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怪獣とは何かを問う最終章『GODZILLA 星を喰う者』

 何はともあれ、ゴジラの新作が半年おきに公開されるというのは、幸せな日々であったように思い返せる。2005年から『シン・ゴジラ』までの空白の期間、冬の時代を生き延びた一介のファンの意見だが、供給過多と言ってもいいほど恵まれていた一年間だった。

 国内初となるアニメーション版ゴジラ、通称アニゴジ三部作がついに完結した。どの作品も賛否両論渦巻く中、ついに最強の敵ギドラが登場し、多種族の登場人物が織りなすドラマもいよいよ佳境へ。「メカゴジラシティ」などのエッジの効きすぎた設定がいろんな意味で楽しませてくれるシリーズだったが、本作も一筋縄ではいかない、難儀な一作であった。

 地球生態系の最上位に君臨する怪獣の王ゴジラと、両親を奪ったゴジラ討伐に執念を燃やす主人公ハルオ。その闘いは地球人類のみならず、二つの異星人の主義・主張ともぶつかり合い、「人として」ゴジラを倒すことを選択したハルオの決断によって、メカゴジラシティ、そしてビルサルドの理念はゴジラに敗れ去った。

 続く第三章にして完結編『星を喰う者』では、前作でも存在が言及されていた、異星人エクシフの母星を滅ぼしたとされる異次元存在・ギドラが姿を現す。別の宇宙に存在する高次元怪獣にして、ゴジラの熱線も効かず触れることすら出来ない。エクシフの教えに下った者たちを無慈悲に貪っていく姿は強烈な印象を残し、歴代でも最強にして最恐のギドラであることは、作品を観た方なら疑う余地はないだろう。

 また、ユウコを救えなかった後悔を拭えぬまま、エクシフの教えの布教を促す英雄に仕立て上げられていくハルオと、エクシフの神官メトフィエスの対立がゴジラ対ギドラと重なり、異なる種族の価値観の相違が怪獣バトルに仮託され語られる点も、アニゴジらしさ全開である。終焉こそ祝福と謳うエクシフの教えを、ハルオは「人として」拒絶することができるのか。すべての憎しみの連鎖の果てが、ついに描かれる。

以下、本作のネタバレを含みます。
鑑賞済みでない方はご注意ください。

 ついに完結となったアニゴジ三部作を振り返ると、本シリーズは怪獣を「魅せる」のではなく「語る」ことに心血を注いだものだったように思える。

 21世紀、突如として世界各地に現れ、破壊の限りを尽くす怪獣たち。中でも最強の「ゴジラ」は想像を絶する破壊力を誇り、地球人類は異星人であるエクシフ・ビルサルドと手を組むも、その脅威を払拭することはできず、母なる星を捨て宇宙での生活を余儀なくされる。

 本作では、人間社会の文明がある一定まで発達することが怪獣発生のトリガーであり、人間という生き物はゴジラを生み出すために発展を繰り返す宿命にあったことが語られる。その象徴として描かれる、原子爆弾と放射能のイメージ。人間同士が争い、地球を汚してきたことへの反動としての怪獣、そしてゴジラ。本作もまた、過去のゴジラ映画のエッセンスを色濃く継承している。

 その上で本シリーズにおいては、ハルオら地球人類の絶望の象徴たるゴジラと、エクシフが崇める終焉の使者であるところのギドラは、実は等しく「神」的存在の、表裏一体の関係なのではないか、と感じてしまう。両者とも「人々から畏れられる」ことで、ゴジラは憎悪を、ギドラは信仰の対象として顕現することができたのではないだろうか。

 どんな計測器にも感知できず、物理的に触れることができない別次元の存在であるギドラも、人々の目に映り、知覚することができた。いや、できたのではなく、「されなければならなかった」のではないか。ただゴジラを倒すだけなら、姿を晒さずにゴジラを葬ることも可能にさえ思える。それでも黄金の竜として現界し、自らの存在を人々から認知されなければ、神としての信仰を得られないからだ。ギドラが地球で活動するための「眼」としての役割を担う神官メトフィエスも、ゴジラとの闘いを見守る群衆に向けてギドラの姿を見せることで、さらなる畏怖の念を集めようとしたのではないかと、行き過ぎた想像が止まらなくなってしまう。

