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『ペルソナ5 スクランブル』救うための改心に挑む、高校最後の夏休み。

 最も愛する『3』のリメイクがリリースされたというのに、まだ『ペルソナ5』をやっている。心はまだタルタロスではなく、怪盗に囚われている。

 というわけで、あの騒がしい青春群像劇からお別れできず、『ペルソナ5 スクランブル ザ ファントムストライカーズ』を購入し、先日クリアした。『5』のその後を描く続編であり、CV:三木眞一郎のイケおじが登場するという知識を得ていたので、『ザ ロイヤル』をクリアしたその日にプレイを始めた。芳澤後輩はいなかったけど、いたよ、イケおじが……。

RPG→アクションへの見事なアダプテーション

 本作は主に無双シリーズを手掛けるコーエーテクモの開発チーム「ω-Force」が参加したアクションRPGであり、画面の印象は確かに無双シリーズのそれなのだけれど、実際に遊んでみれば違いは一目瞭然。ペルソナらしい手強い難易度が特徴で、決してボタン連打で勝てるような代物ではないと序盤から教え込まれる作りになっている。

 敵との戦闘は原作ペルソナ5同様にシンボルエンカウントで、敵に見つからず奇襲を仕掛ければこちらが有利に、逆に見つかればこちらが囲まれ不利になるのもこれまた同様。操作は通常攻撃と特殊攻撃を織り交ぜた無双シリーズのスタイルで、怪盗団のメンバーごとに異なる武器異なるモーションでバッタバッタと敵を薙ぎ払うのは爽快だ。

 ペルソナを使ったスキル攻撃では、敵の弱点を突けば1moreで追撃を、ダウンゲージを削れば総攻撃に移行でき、周囲の敵を巻き込むようにして一網打尽に出来る。本作は360度全方位から攻撃が飛び交うゲームなので、敵の弱点を見抜いてダウンさせ、総攻撃で相手に攻撃する隙を与えないように倒すのが基本となるのだが、これは原作のRPGと変わらない勝利の鉄則。SPの枯渇を恐れ通常攻撃に頼っていると敵の猛攻に耐えきれずゲームオーバー、なんて目に合った際は、原作のプレイ感覚をアクションに上手く置き換えられているな、と唸ってしまう。

我らがジョーカー、渋谷で大暴れ。

 元よりスタイリッシュさが特徴だったこともあり、怪盗団の面々が縦横無尽に駆け回るアクション化にはまったく違和感がなく、寧ろ原作でもこういう風に闘っていたのだろうな、と思わせてくれる仕上がり。後半の敵ボスや一部の剛魔と呼ばれる強敵はデバフをかけないと上手くダメージが通らず、そういうところも原作のプレイ感覚を踏襲しており、「ペルソナのアクションゲーム化」というお題目に実に真摯に向き合ったことが伝わってくる。

 おなじみのカッコいいボーカル曲に合わせて、おなじみのキャラクターを自由自在に操る爽快感。初めこそ画面の情報量の多さに面食らうが、敵に背後を取られないよう位置取りを意識し、スキル攻撃を出し惜しみ無く使っていくことで、あっという間に敵を殲滅。この繰り返しが癖になっていく本作は、原作同様の時間泥棒として、止め時を見失わせるのである。

合体の喜びは薄い

 ペルソナシリーズの醍醐味として、敵との戦闘を繰り返すことで新たなペルソナと出会い、仲間にしたそれらをかけ合わせてまた新たなペルソナを手に入れる「悪魔合体」が挙げられる。素材となるペルソナからどのスキルを継承させるか、あるいは時折起こる合体事故での思わぬ出会いなど、繰り返しの戦闘に新しい刺激をくれる本システムはシリーズを代表するものと言っても過言ではないはずだ。

合体の時点では成長の伸び代が低い。

 そんな悪魔合体だが今作では一部要素を削り簡略化されており、個人的にはゲーム全体の満足度を大きく損なうものになっているようにも感じる。

 開発時期的に仕方がないとはいえ、『ロイヤル』における「特性」の要素がなく、ペルソナの個性を際立てる仕組みが一つ欠けたように感じられ、SPリソース管理に重要な「◯◯スキル使用時のSP消費量が自動的に半分になる」などの恩恵が得られないため、序盤は特にスキルを打つ余裕がなく難易度が高まりやすい、というところまで原作に準拠してしまっている。

 また、悪魔合体時は合体結果からの逆引きしかなく、手持ちのAとBを組み合わせるとこうで、AとCならこうで……という吟味の醍醐味は得られない。原作における「コープレベルによって生成したペルソナに経験値ボーナスが与えられる」「高額のお金を支払えば主人公の現レベルよりも高いペルソナを生成できる」もないため、常に難易度曲線に沿った強さのペルソナしか手に入れられず、ゲームをハックする面白みも皆無となってしまった。

