れなかった。姉ちゃんは口元を手で押さえて洗面所に駆け込んだ。言わんこっちゃない。
背後からは、包丁とまな板の音や、具材の焼ける音がしていた。ミントに混じって、中華の香りを感じた。
「高志あんた起きたの。なら皿並べるの手伝いなさいよ?」
台所に立ち入った。
背中を向けたまま言う母さんには見えないだろうけど、リビングにある笹を指して言った。
「これ、飾ったの母さんだろ。やめてくれよ?」
「あら。かわいいじゃないのあの短冊。お母さんは好きよ?」
「かわいいってどういうことだよ?」
返事はない。あくまでしらばっくれる気か。
「捨てていいから」
そう言うと、
「何のことでしょう。知らない~」
……そう言ったあとは、料理に専念した。むかつく。
しょうがないから、食器棚からお皿を出して、台所に並べた。
「お母さんにとって、七夕は何よりも大事だもんね~」
姉ちゃんがこっちに顔を出した。制服に着替えていた。
「いじわるのひとつもしたくなるよ。七夕の準備をすっかり忘れてた高志にはさ~」
「なんで姉ちゃんが偉そうにしてるんだよ?」
「だってわたしは準備手伝ったもん。何たって、七月七日は七夕だけじゃなくて結婚記念日だし。ね~?」
姉ちゃんは嬉しそうにそう言って母さんを見た。
そうか。そんなこともあったが、忘れてた。大事な日だ。
しかし……今年の笹は、すごい簡素じゃないか。
「あんたたち朝ごはんできたわよ」
母さんが皿を食卓に並べた。中華粥だ。つけあわせは青菜とエビだ。
鶏ガラの香ばしさが、起きたての胃袋に食欲を湧かせてくれる。朝にうれしいご飯だ。
……と言いたいところだけど。姉ちゃんから、まだかすかにミントの香りがした。
「においはどっちかに絞ってくれよ。食欲失せるだろ」
「は? におい? いきなりわけわかんないし」
小競り合いしながら食卓についた。
隣には姉ちゃん。真正面に母さん。
席は4つある。お椀も4つ並んでいる。
母さんだけは、俺たちとは違うおかずだった。サバの味噌煮に、トマトとレタスのサラダ。昨日の夕食の残りだ。
「いただきます」の号令をかけた母さんの顔は、無表情だった。
何を考えているのかわからない表情だ。……ここ最近の母さんはずっとこうだ。
姉ちゃんと俺は黙った。手を合わせて、「いただきます」の号令にならった。
3人、無言で箸を動かす。食べやすくて、うまい。
でも、こんなにうまいのに、正直どこか味気ない。
「お母さん。大丈夫?」
姉ちゃんが言った。
「大丈夫って、何がよ?」
母さんは吐き捨てるように答えた。
姉ちゃんと俺は顔を見合わせた。正直困ってしまっていた。
「別に、心配されるようなことは何もないわ」
続けざまに母さんが言った。
……ここ2か月。父さんの顔を見ていなかった。
◇
「高志、ちょっと。外に出るから付き合いなさいよ?」
朝飯を食い終わった午前10時だった。日曜だから、思う存分リビングでごろごろしていた。
「何? 母さん、どこ行くんだよ?」
「大事なことよ。それに男手があったほうが助かるの」
母さんはむっつりした表情で言った。
「うえ。……何か買うのか?」
「さあ~? 別に?」
はぐらかされると、むかつく。話の先が見えないから、もやもやする。
でも母さんがはぐらかすときは、たいていはポジティブな隠し事だ。俺にとっていいことだとか、家族にとっていいことだとかを隠しているときに、はぐらかす癖がある。
「わかったよ。今着替えるから」
だから今回も従うことにした。ソファから身を起こした。
「早く準備なさいよ。2時間くらいで帰るつもりだから、荷物もいらないわよ」
部屋で着替えて玄関に行ったら、母さんはすでに靴を履いていた。
本当にすぐ出発になった。
日中はもう夏だった。日照りが強かった。梅雨が明けてからはとにかく暑い。
「なあ。どこ向かってるんだよ?」
「辛抱なさい。帰りにアイス買ってあげるから」
最寄り駅から5駅ほど移動し、駅前でバスに乗って、途中のバス停で降りた。住宅地の路地をひたすら歩いた。
通りがかりの塀の花壇に、紫陽花が見えた。
梅雨時に咲き誇っていた艶と色味は失せていた。花も暑さに参っているのだろう。
「結構歩いたけど。まだか?」
母さんは歩を緩めない。足が痛くなってきた。一度しゃがんで、また歩き出した。
