コンセプト・ブックシェルフ 3話『天の川われても末に逢はむとぞ』(7月)


 台所の流し台に、空のコップが置かれていた。
 コップの底に、麦茶の雫がたまっていた。
 それ以外は、流し台には何もなかった。ほかの食器は水切りカゴと収納棚に並べられていた。

 母さんと姉ちゃんはまだ寝ている。今は朝5時なので間違いなかった。もしふたりのどちらかが出したコップなら、飲み終わったら洗って、水切りカゴに置くはずだった。
 俺も、喉が渇いたから、起きて台所に寄っただけだった。一杯の麦茶でも飲んだら部屋に戻って寝るつもりだった。
 でも冷蔵庫を開く前に、台所から引き返した。父さんの部屋に入った。
 本棚とたんすとスーツかけとパソコン机だけ。殺風景な部屋。たんすを開けた。衣服がごっそりと抜けたスペースがあった。
 父さんはまた……家に帰っても顔を見せずに、すぐ職場へ向かったのだった。

『お風呂のお湯になれますように』と、短冊には書かれてある。
 造花の笹が2本、リビングの壁端に飾られていた。今年も七夕の一週間前から用意されていた。そこに赤い短冊が吊るされている。
 古ぼけた短冊を指で引き寄せた。笹の葉が揺れてかさりと鳴った。
 たしかに俺の字だった。幼稚園のころに書いたものだから、平たい癖字だった。意味は、書いた当人の俺ですらあまりわかっていない。
 毎年律儀に飾ることはないだろうに。笹の飾りつけは、年々質素になっていた。今までは折り紙でつくったカラフルな輪っかだとか、提灯だとか、家族それぞれの短冊を飾って、派手にやっていた。
 今年は裸の笹に短冊一丁だった。それなのに、この赤い短冊だけは忘れずに飾られる。

「出た。へんてこ短冊」

 ミントの香りがした。振り返ると、歯磨きをしながら家じゅうをフラフラしている姉ちゃんがいた。パジャマ姿だ。
 うまいこと口に隙間を空けて喋っている。

「姉ちゃんそれ汚えって。歯磨きしながらうろちょろする癖やめろよ?」
「何よぉ~」
「いつか床に歯磨き粉垂らすぞ?」
「あたひそんなへましないふぉ~」

 最後は何を言っているのか聞き取れなかった。姉ちゃんは口元を手で押さえて洗面所に駆け込んだ。言わんこっちゃない。
 背後からは、包丁とまな板の音や、具材の焼ける音がしていた。ミントに混じって、中華の香りを感じた。

「高志あんた起きたの。なら皿並べるの手伝いなさいよ?」

 台所に立ち入った。
 背中を向けたまま言う母さんには見えないだろうけど、リビングにある笹を指して言った。

「これ、飾ったの母さんだろ。やめてくれよ?」
「あら。かわいいじゃないのあの短冊。お母さんは好きよ?」
「かわいいってどういうことだよ?」

 返事はない。あくまでしらばっくれる気か。

「捨てていいから」

 そう言うと、

「何のことでしょう。知らない~」

 ……そう言ったあとは、料理に専念した。むかつく。
 しょうがないから、食器棚からお皿を出して、台所に並べた。

「お母さんにとって、七夕は何よりも大事だもんね~」

 姉ちゃんがこっちに顔を出した。制服に着替えていた。

「いじわるのひとつもしたくなるよ。七夕の準備をすっかり忘れてた高志にはさ~」
「なんで姉ちゃんが偉そうにしてるんだよ?」
「だってわたしは準備手伝ったもん。何たって、七月七日は七夕だけじゃなくて結婚記念日だし。ね~?」

 姉ちゃんは嬉しそうにそう言って母さんを見た。
 そうか。そんなこともあったが、忘れてた。大事な日だ。
 しかし……今年の笹は、すごい簡素じゃないか。

「あんたたち朝ごはんできたわよ」

 母さんが皿を食卓に並べた。中華粥だ。つけあわせは青菜とエビだ。
 鶏ガラの香ばしさが、起きたての胃袋に食欲を湧かせてくれる。朝にうれしいご飯だ。
 ……と言いたいところだけど。姉ちゃんから、まだかすかにミントの香りがした。