 ペルソナは多数登場するが、使い続けていれば自然と愛着が湧いたり、複数の属性攻撃に対応すべくスタメンがいつしか形成されていったりすることもあり、原作における「交渉」がないことも相まって、それぞれが自我と個性を持ち合わせているペルソナたちが本作では「装備」同然の扱いに終始してしまっているのは、画竜点睛を欠く印象が拭えない。

『5』の拡張と反省を描くストーリー

 本作は『ペルソナ5』の半年後を描く、正当続編。夏休みを迎えルブランに戻ってきた主人公が仲間たちと再開し、キャンプや旅行の計画を立てる中、かつてのパレスに似て非なる異世界「ジェイル」と、その支配者であり自分たちが行っていた「改心」の力を悪用する「キング」の存在を知ることで、怪盗団としての活動を再開する……というストーリー。日本全土を騒がせた怪盗団だが、原作では改心の及ぶ範囲が主人公の近辺でしか起きない(起こせない)というジレンマがあり、それを打破すべく「夏休み」で「ロードムービー」仕立てにするのは、高校生が出来る背伸びとしての遠出感もあり、実に微笑ましいものだ。

立ち寄った先の名物スポットも再現され、
遊んでいるこちらもプチ旅行を味わえる。

 ジェイルを追って北は北海道、南は沖縄まで、運転手の真を労りつつも全国を周り、王を改心させてその土地の名物で打ち上げ。シリアスと夏休みならではの自由な全能感が交互にやってくる本作は、「日常」の尊さが身に染みる原作から一歩飛び出し、「非日常」を全力で楽しむというコンセプトが感じられる。お金とか長時間の運転とか心配事は色々あるが、厳しい局面を乗り切った彼らが学生らしく青春をエンジョイする姿が観たくて、このゲームを買ったようなものであり、その期待は全力で叶えられる。

 そんな怪盗団の新たな仲間となるのが、「人の良き友人になる」ことを目標として彼らに付きそうことになる高度なAIの少女ソフィアと、警視庁公安部に所属し王による改心事件を追う中でジョーカーたちに協力取引を持ちかける長谷川善吉の二人。ソフィアも魅力的なキャラクターなのだが、ここでは主に善吉について語りたい。彼が件のCV:三木眞一郎のイケおじであり、それはもう好きにならずにいられないおじさんだったからだ。

※以下、本作と『ペルソナ5(ロイヤル含む)』の
ネタバレが含まれます。

ガキを手玉に取るはずが逆に協力者に仕立て上げられていく萌えおじの図

 そもそも、怪盗団に大人のメンバーが追加される、ということがまずスゴイ。原作において大人とは子どもたちこちら側を暴力的に搾取し支配する存在であり、あるいは思考を放棄し悪神や怪盗団に世直しを託す愚かな大衆であった。コープで触れ合うキャラや街の一部の人々は例外として、『ペルソナ5』は不正を行う大人たちに反逆する物語であり、10代の少年少女たちのためのピカレスクだった。

 そこへ来て、今回の善吉である。彼は公安部所属の刑事であり、今回の一連の改心事件が怪盗団の仕業であると考え接触してくるのだが、ジェイルやシャドウの姿を見たことその思惑が狂い、事件の真犯人を追うため奔走することになる。時に無茶難題を押し付け、逆に怪盗団に協力させられるなどして、ガキ共を利用しようとしたはずがどんどん内通者になっていくなど、善吉と怪盗団とが融和していく様子が描かれる。怪盗団、とくに主人公にとっては最も忌み嫌ってもおかしくない「警察」という属性を持ち合わせる善吉だが、他者の本質を見抜き交友を深めるところは、あの一年の経験が活きたものだと思いたい。

鏑木管理官との緊張感溢れる関係性も、後半に活きてくる。

 そんな善吉には、ある後悔があった。妻の葵をひき逃げ事件で失い、娘の茜はその犯人を見たと言うが、娘の命を狙った脅迫に負けてその証言を揉み消し、真実に自ら蓋をしてしまったのである。それにより茜との関係性は冷え切っており、彼女の正義を信じる心を裏切った負い目を抱きながらも、真の悪を引きずり出すために日夜奔走していたのだ。

 善吉には、悪を恨む気持ちは確かにあった。だが、真犯人を野放しにし、かつ犯人として生贄にされた人物やその家族に犠牲を強いているのは、犯人と同じ悪に他ならないと、彼はシャドウとなった茜本人に指摘される。大切な娘を守るために選んだ行為が何よりも娘を傷つけていること、悪を“いつか”葬り去るために今の自分に嘘を吐くこと。それら全てを過ちであると認め更生した彼に、叛逆の力ペルソナが宿る。悪から正義へと転じ、警察が怪盗へジョブチェンジする。この鮮やかな転身によって、物語は巨悪への仕返しという原作のテイストを受け継ぐものへとシフトしていくのだ。

大剣と二丁拳銃という、どこかのデビルハンターを思わせるスタイル

 話は前後するが、本作に登場する異世界ジェイルを牛耳るキングたちの物語も見逃せない。人々の「ネガイ」を奪い、奪われた人物が自身を異様に崇めるようにするという洗脳を行う全国各地の城主たち。特筆すべきは、原作におけるパレスの王は私利私欲を満たすためにその力を振るう邪悪なものだが、今作の王たちは全員が「トラウマ」を抱えている、ということ。

