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『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』とは、王位戴冠式である。

 ゴジラが大好きだ。平成VSシリーズのVHSと共に幼少期を過ごし、新世紀シリーズは全て劇場に足を運んだ。『FINAL WARS』には子どもながらに言いたいことがないわけでもなかったが、最後のゴジラ映画ということもあり二回劇場に連れて行ってもらった。それから約10年に渡る怪獣映画冬の時代を耐え忍び、『パシフィック・リム』に熱狂した。そして満を持してスクリーンに帰ってきたゴジラは日本生まれアメリカ育ちのヤツだったが、随所に配されたオマージュに胸を熱くした。2014年公開、ギャレス・エドワーズが手掛けた新しいゴジラは、エメリッヒ産のおっきなイグアナ怪獣のトラウマを払拭し、今一度世界に「GODZILLA」の名を轟かせた。

 それから5年が経ち、またしても海外からアイツが現れた。しかも、往年の東宝スター怪獣と、ゴジラ愛をこじらせすぎた最狂のオタク監督という武器を引っ提げてだ。そして今、この映画が公開された2019年5月31日をもって、この世に生まれ落ちた全てのモンスターの頂点が誰なのか、正式に決定した。その名はゴジラだ。その名にひれ伏し、称えよ。おまえは今、王の覚醒を目の当たりにしたのだ。


いつから人類が地球の最上位種だと錯覚していた?

 この世界には多数の巨大生物が古来から生息しており、地球は彼らの星である。これは2017年の『キングコング 髑髏島の巨神』にて明かされた、この世界の真実であり、長年食物連鎖の頂点にいると思い込んでいた我々人類の傲慢な頭を冷やすには充分な事実であった。そのことは長年、巨大生物の研究機関「モナーク」だけの秘密だったが、2014年のサンフランシスコの一件で、人類はこの世界における超常的な生物、そしてゴジラの存在を認識することになった。

 今さら言うまでもないことだが、この映画の主役はタイタン、すなわち「怪獣」たちであり、矮小な人類の物語は基本的に添え物である。この映画で描かれる家族愛や人間そのものの在り方を巡るドラマも確かに高尚で、演者の演技も文句なしで素晴らしい。だが、それらは怪獣たちの生存競争の激しさには到底及ばない。この映画を観て涙する者が一体何に心打たれていると言えば、怪獣たちの気高く美しい一挙手一投足であり、命を削りあう怪獣バトルの迫力、そして1954年の『ゴジラ』から派生した全ての東宝怪獣映画の歴史を集約したかのような溢れんばかりの作り手の愛そのものであり、我々人類はそれを仰ぎ見て、涙するしかない。

文明は崩壊し、怪獣の時代が始まる

 ゴジラ、ラドン、モスラ、そしてキングギドラ。あの『三大怪獣地球最大の決戦』のメンツが再び揃った本作の怪獣アクションシーンは、そのどれもが信じられないような映像美で描かれている。作中の1カットのどこを切り取っても圧倒的な美がそこにあり、宗教画のような荘厳さを兼ね備えているとさえ感じるほどだ。

 宗教画と評したが、それは過言ではない。古代人類にとって怪獣とは最初の神であり、私たちの祖先は彼らを伝承として語り継ぎ、崇め奉った。DNAに染みついた畏怖の念によって、登場人物たちの目に映る怪獣たちは等しく神的存在であり、そして怪獣映画を愛する我々にとっても同様だ。その神々しさは、もはや視覚への暴力だ。圧倒的なイメージの濁流に圧倒され、映画を観ている間は陶然とすることしかできないだろう。

 ところで、登場する怪獣全てに途方もない作り手の愛が込められていることは、誰も異論はないだろう。青い光を放ち成虫へと羽化するモスラ、火山から飛び立つラドン、嵐を纏い翼を広げるギドラ…思い出すだけで目頭が熱くなってしまう。彼らはこの映画のスターであり、誰もが主役である。そのため、人類側のどのキャラクターよりも深く厚く描かれることは必然だ。その中でも千両役者はやはりゴジラである。核兵器をものともせず、それどころか自らのパワーへと変えてしまう人知を超えた生命体。地球のバランスを保つ調停者にして、絶対王者。

 そんなゴジラを王座から引きずりおろそうとする者こそ、キングギドラである。いや、作中の表記に倣うのであればヤツの名はまだ「ギドラ」だ。今回登場する怪獣の中でもヤツはイレギュラーな存在であり、それゆえにゴジラに匹敵する最強の怪獣である。ゴジラを超える巨躯を有し、一度空を舞えば嵐を引き起こし、引力光線で全てを破壊する。だが、ゴジラは絶対に負けるわけにはいかない。なぜなら、自分こそが地球を統べる王であり、侵略者に王座を引き渡すわけには―「キングギドラ」などと名乗らせては地球の王の名が廃る。偽りの王と真の王、この対比こそが本作の怪獣バトルのキモであり、ゴジラとギドラの因縁をより深める至高のタイトルマッチたらしめている。

