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時代の終焉にシリーズを総括する『劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer』

 一年の恒例行事が粛々と進んでいる。一般的に歓送迎会の時期は春だが、平成ライダーにとっては夏から秋にかけて、主に9月が引き継ぎの期間となる。令和を彩る新たなライダーも発表され、バトンタッチを控えた2019年7月、最後の平成ライダーの劇場版が、スクリーンにお目見えした。

 平成ライダー20作品目にして最後の平成ライダー『ジオウ』は、過去作とのクロスオーバーを果たすお祭り作品としての需要に応えつつも、真の時の王者の座を巡っての激しい攻防やキャラクターたちの成長が急スピードで描かれ、現在はクライマックス真っ最中。様々なライダーが入り乱れながらも主人公の常盤ソウゴが自らの夢や未来を見定め、いかなる王道を突き進むのかと注目が高まっている。そんな中公開された本作は、『ジオウ』真の最終回と銘打たれており、同時に「平成仮面ライダー最後の劇場版」という重たい看板をも背負っている。そんな作品に田﨑竜太監督を招聘するとあれば、一介のファンとしては黙ってはいられない。壮大なフィナーレを期待して、公開初日のレイトショーに駆けつけた。

 本作は大きな2幕構成。あるきっかけで自分たちが「長篠の合戦」に介入し歴史を改変したことを知ったソウゴたちは、あのクリム・スタインベルトのSOSを受け、詩島剛と共に1575年へタイムトラベルする。何者かがクリムの祖先を抹殺し、仮面ライダードライブやマッハが存在しない歴史を創り出そうとしていたのだ。ソウゴたちは織田信長と出会い、彼と行動を共にしていたクリムの祖先・クララを守るために護衛を買って出るのだが、謎のライダーが立ちふさがる。

 これらのシーンはコミカルながら、後の2幕目の周到な前フリとなっている。「鳴かぬなら 殺してしまえ」に代表される暴君ぶりとは似ても似つかない、ひょうきんで惚れっぽい織田信長も、ソウゴはすんなり受け入れてしまう。歴史とは、所詮後世の人々が記した物語である、という突き放し方は、達観したソウゴらしい物の見方だが、その言葉がそっくり自分に帰ってくるとは、当の本人も思うまい。また、生真面目さゆえに信長の影武者としっかり務めて織田軍を勝利に導くゲイツだったが、「影武者」というキーワードが思わぬ形で後になって活きてくるのも巧いポイントだ。

 クリムの祖先を守ることに成功し、ドライブの歴史の消失を防いだソウゴたち。クリムと剛からドライブとマッハのライドウォッチを受け取ったソウゴは、ついに全ての平成ライダーの頂点に立つ王の資格を手に入れる。だが、その王座にて待ち構えていたのは、歴史の管理者を名乗る謎の集団「クォーツァー」たち。ウォズもクォーツァーの一員でありソウゴの元を離れ、真に擁立すべき王を称える。王になりたいという夢と仲間を失い、自身のアイデンティティを揺るがす真実を知ったソウゴは、絶望から立ち直ることができるのか。

 第2幕からは戦国時代篇のコミカルさとは打って変わって、『ジオウ』最後の物語としての様々な種明かしがなされ、その衝撃度に面食らってしまうほどだ。ソウゴに隠された運命の残酷さもさることながら、敵組織であるクォーツァーの野望や言動が、そのままスクリーンの前に座る我々に向かって発せられた「平成ライダーとは何か?」という強烈なメタ発言だからである。シリーズとしての区分けではなく、作品内に「平成」という元号を落とし込んでは時代を映す鏡であり続けた平成ライダーが、ついに「平成」という時代そのものに言及し、ある種の総括を行ってしまう。お前は何様だ!?と言いたくなるほどに肥大化した自己言及は本作で臨界点に達し、誰もが想像できない局面へ達する。まさしく「今」を切り取った作品であり、平成ライダーだからこそ成し得た「奇作」でもありながら、賛否を超えて名状しがたい感情に苛まれる問題作であったと、半ば困惑しながらこの文章を書くハメになってしまった。

以下、本作のネタバレが含まれます。
鑑賞前の閲覧は推奨いたしません。

 本作のテーマはそのままズバリ「平成ライダー」である。1999年の『クウガ』から始まり、TVシリーズを筆頭に劇場版やスピンオフ等で様々な物語を紡いできた歴史を、最後の劇場版で半ば強引に肯定してみせるというような、公式からの恐るべき宣言が本作の正体である。

