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TCG未経験だけど、漫画『遊☆戯☆王』を読んでみた。

 90年代前半に誕生し、生まれてこの方オタクをやってきてはいるものの、同世代と語り合う上でのいわゆる「義務教育」をわりとスルーしたまま大人になってしまった、という話を過去何度かしたと思う。私は、涼宮ハルヒさんがいったい何に憂鬱を感じているのか知らないし、『けいおん!』が後世にどれだけの影響を与えてきたのかを語ることができない。同級生とカラオケに行けば必ず歌われていた「ライオン」なる曲がマクロス楽曲だということを知ったのもごく最近だ。その世代の共通の話題や流行といったレールからことごとく脱線してきた、ひねくれものを絵に描いたような人生を送ってきたらしい。

 触れてこなかった義務教育の中でも最たるものが、TCG=トレーディングカードゲームである。小学校時代は『デュエルモンスターズ』と『デュエル・マスターズ』が一年交代で交互にブームが起こり、男子が学校に持ち寄ったカードデッキが女子の告げ口により先生に没収され、反省文を書かされる様子を何度も見てきた。中学校~高校になると「みんながやっている遊び」と言えるほどの市民権を失ってはいるものの、オタクをやっていれば友人には一人か二人はデュエリストがいる。彼らが新弾のパックを少ないお小遣いで買い集め、デッキ談義に花を咲かせる。今の子供たちもそうなのかは定かではないが、トレーディングカードゲームはやっていて当たり前、自分のデッキを持っていて当たり前という、そういう時代に幼少期を過ごしていた(子どもが自分の携帯電話を持つのが当たり前になる、少し前の世代だ)。

 そうした環境にいながら、なぜTCGに触れなかったのか。子どもながらに家庭環境を鑑みて、遊戯王を買ってと親にねだることも出来ない奥ゆかしくて愛らしい少年だったからだろうか。それとも、遊戯王がクラスで一番強かったYくんと仲が悪かったからだろうか。単に、ルールを覚えるのを面倒くさがったのだろうか。何はともあれ、TCGに触れないまま大人になってしまった私は、「何のデッキ使ってた?」「遊戯王のアニメはどの世代?」と聞かれると冷や汗が出るような身体になってしまっていた。先日なんて、同年代の取引先の社員さんと学生時代の思い出を語るターンになり、「ベイブレードで家の壁に傷入れてよく怒られましたね~」とTCGに触れないよう話題を誘導させ、気まずい車内をやり過ごしたくらいだ。

 そのまま三十路を迎え、自分の人生には遊戯王のゆの字もなく、死んでいくのだろうと思っていた。……が、迂闊にも遊戯王を遊んだことも観たこともないと呟くと、あっという間に囲まれてしまうのが日本のtwitterという集落だ。日頃はアイカツ!おじさんのアカウントが、ゼルダのクラフト動画をアップするようなゲーム系アカウントが、群れを成して「まずはTVシリーズがいいですよ」「自分のデッキ貸しますよ」と熱のこもったプレゼンが止まらなくなる。みんな、遊戯王が好きすぎないだろうか。

 極めつけは、『遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』という映画を勧められたことだった。ある人は「遊戯王における『未来へのSTARWAY』だよ」とこちらの興味を巧妙に煽り、またある人は「アニメスタッフとキャストが集結して作られた、TVシリーズの続編ではなく原作漫画のその後を描くアニメ」という実に特殊な立ち位置についてビール片手に熱く語る。共通しているのは、これだけのキラーワードを繰り出す人たちにとって、遊戯王が人生のマスターピースである、ということだ。

 人一人の人生に深く食い込み、年を経てもなお熱くなれて、共通の思い出を語り合える、広大で強大なコンテンツ。話を聞いている内に、どうやら私もその熱にあてられてしまったらしい。全ては『THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』に到達するために、酔った勢いと夏の賞与という後ろ盾を得て、高橋和希先生の漫画『遊☆戯☆王』全巻を電子書籍で購入、TVアニメ『遊☆戯☆王デュエルモンスターズ』をマイリストに入れ、牛歩を思わせるペースで履修する日々を、密かに実施していたのである。

 今回はその遊戯王行脚の、皆様にお届けする最初のご報告にして、自分を追い込むための背水の陣。あるいは、カードゲームに触れないまま遊戯王というコンテンツを咀嚼する、そんなレアケースを自らさらけ出す見世物根性。その試みの嚆矢として挑む、単行本にして全22巻の歩みの記録。拙い感想なれど、人生初の決闘(デュエル)から何を受け取ったのか、先輩諸氏におかれましては暖かく見守っていただけると幸いだ。

 いきなり1巻を開いて、面食らってしまった。事前に薄々とは聞いていたのだが、『遊戯王』という漫画は元より、カードゲームを扱う作品としてスタートしたわけではなかったからだ。

 ゲーム好きな高校生の武藤遊戯は、ゲーム屋を営む祖父・双六から譲り受けた「千年パズル」の完成を目指していたが、それは8年間も成されていなかった。ある日、気弱な遊戯に対しクラスメイトの城之内本田はそのパズルのピースを盗み出し学校のプールに投げ捨てるのだが、二人は風紀委員の牛尾から暴力を振るわれ、遊戯は二人を庇い傷ついてしまう。その様子を見た城之内は改心して盗んだパズルのピースを双六に届け、その夜ついにパズルが完成する。すると、パズルの中に封じられていた人格が開放され、あらゆるゲームに精通したもう一人の遊戯が表に出るようになる。