日陰になった神社の鳥居を、母さんがくぐった。後に続いて、俺も石段を登った。
砂利の敷き詰められた広場が見えてきた。
その瞬間、昔もこの神社に来た記憶がよみがえった。
「『お炊き上げ』か? そっか、6月末か。もうそんな季節なのか」
前に行く母さんに聞きつつ、独り言をつぶやく。
「ほら。あんたも『茅の輪(ちのわ)』を3回くぐりなさい」
広場に足を踏み入れた母さんは、砂利の中央に堂々と据えられた、巨大な緑の輪っかを指した。
わらのような、自然の繊維で束ねられた輪っか。大人がゆうにくぐり抜けられるほど巨大だ。ライオンの火くぐりのように、縦に設置されている。
俺の背は180だけど、輪っかは、俺の2倍、いや3倍はあるかもしれなかった。
輪っかを見て、苦い記憶を思い出してきた……。
「どうしたの?」
母さんが聞いてきた。
「……なあ。あれって材料、わらじゃねえの?」
「あんた子どものころから同じこと繰り返し聞くわよね」
母さんはため息をついた。
「茅(かや)よ。あれは。それで、茅の輪って言うのよ」
……昔、子どもだった俺は、茅の輪を引き抜こうとしたのだった。
11歳の、俺が小学5年生のころだった。
それをしたせいで、こっぴどく叱られた。さんざん泣いたけれど、母さんにも父さんにも許してもらえなかった。
あの大きな輪のわらを、持って帰りたかった。
父さんが運転する車で、お炊き上げの神社まで行った。
夜だった。人でにぎわっていた。祭りみたいだった。
チョコバナナやベビーカステラの屋台。多くの雑踏。にぎわう人々。見上げればどこにでも見える笑顔。神事当日の夜。
その雰囲気や熱気が好きだった。俺は帰りたくなかった。
『思い出』が欲しかった。その祭りの痕跡を家に持って帰れれば、寂しくないと思った。
だから、当時の俺は、大きな輪っかに近づいて、掴んで、引っ張った。
わらは思ったよりはるかに頑丈だった。ぜんぜんむしれなかった。ちぎることもできなかった。
母さんが大慌てで駆け寄ってきた。
俺は取り押さえられた。
すごく叱られた。あんなに叱られたことは、これまでもそれからもなかった。俺は泣き喚いた。父さんに無理やり抱かれた。そのまま車に乗せられた。……思い返せば思い返すほど、苦い記憶だ。
公共物を破損しちゃいけない、というのは、もちろんわかる。
けどそれなら、優しく諭す選択肢だってあったはずだ。あのときの母さんは、鬼の形相だった。
俺が神社に行かなくなったのは、それからだったか。俺がないならってことで、姉ちゃんも行かなくなってしまった。
「あそこまで叱られることだったか?」
母さんに聞いた。
「半年の穢れとか、よくないものを、茅の輪に吸わせるのよ。くぐることで茅の輪が穢れを吸うの」
母さんが言った。
「茅の輪をくぐった人は、それで半年は健康にいられるの。穢れを吸った茅を持って帰ろうだなんて、大量の穢れが家に入っちゃうじゃないのよ?」
そっか。……俺は何だか胸が痛くて、返事ができなかった。
母さんは広場を進んで、輪をくぐった。母さんの背中に続いて、俺もくぐった。
左回り、右回り、左回り。3回くぐった。姉ちゃんと一緒に、輪の周りできゃいきゃいとはしゃいでいた記憶がよみがえる。子どものころは、くぐるだけで無性に楽しかったな。
社務所に向かった。
白いクロスがしかれたテーブルが、ふたつ横に並んでいた。
受付には白袴の男性がいた。
「今年もお願いします」
母さんはそう言って、かばんから、ぺらぺらな白い人形を3枚出した。
「何それ?」
「だから、お炊き上げだって」
……あ。そういやお焚き上げって、人形、焼くんだっけ。
白い人形には、姉ちゃん、母さん、そして父さんの、名前と年齢が書いてあった。母さんと父さん、ともに50歳。……嘘だろ? そんな年とってんの? ぜんぜん見えない。
母さんと父さんの、人形の筆跡は一緒だ。姉ちゃんのはいかにもな癖字だった。
「お焚き上げのそれって、当日に渡すんじゃないのか?」
「事前に渡せるのよ。ほら、あんたは今ここで書いちゃいなさい」
母さんがそう言って、もう1枚の人形と鉛筆を、かばんから手渡してきた。
「今かよ。家で言ってくれればよかったのに?」