 クォーツァーの首魁の正体は本当の常磐SOUGOであり、我々が知るソウゴは影武者であったという真実。まさに創られた歴史の上で踊るコマのように、王を目指す若者として仕立て上げられたソウゴは、前半部の織田信長がそうであったように、「歴史」というフィルターを通じてみれば「偽物」にもなってしまうという、不安定な存在でもあった。

 本物の常磐SOUGOらクォーツァーの目的は、「平成」をやり直すこと。なるほど、平成とは激動の時代であったと評されることが多い。世界で頻発するテロ(地下鉄サリンという痛ましい事件もあった)、未曾有の自然災害、金融危機から始まる経済不安、度重なる増税、少子高齢化。挙げればキリがないほどに、世界は歪みきっていて、問題は山積みだ。彼らはそんな時代を「不揃いで凸凹」と断じ、リセットを企てる。そのために平成ライダーの力=ウォッチを集める必要があった、というのも作り手の思いきりが良くて、「平成」という時代の膿や淀みを「平成ライダー」というコンテンツに集約させ、背負わせ、存在ごと亡きものにしようとする。そんなことが許されるのも、平成をコンテンツとして消費してきたこの作り手のみであろう。

 そして、この「不揃いで凸凹」にこそ、「平成ライダー」の魅力であり歴史であると、本作は高らかに謳い上げる。『ディケイド』以降はやや薄れつつもあったが、平成ライダーとはそれぞれの作品が単体で独立して存在し、毎年/毎作品テーマやモチーフが異なる作品群で、それらを繋ぐのは「平成ライダー」という屋号のみであった。視聴率の低迷やスポンサー商品が売れなかったら即シリーズが解体されるような不安定さがあれど、常にチャレンジ精神を失わず、着実に歴史と(商売上の)実績を積み上げていった。それゆえに一作一作が荒削りで、組み合わせが悪い時だってある。それすらも「平成ライダー」なんだと、公式自ら打ち出してしまったのだから、もう我々ファンはひれ伏すしかないのだ。そうした軌跡を振り返り、シリーズへの愛着を肯定するファン感謝祭が『平成ジェネレーションズ』三部作だとすれば、本作はついに自己を肯定し総括するというステージに到達した、開き直りの一大奇作なのである。

 そうした本作のメッセージ性は、とても痛快ですらあった。例えば、「その時、瞬間瞬間を懸命に生きる」というソウゴの啖呵は白倉Pのいう「ライブ感」の自己肯定にも思えるし、劇場の大きなお友だちが何度もどよめいたサプライズ参戦は、TVシリーズのみならず全ての「平成に生まれたライダー」を記録に残すという意義をキッチリ果たしている。夏映画なのにどこか春映画のノリが漂うクライマックスバトルは、目にも止まらぬライダー大合戦と最終フォーム変身へのギミックをワンカットで見せていくシーンのフレッシュさで親指立ってしまう。

 そして何より、「笑いすぎて泣いた」を味わうことになるラストバトル。バイオライダーとJの能力を使って反撃するバールクスも「わかっている」ニクいチョイスだが、我らが平成ライダーたちはそれぞれの作品のロゴを背負いながら必殺キックを放ち、それを受けた敵は新元号発表をパロディしながら爆散する。こんな頭の悪い演出、誰が思いついた…??開いた口が塞がらない驚愕の展開は、しかしお祭り大作ならではの清々しさに満ちていて最高の名場面であった。

 作中の人物がごく自然に「昭和ライダー」「平成ライダー」と口にするだけでも衝撃だったのに、いつしか平成ライダーは「平成」という時代そのものを背負う一大コンテンツに名乗りを上げ、そして極大の問題作を世間に投じ、完結した。そうした掟破りでチャレンジングな姿勢こそが平成ライダー「らしさ」であったと、再確認することが出来た。こんな無茶が通るのは、平成ライダーしか有り得ない。

 そして9月からは、新たなライダーが始動する。令和の時代を歩む新たなシリーズ、新たな挑戦。どうやら今冬の映画では早速、平成と令和がクロスオーバーするという。どんな景色を見せてくれるのか、全く想像がつかない。それをリアルタイムで追いかけていられるのは、とても幸せなことかもしれない。

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ランガタロウさんの解説が素晴らしいので、もうこれ読めば大丈夫です。言語化を諦めた要素を上手くまとめていただいて、自分の中でも理解が進んでありがたいテキストでした。

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