 もう一人の遊戯こと通称・闇遊戯は、その大胆不敵なキャラクターで敵を追い詰めていく。金に目がくらんだ風紀委員の牛尾(ボディガード料20万と初回からトばしすぎている)は遊戯から持ちかけられたゲームのルールを捻じ曲げた結果、闇のゲームによる罰ゲームで自身の欲望に溺れることに。以降は、「気弱な遊戯(あるいはその友達)を誰かが陥れる⇛闇遊戯が主犯にゲームを持ちかける⇛ゲームに敗北した悪者が罰ゲームを受ける」の流れが繰り返され、ある種の怪奇モノ、教訓じみた内容を含む漫画として走り続けることに。

 そうした作風が強烈すぎたゆえに、遊戯たちが住まう童実野町(どみの町)はゲーム狂と犯罪者の巣窟と化していて、その治安の悪さはインターネットでも語り草になっているらしい。

漢字を調べようと検索したら、サジェストの最上部が「治安」

 レアスニーカーを履いて街を歩こうものなら何者から襲われ靴は強奪されたり、観覧車に爆弾をしかける劇場型犯罪者がいたり、ゲームセンターではリアルファイトが勃発する。出てくる登場人物のほとんどが

  1. 遊戯から持ちかけられたゲームのルールの理解が早く

  2. 自分が不利になるとナイフやヨーヨーを繰り出す

 といった頭脳と倫理観を持ち合わせており、法治国家・日本とは思えない無法っぷりが序盤のヘンな味を醸し出している。あまりに奇想天外な登場人物がひっきりなしに登場するため、読んでいるこちらのテンションは『ラブデスター』を読んでいる時のそれに近かった。今度はどんなラブデスター怪人が?というように、今度はどんな犯罪者が??となってしまい、将来的には本作が全世界を熱狂させるカードゲームの原作漫画になろうとは、連載当時は誰も思いもしなかったはずだ。

 そんな『遊戯王』に転機が訪れたのは、初めてカードゲームを題材にした「牙を持つカード」の前後編。後に遊戯の最大のライバルとなる海馬瀬人の初登場エピソードであるのだが、後に重要なファクターとなる古代エジプトの要素とも関連深い「セト」の名を持つキャラクターを、カードゲームの物語で宿敵として生み出すとは、今思えば運命的である。

 マジック&ウィザーズという名の劇中カードゲームは、この頃はまだルールが洗練されておらず、生贄を出さずとも星5つ以上のモンスターを召喚でき、ダイレクトアタックの制度も存在しない。そのため、攻撃力の強いモンスターをデッキにたくさん入れたもん勝ちになっていて、「青眼の白龍」を出せば勝ち、「エクゾディア」を揃えば勝ち、というゲームバランス皆無の状態になっている。

 しかし、闇のゲームによってカードからモンスターやマジシャンなどが浮き出て、大迫力のバトルを繰り出す展開は、あとがきによれば怪獣映画がお好きという高橋先生のこだわりが見え隠れし、読んでいて楽しい。それに、トレーディングカードゲームの元祖たる『マジック:ザ・ギャザリング』は、その奥深さゆえに遊んでみるまでのハードルが高いと聞いたことがあり、当時のジャンプ読者にとっては初めて触れたカードゲームが本作のマジック&ウィザーズだった、という人も多いのではないだろうか。

 事実、文庫版2巻に収録された高橋先生のあとがきによれば、「牙を持つカード」の後に展開された、いわゆる「シャーディー回」の辺りは人気が下落し、打ち切りの可能性もあったとか。

文庫本1巻に収録された「牙を持つカード」が、当時のジャンプに掲載された週に読者の問い合わせが編集部に殺到したらしく、異常な人気を得ていたのを思い出した。
カードゲームのエピソードは前編・後編の一話限りと考えていたのだけれど、やはりもう一度読者の要望に応えようと。

遊戯王 2 (集英社文庫(コミック版)) あとがきより

 何か一つでも歯車が狂えば、もう一度高橋先生がカードゲームを題材に選ばなければ、「世界で最も販売枚数の多いトレーディングカードゲーム」がこの世に生まれなかった可能性すらあった。実に数奇な運命を辿り、今のカードゲームブームの下地が出来上がっていった、ということなのだ。

 そのため、高橋先生は海馬を再登場させ、遊戯たちへの復讐のために「DEATH-T」なるテーマパークをぶち上げ、その最終決戦にマジック&ウィザーズを再登場させた。数々のモンスターのデザインや魔法・トラップカードの効果、それらを展開させるゲームメイキングなど、序盤の「童実野町のヤバい奴ら編」よりも創作の負担が跳ね上がっているような気もするが、やはりカードバトルが展開されると、漫画は面白くなっていく。

 そしてやはり、海馬瀬人である。「CV:津田健次郎の社長」という、なんだか実に馴染みのある属性のキャラクターだが、まだアニメを一切観ていないにも関わらず圧の強すぎるボイスが、コミックから飛び出してきそうな勢いを放っている。童実野町の人間なので倫理観は終わっているし、遊戯に異常な執着を示すし、しかも権力と金を握っている分タチが悪い。遊戯王の人気は、こやつが支えていると言っても、もしかしたら過言ではないのかもしれない。