 ゴジラとギドラだけでなく、モスラとラドンもまた各々の目的や思考があり、怪獣たちのキャラクターは驚くほど明快かつ丁寧に描かれる。ギドラに至っては首の一本それぞれに自我があり、首と首がせめぎ合う一瞬すらある、意外にも愛らしいヤツなのだ。そんな怪獣たちが繰り広げるバトルは、斬新さと伝統のハイブリッドだ。着ぐるみでは不可能なダイナミックなアクションで観る者を驚かせることもあれば、ゴジラの特徴的なすり足や「ピアノ線吊り」を意識したであろうギドラの飛行シーンもあり、この折衷感は往年のファンも笑みが止まらない。予告編のあまりのキマりっぷりに本編がこれを超えられるか心配になったファンもいたかもしれないが、完全に杞憂でしたね、おめでとうございます

ゴジラが好きすぎる男

 本作がなぜここまで怪獣ファンの心を掴んで離さないかといえば、作り手自身がめちゃくちゃファンだからだ。その名もマイケル・ドハティ。フィルモグラフィーは各々調べてもらうとして、個人的には『X-MEN2』の脚本というのは無視できない経歴である。

 さてこのドハティ監督、ファンというよりはマジの狂信者の類か何かで、ゴジラが好きすぎてコチラがビビってしまう。インタビューで発した「どんな映画にだって、ゴジラを加えればより良くなると僕は思っている」との言には、誰もが震撼しただろう。天才かお前は。

 とはいえ、数々のゴジラ好きアピールは決してリップサービスではないことは、映画本編を観れば明らかだ。各怪獣のおなじみのテーマ曲を現代風にブラッシュアップさせるよう発注し、原作にあたる東宝特撮怪獣シリーズを引用した出典や活躍で魅せ、画面の端のモニター映像や一瞬映るニュース記事に挟みこまれた小ネタまで、とにかく枚挙にいとまがない。また、日本人キャストである渡辺謙が演じ、あの「芹沢」の名を受け継ぐ男に、どんな役割を与えたか。そしてあのエンドロール…。その深い敬意に、我々は最大級の感謝でお返ししなくてはならない。

 海外においてゴジラ映画といえばTV放送が主流であり、正式なDVD/BDソフトが流通したのは割と最近のことと聞く。そうした環境下で、幼き頃にゴジラを観て育った少年がやがて映画人となり、そしてゴジラを撮る。映画が海を渡ってもたらした奇跡であり、日本の伝統である「特撮」が打ち立てた偉業の恩恵を、後追いで受け取ったのが本作である。ありがとうマイケル・ドハティ。全世界が怪獣映画に熱狂する、この夢のような一時を過ごさせてくれて。

「King of the Monsters」の称号

 これは常々言っていることだが、「映画のラストにタイトルが出てくるやつ」が大好きだ。『ダークナイト』や『ゼロ・グラビティ』など、キャラクターのアクションとストーリーの帰結、それらが織りなすテーマが作品タイトルと合致した瞬間に流れる、堂々たるタイトルバック…映画体験の中でも1・2を争う強烈なエクスタシーだ。だが、過去のそうした作品群を塗り替える最高潮の昂りを計測したのは、この作品である。

 本作のテーマはタイトルを見れば明らかな通り、「ゴジラこそが怪獣王である」というその一点だ。それを描くための132分であったとさえ断言してもよい。なにもこれが1954年の日本版『ゴジラ』の海外公開版のタイトルを引用したオタク的なファンへの目配せという安っぽい理由などではなく、マジでこのテーマを強調するための、必然として付けられたタイトルだ。

 ギドラとの死闘を終えたゴジラの前に集結する、数多の怪獣たち。彼らは次々に頭を垂れ畏敬の念を示し、高らかに咆哮するゴジラ。その姿に重なる伊福部昭の旋律、そしてタイトル『Godzilla: King of the Monsters』!!!

 感無量の一言だ。怪獣、いやモンスター映画の元祖は『キングコング』だが、それを生み出したアメリカの映画で、「ゴジラこそが怪獣王である」と打ち出されてしまった。これで正真正銘、ゴジラがこの世に産み落とされたモンスターの中で頂点に君臨する王であることが、証明されたのだ。

 この瞬間、「日本のスター」という意味合いを超えて、「世界の怪獣王ゴジラ」がメタ的に誕生した。そう解釈するには都合が良すぎるだろうか?マイケル・ドハティの強すぎる愛の暴走と取るべきか?そのジャッジを下すのは全世界の観客であり、あるいは2020年公開の『Godzilla vs. Kong』かもしれない。ただ、一人の日本人として、特撮怪獣ファンとして、これ以上の至福の瞬間があっただろうか。ゴジラを愛してきたこれまでの全てを肯定してくれたこの映画のことを、きっとこれから何度も見返しては、真の怪獣王の雄叫びに魂を震わせるだろう。祝え、絶対にして最強の怪獣王の誕生を―。

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