 怪盗団は王を倒すためにその城内に入らねばならないが、そのためには王それぞれにある「トラウマルーム」を見つけ出し、鍵の役割を果たす強敵と対峙する。これは主犯によって王となる人物が自身のジェイルに閉じこもるための仕組みであり、王たちはある意味で心の弱い部分を利用された被害者でもある。そしてそれは、怪盗団メンバーの影、仲間たちと出会わなかった「もしも」をプレイヤーに想像させる役割を果たしている。

扇状的な格好は周囲からのイメージであり、
自身にとっても目を背けたい影である。

 柊アリスは周囲と馴染めず一方的なレッテルに晒されていた頃の杏を。

 夏芽安吾は創作ではなく物語を着せられ評価される祐介を。

 市政を正すために公務員に重労働を強制する氷堂鞠子は、父のやり方を真っ直ぐ受け継いでしまったもしもの春を。

 そして近衛明は、「改心」の力に溺れ、それを正義と疑わずして行使し暴走していたかもしれない“心の怪盗団”を。

 一歩間違えばこうなっていたかもしれない、大人たちに搾取され荒んだ人生を歩んでいたかもしれない「もしも」を、怪盗団が正す。彼らが心身共に成長し、葛藤を乗り越えたからこそ成し得た救済は、過ちを認め罪を償いながら生きるしかない彼らに希望を与えたはずだ。

同じ創作の道に生きる夏目の苦悩を分かち合えるのは、怪盗団でも祐介だけだ。

 主人公たちの影が宿敵として立ちはだかる、ある意味で『4』に立ち返ったような本作における「改心」は、原作のそれに加えて一つ過程が増えており、それは「手を差し伸べる」ということにある。

 というのも、原作では性的搾取や不正を繰り返す、どうしようもない悪をこらしめる手段として用いられてきた節がある「改心」に対し、その行為の暴力性や是非についてはゲーム内や我々の現実でも議論が巻き起こり、時に強い批判が投げかけられるのを目にしたことがある。先日の『ロイヤル』の感想において、主人公たち怪盗団の行いを絶対の正義として描かず、あくまで彼らなりの正義を貫き通すという着地を肯定しつつ、大衆の声援によってそれを正当化しかねない描写が含まれることへの違和感を書いた。

 作り手にも多数寄せられたであろう賛否の声に応えた……かは定かではないが、本作には『5』の反省と受け取れた演出があり、それが前述の「手を差し伸べる」という行為。

 宿敵たる王たちは主人公たちの影であり、彼らが仲間に出会えなかったアナザーである。裏を返せば、王たちは自分を支えてくれる仲間に出会えなかったからこそ踏み外してしまったという、とても残酷な視点が露わになってしまう。それではただの運、人と人との巡り合わせ次第で、命運が決まってしまう。

 怪盗団のメンバーは、自分の背中を預けられる仲間がいて、自分の道を迷うわず歩けるだけの勇気を手に入れられた強い人たち。だが、その強さが眩しくて、欲しくても手に入らない人たちが大勢いる。いや、寧ろそういう人の方が多いはず。それに対して「キミも仲間がいれば“こっち”に来られるよ」と言うのは、あまりに救いがない。

 であるのなら、今度は怪盗団それぞれが「救い」になればいい。悪に染まりきれなかった王たちを改心させるだけでなく、罪を償いきれるよう各々が「希望」となる。

切り捨てられないからこそ、救えるとも言える。

 杏はアリスと友達になりたいと願い。

 祐介は夏目が創作を諦めない限り読者であり続けると誓い。

 春(と事故の犠牲になった子どもの母親)は鞠子が再び正しい政治家として戻ってくることを信じ。

 善吉は近衛に今度はヒーローになれと諭す。

 かつて王として振る舞ってきた人たちにとって、これからの現実を生きることは辛く厳しいものになるだろう。その人に対して希望を与えることは、怪盗団にとってはある意味で彼らの生殺与奪を握るようなものであり、その責任は重い。だが、本人の意思を問わずしてその思想を変えてしまう一種の暴力装置でもあった怪盗団が、その「心を奪う」という行為に前向きで、誰かの生きる力を鼓舞するものが足されたことは、原作の反省を踏まえつつ彼らの成長を示すものとして、とても素晴らしいものだと、そう思うのだ。

 こうして書き連ねてきてようやく気づけたが、ソフィアがAIとして課された使命である「良き友人になる」ことを率先して行ってきたのが怪盗団であり、その姿を見て学んだソフィアが一ノ瀬久音の隣にいることを望む、という結末なのだと。一ノ瀬が自分の欠落を埋めようと託した願いは、ソフィアが他者との出会いや結んだ絆を通じて育まれ、彼女の元へ帰ってきた。これもまた巡り合わせ、なのだろう。

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