 後に重要キャラクターになっていく獏良了が登場するTRPG編は、非電源ゲームの元祖の一つである題材に意欲的にチャレンジしつつ、表の遊戯と闇遊戯がプレイヤーとコマに分かれることでついに対話を果たし、遊戯と闇遊戯の間で交わされる友情もまた「見えるんだけど見えないもの」として描かれていく。ダイスの目によって運命が枝分かれし、時に思いがけぬ結果を招くランダム性を孕んだ展開は、高橋先生のゲーム愛をひしひしと感じさせる。それはそれとして、城之内や杏子らの闇のゲームへの適合能力の凄さは、名探偵コナンに登場する死体慣れしすぎた小学生のそれに近くないだろうか。

 そしてついに、「決闘者の王国デュエリスト・キングダム」がスタートする。マジック&ウィザーズの開発者であるペガサス・J・クロフォードによる闇のゲームに敗北し、双六の魂を奪われた遊戯はペガサスが主催する大会「デュエリスト・キングダム」に挑むことに。目の病を抱え失明の恐れすらある妹の静香の手術費を手に入れるため、城之内もこれに参戦。かくして、カードゲーム漫画への本格的な移行が果たされるように。

 マジック&ウィザーズには新たに「フィールド」と「属性」の相性の要素が持ち込まれ、どこでデュエルをするか、という戦略も織り込まれるようになっていった。さらに、各デュエリストが持ち寄ったデッキの「テーマ化」も先鋭化し、昆虫でフィールドを埋め尽くすインセクター羽蛾、場に出すモンスターをハーピーに限定しそれに強化や分身を施すことで相手をジワジワ追い詰めていく孔雀舞など、個性豊かなデュエリストたちが得意の戦術をぶつけてくる展開が続く。

 それに対し、遊戯や城之内らは最初は苦戦すれど、相手のテーマを出し抜き、勝利を重ねていく。「霧雨で濡れたグレート・モスにデーモンが雷を浴びせて勝つ」とか、「魔法カードで召喚した月を自分で割って潮の満ち引きをコントロールする」といった、それアリなの!?というトンデモ展開が続き、テーブルゲームとして洗練されていくのは、もう少し時を待たねばならなかったらしい。とはいえ、敵の繰り出す戦略に予想の斜め上を行く反撃を繰り出し、ゲームとしてのロジカルさよりもハッタリと絵力で突き進んでいく高橋先生の画力と度胸は、漫画の面白さに直結しているのも事実なのだ。

“王国編”での反省点は、カードゲームのルール作りに問題が多すぎた事。
前編・後編の一話限りの為に作ったルールだった為、まったく練りきれない代物で、この点においては読者の皆さんにも謝らなければならないと思っています。
ただ、この時点においてもまさか、カードが実際に売り出されるとは考えてもいなかっったのです。

遊戯王 5 (集英社文庫(コミック版)) あとがきより

 遊戯らが勝ち進んでいく間、DEATH-Tでの敗北による罰ゲームから抜け出しきれずにいた海馬も、徐々に復活の兆しを見せはじめる。なんでも、海馬コーポレーションは今や乗っ取りの危機を迎えており、海馬から会社を奪わんとする重役集団「BIG5」は、ペガサスと繋がっていたのだ。

 車椅子で意識不明の状態が続く海馬。その頃、遊戯は「死者の腹話術師」と闘い、青眼の白龍を主軸とした戦略に苦しめられる。あわや敗北―?というその瞬間、海馬の覚醒と共に消えゆく青眼の白龍によって形成は逆転。土壇場のクライマックスで「想いがカードバトルのルールよりも優先される」作劇は、時にエモーションが展開を支配する高橋先生の筆致の最たるものと言えよう。腹話術師的にはたまったものではないが、読んでいるこちらとしては問答無用にアツい。海馬瀬人と青眼の白龍との運命的な関係性を強調する名エピソードを経て、ねちっこい性格から暑苦しくなった海馬も、この王国に飛び入り参戦する。以降の海馬は名言製造マシーンと化すので、アニメ版で堪能できる日が今から楽しみだ。

 話は変わって、実のところ『遊戯王』という漫画に対し本格的に自分がハマったのは、この王国編も後半戦、決勝戦に差し掛かったラインであった。

 というのも、前述の通り私はTCG未経験なので、作中に登場するカードの全てが初対面。そのため新しいカードが登場して、それが絶大なる攻撃力を有していたり、あるいは一方的に有利な効果を秘めていても、どこかそれは「後出しのじゃんけんを見ている」ような虚しさが、実はあった。オレはこのカードを出すぜ!ならオレはもっと攻撃力の高いモンスターを出すぜ!の応酬を滑稽に感じたり、いっそのこと「聖なるバリア -ミラーフォース-」を出しまくれば勝てるんじゃね、と思ってしまったこともあった。

 ところが、高橋先生のゲームメイキングによって、その浅はかな考えは塗り替えられていくようになる。遊戯王におけるカードバトルの基本の流れは、「相手が自身のテーマにそった場作りを完了させる⇛こちらを罠にハメ、得意な戦術で追い詰めていく⇛一度は諦めかけるも、仲間やカードを信じて逆転する」というもの。そして、その逆転のロジックとは常に「相手の戦法を逆手に取って勝つ」が徹底されているからこそ、TCGに明るくなくとも面白いのだ。

 そのロジックさの成否は判断できないが、遊戯王の面白さは相手を出し抜く展開に詰まっている。要は、ケイパー(犯罪)もの、スパイ映画を観る際の快楽原理なのだ。こちらには打つ手が残されていないかのような絶望的な状況に追い込まれるが、一縷の望みにかけた大作戦がハマり、勝利を確信していた相手に敗北の二文字を突きつける、「ざまぁ」の醍醐味。これが常に担保されているからこそ、「なんか分からんけど盛り上がる」「なんか分からんけど面白い」が続く、不思議な読書体験になっている。