 一方のゴジラは、地球人類から母なる大地を奪った、憎むべき存在である。『怪獣惑星』にて二万年ぶりに地球に降り立った人類に猛威を振るい、その存在を脅かすメカゴジラシティ、ギドラとも激闘を繰り広げた。とくに印象的だったのは、活動を停止したゴジラが目を覚ますのは、どれも「外敵を察知した瞬間」だったことである。前作『決戦機動増殖都市』ではメカゴジラシティの存在を感知した瞬間に、本作ではギドラ降臨を前に眠りから覚めていた。そしてクライマックス、ギドラとの闘いを経て眠りについたゴジラが目覚めるのは、ハルオの特攻を察知した瞬間だった。フツアの集落で平和に暮らす民には見向きもせず能動的な破壊活動を見せないゴジラは、ハルオの中に眠る憎悪を感じ取った瞬間に、活動を再開したのだ。

 すなわちゴジラとは、人々が募らせる憎悪へのカウンターとして機能し、容赦の無い破壊を繰り広げる。そこから生まれた新たな憎しみを糧に、生き永らえることができるとしたら―。メトフィエスの言葉を借りるなら、ゴジラをゴジラたらしめるのは、他の誰でもないハルオ自身だったのだ。

 滅亡寸前の人類種において、おそらく最後の、ゴジラに挑む意思を残した存在であるハルオ。「憎しみ」の感情を持たないフツアはゴジラにとっては不可侵領域であり、自分がその感情を植えつけることでの滅亡を予期した彼は、最後の決断を下す。突拍子にも見えかねないハルオの決断は、人類とゴジラの闘いの連鎖を断ち切る最後の手段だった。そして、自らへの敵意を見つけられないゴジラは、またしても永い眠りにつくのだろう。神に挑む者を待ち構えるかのように。

 人々の畏敬を受ける「神」としての「怪獣」とは、日本ならではの宗教観や発想が源にあるのだろう。いわゆる「Monster」と「Kaiju」の定義の違いにも通じるものがあると信じたい。GODの名を冠する存在を描く哲学に満ちた禅問答を、思想や宗教といったフィルターを通して語ることが、アニゴジ三部作の本懐である。

 とはいえ、怪獣映画として面白いか?と問われれば、答えに悩んでしまうのも否めない。本シリーズにおけるゴジラ対〇〇は、地球人類対異星人の代理戦争以上の役割を果たしておらず、それ単体の魅力に欠けているのだ。都市の破壊や怪獣との対決といった、怪獣映画の醍醐味はただの添え物であり、CGアニメだからこそ描けた300メートルのゴジラやメカゴジラシティ、高次元怪獣ギドラといった要素も、エンターテイメントに落とし込めぬまま消化されていってしまう。「怪獣バトル主体にはしない」というコンセプトが掲げられていた(劇場パンフレット参照)本作、いくらなんでも引力光線はナシ、噛みつきと巻きつきだけでは画的な変化に乏しく、退屈したとしても責められない。

 人間ドラマ面においても、過去作以上に説明過多な台詞が目立ち、目新しい表現もとくに見られない。解説と実況を異常なテンションでこなすマーティン博士の喉が心配になるだけで、豪華声優陣による熱演と観客のテンションとの間に大きなギャップが生まれやすいのも事実である。

 このように、映画としての重大な欠点を抱えつつも、興味深い問いに目が離せない。思えばそれこそが、三作とも共通して抱える、アニゴジならではの特徴とも言える。否定し難い魅力に溢れつつ、一本の映画としては気になる点が目立ってしまう。それゆえに賛否が分かれやすい。

 CGアニメだからこそ描けた世界観・設定で生まれ変わった、新しいゴジラ。その新しさゆえに多種多様な声を招き、「ゴジラ映画として」「怪獣映画として」「宗教映画として」などなど、様々な尺度から語られ、評価され続けるアニゴジ。その完結を祝いつつも、諸手を挙げて大傑作とは認め難いところに、どこか寂しさを感じずにはいられない。とはいえ、国産ゴジラ映画の火を絶やすことのないよう、次なるチャレンジングな企画が産まれることを、「創造神」こと東宝にお祈りをする日々が続くのである。

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