テーブルの上に人形を置いて、名前と年齢を書く。やり方だんだん思い出してきた。
書き終わったら、人形で、体を撫でる段になる。
自分の体の悪い場所や、治したい場所を、人形で撫でる。押し付けるような形で、だ。
でも、持った手をふと止めた。俺は体に治したい場所なんてなかった。子どものころはどうしてたっけ。……肩を、人形でそっと撫でた。そんな記憶があった。
最後に、人形に息を吹きかける。心をこめろ、って言われてたな。
すべて終えて、人形を母さんに渡した。受け取った母さんが、受付の方に渡した。
「ようこそお参りくださいました。ご家族みなさんの厄をお預かりします」
にこりと、俺を見つめて言った。
直接渡さなかったことに、引け目を感じた。
母さんは黄色いお札を受け取った。
玄関に貼るやつだ。ここでもらってたのか。
社務所の窓口には、掌に乗るくらいの小さな茅の輪が飾ってあった。
「初穂料500円」の札がついていた。
これは小学生のとき買いたかった。そう思って見つめていた。
母さんは500円をおさめて、茅の輪を授かった。俺に持たせてくれた。
「あのときこれがあればねえ。あんなに怒られることもなかったのにねえ」
母さん。そこをえぐってきますか……。
「いつ、父さんと顔合わせたんだ? あの人形、父さん書いたんだよな?」
帰り道の神社の広場で聞いた。
母さんは何も言わなかった。
「……そっか」
俺は会話を締めた。けど、沈黙が苦しかった。なので、また口を開いた。
「母さん、毎年来てるのか?」
母さんが歩きながら振り向いた。影のある顔だけど、少し笑っていた。
「父さんと一緒にね」
神社の石段を降りて、神社に振り返った。
立て看板があることに気づいた。
『夏越大祓式 並びに 七夕祭』と書かれていた。
◇
「天の川のことを、家にある風呂だって思ってたんだよ。……それだけだって!」
姉ちゃんの追及が本当にしつこくて、逃げられなかった。俺だってあんまり、意味なんて覚えてなかった。
「はあ!? お風呂!? 意味わかんない!」
姉ちゃんはソファに転がって爆笑した。ちくしょう。
「あはは……はぁ。そういや高志、小さいころは何かにつけてお風呂って言ってたね。ていうか、わたしがお風呂入るときにくっついてたし!」
「そうね。何をするにしても、美咲の背中を追い掛け回してたわね」
体を起こした姉ちゃんの隣に、台所からやってきた母さんが腰掛けた。
「ね~!」
「そんなことまで思い出さなくていいから……」
がっくり肩を落とした。このふたりには勝てそうにない。何で俺は今、このふたりが揃っているリビングにいるんだろうか。
神社からの帰り道に夕飯の買出しをした。
缶詰とか、野菜とか豚肉とかいろいろ買った。ビニール袋は俺が持った。
母さんはいつもこんなのを持って家に帰っていたのか。
帰ったらすぐソファで寝転がろうと思うくらいには疲れた。それでリビングに行ったら、姉ちゃんが座ってた。それからは、このざま……。
ローテーブルの下に置いているノートパソコンを取り出して、起動させる。プログラムソフトを立ち上げて、プログラミングの勉強に励む。姉ちゃんの言葉には耳を傾けない。
「夕飯できたわよ」
台所から声がした。時計を見ると、午後7時だった。
俺も食卓に向かった。席に母さん、姉ちゃん、俺の3人が着いた。
今日の献立のメインはハンバーグだった。肉が香ばしく、湯気をたてている。
しらすとピーマンの炒め物と、きゅうりとにんじんの薄切りのサラダ。トマトのスライスに、豆腐とわかめの味噌汁だった。
ハンバーグには和風おろしのタレがかかっていた。
ハンバーグ4つのうち、ひとつだけは、大根おろしが大量に乗せられていた。そのほかに、厚揚げとおろし生姜もでていた。ビールの瓶も置いてあった。
俺たちは、いただきますをした。
ハンバーグは、しょっぱくてうまかった。周囲の野菜はしょっぱさを引き立たせる薄味で、これもうまい。
10分もしないうちに平らげた。
母さんの夕飯は、だんだんと湯気と水っ気を失っていった。
俺はリビングに戻った。
パソコン作業を再開した。次に時計を見たら、午後8時だった。
台所にまだいる母さんは、目の前の皿に手をつけなかった。
声をかけるのをためらう、背中姿だった。
部屋に戻っていた姉ちゃんが、リビングを通って台所に来た。