「においはどっちかに絞ってくれよ。食欲失せるだろ」
「は? におい? いきなりわけわかんないし」

 小競り合いしながら食卓についた。
 隣には姉ちゃん。真正面に母さん。
 席は4つある。お椀も4つ並んでいる。
 母さんだけは、俺たちとは違うおかずだった。サバの味噌煮に、トマトとレタスのサラダ。昨日の夕食の残りだ。
「いただきます」の号令をかけた母さんの顔は、無表情だった。
 何を考えているのかわからない表情だ。……ここ最近の母さんはずっとこうだ。
 姉ちゃんと俺は黙った。手を合わせて、「いただきます」の号令にならった。
 3人、無言で箸を動かす。食べやすくて、うまい。
 でも、こんなにうまいのに、正直どこか味気ない。

「お母さん。大丈夫?」

 姉ちゃんが言った。

「大丈夫って、何がよ?」

 母さんは吐き捨てるように答えた。
 姉ちゃんと俺は顔を見合わせた。正直困ってしまっていた。

「別に、心配されるようなことは何もないわ」

 続けざまに母さんが言った。
 ……ここ2か月。父さんの顔を見ていなかった。

「高志、ちょっと。外に出るから付き合いなさいよ?」

 朝飯を食い終わった午前10時だった。日曜だから、思う存分リビングでごろごろしていた。

「何? 母さん、どこ行くんだよ?」
「大事なことよ。それに男手があったほうが助かるの」

 母さんはむっつりした表情で言った。

「うえ。……何か買うのか?」
「さあ~? 別に?」

 はぐらかされると、むかつく。話の先が見えないから、もやもやする。
でも母さんがはぐらかすときは、たいていはポジティブな隠し事だ。俺にとっていいことだとか、家族にとっていいことだとかを隠しているときに、はぐらかす癖がある。

「わかったよ。今着替えるから」

 だから今回も従うことにした。ソファから身を起こした。

「早く準備なさいよ。2時間くらいで帰るつもりだから、荷物もいらないわよ」

 部屋で着替えて玄関に行ったら、母さんはすでに靴を履いていた。
本当にすぐ出発になった。
 日中はもう夏だった。日照りが強かった。梅雨が明けてからはとにかく暑い。

「なあ。どこ向かってるんだよ?」
「辛抱なさい。帰りにアイス買ってあげるから」

 最寄り駅から5駅ほど移動し、駅前でバスに乗って、途中のバス停で降りた。住宅地の路地をひたすら歩いた。
 通りがかりの塀の花壇に、紫陽花が見えた。
 梅雨時に咲き誇っていた艶と色味は失せていた。花も暑さに参っているのだろう。

「結構歩いたけど。まだか?」

 母さんは歩を緩めない。足が痛くなってきた。一度しゃがんで、また歩き出した。
 日陰になった神社の鳥居を、母さんがくぐった。後に続いて、俺も石段を登った。
 砂利の敷き詰められた広場が見えてきた。
 その瞬間、昔もこの神社に来た記憶がよみがえった。

「『お炊き上げ』か? そっか、6月末か。もうそんな季節なのか」

 前に行く母さんに聞きつつ、独り言をつぶやく。

「ほら。あんたも『茅の輪(ちのわ)』を3回くぐりなさい」

 広場に足を踏み入れた母さんは、砂利の中央に堂々と据えられた、巨大な緑の輪っかを指した。
 わらのような、自然の繊維で束ねられた輪っか。大人がゆうにくぐり抜けられるほど巨大だ。ライオンの火くぐりのように、縦に設置されている。
 俺の背は180だけど、輪っかは、俺の2倍、いや3倍はあるかもしれなかった。
 輪っかを見て、苦い記憶を思い出してきた……。