 その意味で、私が思う王国編のベストバトルは、城之内VSキース戦なのだ。機械モンスターで固められたキースのデッキは魔法攻撃を受け付けず、モンスターのステータスを魔法カードで強化、かつ「守備封じ」で城之内に守りを捨てさせ、圧倒的な攻撃力でライフを削っていく。その後も、ギャンブル要素の強い「リボルバー・ドラゴン」で複数のモンスターを葬り去り、同じくギャンブルデッキである城之内に対しても完璧な対策を仕込んでいる。次にキースは「スロット・マシーン」を召喚するのだが、その目を有利なものにするために、隠しカードによるイカサマを実行するのだ。

 そうとは知らず苦境に立たされる城之内。次のターンで勝敗が決まる―。その土壇場で、城之内は「墓荒らし」を発動し、キースが使用した「タイム・マシーン」のカードを盗み出す。これにより完全な状態の「レッドアイズブラックメタルドラゴン」を呼び戻し、見事キースを返り討ちにする。

 相手の必殺コンボを「墓荒らし」によってまるごと再現し、敗北寸前の状況から一気に逆転。イカサマに対し正攻法で、しかも相手の戦略をコピーして勝つ。さすがはバトル漫画の王道ジャンプの連載漫画。「相手の必勝法こそが弱点」のメソッドにより、読者にも勝利への納得と快感を与える作劇は、いつの時代であっても問答無用にアガるのだ。

 そして迎えた最終決戦。千年眼ミレニアム・アイの能力で相手の手札を見透かすことのできるペガサスは、現状のところ闇遊戯でさえ勝ち筋を見いだせていない。そのため、この決闘では遊戯と闇遊戯を切り替えて闘う、という作戦で挑むことに。主人公にしかできない戦略で最強の敵に挑むというこれまたアツい展開に、ページを捲る動きを止められない。

 ペガサスの仕掛ける闇のゲームにより精神力を試される表の遊戯だが、終盤に明かされた彼の心境は、闇遊戯に憧れていた、というもの。そのためには、まずは自分が強くならなければならない。そんな意思を抱いていたはずの遊戯は、闇のゲームのプレッシャーに耐えながら、一歩ずつ勝利へ歩を進めていく。ペガサスとの闘いは祖父の双六を取り戻すためであり、同時に遊戯自身が成長するための通過儀礼なのだ。

 その意思を受け、交互に人格を切り替えながら闘う遊戯/闇遊戯。二人は互いを信頼し、次のターンに向けて戦略を託していく。もう一人のボクならきっとたどり着けるはず―。さらに、城之内ら仲間の想いを背負い、闇遊戯はついに千年眼の能力を乗り越え、勝利する。難攻不落に思われたトゥーン・ワールドを魔法カードのコンボで破壊し、新たな切り札マジシャン・オブ・ブラック・カオスとクリボーの合せ技で、ついにペガサスを下したのだ。

 勝敗を分けたのは、友情の力。以前スペースで有識者がしきりに話していたのは、「遊戯の『ゆう』と城之内の『じょう』で『ゆうじょう』なんだよ」とのことで、『遊戯王』とはカードゲームがその大きな柱でありつつ、根底にあるモノ(そして高橋先生が真に描きたいもの)とはやはり「見えるけど見えないもの」である。遊戯と闇遊戯、遊戯と仲間たち、遊戯とカード。

 それらが繋ぐ輪を尊ぶ作劇は、「想いを込めてドローする」という動作にさえも説得力を与えてしまう。シャッフルした時点で結果が決まりきっているのは明白なのに、さも「仲間を信じたから切り札を引き当てた」ことにすり替える。ハッタリもいいところなのに、目が離せないし、面白い。すでに遊戯王マジックに、骨の髄まで魅了されてしまっていたらしい。

 王国編を終えた後、新たなゲームを題材にした「D・D・D(ドラゴン・ダイス&ダンジョンズ)編」がスタート。初期のマジック&ウィザーズよりもルールが練られ、商品化も最初から見越していたのではないだろうかと思わせるし、調べてみたら実際に販売もされていたが、あまり流行らなかったらしいというのは有識者の談。ダイスを振り出た目によって様々な効果がランダムに発生したり、展開したダイスそのものが道になり敵に進軍するユニークな要素はぜひ遊んでみたいと一度は思いはしたが、出た目をプールする要素の登場によって突然難化し、その想いも少しずつ萎んでいく。

 このエピソードで登場する御伽龍児だが、高橋先生も彼の使い所に悩んだのか、以降はあまり大きな役割を得られることなく、残念ながら印象は薄い。むしろ、双六にかつてゲームで負けたことから憎悪を燃やし、双六の見せの前により大きな店をオープンし我が息子を復讐の道具にするなど、「あぁ童実野町に帰ってきたな」と思わせる謎の安心感すら醸し出してる御伽パパの方が、そのビジュアル含め忘れがたいヴィランになっていた。

 続けて、物語はバトルシティ編に突入する。千年アイテムの持ち主の一人であるイシズ・イシュタールにより闇遊戯=古代エジプトの王の歴史の一端が明かされ、同時に三枚の「神のカード」が登場。7つの千年アイテムと三枚の神のカードを巡る闘いは、闇遊戯にとっては失った記憶を取り戻すための闘いでもあるのだ。かくして、神のカードを揃えんとする者をおびき寄せるため、海馬はアンティルールを適用した「バトルシティ」の開催を宣言。レアカードハンター組織の「グールズ」が街にやってきてまたしても治安が悪化し、その首魁にして墓守の一族の末裔であるマリクも、遊戯や海馬に刺客を送り続ける。

