【連載第3回】「顔だけじゃ好きになりません」を読んでみて思ったこと <ヒーローの屈折>

記事の目的地が決まっていない…
↓今回は「せかきら」のネタバレが多いです↓


安斎かりん「顔だけじゃ好きになりません」を今年1月に読みはじめて、既刊6巻までを読みました!以下、思ったことをまとめます。(書いてるうちに7巻出たけど)

前回は、少女漫画にみられる本気度の高いギャグについて振り返ってみました。


ヒーロー(=主人公の相手役)の屈折

1巻を読んで衝撃を受けたのは奏人先輩の人物像(留年、友達いない…など)で、ふつうに「こんなにこじらせている人、面倒くさいなー…」と思ってしまいました。

アンチヒーローというか、自分が読んでた一昔前の学園もの恋愛少女漫画では見かけなかったようなヒーロー像だったので、
(ちなみに自分が少女のころ連載されていた少女漫画のヒーロー(=主人公相手役)はしっかり者系だの爽やか系だのといったヒーロー像が一般的で、彼らが携えていた誠実さ、実直さ、能力の高さ、人望の厚さ…などの点において奏人先輩は劣るところがある代わりに「過剰なまでの正直さ」を発揮することでアドバンテージを保っている…と思われる)


ふむふむ、こういう欠如がまた魅力になるんだなー、でもダメ男に恋愛する類の話とはまた違うんだよなー、うーん…と色々思いを巡らしたところ、「世界でいちばん大嫌い」の杉本真紀に条件的に被るところが多いのでは…と次第に考えるようになりました。

ちなみに杉本とは↑の左の人物です。
この絵は描き直した絵ではなくて連載当時のカラー絵なので懐かしいな~

しかも自分、この記事の連載1回目で「せかきら」を解説したわりに、すっかり忘れていて全然説明できていなかったことがあるんですけど、杉本って最初は万葉のこと嫌いだったんですよね。
記事を書いていてだんだん思い出してきたんですけど、杉本って、奏人先輩よりも全然格段にいろいろと拗らせた面倒くさい相手役だったな…とつくづく思いました。(ひどい)

杉本自体は、万葉にとっては一番下の弟が通う保育園の男性保育士さんの友人、という関係性で出会った相手です。(ややこしいね…)


いろいろと説明端折るんですけど、奏人先輩に重なるんですが杉本も、他者への不信感が人生でMAXの時期に万葉に出会うんですよね。。正確にいうとMAXの時期は過ぎてたかもしれないけど、万葉の存在を知った時も

  • 万葉は自分とは育った家庭環境が違いすぎる

  • 恋人のいる人に何も知らずに片思いしている万葉が、過去の自分みたいで見ていて嫌気がさす

  • 東京で美容師を経験したものの、地元に戻って兄夫婦の美容室で働き始めた時期(落ち着いてはいるけど停滞感がある)

…みたいな、後ろ向きな感情にとらわれていて、でも万葉と初めて言葉を交わした時、これまでの自分の殻を一気に破って、ちょっと怪しいオネエ言葉の美容師としてのキャラを押し出してみるのです(オネエ言葉自体はもっと他の事情も絡んで彼がやっていることなのですがその辺の説明は割愛)。そんなこんなで案の定万葉から拒絶されたり嫌われたりするも、そんな万葉とのやりとりを心から楽しんでいる自分に気づいて――という心情の変遷がありました、、ということを、連載の後半で杉本が万葉に打ち明け、読者は事情を知ることになります。

とにかく、

  • ヒーローが陰であり、主人公が陽であった

  • 主人公ではなくヒーローが屈折を乗り越えていく

というところで「顔好き」となんとなく被るなあと常々思っていたのでした。

ちなみに杉本のオネエ言葉が許されたのも、この当初のふたりの絡みがそういう性質のもの(=大嫌い!から始まる、かつ最初は杉本は怪しい美容師)だったからなのでは??と私は思うのですが、今思うとよく当時、編集担当者さんがOK出したなあ…と思います。

