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初恋は痛々しいと、「お姉さん」が教えてくれた。漫画『あさこ』

 男の子にとって、「年上のお姉さん」なんてものは、劇薬だ。同級生と母親との中間の年代の、近いようで遠い、届きそうで届かないような、そんなひと。その人のことを考えると無性にドキドキして、他の男性と仲良さそうにしているのを見るとモヤモヤする。そんなひとが自分の人生の中にいたことを、この漫画が思い出させてくれた。

 よしだもろへ作、漫画『あさこ』。ちょうど地元の花火大会を明日に控える夜、この最終巻と向き合ったのは、あまりにドラマチックすぎた。夜が明けて朝になり、昼間になれば浴衣を着た家族やカップルで道が埋め尽くされる。夜になれば、花火の音が街を覆う。ぼくはその音をBGMに、もういちど一巻から読み進める。作中で花火が上がったタイミングと、奇跡的にシンクロする、わが町の風景。一つの初恋が終わりを告げ、一つの恋が実る萌芽となる音。なんだかあまりに出来すぎていて、読んでいるこちらも切なさで息苦しくなる。

令和元年、8月。実家へ帰るための新幹線の中、青島将司は少年時代の淡い記憶を回顧し始める。平成八年、夏。海沿いの田舎で暮らす小学5年生の少年、マサシ。気弱な性格でいじめられっ子の彼は素性不明の美女・あさこと出会う。彼女の大胆な行動に翻弄される中、マサシの心は大きくざわめいていき…!?

ヤンチャンwebより

 この漫画、なんていったって1話が「ズルい」。東京からやってきた、目を奪われるほど綺麗で肌の眩しいお姉さんに、「大人にしてあげる」などと言われて、抗える男子がこの世にいるだろうか。なんともむず痒くなるようなシチュエーションと共に、『あさこ』の物語は走り出していく。

 公式のキャッチコピーを借りるのなら、本作は「謎の美女×11歳少年」「ノスタルジック年の差ラブサスペンス」となるらしい。謎の美女=あさこは、とにかくミステリアスだ。すらりとしたスタイルに、美しい黒髪。整った表情は艶やかさを保ち、その笑顔はどうしようもなく蠱惑的。潮とタバコの香りが紙面から漂ってくるような、そんな色香に惑わされる小学5年生の将司少年に、「わかる、わかるぞ……」と言いたくなるような。いかがわしいニュアンスを得る表現なれど、「おねショタ」としては百点満点のスタートダッシュを切る、1話のワクワクに舌を巻く。

 あさこは、将司に対し「自分の履歴書を埋めてほしい」と語る。そのために、レアなBB弾を一つくれたらなんでも質問に答えると言って、いたいけな少年にもどかしいゲームを課してしまう。物語の舞台は平成8年、1996年の夏。スマートフォンもSNSもない、初代プレイステーションとゲームボーイが遊びの中心だった世界で、将司の一夏は「“あさねぇ”のことをもっと知りたい」一色に上書きされてしまった。

 この所業の罪深さは、かつて男の子だった人間であれば痛いほとわかるはずだ。夏の田舎にいるあの短い時間だけ触れ合うことが出来た、憧れのひと。一生この恋に囚われてしまいかねないほどの強烈な初恋を、将司はそれをそうと知らず胸に宿し、翻弄されていく。

 男が持つ、ある種の浅ましい妄想、あるいは満たされなかった甘酸っぱい青春への渇望をこれでもかと満たしたところで、「サスペンス」の要素が顔を出していく。何者からの電話によれば、あさねぇは実の父親を殺したらしい。己の過去に関しては言葉を濁し、言及を避けるあさこ。彼女は本当に肉親を殺害したのか。

 夏の終わり。万引き。いじめ。性。風邪。浴衣。夏祭り。東京からきた男の人。突然の別れ―。人生を狂わすほどの熱情に惑わされ、奪い取られた一人の少年は、過去を振り切って大人になった。はずなのに、やけに過去が自分を責め立てる。“あさねぇ”は本当にいたのだろうか。幻だったんじゃないか。その疑念を晴らすため、一人あさこを探す将司、34歳。これは、一人の男が、自らの初恋に終止符を打つための、壮大な遠回りの物語。