 グールズによって切り札である「真紅眼の黒竜」を奪われた城之内。そのカードは遊戯によって奪還されるが、城之内はそのカードを受け取ることを拒み、自分の実力と今のデッキで勝ち上がり、遊戯と闘うことを望む。二人はそれぞれに別れ、バトルシティを戦い抜く決心をしたのだ。レッドアイズを巡るこのやり取りは、後に最高の形で花開くのだが、その前にM&Wにも大きなルールの変更が成されたことは見逃せない。

 強いカードを出したもん勝ちになりがちだった従来のルールに「生贄」の概念が追加され、上級モンスターをいかに早く出すか、が戦略の焦点となる新しいデュエルが幕を開ける。とくに、神のカードは三体の生贄を必要とするため、それをいかに揃えるかが勝利へのカギとなった。

 また、ダイレクトアタックの追加により、フィールドにモンスターがいない状況はかなり危険なものになってしまった。それぞれ4000のライフポイントに対し、上級モンスターの攻撃力は3000を超える者も多く、神のカードは一撃必殺級の攻撃力を有している。守備力の高低問わず、「とりあえず守備表示で出しておく」ことも念頭においてゲームメイキングをしなければならない。

 召喚が成功した瞬間に勝敗が決定するほどの強大な力を持つ、神のカード。「オベリスクの巨神兵」は海馬の手元にあり、謎めいた特殊能力をいくつも持つ「ラーの翼神竜」はマリクが所持。そして「オシリスの天空竜」は、グールズの一人であるマリクの操り人形が遊戯にデュエルを挑むことで、その姿を表す。

 さて、先述した『遊戯王』の作劇メソッドにおける「相手の戦法を逆手に取って勝つ」について言えば、この操り人形とのデュエルが先のキース戦と匹敵するレベルでアツい。マリクは「悪夢の鉄檻」でお互いの攻撃を封じた上で「スライム増殖炉」でスライムを増やし、三体の生贄を捧げオシリスの召喚に成功。オシリスはプレイヤーの手札の枚数×1000が攻撃力・守備力に反映されるという特性があり、それを最大のものにするために「ディフェンド・スライム」「生還の宝札」のコンボで手札を増やし、さらに「無限の手札」により手札枚数の制限=7000が上限のオシリスの能力をさらに引き上げる戦法を構築する。

 オシリスを最大限に活かすために練られた、実に完成度の高いコンボがテーマとして組まれた操り人形(マリク)のデッキ、その名も「ゴッド・ファイブ」。スライムが敵の攻撃を受け、復活すれば手札が増え続け、オシリスはどんどん強化されていく。加えて、オシリスは敵モンスターが召喚される度に2000ポイントのダメージを与える自動発動の能力「召雷弾」があり、遊戯はどんなに強力なモンスターを出しても、オシリスには届かない。絶体絶命の危機に際し、海馬の喝が飛ぶ。「遊戯!聞け!無限などない!

 運命のドロー。遊戯は「死者蘇生」によってバスター・ブレイダーを召喚するが、本当の切り札は「洗脳」であった。遊戯は敵のスライムを自軍のモンスターとし、スライムの復活(再生召喚)とオシリスの召雷弾を無限ループさせる戦略に出た。召雷弾がスライムを破壊し、スライムが復活する。その度に三枚のカードを引き続けることになる人形。そして、上掲のエキスパートルールには、こんな一節がある。「山札からカードを引けなくなったら負けとなる」と。

 オシリスの攻撃力を際限なく高めるために構築されたコンボを、逆に利用することで山札の枯渇へと導く。まさに「相手の必勝法こそが弱点」を地で行く逆転劇の、その圧倒的な完成度。手札の枚数によって能力が決定するオシリスの特性を逆手に取って、オシリスが倒されぬまま=神のカードとしての格を落とさぬまま、デュエルに勝利する。ありきたりな言葉だが、「漫画が巧い」の一言に尽きる、圧巻のベストバウトだ。これにより、遊戯の元にオシリスが舞い込み、遊戯・海馬・マリクの三つ巴の闘いが固まった。

 すでに決勝戦への切符を手にした遊戯と海馬。しかしそこに、マリクに洗脳された城之内が立ちふさがる。真の決闘者として闘う約束を交わした二人が、マリクによって強制的に相対することになり、さらにライフポイントが0になったものは海中に引きずり込まれる、死のデュエルが課されてしまうのだ。

 事前にマリクによって仕込まれた、大会規約違反のプレイヤーへの直接攻撃系魔法カードを使い遊戯を追い詰めていく城之内。城之内を死なせるわけにはいかないと苦しむ闇遊戯の前に、自分で戦わせてほしいと願う遊戯。

ボクが城之内くんの心を取り戻すことができたら…
ボクは本当に自分の力で願いを叶えた…
そう…胸を張って言える気がするから…

遊闘193 『心への砲撃!!』より

 全ては、城之内の決闘者の心を取り戻すために。引き当てたカードは、「真紅眼の黒竜」。このカードに全てを託した遊戯は、魔法カード「エクスチェンジ」の効果で城之内にカードの存在を知らせ、その心を揺さぶる。さらに遊戯は自分の力で戦い抜くために、千年パズルを肌身から離し、闇遊戯に「見守っていて」と語る。

 遊戯はこの頃には、闇遊戯との別れがいずれ来ることを悟っていたのだろう。千年アイテムと神のカードが揃いし時、闇遊戯は自身の記憶を取り戻し、去っていく。そのためにはまず、自分が強くならなくてはならない。日本人なら誰もが思い出すであろう、『さようなら、ドラえもん』を、親友の心を取り戻すという重大な場面で再演する。どうしたって、強く感情移入してしまう。

ボクはいつももう一人のボクに守ってもらっていた…
だけどボクが強くならなきゃ
君は永遠にボクの心から離れることはできない!!