担当者さんもノリノリだったかは怪しいところがあるなと感じられたのが、コミックスのおまけページでも日高万里先生がとりあげていたんですけど本誌で掲載されている登場人物紹介の杉本の欄に当初「オネエ言葉をあやつって」と書かれていたということ…。日高万里先生もそれ発見してツボったというエピソードでしたが、担当者さんには杉本のオネエ言葉のアイデンティティについて、あまり理解されていなかったのではないでしょうか。。と、いうのは私の思い込みでしかないですが。(たしかその人物紹介文はその後変更してもらってたはずです)

でもオネエ言葉のヒーローは、読者からけっこう受け入れられて、愛されていたと思います。
でも…でも…連載終盤のキャラ人気投票では本庄が1位だったような気がする。。(今度少女まんが館で確かめてみよう) 後半の追い上げ、扇子・本庄カップルの展開がおもしろかったですしね!

いずれにせよ、杉本というキャラクターは、読者少女たちから圧倒的支持を集めるという重責のある使命を最初の一コマ目から課されているヒーローポジションでありながら、外見の女性的美しさや女性的話し言葉を取り入れてもこんなにナチュラルにラブコメとして成立するんだぜ!というのをよく体現しているキャラクターだと思います。



次に奏人先輩と杉本が重なるのは、↑直前の文章で触れちゃいましたが、ふたりとも美しいキャラクターだということです。

「顔好き」を読み始めたときも「なるほど!」と思ったのは、イケメンや美形の定義。男らしさやかっこよさというよりは、女性的ともいえる美しさ、整った美が支持されるんだなと思いました。

「せかきら」も当時読んでて楽しかったことのひとつは杉本が美しいということなんですよね。
「顔好き」の7巻、実はもう読んだんですけど、ファッションショーをやってヒーローの美しさが爆発的に発揮される…という展開も、ファッションショーで圧倒的な美しさの花嫁に扮装した杉本のことを思い出したし、奏人先輩も杉本も、どちらかというと女性が享受しがちだった「美の領域」に住まっている男性像という感じがするんですよね。

私が読んでないだけで、美と繋がりの深い男性キャラクターはこれまで少女漫画でも多く描かれてきたと思うのですが、奏人先輩も杉本も女性に勝る美しさでありながら、あくまでも主人公を深く魅了するヒーローポジションキャラクター(=恋愛対象)であるのが気になりました。



主人公を凌駕する美を持っている存在でありながらも、しかも天真爛漫な主人公の手に負えないほど屈折した過去や心情を抱いていながらも、なぜ彼らは主人公たちの恋愛対象から外れないのか?


ひとつは、冒頭でも指摘したのですが、なんだかんだいって彼らが正直であるためではないか…と思います。
主人公に対してとてもはっきり「好き」と感情表現する人たちなんですよね。

「顔好き」1巻の感想冒頭に書きましたが、「なぜイケメンを好きになるのか?→顔が良ければそれが他の欠点を凌ぐ担保になるからであろう」とわたしは当初考えました。
しかし恋する人間(=盲目、信奉状態)を裏切らない(=盲目、信奉状態が解け、冷静になったときも持続する)もう一つの最大の担保、それは「正直さ」なのではないか…と「顔好き」を読んでいて思いました。いかに正直か、素直か。
「顔好き」の主人公・才南の心は、奏人先輩が愚直なまでに正直だったから動かされたのではないでしょうか。

↑冒頭で「過剰なまでの正直さ」と書いたのですが、奏人先輩はたぶん半ばヤケになっていたのか、出会った当初から自分のダメなところをばしばし才南に提示します(こういうとこが「重い」んですけど…)。でもその代わり、奏人先輩は自分の中の感情にも正直で、自分の気持ちがわからない時はわからないと言うし、才南を「好き」「大事」と思ったらちゃんとそれを伝えられます。才南から深く愛され、そして多数の読者から支持を得るため絶対に必要な要素、それが「正直さ」なのだと思います。
というかこんな無気力で、留年してたり友達いなかったりして、『人間に残された最後の良心=正直さ』すら発揮できなかったら、絶対世の中渡っていけないと思いました(ひどい)。