「お母さん。電話。保留にしてる」
母さんが、食卓から立ち上がった。
姉ちゃんから子機を受け取った。耳に当てる。
……目に見えて落胆した。
おそらく、父さんではなかった。いや、父さんからだったのだろうか。
姉ちゃんは、悲しそうな顔をしていた。
「お母さん。大丈夫?」
電話を切ったのを見計らって、姉ちゃんが尋ねた。
母さんは何も言わなかった。
「ショックだよね。電話のひとつくらい、ほしいよね。今何してるんだろうね。お父さん、スマホすら持ってないんだもん。エンジニアなのに……」
「お父さんが決めたんだからしょうがないじゃない」
母さんは早口で言った。
「寂しいよね……」
そう言葉をかける姉ちゃんは、父さんの席に置かれた夕飯を、ラップで包み始めた。
「お父さんのプロポーズさ。『お前を守る役目は、これからも俺がする』って、言われたんでしょ?」
力なく席に座った母さんが、うなずいた。
「……そっか」
姉ちゃんもそれきり、何も言わなくなった。
俺がリビングから自分の部屋に戻るまで、ずっと母さんのそばに寄り添っていた。
◇
父さんが帰ってきた。
午後6時だった。今日は7月5日。金曜日だった。
実に何ヶ月ぶりだろう? 5月だから、2ヶ月ぶりか。意外と短いな。もっと時間が経っていたように思えた。
久しぶりに見た父さんは、何だかあっけにとられるほど、変わっていなかった。
5月に家を発ったときと同じスーツだ。同じ面だ。ひげもない。同じ体格だし。無表情なのも変わってなかった。
たまたま、玄関で父さんが革靴を脱いでいるところに出くわした。すぐに姉ちゃんも玄関に来た。びっくりした顔をしていた。
父さん、俺、姉ちゃん、3人とも言葉がなかった。
「……お父さん。電話した?」
静寂を破ったのは、おかえり、でもただいま、でもない言葉だった。
「何のことだ?」
「お母さんに謝った?」
姉ちゃんは、真剣な目をしている。
真剣というより、怒っている。
「何で謝らなきゃいけないんだ?」
姉ちゃんは全身の力を抜いた。がっかりした顔をしていた。あからさまにため息をついた。
「心配してたよ。じゃ」
それだけ言って廊下を走った。部屋に戻って、扉を乱暴に閉めた。
父さんは、きょとんとした目を俺に向けた。俺はばつが悪くて、顔を背けた。
母さんはいつものように、料理をつくっていた。
台所に置かれた4つの長皿に、ホッケの開きが一尾ずつ乗っていた。
「母さん、父さん帰ってきたぞ」
俺がそう言ったら、母さんは、ガスコンロの火を止めて玄関に飛び出すだろうな。そう思っていた、が。
料理に集中したままだ。手元を見たまま。何も言わない。
「……聞いてるのか? 父さん、帰ったって。たぶん自分の部屋で着替えてるぞ?」
黙々と調理している。これではもはや、無視だ。
「今更」
ぽつりとつぶやいた。
これ以上俺は何も言えなかった。
俺はリビングに戻って、ノートパソコンを開いた。
父さんと母さんが、顔を合わせるのが怖かった。
夕食に会話は、いっさいなかった。父さんたちだけでなく、俺たち姉弟もなかった。
夕食を終えて、家族4人、リビングに集まっていた。
父さんの指定席のソファに、父さんの姿があることが、何となく変だった。
テレビには録画した相撲が映っていた。五月場所だ。
父さんは、大の相撲好きだ。というかボクシングも好き。柔道も好きだし、総合格闘技も見ている。たぶん、そういう畑なのだろう。
父さんの影響か、俺もわりかし相撲は好きだ。ただ、仕切りなおしがなく、一回目から立ち合いが成立する相撲が好きだ。
猫だましとか、引き落としとか、一瞬で立ち合いが決着する技は好きじゃない。
たった今テレビで、鶴竜が豪栄道に黒星をつけたところが映し出された。1分も粘って白熱した、面白い取り組みだった。俺は、うお、とうなった。
父さんは、声もあげず、身じろぎもせずに、まじまじとテレビを見ていた。
困ったことに、俺の隣に座っている姉ちゃんが、大あくびをした。
「つまんない」
信じられないことを堂々と言った。冷汗が落ちる思いだ。
「面白いだろ。ていうか父さん、テレビ見るの久々なんだぞ? 付き合えよ」
「裸と裸の人が押し合いしてる意味がわかんない」
本気で言ってるのか?