ここからはボク自身の闘いなんだ!

遊闘195 『もう一人の決意』より

 激しい闘いの末、遊戯は本当の敵が城之内ではなく、彼の心を操るマリクであることを悟る。そして、遊戯は城之内との友情を守るためにその身を犠牲にして、城之内が真の決闘者であることを証明してみせた。「精霊の鏡」の効果で猶予を作り、自分の精一杯の想いを伝え、城之内の命を守るために自らのライフポイントを0にする遊戯。洗脳から目覚め、遊戯を守るために決死のダイブに挑む城之内(敵陣営にいながらも城之内の想いに応えるレッドアイズの義理堅さも泣ける!)。見えるけれど見えないものが、二人の命を繋ぎ止めたのだ。

 あと、この一連のシーンにおける海馬サマ、二人が殺し合いを矯正されたことに大慌てし、「救出するしかない!」「貴様のおかげでオレのカードに汚らわしい血がついたわ!」「死ね!ブタ共!!」とツンデレ名台詞のオンパレードなので、早くここもアニメで聴きたいっス。

 波乱の様相を見せるバトルシティ。飛空艇バトルシップの船上で行われる決勝トーナメントではマリクと獏良、二人の強敵が暗躍する。闇遊戯の記憶に隠された闇の力を手に入れるため、七つの千年アイテムを手中に収めんとする獏良と、同じく千年アイテムと三枚の神のカードを手に入れることを目的とするマリクは、利害の一致により結託。遊戯や海馬、城之内の前に立ちふさがる強敵として表舞台に現れる。

 バトルシティ決勝戦のテーマは、「いかに『ラーの翼神竜』を打ち倒すか」。マリクの影武者を務めるリシドと城之内との闘いで初めて顕現したラーは、「生贄となった三体のモンスターの攻撃力・守備力の合計が反映される」という特性を持ち、かつ「フレーバーテキストが古代神官文字で書かれている」という仕様で、あの世の開発者ペガサスの野郎に嫌味の一つも言いたくなるような一枚。孔雀舞はマリクからラーのカードを奪い自分のフィールドに召喚することに成功するが、テキストを解読できないまま、マリクの詠唱により乗っ取られたラーを奪われ敗北。さらに、特殊召喚後の速攻性と「死者蘇生」のカードのコンボ、自身のライフを1残し残る全てをラーの能力に変換することで実現する「1ターンKILL」、「ライフポイント1000を支払うことでフィールドのモンスターを焼き払う」というインチキじみた性能を有する、神のカードの中でも最上位の能力を持つラー。

 バトルシティを乗り越え、成長した城之内も、デュエルとしては勝利するも闇のゲームの影響によって戦闘不能に陥り、決勝戦に歩を進めるマリク。全てはラーを倒すために、そしてデュエリストとしてのプライドのために、互いの神のカードを賭けての遊戯VS海馬が、最高のお膳立てを踏まえ実現する!!

 序盤からオベリスクを引き当てた海馬は、即座に三体の生贄を揃えオベリスクの召喚を宣誓するが、遊戯の「光の封札剣」で3ターンの猶予を得る。しかし、遊戯の手元にはオシリスは来ず、ジリ貧に思えた中、海馬は「天声の服従」にて遊戯の山札よりオシリスを奪う。神のカードを二体揃えた海馬。しかし、遊戯は洗脳された城之内とのデュエルでの切り札「エクスチェンジ」を使い、オシリスを奪還、手札に加えることに成功。

 一進一退の攻防の中、先に神を召喚したのは遊戯。次ターンにて現れるオベリスク。手札の枚数によって攻撃力/守備力が増減するオシリスを攻略するには、相手の手札を減らすしかない。召雷弾により攻撃力が並んだオシリスとオベリスク。膠着状態から続く次のターン、オベリスク攻撃力4000VSオシリス攻撃力3000。先に仕掛けた海馬に対し、遊戯は「強欲な壺」で手札を二枚増やし攻撃力は逆転。しかし、「削りゆく命」によってオシリスの攻撃力を5000⇛4000に戻したことで、神の攻撃は相打ちに。その時、二人に三千年前の石板に残された記憶が蘇る。

 神を失った遊戯と海馬。まるでかつての記憶を再現するかのように、ブラックマジシャンと青眼の白龍による因縁の闘いが始まる。三体の青眼の白龍の攻撃を「マジックシリンダー」「レッドアイズブラックドラゴン」「呪縛の円陣」で対処しするも、「最終突撃命令」によってお互いが三枚のカードを残し他を墓地に捨てる展開へ。海馬は死者蘇生を用い「青眼の究極竜」を召喚。オベリスクをも超える脅威の攻撃力4500を誇る最強モンスターに対し、遊戯も自デッキの最強モンスター「超魔導剣士ブラック・パラディン」を召喚。フィールドのドラゴン属の数だけ攻撃力が上がる能力と土壇場での「融合解除」「拡散する波動」のコンボにより、ついに海馬を破るのであった。

