【連載第4回】「顔だけじゃ好きになりません」を読んでみて思ったこと <「推す」ことと存在意義>

安斎かりん「顔だけじゃ好きになりません」を今年1月に読みはじめて、既刊7巻までを読みました!(7巻の感想はまだ書いてない)以下、思ったことをまとめます。

前回は、「世界でいちばん大嫌い」の美形相手役・杉本と、「顔好き」の奏人先輩、このふたりの特徴をまとめ、なぜ美しい・うるわしい系でかつ病みっぽいところのあるヒーロー像が受け入れられるんだろう、みたいなことを考えました。

が、前回の記事で私がすっかり見落とし、完全にスルーしてしまっていた事柄にこのたび気づきました……

それは、杉本・万葉間に「推す」の感情はないけれど、奏人先輩・才南の間には「推す」という感情があった!ということです。
あった!っていうか、ありましたね!という感じで、みんな知ってたことなんですけど…


(前回の記事、久しぶりに読み返してみたけど見落としてることなんてこの一点どころか多量にあるよなあと思いますがまあいいや、網羅できないし)


「推す」ことと存在意義

自分は「推す」ことに全然興味がないんで、なんでだろうって考えてみたんですが、「推す」って感情や行為は存在意義に関係している気がするんですよね…

ちなみに「推す」「推し」の定義は誰かが提唱していると思うのでそちらを参照してください。
自分は「推す」ことそのものをここで考えたいわけではなく、「顔好き」に描かれた「推す」という感情を参考に「せかきら」とどう違うのか考えたいだけなので、そのことだけ語ります。


たとえば「せかきら」の万葉って、杉本のこと好きだし、杉本の容姿とか性格に対してフェティシズム的に好きだろうとも思うんですけど、別に推しているわけじゃないと思うんですよね。「ツボってる」っていうのは感じ取れるけど、「推し」てるわけじゃない…

「せかきら」の場合は万葉が杉本のことを好きな気持ちと、まったく関係なく万葉は万葉としてそもそも存在しているというか…
杉本を失っても、杉本を好きな気持ちをたとえば万葉が失くしても、万葉は万葉として生きて存在しているんだろうなってことを当たり前に思えるんです。

でも「顔好き」の才南たちの場合、「推す」という感情や行為を抜かすと彼らそれぞれの存在意義がいったん無くなる感じがするんですよね。
才南はまず「見る者」として存在し、奏人先輩は「見られる者」として存在していて、この構造の基盤がたとえば何かを理由に無くなったら、いったん彼らの間の関係性がリセットされて、OFFになってしまうように思える。

「推す」構造が消えてOFFになっても、「せかきら」みたいに個々人の私的な感情によって関係性が繋がればいいんじゃないか?繋がれるんじゃないか?と思うんですけど…どうもその状態にスムーズに移行できるとは思えない…

たぶんなんですけど、他者への気持ちのベクトルを「推す」で包んでいた場合、当人の主体性じゃなくて、「推す者」「推される者」の構造にのっとった形でベクトルを向ける動力を得ていたんじゃないか…と思われる、のです。(が、、、どうなんでしょうか。)

どういうことかというと、下記の図のような感じです。

またペイントで作りました・・・

全然うまく説明できてる気がしないんですけど、なんで自分が「推す」行為にほとんど興味ないかっていうと、「推す」対象自分の存在意義は結びついておらずまったく関係ないって考えるたちの人間だからです。
応援したいなとか好きだなって思う芸能人やキャラクターがいても、その人たちは主体性をもった一人ひとりの人間だし、自分はその人たちと何ら関係の無い存在意義を自立して持っていて、その人たちがどう行動しようと活躍しようと、自分自身の存在とは完全に別個の営みであり、
もしその人が活動を辞めたとしても、その人個人の生き方をするんだろうから元気でいてくれたらいいなーとか考えると思うんですよ。自分の淋しいって感情は自分の中で完結する問題だしね。


だから「顔好き」の「推す」は…②に感じるというか、
『才南って、②のAの位置にいたから奏人先輩を推してたんでしょ。奏人先輩が「見られる者」だったから好きだったんでしょ。①の、お互いに平坦な場所に立っていたら、好きだった?何かできた?』って考えちゃうんですよね… (なぜか詰め気味)

「推す」は、私の中では②の構造を持ってないと成立しない感情・行為に思えるので、どことなく「推す」という感情に個人の私的な好意や恋愛感情を乗っけてしまうのには懐疑的になってしまう…


「推す」という行為や感情はそもそもファンタジーを関係性に当てはめたものであると私は感じるんです。
一対一とか直とかリアルの関係性じゃないのに、あえてその過剰さを加えた設定内でファンタジーを形成しているような感じ。


幸い「顔好き」はその「推す」と「好き」の混じりあったグレーな部分を、都度、ちゃんとリアルな一対一の関係性に見合った感情に落とし込んで、才南と奏人先輩の関係のステップアップを描いているので
「推し」という感情が好きの基盤でいいのかなーとは思うけど、ふたりが現実的にいま出来ることにはちゃんと取り組んでいるという納得感(何様…)はちゃんとあります。


でも、漫画がこうってことは現実の小学生とか中学生も、「推し」と「好き」を混ぜてるんじゃないかなー…とか、ちゃんと身近な人たちのことをひとりの人間として見て、自分の存在ときっちり分けた他者として見て、関係性を築けているのかなー…(何様…)とか、いろいろ心配になるんですよね。だって好きぴと彼ぴは違うっていうほどの世界なんですもんね……

私だって「好き」という感情がもっと多様に、豊かに、あまねく増えてほしいと思ってはいるのですが、自分の気持ちの動力は自分の意志や主体性で賄おうよ…って思うし、傷つくことを恐れるあまり構造に感情を任せたほうが楽になってしまうのかなーとか
ちょっと拡大解釈気味ですが、現実の感情の問題についても思いを馳せてしまう「推す」こと問題でした。

当たり前なんですけど、全体的に異論はもちろん認めますーー(「認めます」という言い方も偉そうなほど。異論もちろんです。)
「推す」って感じ、結局よくわからないんですよね。


次こそ、ファッションの話をして、終わりたいです…。

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