「相撲っていうのはな、国技として見るってより、純粋な……」
俺の力説を無視して、姉ちゃんはローテーブルのリモコンに手をかけた。
……ふだんだったら、母さんが姉ちゃんを制する。だけど今日の母さんは、リビングにはいるものの本ばかり読んで、何も言わない。
「チャンネル変えるよ~」
ああ、無常。録画の相撲は、姉ちゃんによって金曜ロードショーに切り替えられた。
恐る恐る父さんの表情をうかがった。まったく変わってなかった。それでいいのか。
今日の金曜ロードショーは、アニメ映画だった。
俺が幼稚園のころに上映されたもので、父さんに連れて行ってもらったことがあった。
「なつかし~! うわ、これ見た~」
映画が始まってからすぐ、姉ちゃんはあれこれとはしゃいだ。
俺も同じ気持ちだった。映画館で見て、DVDで借りて、何度も見たはずのに、面白い。
ふと、父さんの様子に気づいた。
アニメ映画を、父さんも、ずーっと、熱心に見ていた。
寝てると思ったから少し驚いた。
父さん、アニメ映画は趣味じゃなかった。だって幼稚園のころに連れて行ってくれた映画館では、寝てたから。
今、テレビには、家族のために戦う父親が登場していた。
その父親の過去話だ。
新幹線に乗って上京するシーンが流れた。
新入社員として紹介された。営業のかばん持ちをしていた。デスクの上司に叱られていた。飲みの席で、複数の同僚からなぐさめられていた。
シーンが切り替わった。春の桜並木だ。彼は、伴侶となる女性と一緒に歩いていた。
夜。病院に駆け込む革靴。医療室の奥に、ベッドに横たわった伴侶の女性。赤ん坊を抱えている。安堵した表情で近寄った。赤ん坊はぐっすり眠っていた。
切り替わって、一軒家が映った。引越しに張り切る父親。大きくなった子どもが、父親の足にしがみついている。子どもの隣には伴侶の女性。
替わって真夏。うだるような暑さの大通りを歩く父親。取引先に訪問して名刺交換。深夜までパソコンとにらみ合って残業。つり革につかまったまま、うつらうつらとする帰りの電車。足取りが重い、夜の路地。
マイホームに立ち止まった父親は、インターホンを押した。
暗かった家の玄関に、明かりがついた。
子どもたちが、父親を迎えた。
シャツ一丁になり、明るいリビングで、ビールをあおった
家族4人で、笑っていた。
シーンが変わって、夏の大空になった。
父親をはじめとする4人は、自転車に乗って、釣り竿を背負って、バスケットを前かごに乗せて、どこかに出かけていた。
俺はこのシーン、好きだ。子どものころから、よくわからないなりに好きだった。
父さんは、テレビをじっと見ていた。
真剣だった。
◇
父さんが、リビングの笹の前で立ち止まっていた。
赤い短冊を手に持っていた。まじまじ、持った手元を見つめた。
「お風呂のお湯になれますように」
父さんが言った。俺は頭を抱えた。
「高志。お前、これはアレか?」
「アレじゃわかんねえんだって……」
「これはどういう意味なんだ?」
こうなった父さんは、自分の好奇心を消化しない限りは離してくれない。
「あ。わたしもききたい!」
パジャマ姿の姉ちゃんまで参戦してきた。八方ふさがりだ。
逃げ場はない。……わかったよ。
「織姫と、彦星」
「は?」
「織姫と、彦星って、1年に1度だけしか会えないんだろ」
姉ちゃんはぽかんとした。
「それが何だって言うの?」
「そんな特別な日だっていうんならさ。……そんな日くらいは、のんびり風呂に漬かってほしいと思ったんだよ」
だって母さんは、七夕が大好きだったから。
ひな祭りも端午の節句も。祝い事は欠かさなかった母さんだけど、七夕にはひとしお思い入れが違うって、子ども心ながらわかっていた。
母さんは織姫と彦星の話が好きだった。
姉ちゃんが織姫で、俺が彦星。そんな風に、幼稚園児だった俺たちが母さんに言ったことがあった。
すごく弾けた笑顔で俺たちの頭を撫でてくれた。
「だから、その……一緒に仲良くしてくれたらって。風呂にでも浸かって、疲れをとってくれたらって。父さんと、母さんもさ」
実際に当時の俺が、そんな願いを込めて書いたかなんて、思い出せなかった。
……嫌になる! しゃべりすぎた!