「どうしたの?」

 母さんが聞いてきた。

「……なあ。あれって材料、わらじゃねえの?」
「あんた子どものころから同じこと繰り返し聞くわよね」

 母さんはため息をついた。

「茅(かや)よ。あれは。それで、茅の輪って言うのよ」

 ……昔、子どもだった俺は、茅の輪を引き抜こうとしたのだった。


 11歳の、俺が小学5年生のころだった。
 それをしたせいで、こっぴどく叱られた。さんざん泣いたけれど、母さんにも父さんにも許してもらえなかった。
 あの大きな輪のわらを、持って帰りたかった。
 父さんが運転する車で、お炊き上げの神社まで行った。
 夜だった。人でにぎわっていた。祭りみたいだった。
 チョコバナナやベビーカステラの屋台。多くの雑踏。にぎわう人々。見上げればどこにでも見える笑顔。神事当日の夜。
 その雰囲気や熱気が好きだった。俺は帰りたくなかった。
『思い出』が欲しかった。その祭りの痕跡を家に持って帰れれば、寂しくないと思った。
 だから、当時の俺は、大きな輪っかに近づいて、掴んで、引っ張った。
 わらは思ったよりはるかに頑丈だった。ぜんぜんむしれなかった。ちぎることもできなかった。
 母さんが大慌てで駆け寄ってきた。
 俺は取り押さえられた。
 すごく叱られた。あんなに叱られたことは、これまでもそれからもなかった。俺は泣き喚いた。父さんに無理やり抱かれた。そのまま車に乗せられた。……思い返せば思い返すほど、苦い記憶だ。


 公共物を破損しちゃいけない、というのは、もちろんわかる。
 けどそれなら、優しく諭す選択肢だってあったはずだ。あのときの母さんは、鬼の形相だった。
 俺が神社に行かなくなったのは、それからだったか。俺がないならってことで、姉ちゃんも行かなくなってしまった。

「あそこまで叱られることだったか?」

 母さんに聞いた。

「半年の穢れとか、よくないものを、茅の輪に吸わせるのよ。くぐることで茅の輪が穢れを吸うの」

 母さんが言った。

「茅の輪をくぐった人は、それで半年は健康にいられるの。穢れを吸った茅を持って帰ろうだなんて、大量の穢れが家に入っちゃうじゃないのよ?」

 そっか。……俺は何だか胸が痛くて、返事ができなかった。
 母さんは広場を進んで、輪をくぐった。母さんの背中に続いて、俺もくぐった。
 左回り、右回り、左回り。3回くぐった。姉ちゃんと一緒に、輪の周りできゃいきゃいとはしゃいでいた記憶がよみがえる。子どものころは、くぐるだけで無性に楽しかったな。

 社務所に向かった。
 白いクロスがしかれたテーブルが、ふたつ横に並んでいた。
受付には白袴の男性がいた。

「今年もお願いします」

 母さんはそう言って、かばんから、ぺらぺらな白い人形を3枚出した。

「何それ?」

「だから、お炊き上げだって」
 ……あ。そういやお焚き上げって、人形、焼くんだっけ。
 白い人形には、姉ちゃん、母さん、そして父さんの、名前と年齢が書いてあった。母さんと父さん、ともに50歳。……嘘だろ? そんな年とってんの? ぜんぜん見えない。
 母さんと父さんの、人形の筆跡は一緒だ。姉ちゃんのはいかにもな癖字だった。

「お焚き上げのそれって、当日に渡すんじゃないのか?」
「事前に渡せるのよ。ほら、あんたは今ここで書いちゃいなさい」

 母さんがそう言って、もう1枚の人形と鉛筆を、かばんから手渡してきた。

「今かよ。家で言ってくれればよかったのに?」

 テーブルの上に人形を置いて、名前と年齢を書く。やり方だんだん思い出してきた。
 書き終わったら、人形で、体を撫でる段になる。
 自分の体の悪い場所や、治したい場所を、人形で撫でる。押し付けるような形で、だ。
 でも、持った手をふと止めた。俺は体に治したい場所なんてなかった。子どものころはどうしてたっけ。……肩を、人形でそっと撫でた。そんな記憶があった。
 最後に、人形に息を吹きかける。心をこめろ、って言われてたな。
 すべて終えて、人形を母さんに渡した。受け取った母さんが、受付の方に渡した。