杉本も、万葉に対して、出会った当初は屈折した思いだったけど万葉を好きな自分を受け入れてからは臆面もなく好きという感情を彼女に伝えます。
大人の男としてきちんと抑制は効いてるし、大人の事情で万葉への隠し事はそこそこ多かったものの、人格としては少女漫画の世界にぴったりの感情表現が豊かな愛らしいキャラクターという感じに連載を通して成長していきました。

※ちなみに両者にみられる強引さや押しの強さは、読者サービス表現としての意義があって組み込まれているのではないかと感じられるため、スルーしています。


正直さが人を裏切らないかっていうのは実はけっこう主観的な問題だとは思いますし、何をもって「正直」といえるのかは、何が真実なのかと同じくらい曖昧かもしれません。
でも正直さを定義している尺も無いしそこが今の本題でもないので、ここでいう正直さとは、ひとまず「心を開けるか」「相手が開いてくれた心を素直に受け取る度量があるか」を指すこととします。

そしてその正直さというのは、誠実さとか主人公との信頼関係のために発揮されるというより、彼らが屈折しこじらせているからこそ、彼らには正直でいる必然性があるのだと私は思います。
なぜなら自己否定は彼らが主人公と出会う前までの間ずっとしてきたことだからです。そして主人公と出会って、まず主人公に自分を許容してもらうこと=結ばれてはいないけど人間関係を築くこと、それだけで彼らは正直になる力や勇気を手に入れているわけだからです。正直さとは屈折したアイデンティティと対になっている性質だと思います。(堂々と屈折していること自体がすでに正直かもしれないです。何を言ってるのかよくわからないけど)
正直さとは屈折した自分を受け入れること。そしてその自分自身でもって相手を愛するのだという自分の気持の肯定。それが出来ていることが彼らの強みなのだと思います。


そしてなぜここまでヒーローが、傷つき、こじらせているのか?正直になる力や勇気を手に入れるのはなぜ主人公ではなくヒーローなのか?

それは読者が主人公だけでなくヒーローにも自己投影する読み方が、広く一般的に許されるようになったことの証ではないかと思います。

主人公が自己否定に悩んで成長する話でもいいのですが、やっぱり少女漫画の主人公がネガティブだと作品全体の雰囲気に関わってしまうと思います。。
主人公が背負えない屈折を、アンチヒーロータイプの相手役が一手に引き受けているのではないでしょうか。

おもしろいなと思うのはこの2作品のような低年齢層OKの作品だと、アンチヒーロータイプの相手役であろうと、あくまでも主人公が恋する相手としてブレずに魅力的に描かれているってことなんですよね。(もうちょっと読者層が大人の、リアリズム系の少女漫画だと人間性をリアルに描写するので、屈折はもうちょっとダメ人間的な感じに描かれている気がする。一方で「顔好き」や「せかきら」は子供が読んでも問題ない道徳観が根底にあると思う。)

読者の少女たちは、主人公の気持ちに乗っかってヒーローを元気づけ、疑似恋愛をするのですが、同時にヒーローが背負うコンプレックスや孤独感にも自己投影し、ヒーローとともに主人公に癒してもらい、主人公から愛してもらうのです。
だからヒーローが正直であることも、美しくあることも、「こうなりたい」と読者が好意的に思える対象の条件として成立するんじゃないかな?と思います。


漫画の読み方は人それぞれだし、年齢によってどう読むかも全く違うと思いますが、このようにひとつの物語をひとつの視点ではなく複数の視点から同時に味わい楽しむことを、漫画読んできた少女たち(少年も)ってけっこう小さい時期から無意識にやってるんじゃないかな~~と思います。

心の中で一人二役ができること、重層的に物語をとらえられること、こういったことはとても複雑な認知行為だと思います。


最後の方はでっかい話につなげてしまいましたが、「顔好き」と「せかきら」を比較したくなる理由を、ヒーローの人物像という切り口で紹介してみました。

次回、ファッションの話とかをちょろっとして、そろそろ終わりにしたいと思います。。

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