 過去の記憶を取り戻すために闘う遊戯と、千年アイテムや古代エジプトから続く運命を“非ィ現実的”として考え、未来へと突き進んでいく海馬。しかし遊戯は海馬こそがこれまでの人生で溜め込んできた憎しみに囚われていることを見抜き、己の中の敵に負けたのだと語る。友との友情を信じ戦い抜いた遊戯は二枚のカードを携えて、最強の敵マリクへと挑む。

 脅威の能力を秘めたラーに対し、海馬は唯一の対抗策を講じていた。その切り札となる「デビルズ・サンクチュアリ」を、遊戯に託す。その際の「(奇跡などない!!友の力などない!!)」「受け取れぇぇい遊戯!」が好き。カード一枚送り出すだけでこのツンデレとハイテンション。“ぇ”が二回続くあたり、高橋先生も海馬を描くのが楽しかったに違いない。

 ついに始まる最終決戦。遊戯VS海馬における、オシリスとオベリスクによるクロスカウンター合戦も見応えがあったが、オシリスVSラーは怪獣映画、とくに生頼範義先生の平成ゴジラのポスターを彷彿とさせる。マリクはルール上デッキに一枚しか含めることのできない「死者蘇生」を複数のマジックカードで何度も手札に舞い戻るコンボでラーの「1ターンKILL」を連続で実現させる恐怖の戦法に打って出た。

 さらに、人形が用いていたスライムのコンボにより、遊戯が召喚したオベリスクをコピーしたゴッド・スライムと「ディフェンド・スライム」による鉄壁の壁を構築されてしまう。絶体絶命の中、遊戯は諦めず「デビルズ・サンクチュアリ」を盾として攻撃を防ぎ、それらを生贄に捧げオベリスクを召喚。それぞれが激しい攻防を繰り広げる中、魔法カード「ソウルテイカー」によってスライムを自軍の生贄にすることでゲームから除外し、さらにはオベリスクをも生贄に捧げブラック・マジシャン師弟を召喚。マリクと融合したラーをついに下したのだ!

 残りライフ1となったマリク。彼の中に残された表の人格が、眠りから目覚めたリシドによって覚醒し、主人格が入れ替わる。マリクもまた、過酷な墓守の一族の使命から自分の精神を守るために、闇の人格を生み出してしまった。またしても「遊戯王マトモな父親がいない説」が立証されたわけだが、マリクはサレンダーすることで自らの負けを認め、闇人格はついに消滅。イシズが願った未来は決められた定めを覆した若者によって紡がれ、こうしてバトルシティの勝者は遊戯となった―。

 完結までを読み進め改めて振り返ると、面白いことに、実はこのバトルシティ編をもって海馬のドラマは完結しているのだ。亡き海馬剛三郎から叩き込まれた勝者のための虐待じみた教育と、ここまで勝ち上がってきたプライド。ところが、遊戯が仲間との友情によってマリクを撃ち倒した事実から、“怒りと憎しみの先に勝利はない”という彼の言葉に感化され、幼きモクバと誓った夢へと思い至る。自分たちのような親のいない子どもたちも遊ぶことの出来る、そんな遊園地を作りたいという優しい夢。そして海馬は前に進むために、憎しみの塔アルカトラズを爆破する。その後の様子があまり描かれず、闇遊戯の記憶を求める最終章に、実は全く関与していない海馬。戦闘機で青い空を駆ける清々しい姿と共に、海馬瀬人の憎しみに満ちた人生は終わりを迎えたのだ。

 これにてバトルシティ編、完―。ラストカットは誰にも勝敗が明かされない遊戯VS城之内のバトルということで、『ロッキー3』オマージュがたまらない。アルカトラズという名称含め、怪獣だけでなくかなりの洋画好きであるらしい高橋先生の、実に“粋”なエンドマークで長きにわたる闘いに幕が下りるのであった。

 そして、ついに物語は最終章「王(ファラオ)の記憶編」に突入する。冒頭からゲームのためなら命を賭けることも惜しまない双六おじいちゃんの若かりし姿、無から湧いて出た千年アイテム保管庫男ことボバサ、どことなく見たことのある顔をした六人の神官などが登場し、これまでの風呂敷を少しずつ閉じてゆく。

 そこに現れる、盗賊王バクラ。ファラオの父アクナムカノン王の墓までをも暴き立てたというバクラだが、彼は故郷クル・エルナ村が千年アイテム製作のために住人のほとんどが生贄になったという事件の唯一の生き残りであり、その首謀者としてファラオの父アクナムカノンを憎んでいたのだ。その悲劇の真の首謀者はセトの父親ことアクナディンであり、三千年前においても「遊戯王にマトモな父親がいない」ジンクスは通用するらしい。

 セト(海馬)は息子を王にせんとする父の暴走に絡め取られ、バクラはその凶行によって帰る故郷と同胞を失った恨みから復讐に走り、その矛先は王の息子であるファラオへと向かう。古代エジプトから始まったねじれた因果が、現代日本で再演された物語こそ、我々がここまで見守ってきた『遊戯王』だったのだ。そして、その勝敗は遊戯が/ファラオが獏良を下すことで、終止符が打たれた。