「ようこそお参りくださいました。ご家族みなさんの厄をお預かりします」

 にこりと、俺を見つめて言った。
 直接渡さなかったことに、引け目を感じた。
 母さんは黄色いお札を受け取った。
 玄関に貼るやつだ。ここでもらってたのか。
 社務所の窓口には、掌に乗るくらいの小さな茅の輪が飾ってあった。
「初穂料500円」の札がついていた。
 これは小学生のとき買いたかった。そう思って見つめていた。
 母さんは500円をおさめて、茅の輪を授かった。俺に持たせてくれた。

「あのときこれがあればねえ。あんなに怒られることもなかったのにねえ」

 母さん。そこをえぐってきますか……。


「いつ、父さんと顔合わせたんだ? あの人形、父さん書いたんだよな?」

 帰り道の神社の広場で聞いた。
 母さんは何も言わなかった。

「……そっか」

 俺は会話を締めた。けど、沈黙が苦しかった。なので、また口を開いた。

「母さん、毎年来てるのか?」

 母さんが歩きながら振り向いた。影のある顔だけど、少し笑っていた。

「父さんと一緒にね」

 神社の石段を降りて、神社に振り返った。
 立て看板があることに気づいた。
『夏越大祓式 並びに 七夕祭』と書かれていた。

「天の川のことを、家にある風呂だって思ってたんだよ。……それだけだって!」

 姉ちゃんの追及が本当にしつこくて、逃げられなかった。俺だってあんまり、意味なんて覚えてなかった。

「はあ!? お風呂!? 意味わかんない!」

 姉ちゃんはソファに転がって爆笑した。ちくしょう。

「あはは……はぁ。そういや高志、小さいころは何かにつけてお風呂って言ってたね。ていうか、わたしがお風呂入るときにくっついてたし!」
「そうね。何をするにしても、美咲の背中を追い掛け回してたわね」

 体を起こした姉ちゃんの隣に、台所からやってきた母さんが腰掛けた。

「ね~!」
「そんなことまで思い出さなくていいから……」

 がっくり肩を落とした。このふたりには勝てそうにない。何で俺は今、このふたりが揃っているリビングにいるんだろうか。


 神社からの帰り道に夕飯の買出しをした。
 缶詰とか、野菜とか豚肉とかいろいろ買った。ビニール袋は俺が持った。
 母さんはいつもこんなのを持って家に帰っていたのか。
 帰ったらすぐソファで寝転がろうと思うくらいには疲れた。それでリビングに行ったら、姉ちゃんが座ってた。それからは、このざま……。
 ローテーブルの下に置いているノートパソコンを取り出して、起動させる。プログラムソフトを立ち上げて、プログラミングの勉強に励む。姉ちゃんの言葉には耳を傾けない。

「夕飯できたわよ」

 台所から声がした。時計を見ると、午後7時だった。
 俺も食卓に向かった。席に母さん、姉ちゃん、俺の3人が着いた。
 今日の献立のメインはハンバーグだった。肉が香ばしく、湯気をたてている。
 しらすとピーマンの炒め物と、きゅうりとにんじんの薄切りのサラダ。トマトのスライスに、豆腐とわかめの味噌汁だった。
 ハンバーグには和風おろしのタレがかかっていた。
 ハンバーグ4つのうち、ひとつだけは、大根おろしが大量に乗せられていた。そのほかに、厚揚げとおろし生姜もでていた。ビールの瓶も置いてあった。
 俺たちは、いただきますをした。
 ハンバーグは、しょっぱくてうまかった。周囲の野菜はしょっぱさを引き立たせる薄味で、これもうまい。
 10分もしないうちに平らげた。
 母さんの夕飯は、だんだんと湯気と水っ気を失っていった。
 俺はリビングに戻った。
 パソコン作業を再開した。次に時計を見たら、午後8時だった。
 台所にまだいる母さんは、目の前の皿に手をつけなかった。
 声をかけるのをためらう、背中姿だった。


 部屋に戻っていた姉ちゃんが、リビングを通って台所に来た。

「お母さん。電話。保留にしてる」

 母さんが、食卓から立ち上がった。
 姉ちゃんから子機を受け取った。耳に当てる。
 ……目に見えて落胆した。
 おそらく、父さんではなかった。いや、父さんからだったのだろうか。
 姉ちゃんは、悲しそうな顔をしていた。