「……なんで、お風呂のお湯なの?」
顔を手で覆っていると、姉ちゃんがぼんやりと言った。
「高志がお湯になることないじゃん?」
不思議そうに首を傾げた。
「天の川が、お風呂だって勘違いしてたんだよ。織姫と彦星が仲良く入ってるって。だから俺は、風呂のお湯になって支えたかったの!」
言っていて嫌になった。部屋に戻ろうとした。
最後に父さんに近寄って言った
「母さん、すごくさみしがってたぞ。何とかしたほうがいいんじゃないの」
すぐに自室に走った。
扉を閉めた。ベッドにダイブした。
◇
うつぶせになってしばらく経った。ベッドのそばの置時計を見た。ふだんなら、全員寝静まる時間だ。
「智恵子」
父さんの声が、扉の向こうからかすかに聞こえた。母さんの名前を呼んだ。
とつ、とつ、と廊下を歩む足音。ふたつある。
「……何ですか! いまさら!」
感情的な母さんの声がした。こんな声、初めて聞いたかもしれない。
「ちっとも連絡しないで! もう知りません! 呼ばないでください!」
「話さないとわからないだろう」
「どうでもいいって思ってたんでしょう! あなたはいつもそう!」
「そんなわけないだろう」
母さんは何も言わなかった。
息を殺したような静寂が、扉の向こうから伝ってきた。
「すまなかった」
父さんが言った。
「お前のおかげで、ここまでやってこれた。いつも助かる。お前とここまでこれて、よかったと思っている」
「……何よ」
母さんの声は涙ぐんでいた。
「お前を守る役目は、これからも俺がする」
……ここでやるなよ。とは思う。
けど、邪魔はしないでおこうと思った。
◇
部屋の扉がノックされたから、びくっとした。
たった今まで、父さんと母さんが話し合っていた。気配が去ったと思ってすぐだった。
「高志。名古屋行くか?」
俺が返事をする前に、扉が開いて、父さんからそう言われた。
「……は? 名古屋?」
ぜんっぜん、わからん。どういうことだよ
「七夕に始まるだろ。7月場所」
俺は、肩をびくっとさせた。行けるなら行きたい。けれど。
「行けるのかよ?」
「家族で行く。6日から名古屋に行くぞ」
驚いて声を出せなかった。久々に顔を見せたと思ったら、そんな強引な。
「七夕は、大事にしたいからな」
父さんが、言った。
「……部屋、ノックしても、返事する前に開けたら意味ないから」
俺は、別の言葉で返事をごまかした。
「そうか」
父さんは扉を閉めた。
……行けるのか? 学校、夏休み直前だけどまだあるぞ。定期テスト後だから、大丈夫ではあるけど。
でも、安心した。
ほっとしてベッドに転がると、窓際にぶら下げておいた小さな茅の輪が目に入った。
父さんが無事に帰ってこれたのは、茅の輪の御利益なのかな、と思った。
「美咲。名古屋行くぞ」
「聞こえてたし! 行く行く! 明日から行こうよ~!」
「そのつもりだ」
姉ちゃんがはしゃいでいるのが大音量で聞こえた。
……忙しくなるな。
7月『天の川われても末に逢はむとぞ』 完
次回は7月31日に投稿します。