 実のところ、このあたりのファラオの記憶を巡る一連の物語は、これまで蒔かれた伏線や謎解きへの回答としては興味深いものの、バトルシティ編のようなカードバトルの面白さには、どうしても劣るように感じる。もはや印籠の如く定番化してきた「相手のデッキテーマを鮮やかに覆す」というあの面白さに魅入られた身としては、どうしてもM&Wが見たくなってしまう。

 実際、高橋先生のあとがきによれば、執筆の過労やストレスから吐血を伴うレベルの体調不良を患われ物語の完結を急いだこと、エジプト編に入って人気が降下したということを語られている。そのため、念願の遊戯VS獏良(表の遊戯が自ら作ったデッキで闘うという激アツシチュエーションにもかかわらず!)も話数としてはかなり短いし、巻きの展開が目立つようになっていく。

 ただ、そうした粗でさえ吹き飛ばすのが、本当の本当のクライマックスこと「闘いの儀」だ。杏子がお土産屋で買ったカルトゥーシュに、仲間たちの絆が灯ることで、ついにファラオの真の名前が「アテム」であることを突き止める。闇の力を討ち果たし、現実世界に帰還した遊戯たちに残された使命は、アテムを冥界に還すことであり、そのためにはアテムとデュエルで闘い、その魂を安らかに眠らせる必要があるという。

 アテムを眠らせる。そのための別れの闘いに、自らが志願する遊戯。闇遊戯=アテムとの別れを予感しながらも、一心同体で闘い続けてきた王国編やバトルシティ編での成長の成果を、ついに見せる時が来た。城之内や杏子らもアテムとの別れに複雑な想いを抱えながらも、決意を固めた遊戯の背中を押す。

 闘いの義の最中、遊戯は追い詰められながらも笑みを見せる。それは、アテムが自分に対し対等なデュエリストであることを認め、本気をぶつけてくることへの喜びによるものだろう。闇遊戯の背に隠れていた臆病な少年がいま、遊戯の王と対等に渡り合っている。そして、それを見守り、支える仲間がいる。

 遊戯もアテムも、この物語で何度も繰り返し描かれてきた強さの象徴、すなわち「友情」を築いてきた。そういった意味では、二人は真の意味で対等であり、この決闘においては友情の有無が勝敗を決するものではない。では二人が何をもって争うのかと問われれば、それは「もうひとりのボクならこうする!」「相棒ならこうする!」という読み合い。己こそが相手の最も深い理解者であり、最も近くで見守ってきたからこそ生じる、至高の読み合い。そしてその戦略がきれいにハマる程に、二人の間で育まれた理解と信頼の深さが、別れの寂しさをより際立てる。

 お互いの切り札を、そして神のカードさえも出し尽くした決闘。そして最後の切り札は、「死者蘇生」。本作のカードゲームを序盤から彩ったカードで締める、これ以上ない采配。勝利し泣き崩れる遊戯。強くなりたいとその背中に手を伸ばし続けてきた遊戯の初勝利が、大切な友に引導を渡すことになるという悲劇。だが、アテムはその強さを「優しさ」と表現する。いつだって誰かを守り救うために勇気を振り絞り続けた遊戯は弱虫なんかじゃないと、最高の友達が証明してくれた。これ以上の喜びがあろうか。

 アテムを見送り、千年アイテムもその役目を終え、冥界の扉は二度と開くことはない。それは永遠の別れを示すものだが、遊戯の目にもう涙はない。アテムとの思い出を胸に、次は自分の足で歩き出す時がきた。千年パズルは城之内らとのかけがえない友情を導き、目指すべき相棒との出会いを与え、そして強くなるための機会をもたらした。武藤遊戯という少年が、大切なものを掴み取るまでの物語―。『遊☆戯☆王』という漫画の真髄はカードゲーム漫画にあらず、一人の少年の勇気が運命を切り開いていくものであった、という着地に、震えるような感動が迫ってくる。牛尾から城之内を庇った彼の優しさが、この物語を導いたのだ。

 これにて、全343話、読了。TCGに触れぬまま読み進めることに不安を覚えたこともあったが、どこまでも「友情」を描きたいという高橋先生の熱意が筆に乗った漫画だったからこそ、一緒にアツくなりながら読み進めることも出来た。同時に、相手の戦略を打ち崩し逆転勝利する、ジャンプの王道バトル漫画の味もしっかりあるからこそ、「カードゲームって面白そう」という気持ちが芽生え、その気持に突き動かされカードを手に取った人たちが全世界にいたからこそ、『遊戯王』は今なお愛され遊ばれ続けているのだと、遠巻きながらもしっかりと胸に刻むことができた。

 惜しむらくは、高橋先生の新しい漫画や、先生が創造する新しいモンスターとも出会うことはないのだな、という現実。ただ、自分の危険も顧みず溺れた人の救助に向かったという当時の話を今更伺って、この人はどこまでヒーローなんだ、偉人なんだと、ただただ感服するしかない。そして今、先生が遺した一つの作品に、こうして心動かされている人間がいることを、安らかに眠る御本人に伝わったらいいのにな、と思ってしまう。

 奇妙な動機から始まった遊戯王行脚だが、一つの漫画を読み終えた今、確かな達成感と感動に満ちている。そして次は、TVアニメへ。声がついた遊戯たちの活き活きとした活躍が観られると思うと、どうしようもなくワクワクしてしまう。私も、高橋先生が創り上げた決闘者の世界に、魅入られてしまっているのだ。改めて、この世界に触れる機会をくださった皆様、読書の感想を見守ってくださった皆様に、感謝申し上げます。

高橋先生、最高の友情を、ありがとうございました。

そして、新たな決闘デュエルへ―。

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