「お母さん。大丈夫?」

 電話を切ったのを見計らって、姉ちゃんが尋ねた。
 母さんは何も言わなかった。

「ショックだよね。電話のひとつくらい、ほしいよね。今何してるんだろうね。お父さん、スマホすら持ってないんだもん。エンジニアなのに……」
「お父さんが決めたんだからしょうがないじゃない」

 母さんは早口で言った。

「寂しいよね……」

 そう言葉をかける姉ちゃんは、父さんの席に置かれた夕飯を、ラップで包み始めた。

「お父さんのプロポーズさ。『お前を守る役目は、これからも俺がする』って、言われたんでしょ?」

 力なく席に座った母さんが、うなずいた。

「……そっか」

 姉ちゃんもそれきり、何も言わなくなった。
 俺がリビングから自分の部屋に戻るまで、ずっと母さんのそばに寄り添っていた。

 ◇

 父さんが帰ってきた。
 午後6時だった。今日は7月5日。金曜日だった。
 実に何ヶ月ぶりだろう? 5月だから、2ヶ月ぶりか。意外と短いな。もっと時間が経っていたように思えた。
 久しぶりに見た父さんは、何だかあっけにとられるほど、変わっていなかった。
 5月に家を発ったときと同じスーツだ。同じ面だ。ひげもない。同じ体格だし。無表情なのも変わってなかった。
 たまたま、玄関で父さんが革靴を脱いでいるところに出くわした。すぐに姉ちゃんも玄関に来た。びっくりした顔をしていた。
 父さん、俺、姉ちゃん、3人とも言葉がなかった。

「……お父さん。電話した?」

 静寂を破ったのは、おかえり、でもただいま、でもない言葉だった。

「何のことだ?」
「お母さんに謝った?」

 姉ちゃんは、真剣な目をしている。
 真剣というより、怒っている。

「何で謝らなきゃいけないんだ?」

 姉ちゃんは全身の力を抜いた。がっかりした顔をしていた。あからさまにため息をついた。

「心配してたよ。じゃ」

 それだけ言って廊下を走った。部屋に戻って、扉を乱暴に閉めた。
 父さんは、きょとんとした目を俺に向けた。俺はばつが悪くて、顔を背けた。


 母さんはいつものように、料理をつくっていた。
 台所に置かれた4つの長皿に、ホッケの開きが一尾ずつ乗っていた。

「母さん、父さん帰ってきたぞ」

 俺がそう言ったら、母さんは、ガスコンロの火を止めて玄関に飛び出すだろうな。そう思っていた、が。
 料理に集中したままだ。手元を見たまま。何も言わない。

「……聞いてるのか? 父さん、帰ったって。たぶん自分の部屋で着替えてるぞ?」

 黙々と調理している。これではもはや、無視だ。

「今更」

 ぽつりとつぶやいた。
 これ以上俺は何も言えなかった。
 俺はリビングに戻って、ノートパソコンを開いた。
 父さんと母さんが、顔を合わせるのが怖かった。


 夕食に会話は、いっさいなかった。父さんたちだけでなく、俺たち姉弟もなかった。
 夕食を終えて、家族4人、リビングに集まっていた。
 父さんの指定席のソファに、父さんの姿があることが、何となく変だった。
 テレビには録画した相撲が映っていた。五月場所だ。
 父さんは、大の相撲好きだ。というかボクシングも好き。柔道も好きだし、総合格闘技も見ている。たぶん、そういう畑なのだろう。
 父さんの影響か、俺もわりかし相撲は好きだ。ただ、仕切りなおしがなく、一回目から立ち合いが成立する相撲が好きだ。
 猫だましとか、引き落としとか、一瞬で立ち合いが決着する技は好きじゃない。
 たった今テレビで、鶴竜が豪栄道に黒星をつけたところが映し出された。1分も粘って白熱した、面白い取り組みだった。俺は、うお、とうなった。
父さんは、声もあげず、身じろぎもせずに、まじまじとテレビを見ていた。
 困ったことに、俺の隣に座っている姉ちゃんが、大あくびをした。

「つまんない」

 信じられないことを堂々と言った。冷汗が落ちる思いだ。

「面白いだろ。ていうか父さん、テレビ見るの久々なんだぞ? 付き合えよ」
「裸と裸の人が押し合いしてる意味がわかんない」

 本気で言ってるのか?

