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やさしさはどこからくるの?

#やさしさ #本当のやさしさ #想いの受け取り合い #抽象的な話 #意見がねじれ気味 #細かいことは気にしない #やさしい世界になればいいな   

どうも。今日は、頑張って追加注文せずにサラダセットで朝マックに挑戦した、じーもです(まず朝マックを辞めた方がいい気が 笑)。

さて、今回は…なんだか結論が出にくそうな、どうともとれそうな、そんな話題について考えます。どうかみなさん、この数行を読んで読むのをやめないでください。(笑)

やさしさって何?

よく「本当のやさしさ」みたいなこと、言うじゃないですか。あれ、なんなんだろう、と思うわけです。たまに料理でもあるじゃないですか。「ハンバーグを超えたおいしさ、究極のハンバーグ」みたいな。え?もうハンバーグじゃないの、ハンバーグなの、どっちなの?みたいなやつです。(ちなみに私はそう思いながら大好きなハンバーグにつられて食べちゃう人です。笑)

まぁ、今のはちょっといきすぎた例なんですが。私にとってのやさしさは、互いにその行為のおかげでなんだかほっこりした状態になること。みたいな感じです。うん、書いていて思いました。とっても主観的だって。笑

でも、たぶんそんなもんだとも思います。もっと抽象的なイメージで言うと、想いの受け渡し、です。例えば、泣いている子を慰めるシーン。

Aちゃんは仲間外れになってしまい、泣いています。そこへB君がやってきて、「一緒に遊ぼう」と言います。泣いていた顔を上げ、にっこりとAちゃんは「ありがとう」の一言。

この時を考えると、B君は何かしてあげたいと思って(もしくは自然と)Aちゃんに近づくわけです。そこで、B君は何か力になりたいという想いをAちゃんに渡していると考えます。で。それをAちゃんは受け取って、ありがとうという想いをまた返す。つまり、結局のところお互いに想いを受け取り合っている状態です。もちろんこんな場合もあります。

Aちゃんは仲間外れになってしまい、泣いています。そこへB君がやってきてきて、ひたすら横へ座っています。何を言うこともなく。そして、徐々にAちゃんは気持ちが落ち着きます。そのタイミングでB君はどこかへ行ってしまいました。Aちゃんも何も言わず、その場を立ち去ります。

少し極端な例かもしれませんが、この場合も、二人はおそらく想いを受け取り合っています。何か行動に表れるわけではないですが、確かにその空間にはやさしさがあると思います。

どこからくるの?

さて。やさしさについてまとめると、(目に見える)形ではなく、想い(目には見えないもの)を互いにやり取りしている状態を"やさしさ”と呼ぶ、としました。…うん。ややこしいです(性格が出ている 笑)。要するに、やさしさは独りよがりではないはずだ、という持論です(とくに最初に受け取る人の気持ちが大事)。

なんだか本当のやさしさとは何か、みたいな話になってますけど、そうではなくて。人それぞれにやさしさの定義は違うよね、ってことが言いたいんです。(そこまでが長い 笑)

で。その上で、やさしさはどこからくるの?って話。

「かわいそうだから?」「その人が大切な人だから?」「使命感から?」「見栄を張りたいから?」「義務感から?」「学校で教えられたから?」

いろいろあると思うんです。これは、偽善者という言葉を考えることと似ているかもしれません。実は私も中学生のころに、偽善者と呼ばれたことがあって。

そのときは、正直、とってもいやだったんです。なんでそんなことを言うんだ?!みたいな。はい、怒ってましたね。うん。怒ってたと思います。だって、なんだか否定された気分になるから。別に偽っているつもりはないのに、そうやって見られていることがいやだったから。だと思います。

今なら、偽善者と言った人の立場のことも考えることができます。中学生だったので、きっと、反抗してみたいという気持ちもあったと思います。不良の方がかっこいい、みたいな。他にも、中途半端なことをしているだけで、根本的な解決にはなっていないから、そんなことを言うのが嫌いだ、みたいな。(後者は大人にも多いかもしれません。)たぶんその人のこれまでの経験によるところも大きいとは思いますが。

で。ですよ。偽善者と言われた当時の私はおいといて。仮に偽善でする行為と本当のやさしさからする行為(あ、本当のやさしさって言葉つかっちゃった 笑)。その行為に何か違いはあるんでしょうか?

大切なのは…

違いはありませんよね。上の例で挙げたB君が仮にAちゃんのことを好きで、かっこつけるために近づいたとしても。一人の人間を救うべく気概で近づいたとしても。おそらくAちゃんは同じようにB君に対して想いを渡していたと思います。そうなんですよ。結局変わらないんですよ。だからね。

やさしさがどこからくるなんて関係ないんですよ。

かわいそうという気持ちからボランティアをするのは偽善だ、とか。見栄を張るために寄付をすることは邪道だ、とか。どうだっていいんですよ。大切なのは、行動を起こした事実であって。その行為から、何か想いを受け取ってきっと返してくれるんです。初めの人がどんな想いでした行為であっても。

…え?想いを受け取り合うということは、初めの人の想いも大切なんじゃないの?って。…あなた、するどいですね。そんな的確な指摘をして、私をどうしようっていうんですか。…あ、いえ、どうもなりません。むしろ、今読んでいただいてありがとうございます。

実はこの記事にも書いているんですが。

言葉でさえも、思い通りに相手に伝わらなくて。考えてることを伝え合うって、けっこう難しいんですよ。だから、もちろん想いがあってやり取りできることが理想ですけど、そうじゃなくたっていい、と思うわけです。

ちなみに、これは余談ですけど。根本的な解決にはならないから偽善だ、っていう人。…いや、根本的な解決ができそうならとっくにその問題、解決してるでしょ!!…というツッコミでした。

最後に。

少しややこしくなっちゃったかもしれません。まぁ抽象的なことを考えているので仕方ありません。悪いのは、この内容を選んだ私と読んでいるあなたです。(うそです。ごめんなさい。)

以上。少しでもやさしい世界になりますように。今日もお付き合いいただきありがとうございました。よければまたお会いしましょう。では。

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