 これ以上、物語に関して情報を開示することは避けつつ、本作が身をよじるほどに刺さるのは、よしだもろへ先生が描く「少年」の描き方が素晴らしいからだ。同級生とも母親とも違う世代の異性に対して抱く恋は、果たして「憧れ」単体で片付けられるようなものだろうか。

 周囲の大人たちの浅はかな予想を遥かに超えて、大人の階段を確かに登っていく将司。あさねぇが誰かと楽しそうにしていれば嫉妬を、あさねぇに頼られる大人になりたいと願えば成長を祈り、彼女の肌に魅入られた際にムズムズがいつしか「性」の目覚めへと直結する。無垢な少年が母親を求めるように甘え委ねたいと願うそこには、期待と独占欲と性欲とがないまぜになって、彼自身にも名状したがい“何か”が渦巻いている。背が低くいじめられていた少年が、周囲より一足先に大人になっていく。その成長痛を、生々しさ込みで描く筆致に、どうしようもなく「引っ張られる」のだ。かつて、確かに感じたことのあるざわめきを思い出して、少年だったころの自分が記憶の蓋を取っ払って出てくるような、そんな感覚。

 あさこに惹かれたならば、我々もまた将司少年が辿る痛みとは無縁でいられない。親や先生よりも近くて、それでいて「大人」ではある人。近しいからこそ親しんで、優しいからこそ正しいと思ってしまう。そうして理想を押し付けて、裏切られる。子どもの恋愛なんてそんなものだろう。こちらが勝手に失望して、癇癪を起こして、終わり。ただ、もしそれが微笑ましい思い出などではなく、十字架を一生背負うかのように刺激的な恋だったとしたら。大人になった将司があさこの真の姿に近づくたび、現実に戻れなくなっていく様子が、その重さを物語る。

 もう一つ付け加えるのなら、年代設定が秀逸である。1996年、世紀末が近づく時代において、携帯電話を持たずして人はどのように生きていたのだろう。噂話がすぐに広まり、家庭の不和や性と身体に関する悩みを抱えていても、インターネットがなければ誰にも打ち明けられず、同じ悩みを抱えている人が世界にいるなんて考えもしなかった時代。逃げ場がない追い詰められた人生において、“あさねぇ”が救いとなる人物がいる。彼ら/彼女らのサイドストーリーを追うことで、本作もまた「生きづらさ」に目を向けた作品であることに気付かされる。

 そしてそれは、あさこが経験した過去、父親殺しの真相に直結していく。見る者の目を奪う美女の、哀しき過去。どれだけドラマティックに盛ることもできるそれを、一人の人間の弱さと葛藤にフォーカスして描く先生のタッチは、エグくて優しい。夏の陽に照らされた眩しい肌が、傷だらけで痛々しい過去を背負っていることを踏まえて読む二週目の、その味わい深さ。世界の汚さを知らず、純真無垢に育ってきた少年の、無垢ゆえの残酷さが肌を刺す。大人になるとは、こうも“痛い”のだろうか。その答えは、漫画を手に取った私達なら知っているはずだ。

 どんなに手を伸ばしても、煙草の煙のように掴めなくて、いつしか遠い所へ行ってしまう。あさこという女性は、どうしようもなくズルい。一人の少年の情緒をめちゃくちゃにして、去っていってしまった。そんなもん、追いかけたくなるに決まっているじゃないか。というわけで、一つの恋にケジメをつけるための旅をする34歳独身男性を追う本作。個人的には缶コーヒーでも奢ってあげたくなるような、痛々しくて愛おしくて狂おしい、蝉の鳴き声をBGMに読み返したくなる一作だった。

 残念ながら、今年の厳しい暑さはこれからも続くらしい。であるのなら、『あさこ』を読むコンディションとしてはベストが続く、ということでもある。わずか7話、イッキ読みするにはちょうど良く、ノスタルジーを掻き立てるには充分過ぎる題材だ。癒えぬ恋の傷口を開きたくなったら、“あさねぇ”に会いに行こう。この旅の果てに希望があることを願いながら、踏ん切り付かない初恋を一緒に終わらせよう。以上です。

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