「相撲っていうのはな、国技として見るってより、純粋な……」

 俺の力説を無視して、姉ちゃんはローテーブルのリモコンに手をかけた。
 ……ふだんだったら、母さんが姉ちゃんを制する。だけど今日の母さんは、リビングにはいるものの本ばかり読んで、何も言わない。

「チャンネル変えるよ~」

 ああ、無常。録画の相撲は、姉ちゃんによって金曜ロードショーに切り替えられた。
 恐る恐る父さんの表情をうかがった。まったく変わってなかった。それでいいのか。
 今日の金曜ロードショーは、アニメ映画だった。
 俺が幼稚園のころに上映されたもので、父さんに連れて行ってもらったことがあった。

「なつかし~! うわ、これ見た~」

 映画が始まってからすぐ、姉ちゃんはあれこれとはしゃいだ。
俺も同じ気持ちだった。映画館で見て、DVDで借りて、何度も見たはずのに、面白い。
 ふと、父さんの様子に気づいた。
 アニメ映画を、父さんも、ずーっと、熱心に見ていた。
 寝てると思ったから少し驚いた。
 父さん、アニメ映画は趣味じゃなかった。だって幼稚園のころに連れて行ってくれた映画館では、寝てたから。
 今、テレビには、家族のために戦う父親が登場していた。
 その父親の過去話だ。
 新幹線に乗って上京するシーンが流れた。
 新入社員として紹介された。営業のかばん持ちをしていた。デスクの上司に叱られていた。飲みの席で、複数の同僚からなぐさめられていた。
 シーンが切り替わった。春の桜並木だ。彼は、伴侶となる女性と一緒に歩いていた。
 夜。病院に駆け込む革靴。医療室の奥に、ベッドに横たわった伴侶の女性。赤ん坊を抱えている。安堵した表情で近寄った。赤ん坊はぐっすり眠っていた。
 切り替わって、一軒家が映った。引越しに張り切る父親。大きくなった子どもが、父親の足にしがみついている。子どもの隣には伴侶の女性。
 替わって真夏。うだるような暑さの大通りを歩く父親。取引先に訪問して名刺交換。深夜までパソコンとにらみ合って残業。つり革につかまったまま、うつらうつらとする帰りの電車。足取りが重い、夜の路地。
 マイホームに立ち止まった父親は、インターホンを押した。
 暗かった家の玄関に、明かりがついた。
 子どもたちが、父親を迎えた。
 シャツ一丁になり、明るいリビングで、ビールをあおった
 家族4人で、笑っていた。
 シーンが変わって、夏の大空になった。
 父親をはじめとする4人は、自転車に乗って、釣り竿を背負って、バスケットを前かごに乗せて、どこかに出かけていた。

 俺はこのシーン、好きだ。子どものころから、よくわからないなりに好きだった。
 父さんは、テレビをじっと見ていた。
 真剣だった。

 ◇

 父さんが、リビングの笹の前で立ち止まっていた。
 赤い短冊を手に持っていた。まじまじ、持った手元を見つめた。

「お風呂のお湯になれますように」

 父さんが言った。俺は頭を抱えた。

「高志。お前、これはアレか?」
「アレじゃわかんねえんだって……」
「これはどういう意味なんだ?」

 こうなった父さんは、自分の好奇心を消化しない限りは離してくれない。

「あ。わたしもききたい!」

 パジャマ姿の姉ちゃんまで参戦してきた。八方ふさがりだ。
 逃げ場はない。……わかったよ。

「織姫と、彦星」
「は?」
「織姫と、彦星って、1年に1度だけしか会えないんだろ」

 姉ちゃんはぽかんとした。

「それが何だって言うの?」
「そんな特別な日だっていうんならさ。……そんな日くらいは、のんびり風呂に漬かってほしいと思ったんだよ」

 だって母さんは、七夕が大好きだったから。
 ひな祭りも端午の節句も。祝い事は欠かさなかった母さんだけど、七夕にはひとしお思い入れが違うって、子ども心ながらわかっていた。
 母さんは織姫と彦星の話が好きだった。
 姉ちゃんが織姫で、俺が彦星。そんな風に、幼稚園児だった俺たちが母さんに言ったことがあった。
 すごく弾けた笑顔で俺たちの頭を撫でてくれた。

「だから、その……一緒に仲良くしてくれたらって。風呂にでも浸かって、疲れをとってくれたらって。父さんと、母さんもさ」

 実際に当時の俺が、そんな願いを込めて書いたかなんて、思い出せなかった。
 ……嫌になる! しゃべりすぎた!

「……なんで、お風呂のお湯なの?」

 顔を手で覆っていると、姉ちゃんがぼんやりと言った。

「高志がお湯になることないじゃん?」

 不思議そうに首を傾げた。

「天の川が、お風呂だって勘違いしてたんだよ。織姫と彦星が仲良く入ってるって。だから俺は、風呂のお湯になって支えたかったの!」

 言っていて嫌になった。部屋に戻ろうとした。
 最後に父さんに近寄って言った

「母さん、すごくさみしがってたぞ。何とかしたほうがいいんじゃないの」

 すぐに自室に走った。
 扉を閉めた。ベッドにダイブした。

 うつぶせになってしばらく経った。ベッドのそばの置時計を見た。ふだんなら、全員寝静まる時間だ。

「智恵子」

 父さんの声が、扉の向こうからかすかに聞こえた。母さんの名前を呼んだ。
 とつ、とつ、と廊下を歩む足音。ふたつある。

「……何ですか! いまさら!」

 感情的な母さんの声がした。こんな声、初めて聞いたかもしれない。

「ちっとも連絡しないで! もう知りません! 呼ばないでください!」
「話さないとわからないだろう」
「どうでもいいって思ってたんでしょう! あなたはいつもそう!」
「そんなわけないだろう」

 母さんは何も言わなかった。
 息を殺したような静寂が、扉の向こうから伝ってきた。

「すまなかった」

 父さんが言った。

「お前のおかげで、ここまでやってこれた。いつも助かる。お前とここまでこれて、よかったと思っている」
「……何よ」

 母さんの声は涙ぐんでいた。

「お前を守る役目は、これからも俺がする」

 ……ここでやるなよ。とは思う。
 けど、邪魔はしないでおこうと思った。

 部屋の扉がノックされたから、びくっとした。
 たった今まで、父さんと母さんが話し合っていた。気配が去ったと思ってすぐだった。

「高志。名古屋行くか?」

 俺が返事をする前に、扉が開いて、父さんからそう言われた。

「……は? 名古屋?」

 ぜんっぜん、わからん。どういうことだよ

「七夕に始まるだろ。7月場所」

 俺は、肩をびくっとさせた。行けるなら行きたい。けれど。

「行けるのかよ?」
「家族で行く。6日から名古屋に行くぞ」

 驚いて声を出せなかった。久々に顔を見せたと思ったら、そんな強引な。

「七夕は、大事にしたいからな」

 父さんが、言った。

「……部屋、ノックしても、返事する前に開けたら意味ないから」

 俺は、別の言葉で返事をごまかした。

「そうか」

 父さんは扉を閉めた。
 ……行けるのか? 学校、夏休み直前だけどまだあるぞ。定期テスト後だから、大丈夫ではあるけど。
 でも、安心した。
 ほっとしてベッドに転がると、窓際にぶら下げておいた小さな茅の輪が目に入った。
父さんが無事に帰ってこれたのは、茅の輪の御利益なのかな、と思った。

「美咲。名古屋行くぞ」
「聞こえてたし! 行く行く! 明日から行こうよ~!」
「そのつもりだ」

 姉ちゃんがはしゃいでいるのが大音量で聞こえた。
 ……忙しくなるな。



7月『天の川われても末に逢はむとぞ』 完

次回は7月31日に投稿します。